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近代合理主義の幕開けは、ルネ・デカルトが唱えた懐疑主義に始まるとされています。とりわけキリスト教が支配したヨーロッパにあっては、『旧約聖書』であれ、『新約聖書』であれ、聖書に記述されていることを疑いますと、最悪の場合には異端審問によって火あぶりの刑に処せられる程の罪でしたので、近代における懐疑主義は、人々が理性に照らして疑問を持つことに肯定的な意味を与え、思想の面からも近代科学の発展の基礎を築いたとも言えましょう。学ぶことが、覚えるだけの単なる暗記であったり、テストの成績を競うのであれば、しばしばそれは苦行ともなりますが、‘何故だろう?’という疑問から始まる学びは、謎を解いてゆくプロセスの楽しさや無我夢中になれるものとの出会いに加え、その理由や仕組みが分かったときには喜びと幸福感に満たされるのです。その発...懐疑主義の復興を-疑う自由の意義
今日の政治の世界は、不条理かつ筋の通らない出来事が多々見受けられ、しかも政治家による利己的欲望が目に余る腐敗をもたらしています。国際社会にあっては紛争や戦争が後を絶たず、外部から迫り来る安全保障上の脅威は、自由や権利の制限並びに増税といった形で国民をも圧迫しています。加えて、世界権力によるデジタル全体主義の影も忍び寄っており、状況は悪化する一途を辿っているかのようなのです。こうした状況を目の当たりにしますと、現代の政治には、決定的に欠けているものがあるのではないかと、ふと、思うようになりました。欠けているもの、それは、理系思考です。例えば、民主主義という価値を具体化する制度について考えてみましょう。前回のアメリカ大統領選挙のみならず、今般のアメリカの中間選挙でも、不正選挙疑惑が持ち上がることとなりました。...現代の政治制度に欠けている理系思考-強度設計への無関心