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浅野内匠頭はなぜ吉良上野介を斬ったのか?「松の廊下刃傷事件」の真相を探る!
1.浅野内匠頭とは一般には官名から「浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)」と呼ばれる「浅野長矩(あさのながのり)」(1667年~1701年)は、播州赤穂藩の第3代藩主です。彼は幼少期に父母を亡くし、1675年に満7歳で家督を継いでいます。168
泉岳寺の御朱印|赤穂浪士は本当に義士だったのか!?(東京都港区)
所在地東京都港区高輪2丁目11−1宗 派曹洞宗由 緒1612年、徳川家康が幼少期に人質として身を寄せていた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田に創建したのが始まり。しかし1641年に寛永の大火で焼失。その後、1604〜1651年
長さを示す一対の言葉として最初に思い浮かべるのは、やはり「長/短」になります。 ところがこれには例外もあるようで、たとえば衣料系などは「長/半」になることが あります。 たとえば、シャツの「長袖/半袖」がそうですし、最近はあまり使われなくなった 言葉とはいえ、「長ズボン/半...
■『忠臣蔵』の赤穂浪士の故郷『赤穂』を散策①浪士関連の様々な遺構(兵庫県赤穂市)
目次 1 忠臣蔵の『赤穂浪士』のふるさと『赤穂』へ 2 駅の観光案内所には『赤穂浪士』グッズが一杯 3 赤穂浪士に関連する遺構が街に点在 4 浅野家と代々赤穂藩主の菩提寺『花岳寺』 5 四十七士の石像が参道に並ぶ『大石神社』 1 忠臣蔵の『赤穂浪士』の
こんばんは! 寒いですネ~~!!でも寒さはこれからですヨネ~~😢 今日の夕焼けです。 諏訪大社本宮のすぐ隣にありました。 実際は吉良上野介の長男綱憲の次男だから孫ですね。上野介の次男が吉良家を継ぐはずだったのが急死したため…上野介の養子となったひとですね。吉良上野介は質素倹約家で農民の為に尽くした名君と聞いていましたが…そう云う話が作られただけで事実とは違うと云う事でした。 浅野内匠頭も幼い頃から苦労し優秀な人だったが…我儘で短気な人だったらしいです。読んだブログに短期は損気と…(゜o゜)吉良上野介に相当いじめられた事は確かだったようです。 お墓には手を合わせてきましたが… 思いがけない方のお…
江戸幕府創立者・徳川家康(1543-1616年)は幕府の公式学問として朱子学を採用した。最高の徳目を「孝(親孝行)」とする朱子学は、家臣や諸藩に忠誠を求める幕府にとっても、非常に都合がよかったからだ。実際、幼くして父・家光(第三代将軍/1604-1651年)を失くしていた
江戸川柳でたどる偉人伝(江戸時代②)浅野内匠頭・大石内蔵助・吉良上野介・宝井其角・加賀千代女
「川柳」は「俳句」と違って、堅苦しくなく、肩の凝らないもので、ウィットや風刺に富んでいて面白いものです。今では、「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」など「〇〇川柳」というのが大はやりで、テレビ番組でも紹介されており、書籍も出ています。そこ
~[KOHO仕事人]まとめ読み⑤: 幹部(=秘書)阿修羅の悲劇~ 皆様今晩は~KOHOでする夕方から疲労出横になってましたが、今は大分治りました�…
赤穂義士墓御朱印 参拝日:令和4年(2022年)10月24日 開閉門時間 アクセス 泉岳寺境内図 義士墓所に向かいます。 義士墓所 義士墓所の入口に「義士への鎮魂」の水琴が有りました。ここから先は少し空気が違う感覚が有った。 義士墓入口の門 神聖な気持ちで階段を上ります。門を潜ると直ぐ右手に社務所が有り、義士墓に供えるお線香を300円で頂きます。 朱印料は志しと言う事で、500円をお納めさせて頂きました。 こちらも朱印帳直書きでした。 義士墓お参り前にお願いしておけば、お参りの間に書いて頂けます。 順番にお線香をお供えご供養します。 浅野内匠頭の墓 大石内蔵助の墓 四十七義士墓所 曹洞宗 萬松…
東京都港区高輪の泉岳寺は、慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を招いて外桜田(現在の警視庁の近く)に創建されました。寛永18年(1641年)寛永の大火で焼失し、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、高輪の地で再建されました。浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のもので、浅野長矩と赤穂浪士が葬られており、毎年4月初旬と12月14日には義士祭が催されています。中門泉岳寺には、三つの門(総門・中門・山門)がありましたが、現在は中門と山門のみが残っています。現在の中門は天保7年(1836年)に35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたもので、昭和7年に大修理を施されています。「萬松山」の額は、中国明時代の禅僧・為霖動霈(いりんどうは...泉岳寺(1)
梵鐘・鐘楼堂大正2年・41世普天霊明(ふてんれいみょう)和尚代に作られた鐘で、朝の坐禅の時と夕方の閉門の時に撞いています。また、江戸から明治まで使われていた梵鐘は、現在ウィーンの国立民族博物館に所蔵されています。主税梅大石主税が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅です。瑤池梅義士の墓守をした堀部妙海法尼が瑤泉院から賜った鉢植えの梅を移植したものです。血染めの梅、血染めの石浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅と石です。首洗い井戸義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれています。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング泉岳寺(2)
続いて、浅野内匠頭のお墓です。冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士の戒名が読み取れます。浅野長矩あさのながのり(1667―1701)播磨(はりま)赤穂(あこう)城主、5万3500石。広島浅野家の分家。妻は浅野長治(ながはる)の長女(瑤泉院(ようぜいいん))。1645年(正保2)浅野長直(ながなお)が常陸(ひたち)(茨城県)笠間(かさま)から赤穂に転封となり加里屋(かりや)城を築いたが、長矩はその孫で1675年(延宝3)に父長友(ながとも)の跡を継いだ。1680年、従(じゅ)五位下内匠頭(たくみのかみ)。1701年(元禄14)幕府から勅使の御馳走(ごちそう)役を命ぜられたが、その指南(しなん)役である高家肝煎(こうけきもいり)の吉良義央(きらよしなか)との間柄が悪化した様子で、3月14日幕府の年賀の答礼として京都...泉岳寺(4)浅野内匠頭の墓