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COOL KAGAWA 近世の宮廷音楽再現 高松の街×フランス古楽 第7回たかまつ国際古楽祭
にほんブログ村にほんブログ村 貴重な収蔵品70点 諸橋近代美術館、開館25年の歩み振り返る:イベント・レジャー:福島民友新聞社 開館25周年を記念した展覧会…
岐阜城跡で織田秀信時代のものとみられる庭園を備えた饗応(きょうおう)施設があった可能性を示す多数の丸い扁平(へんぺい)型の石や陶器の破片が発見された。 10日午前10時から現地説明会があるという。[読売新聞]...
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年3鄭和の南海経略1大艦隊の発航永楽三年(一四〇五)の初冬、福州にほど近い閩江(みんこう)の江口をうずめるように、六十二隻の大艦隊が碇泊した。ひとつひとつの艦が、また巨大なものである。長さは約一四〇メートル、幅は五八メートルもあって、一隻に四百五十人もの人員をのせることができる。乗組の総員は、二万七千八百余という大勢であった。旗艦には、容姿すぐれた武将が坐乗している。司令長官の鄭和(ていわ)である。雲南の出身で、旧姓を馬といい、父祖三代にわたるイスラム教徒であった。永楽帝がまだ燕王であったころから、宦官(かんがん)として仕え、靖難(せいなん=国の危機を救う)の師をおこすのに功労があったところから、宦官の長官たる太監に任ぜられ、鄭の姓をたまわった。しかも、こ...8-3-1大艦隊の発航
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年10悲劇の女王メアリー・スチュアート3カーク・オ・フィールドの謎しかしメアリーの恋情を一身に受けているとしても、ダーンリーが存在するかぎり、ボズウェルは彼のような男にとってもっとも必要なもの、すなわち権力を手中にすることはできない。そしてこの短気で向こう見ずな男は、それをにぎるために殺害という方法を選んだ。この計画にメアリーは参加していたのか?暗黙のうちに承認していたのか?それとも無関係であったのか?従来から議論のわかれるところである。一五六七年一月、ダーンリーは天然痘のためグラスゴーで病床にあった。ダーンリーは子供への伝染を恐れて、宮殿があるエジンバラから数週間離れていたのであるが、二十二日、メアリーは夫を見舞うため、このグラスゴーにおもむいた。それか...7-10-3カーク・オ・フィールドの謎
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年9カルバンとフランス・ルネサンス7テレームの僧院ここでラブレーは自分が書いている物語の筋さえも忘れはてて、ひたすら明けそめた時代にかけた希望と理想とあこがれとの夢、すなわちルネサンスの夢にふけるかのようである。まずこの僧院の建築の描写が、ルネサンス期王侯貴族のはなやかな城館を総合して考えられており、しかもそれらのどれよりも見事だと、作者自身が信じている。ほとんど貪欲ともいうべき好奇心と新鮮なよろこびをもって、ラブレーはテレームの僧院を構想する。それは世のいっさいの僧院とは、まったく正反対のものである。ふつうでは僧院と尼僧院とはまったく別の土地にあるが、テレームでは、男がいないときは女もいてはならず、女がいないときは男もいてはならないことになっている。また...7-9-7テレームの僧院
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年9カルバンとフランス・ルネサンス4カルバン派の都ジュネーブジュネーブにおけるカルバンの仕事は、まず改革派としての教会を再組織することであったが、その礼典、儀式や讃美歌、祈祷(きとう)文などはすでにストラスブールの時代にできていた。また彼は、市当局から教会をきりはなし、長老会議が聖書の主旨にしたがって市民生活を監視し、指導することとした。長老とは信仰も日常の行ないもすぐれた市民のことである。カルバンは公式の地位にはつかなかったが、うしろから長老会議を動かしたことはいうまでもない。そしてはでな服装や身のまわり品は禁止され、娯楽や料理も制限され、書物の印刷には許可がいり、外国あての手紙は許されず、客は宿屋の主人に素姓をさぐられ、子供の名前にはイサク、アダムなど...7-9-4カルバン派の都ジュネーブ
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年8ヒューマニストの運命1日本にいたエラスムス栃木県の西南、佐野市上羽田(旧足利郡吾妻村)にある竜江院(りゅうこういん、禅宗)の山門をくぐると、左手に小さな観音堂がある。この観音堂に江戸時代の初期から大正時代の末期まで、観音さまとともに「貨狄(かてき)さま」と呼ばれる木像が安置されていたが、それは高さ一メートルばかり、大黒帽に似た頭巾をつけ、右手に開いた巻き物を持った立像である。この「かてき」については、カテキスム(カトリック教の教理を問答体で書いたもの)、またカテキスタ(信者と教理問答を行う役僧)から出たとか、あるいは中国で大むかしにはじめて舟を作ったと伝えられる人のことだとか、いろいろと解釈されている。この木像の存在が日本でも注目を集めはじめたころ、そ...7-8-1日本にいたエラスムス
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年5斜陽のイタリア半島――イタリア・ルネサンスの片影Ⅱ――5ローマの掠奪(りゃくだつ)軍事的であるという点で非難されたユリウス二世は、その剛毅果断な性格をもって、聖職売買のような悪習を禁じ、腐敗堕落を正した。そしてミケランジェロにシスティナ礼拝堂の天井画を描かせ、ブラマンテにイタリア・ルネサンス最大の記念物、聖ピエトロ寺院の改築を行なわせ、ラファエロにバティカン宮の壁を飾らせたのも、この気宇(きう)雄大な教皇であった。ユリウス二世のあとをついだのは「豪華王」ロレンツォの次男で、ピエロの弟にあたるメディチ家のジョバンニ(一四七五~一五二一)であり、一五二二年教皇レオ十世となった。彼は政治的野心においても、文化の保護においても、アレクサンデル六世やユリウス二世...7-5-5ローマの掠奪
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年4フイレンツェの支配者――イタリア・ルネサンスの片影Ⅰ――4「豪華王」ロレンツォ理想化されたコジモの孫のロレンツォ「豪華王」コジモの子ピエロ(一四一六~六九)は痛風を病みながらも、五年のあいだ、メディチ家の勢威を守った。彼は病気のため公の場所に出ず家にひきこもりがちで、多くの歴史家の評価はさえないが、金融家として蓄財に努力し、外には平和政策をとるとともに、熱心な文芸保護者でもあった。この点、彼が長生きしていたならば、父にまけない文芸のパトロンになったかもしれない。そしてピエロの妻、才媛ルクレティアはみずから詩作し、学芸に対する理解も深く、夫によく協力した。なおピエロの弟ジョバンニ(一四二四~六三)も魅力あふれた人物で、才能にも恵まれていたが、一四六三年父...7-4-4「豪華王」ロレンツォ
7-4-1 フイレンツェの支配者――イタリア・ルネサンスの片影Ⅰ――
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年4フイレンツェの支配者――イタリア・ルネサンスの片影Ⅰ――1水難の都昭和四十一(一九六六)年十一月、イタリアの都市、人口五十万のフィレンツェは思いがけない災難によって、遠く離れた日本人の関心をひいた。それは十一月四日の暴風雨で、「千年に一度」といわれる集中豪雨がイタリア中・北部をおそい、多数の犠牲者を出したが、とくに被害がひどかったトスカナ地方のフィレンツェ市では、アルノ川の氾濫によって大洪水が起こったのだ。この水害はイタリアの三分の一におよんだが、そのなかでとくにフィレンツェが大きく取りあげられたのは、被害の中心地だったこともあるが、またこの都市がイタリア・ルネサンスの面影をこんにちに残し、「生きている美術館」であり、「かけがえのない宝石」といわれてい...7-4-1フイレンツェの支配者――イタリア・ルネサンスの片影Ⅰ――
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年3大航海時代3マジェランの世界一周ポルトガル王家が新領土の保証を、絶えずローマ教皇に求めていたことは前に書いた。一四八八年バルトロメウ・ディアスが喜望峰を発見した。その帰路は海岸づたいではなく、北北西にアフリカ大陸後頭部に直航している。もはや大西洋はポルトガルにとって、使いやすい海となりつつあった。さらにアフリカ東岸のようすも、陸路の調査とディアスの航海でだいたい見当がついていた。あとは船の改良など準備をととのえて、アフリカ東岸とインドへの航海に出かければよいと思っているところへ、降ってわいたコロンブスの「インド発見」のショックである。コロンブスの新世界は一四九三年、教皇アレクサンデル六世によってスペイン領とみとめられた。どんな認めかたかというと、地球の...7-3-3マジェランの世界一周
こんばんは台風四号は対馬それましたが、皆様はどうでしかでしょうか。auの通信障害もなんとか復旧したようでよかったですね(●´ω`●)さて、平常展示最後の部屋ですつぅ、もう疲れてた(笑)入ってすぐの掲示案内板。三代藩主 宗義真 ‼︎こんなお顔やったんだ〜。初代藩
近世はルネサンスから始まり、その後バロックを経て、18世紀にはロココに突入。 Patreon3月の新作より 18世紀の自堕落な貴婦人 それまでのバロック様…