【その11】
灯

550: 名無しさん 02/10/28 18:10
結構有名な話なんだけれども、まだ出てないみたいなので…。 

ローマ皇帝ネロの母親、アグリッピナは、ネロを宿したときに、占い師に「あなたのお子様は皇帝になりますが、あなた自身のお命を奪おうとすることでしょう」 と予言され、「皇帝になってくれるんだったら、殺されてもいいわ!」と言った。 

そして後に、皇帝になったネロに差し向けられた刺客に殺されるわけなのだが、その時に「皇帝ネロはここから生まれた、ココを刺すがいい!」 と、お腹を突き出したそうだ。

※小アグリッピナ(15年11月7日~59年3月23日):
母親であるアグリッピナと区別して小アグリッピナと呼ばれる。ネロを帝位につけた後、アグリッピナは政治に色々と口出しようと試みる。しかし彼女の横柄な干渉は、皇帝として独立心が芽生えてきたネロとの間に確執を生み、やがて嫌われて皇宮から蹴りだされ、最後にはネロの命令で殺された。(wiki:小アグリッピナ)

554: 名無しさん 02/10/29 03:37
>>550 
それで帝王切開か…。

555: 名無しさん 02/10/29 04:02
>>554 
帝王切開はカエサル(シーザー)皇帝のことと思われ。 

でもこれは本当はデマで、実際は、「お腹を切って赤子を取り出す手術」→「ハサミ(英語でシザー)を使う手術」 →「シザー式切開」→シザーとシーザー皇帝が日本語で混同→「帝王切開」らしい。 

660: 名無しさん 02/11/19 13:15
>>555 
医療関係者ですが、帝王切開はシザーでは無くて「カイザー」、ハサミはシザーではなく「クーパー」と呼んでいます。 

とんでも説を流さないように。

661: 名無しさん 02/11/19 13:42
帝王切開とはドイツ語の「カイザー=帝王、皇帝」と「シュニット=切開」の直訳です。 

ドイツ語のカイザーはジュリアス・シーザー
(英語表記では「Julius Caesar」)のシーザーから出た言葉です。
 
初代ローマ皇帝のシーザーが母親の腹壁を切開して生まれたので、この手術を「シーザー切開」と名付けたとの説があります。しかし、シーザーの母親は長く生き、紀元前の医療状況を考えるとあり得ないことです。 

 シーザー切開の語源で一番有力なのは、ラテン語で切るという意味の「セドレ」を「セジュラ」と訳したため、セジュラが「シーザー」となり、シーザー切開、すなわち帝王切開になったとの説です。 

※帝王切開:
ドイツ語で帝王切開を意味する「Kaiserschnitt」を日本語に訳した際、この語を切り分けて「Kaiser」を「皇帝」、「Schnitt」を「切開」などと間違って訳してしまったため生まれた語であるとされるなど、俗説は多くある。(wiki:帝王切開)

672: 名無しさん 02/11/20 10:42
聖帝サウザーは、ケンシロウの放った北斗有情拳によって死亡したが、その体は破裂しなかった。

※サウザー:
死の間際、ケンシロウの言葉から、愛が生んだのは「苦しみ」や「悲しみ」だけでなく、「ぬくもり」でもあったことを思い出したサウザーの顔からは険しさがなくなり、涙を流しながら崩壊する十字陵と運命を共にした。ケンシロウはそれを、「哀しい男よ 愛深きゆえに」という言葉で見送った。(wiki:サウザー)

551: 名無しさん 02/10/28 19:26
T-REXっていうバンドのボーカル、マーク・ボラン。 

1977年9月16日早朝、恋人グロリア・ジョーンズの運転する車が立ち木に激突し、助手席に乗っていたマークは還らぬ人となってしまう。

彼は生前、「僕は30歳になる前に体がバラバラになって死ぬと、パリで魔女に予言された」と言っていたが、皮肉にも彼が死んだのは30歳の誕生日の2週間前だった。

※マーク・ボラン(1947年9月30日~1977年9月16日)

552: 好爺 02/10/28 19:56
たこ八郎は、1985年に海岸で酒を飲んだ後海で泳ぎ、溺れて死んだ。 

「たこは海に帰ったのです」は、あき竹城の言葉。
 
725: 名無しさん 02/12/04 03:36
>>552>たこ八郎 
死ぬ前日に、知人に挨拶してまわってたとかだっけ? そこあたりから死を覚悟してってことで、自殺説があるんだっけ? かなりうろ覚え。

※たこ八郎 (1940年11月23日~1985年7月24日):
プロボクサーから転身してコメディアン。海水浴場で飲酒後に海水浴をし、心臓マヒにより死去。死の数週間前には、ふらりと実家の仙台に帰省しており、虫の知らせだったのではないかと言われている。新聞には「たこ、海で溺死」、弔問に訪れたタモリは「たこが海で死んだ。何にも悲しいことはない」と、たこの死を悼んだ。(wiki:たこ八郎 )

553: 好爺 02/10/29 03:25
新興宗教、璽宇(じう)教教祖「璽光尊(じこうそん)」は、1984年7月に体調を崩したが、教団内で現人神(あらひとがみ:人間の姿で現れた神)的存在だったため、医者に連れて行ってもらえずに死亡した。 

信者は彼が復活するものと信じて、3日間床の上に置かれたままだった。

556: 名無しさん 02/10/29 04:06
>>553 
あはは、おもろい。信者をマインドコントロールしたツケが回って来たって事なのかな。

※璽光尊(1903年4月22日~1983年8月16日)
1946年5月、教団独自の元号を制定し、「昭和」を「霊寿」(れいじゅ)と改めたほか、国旗や憲法を制定し、私造紙幣まで発行した。教団内に「兵部卿」、「文部卿」などといった役職を作り、仮想的な内閣を組織した。
 
東京において「京浜地方に大地震が起こる」と繰り返し予言。危険だとして東京を離れ、「璽宇皇居」と呼ぶ教団本部を石川県金沢市に移す。当地でも終末思想を広め信者を増やしていった。※オウム真理教のそれとよく似ています。(wiki:璽光尊)

558: 好爺 02/11/01 01:58
映画監督、弓削太郎(ゆげ たろう)

1年ほど前から行方不明であったが、軽井沢の山中でミイラ化した変死体で見つかった。所持品の日記には「死ぬ」と書いてあった。

559: 名無しさん 02/11/02 12:53
そりゃあ「死んだ」とは書けんわなw

※弓削太郎(1923年~1973年5月20日):
1972年に行方不明になり、翌1973年5月20日に軽井沢の父親の別荘で首吊り自殺の状態で発見された。

560: 名無しさん 02/11/02 20:33
英国のハノーバー朝、初代ジョージ1世は好色漢で、公然と愛人を囲い后を虐待していた(当時はよくある話ではあるが、后には愛人と別格に敬意を払うのが、宮廷のマナーだった)。
 
ちなみにこのお后、肖像画見る限りではかなり綺麗な人。夫の扱いに耐えられなくなった后は、遂にある貴族との不倫にはしってしまう。
 
発覚するや、夫は自分の事は棚に上げて激怒、以後后は一生城に幽閉される。確か、王子たちにも会わせてもらえなかった筈。 

そして后は死の床につくと、夫へ手紙を書いた。
 
死後、手紙を受け取った王は顔面蒼白となり、恐怖に震えたかと思うとたちまち発病、しばらくして崩御した。 

一体どんな事が書いてあったんだろう?

614: 名無しさん 02/11/13 06:52
>>560 
ずっと貴族と愛人関係にありますた。王子は全員その貴族の子です、あひゃ! 

とか書いてあったんじゃねーの?(w

※ゾフィア・ドロテア(1666年9月15日~1726年11月13日):
ジョージ1世の妻。愛人関係になっていた貴族、フィリップはほどなく「失踪」し、ゾフィー・ドロテアは1726年に60歳で死去するまで32年もの間幽閉され続けた。実母エレオノーレ以外との面会は許されなかった。
382px-SophiaDorothea_of_Celle1
(wiki:ゾフィア・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク)

678: 名無しさん 02/11/21 03:44
>>560 
たしか、ジョージが出身地のドイツに里帰りした際、雷雨の中、誰かが死んだ妃の手紙をジョージの馬車に投げ込み、それを読んだジョージは、馬車が城に到着した時には既に死んでいた、という話だよね。
 
手紙を投げ込んだ人(たぶん妃の腹心?)も、そこまでの効果を上げるとは思ってなかっただろうけど、ぞっとする話ではあるよね。 

※ジョージ1世(1660年5月28日~1727年6月11日):
イギリス王。ドイツのオスナブリュックで急死。脳卒中とされる。(wiki:ジョージ1世)

561: 名無しさん 02/11/02 20:51
隋の文帝(ぶんてい)は、自分の陵(りょう:お墓)の候補地を探させた。

御存知風水説に則って、子孫長久
(代々長く続くこと)の地を探せというわけ。
 
後に煬帝
(ようてい)となる皇太子は、早く即位したい為、占い師にできるだけ早く父に不幸が訪れるような土地を探せといった。

占い師は見つけた。既に崩じていた皇后を葬れば、4年後には皇帝も合葬されるだろうという地を。

そして「ここに陵を造れば、隋朝の命運は二千年は続く事を保証致します」 と奏上
(そうじょう:王などに申し上げる事)した。 

家族に、その占い師はこう嘯
(うそぶ)いた。
 

「私はどっちにも嘘は言っておらん。二千年という字を崩してごらん。三十年になるだろう。三十年は続くが、後は知らんということさ」 

隋朝は39年で滅亡した。

※隋[ずい](581年~618年):
西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。史料により619年滅亡としているものも有り。(wiki:)

562: 名無しさん 02/11/02 21:01
隋の最後の皇帝、恭帝(きょうてい)

同じ諡(おくりな:死後の称号)の皇帝が二人いる。兄弟で片方が某将軍に(恭帝侑[きょうていゆう]隋の第3代皇帝、弟)、もう一人は(恭帝侗[きょうていとう]隋の第4代皇帝、兄)唐への禅譲(ぜんじょう:血縁者出ないものに位を譲る事)のため擁立された。

兄弟揃って「眉目描けるが如し」「美容儀」といわれる性格温和な美少年だった。 
ともに10代半ばで殺害された。(兄15歳?没。弟14歳?没)

某将軍に擁立された、別名皇泰主(きょうていとう:恭帝侗、)という皇帝は、暗殺の使者がやってくると「二度と帝王尊貴の家には生まれたくない」と叫び毒を仰いだ。しかし死ねない。 

苦しんだ末、首を吊って亡くなった。

563: 名無しさん 02/11/02 21:19
直接のオカルトではなくとも、オカルト絡みの話ならごろごろある。 

南朝の宋の前廃帝
(ぜんはいてい)。 

叔父を殺して、目玉を蜂蜜付けにしたほど狂人の非行少年。多くの廷臣や宮女を虐殺.酒鬼薔薇など比ではない。 

母后が重病の時、「病人の所には鬼=死霊が多い。そんなとこ見舞いに行けるか」と言ってのけ、「刀を持ってきて私の腹を裂いてくれ、あの畜生はここから生まれたんだから」と、ネロの母アグリッピナと同じ事を言わせた。

虐殺、強姦などやりたい放題の少年皇帝はある時、宮女たちに側近達と乱交せよと命じた。一人拒んだ宮女がいたので斬殺した。 

その夜、一人の女が夢に出てきて「こんな暴君には未来はありません」と罵倒した。 

皇帝は夢に出た女と似た宮女を探し出し、またも斬殺した。するとまた夢に出てきて、「天帝に訴えました」と言う。

皇帝は、除霊の儀式を行っている最中に、側近に襲われて死んだ。

564: 名無しさん 02/11/04 13:52
宮女 (゚д゚) <ツウホウシマスタ 

※前廃帝(449年2月25日~466年1月1日):
南朝宋の第5代皇帝。目に余る行動のために子業(前廃帝)は宋朝における人望を失った。叔父が腹心の阮らと謀って、子業を殺害した。16歳没。(wiki:前廃帝)

569: 好爺 02/11/08 16:56
1975年、人間国宝でもあった板東三津五郎は、会食していた際に、知人らが気味悪がって食べなかったふぐの肝を4人分たいらげ、その4時間後に体の痺れを訴え、急死した。

570: 名無しさん 02/11/08 21:40
>>569 
オカルトでも何でもないのでは?

571: 名無しさん 02/11/08 21:47
>>570 
知人が、みんなで、毒もった。

577: 名無しさん 02/11/09 02:35
>>569 
一人分なら痺れるだけですんだが四人分なんで死んじゃったか?

※坂東三津五郎 (8代目)(1906年10月19日~1975年1月16日):
法廷では、「もう一皿、もう一皿」とせがむ三津五郎に板前が渋々料理を出したことが争点となった。当時はまだフグ中毒事件を起こした調理師に刑事裁判で有罪判決が下ることは稀だったが、結局この事件では「渋った」板前が調理を「しくじった」ことに変わりはないとして、業務上過失致死罪及び京都府条例違反で執行猶予付の禁固刑という有罪判決が出た。(wiki:坂東三津五郎)

日本史有名人の死の瞬間 [ 新人物往来社 ]
日本史有名人の死の瞬間 [ 新人物往来社 ]

576: 好爺 02/11/09 02:29
正岡子規は21歳の時に最初の喀血をして、30歳の時に根岸の子規庵で。ほとんど病床を離れ得ない人となった。そして35歳の時に亡くなった。 

9月19日未明、見舞いに来ていた高浜虚子は、子規の妹、律に起こされた。虚子は夜半まで聞こえていた隣室の子規のうなり声が、いつのまにか静かになっているのに気がついた。

入ってみると、子規の母が子規の額に手をあてて「のぼさん、のぼさん」とその幼名を呼んでいた。老母は眠らずに彼をずっと見ていたのだが、あんまり子規が静かなので、手を握ってみて、いつのまにか死んでいるのに気がついた。 
 
老母は体を清めてやろうとすると、子規の腰から背にかけて蛆が這いまわっていた。

※正岡子規(1867年10月14日~1902年9月19日):
幼名は処之助(ところのすけ)、のちに升(のぼる)と改めた。結核を患い、血を吐いたことから、「鳴いて血を吐く」と言われているホトトギスと自分を重ね合わせ、ホトトギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号とした。(wiki:正岡子規)

587: 名無しさん 02/11/09 17:01
スパルタクスの死に様も酷いよね。 

ローマ兵にぐちゃぐちゃになるまで切り刻まれて、後にアッピア街道に、その残骸というか肉片といいますか、が磔
(はりつけ)られた(ばらまかれた?)にされたとか。

※スパルタクス(生年不詳~紀元前71年):
共和政ローマ期の剣闘士。「スパルタクスの反乱」と称される第三次奴隷戦争の指導者。「敵に包囲され槍で突かれて腿に傷を負い跪(ひざまず)きながらも楯を前に掲げて戦い続けた」と伝えており、戦場からはスパルタクスの死体は発見できなかった。(wikiスパルタクス)

588: 名無しさん 02/11/09 17:09
「ねがはくは 花の下にて春死なむ その如月の もちづきのころ」 と、詠った西行は、丁度桜の裂く満月の夜に、桜の木の下で死んだという。 

本当じゃろうか? 本当だったら美しすぎて気持ち悪ぃ…。

※西行(1118年6年2月16日~1190年3月31日):
武士・僧侶・歌人。その歌のとおりに亡くなったという。(wiki:西行)

589: 名無しさん 02/11/09 17:09
董卓の死骸は火をつけると三日三晩、燃え続けた。

618: 名無しさん 02/11/13 13:51
>>589 
童貞の死骸は火をつけると三日三晩、燃え続けた。 

と読んでしまいました…。

623: 名無しさん 02/11/14 12:06
>>618 
童貞の死骸ほど涙を誘うものはないな。

※董卓[とうたく](?~192年5月22日):
中国後漢末期の武将。董卓は平素からかなり肥満していたが、折りしも暑い日照りのために死体からは脂が地に流れだしていた。そのことから夜営の兵が戯れに董卓のへそに灯心(芯)を挿したが、火はなお数日間燃えていたという。(wiki:董卓)

681: 名無しさん 02/11/21 06:17
六世紀の中国の洛陽(らくよう:地名)の話。
 
吏部尚書(今の首相にあたる役職)の刑巒(けいらん)は、いつも自分の家を掘っては金銀を得ていた。

その金銀に、は董
(とう)の刻印が刻まれていた。刑巒の住む土地は、洛陽永和里(らくようえいわり)と言う場所で、後漢末の董卓(とうたく)邸跡だった。 

ある晩、刑巒はおかしな夢を見た。 夢に董卓の亡霊が現れて「金銀を返せ」と言ったので、「いやだ」と言った。 

その翌年、彼は急死した。

刑巒(461年?~546年?):80歳をこえているので天寿でしょう…。

【その13へ】