【その12】
悲惨な死に方有名人

502: 名無しさん 06/02/15 21:07:00 
マリー・アントワネット。

ギロチンで首を切られたのはあまりにも有名。

503: 名無しさん 06/02/15 21:27:45 
ギロチンてわりと楽な死に方のうちだと思うけどなぁ、一瞬だし。 

そもそも死刑囚に余計な苦痛を与えないためにと開発された処刑方法なんだし。

506: 名無しさん 06/02/15 22:27:14
>>503 
大国の王女、王妃が群集の前で粗末な服を着せられて、クビチョンパなんて悲惨だと思うよ。

そりゃ、のこぎり引きとか八つ裂きに比べたらましだけどさ。

511: 名無しさん 06/02/15 23:07:26
>>506 
マリー・アントワネットのしたことはギロチンにかけられても当然でしょ? 

日本ではベルばらのイメージから悲劇の女王扱いされているけど、フランス人には評価低いよ。 

513: 名無しさん 06/02/15 23:55:16
>>506 
粗末な服着て…っていうけど、訳もわからず幼くして嫁いだとはいえ贅沢三昧、豪華な服で着せ買えごっこ…血税から来てるのそんな事もわからず、長らく逆なでするような生活してたからなんじゃない。
 
国民の溜飲下げる為にも公開処刑で当然じゃないの?

516: 名無しさん 06/02/16 00:12:07 
>>511>>513 
当然というのと悲惨というのは違うよ。身分からしたら無茶な死に方だわな。 

981: 名無しさん 06/03/10 01:28:37
マリーアントワネットは何度かギロチンに失敗して何度も...って聞いた。

982: 名無しさん 06/03/10 01:56:24
ギロチンで失敗はないと思うけどな。 

斧で首を切っていた頃は、肩を討つ失敗で何度も何度もということが頻繁にあったらしい。 

※処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベート宛ての遺書を書き残している。内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった。

1793年10月16日、朝食についての希望を部屋係から聞かれると「何もいりません。全て終わりました」と述べたと言われ、そして白衣に白い帽子を身に着けた。斬首日当日、マリー・アントワネットは特別な囚人として肥桶の荷車でギロチンへと引き立てられて行った。髪を短く刈り取られ、両手を後ろ手に縛られていた。

その最期の言葉は、死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンの足を踏んでしまった際に発した「お赦しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ。Pardonnez-moi, monsieur. Je ne l'ai pas fait exprès」だとされている。

通常はギロチンで処刑の際に顔を下に向けるが、マリー・アントワネットの時には顔をわざと上に向け、上から刃が落ちてくるのが見えるようにされたという噂が当時流れたとの説もある。

12時15分、ギロチンが下ろされ刑が執行された。処刑された彼女を見て群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたという。37歳没。(wiki:マリー・アントワネット)

537: 名無しさん 06/02/16 08:50:46 
マリー・アントワネットは、ギロチンにかけられるほどの悪人じゃなかったと思うな。 

元々天真爛漫で移り気な性格だったらしく、一部の臣従のみを寵愛してたりと、他貴族から反感を買ってた部分がある。ただ、その貴族たちが流した流言蜚語が民衆に広まり、憎悪の対象となったとも言われる。 

贅沢三昧にしたって、それが当たり前という閉ざされた環境の中で乳母日傘に育てられれば、彼女一人に責任を押しつけるのはお門違いだろう。有名な「パンがなければお菓子」云々も、創作というか剽窃
(ひょうせつ:パクリ)だしね。 

最後の言葉は、処刑場に引き出される時に兵士の足を踏んでしまって言った「ごめんなさい……態とではありませんのよ」だったらしい。 

彼女は時代に処刑されたんだよな。とまぁ、ありきたりのマリー・アントワネット評を書き連ねてみる。

542: 名無しさん 06/02/16 10:01:59
>>537 
>ただ、その貴族たちが流した流言蜚語が民衆に広まり、憎悪の対象となったとも言われる。 

首飾り事件とかね。 

貴族が王妃の名前を騙り詐欺行為を働いていただけで、マリー・アントワネットはまったく関わっていないにも関わらず、最終的に評判を落としたのはマリー・アントワネットだったってやつ。

※首飾り事件:
1785年、革命前夜のフランスで、ヴァロワ家(王家一族)の血を引くと称するジャンヌ・ド・ラ・モット伯爵夫人が、王室御用達の宝石商から160万リーブル(金塊1t程度に相当する)の首飾りをロアン枢機卿(すいききょう:教皇の最高顧問)に買わせ、それを王妃マリー・アントワネットに渡すと偽って騙し取った。

首飾りはジャンヌが解体した上に詐欺師仲間に分配、それぞれが売却した為に消失したという。

裁判で有罪となったジャンヌは鞭打ちの刑を受けた後、両肩に「V」の焼き鏝(「泥棒」を意味する「Voleuse」の頭文字)を捺された後、終身禁錮刑となった。しかしジャンヌは、たくさんの民衆から同情され、いつの間にかイギリスへと脱走し、1791年、精神錯乱の発作により窓から転落して死んだ。35歳没。(wiki:首飾り事件)

538: 名無しさん 06/02/16 09:37:22
「パンを~」はアントワネットの伯母が言った。

575: 名無しさん 06/02/16 22:50:04
>>538 
パンが無ければ…の元ネタは、古代中国の妲己の「お米が無ければお肉食べれば?」らしいね。 

585: 名無しさん 06/02/17 08:25:45
>>575 
違うよ。西晋の恵帝だよ。 

※パンがなければお菓子を食べればいいじゃない:
この台詞はルソーの自伝的な「告白」に出てくるが、農民が主食として食べるパンに事欠いていることを知った「あるたいへんに身分の高い女性」が言った台詞とされており、誰とは書かれていない。著書が出版された時、マリー・アントワネットは13歳、そもそもフランスにいなかった。

フランス革命前夜、王やその妃に向けられる怒りや不満が沸き立つように高まる中で、不平を鳴らす人間が「マリー・アントワネット(あるいは王族)の口から出てきた」という話を仕立て上げたとしても全く不思議ではないと推測される。(wiki:ケーキを食べればいいじゃない)

504: 名無しさん 06/02/15 21:37:22
ギロチンを発明した本人もお世話になっちゃったんだよな確か。

505: 名無しさん 06/02/15 22:22:35
>>504 
それは間違い。皮肉なエピソードとして面白いからそんな話が広まったんだろう。

520: 名無しさん 06/02/16 01:21:54
ギロチンの発明は、執行側の精神的、肉体的負担軽減の目的とどこかで読んだ。

521: 名無しさん 06/02/16 01:47:02
>>520 
そりゃそーでしょう。 

死んだ人間に「どの処刑方法が一番楽でしたか?」とは聞けないのだから。処刑する側から見て、処刑される者が少しでも楽そうに感じられる、という事が重要で当たり前。

本当に楽かどうかは誰にも判定できない。

522: 名無しさん 06/02/16 01:51:13
フランス革命で大量の処刑者を処理するために発明されたんだよ。 

あの時のロベスピエールときたら、ちょっと思想が合わない味方でさえ革命裁判して死刑ですからね。まぁその彼もギロチンにかけられて死んでますが。

※マクシミリアン・ロベスピエール:
フランス革命期の政治家。権力を掌握すると、公安委員会、保安委員会、革命裁判所などの機関を通して恐怖政治(Terreur:テルール、テロの語源)を断行し、反対派をギロチン台に送った。1794年7月27日、反ロベスピエール派によって逮捕され、翌28日に処刑された。36歳没。(wiki:マクシミリアン・ロベスピエール)

532: 名無しさん 06/02/16 06:03:50
>>522 
違う、発明を勧めていたのは当時の国王ルイ16世。
 
昔は斧で首切り。これが悲惨だから、ということで人道的見地から開発。あの斜めの歯は、国王が「よく切れる」からといってギロチン氏に改良させた。で、試し切りされたのが国王一家になっちゃったわけ。 

近年までは、フランスではずーっとギロチンが死刑の基本だったんだよ。銃殺とか首吊りは不名誉なんだってさ。 

アントワネットの贅沢に加え、ルイ14世時代からの借金、オーストリア継承戦争、アメリカ独立戦争が続き、更に飢饉が続いた上に統率力の弱い国王だったから・・運が悪かったということかも。

536: 名無しさん 06/02/16 07:57:06
>>532 
1981年まで使用です。

※ギロチン:
1792年4月25日、フランス史上初のギロチン処刑が行われた。受刑者はニコラ・ジャック・ペルティエという窃盗犯で、前年10月にひったくりをしようとして抵抗され、棒で被害者を殴ったため1月24日に死刑判決を受けていた。

司法当局はペルティエを「新しい死刑具」であるギロチン処刑の第1号とすべく、ギロチンが完成するまで3か月間、その処刑を延期していた。

そのおよそ9ヶ月後の1793年1月21日、フランス革命の国王裁判でルイ16世は処刑された。革命前に「人道的な処刑具」としてギロチンの導入が検討された際、その刃の角度を「斜めにするように」と改良の助言を行ったのはルイ16世本人だった。38歳没。(wiki:ギロチン)

547: 名無しさん 06/02/16 12:34:06
ルイ16世は機械工みたいな趣味があって、ギロチンの刃の改良を指導したとか。 

最初はカマみたいに湾曲した刃だったが、王はそれは引き切りに適した形でギロチンのような押し切りタイプではよく切れないからと言って、直線的な刃に設計し直させた。 

実験のために猫や犬や豚なんか使って試し切りしたらしいよ。無能なわりにまあまあ平穏に王を務めたルイ13世や15世は猫を可愛がっていた。なので、猫オタなら16世は祟りで早死にしたと考えたくなる。

妻であるアントワネットも子供の17世も最期は悲惨だったが、巻き添えになって気の毒だったかも。

※ルイ17世:
フランス革命期の1792年8月10日、パリで民衆と軍隊が宮殿を襲撃してルイ16世やマリー・アントワネットら国王一家を捕らえ、タンプル塔に幽閉した。

父ルイ16世の処刑により、王党派は名目上のフランス国王に即位したものと見なしたが、ルイ17世本人は監禁された身で、自分が国王と呼ばれていることさえ知る由もなかった。

監禁生活が始まった8歳のルイ17世には監視、及び貴族的なものを忘れ、良き市民となるための再教育が行われた。革命党員の制服を着用させ、カトリックや王室の家族を否定し冒涜する言葉、わいせつな言葉を教え込ませた。

やがて教育には虐待が加わり、具合が悪くなるまで無理やり酒を飲ませたり、「ギロチンにかけて殺す」とまで脅す有様であった。暴力は日常茶飯事となり、番兵たちも虐待を見るのを嫌がったという。

売春婦に8歳のルイ17世を強姦させ性病に感染させた。自慰を覚えさせた。不潔な状況下にルイ17世を置き、貶めるために、室内にはあえてトイレや室内用便器は置かれなかった。

そのため、ルイ17世は部屋の床で用を足すことになり、この部屋の清掃と室内の換気は禁止された。また、本やおもちゃも与えられず、ろうそくの使用、着替えの衣類の差し入れも禁止された。

食事は1日2回、厚切りのパンとスープだけが監視窓の鉄格子からするりと入れられた。食事が差し入れられる鉄格子の前に立つと「戻ってよし」と言われるまで「せむしの倅」「暴君の息子」「カペーのガキ」などと長々と罵倒された。

やがてルイ17世は歩けなくなった。

その後は不潔なぼろ服を着たまま、排泄物だらけの部屋の床や蚤と虱だらけのベッドで一日中横になっていた。室内はネズミや害虫でいっぱいになっていた。もはや彼に人間的な扱いをする者は誰も居なかった。

ルイ17世は生前に、母と叔母の死を知ることはなかった。独房に墨で書かれた「ママ、僕は…(Maman je)」という書きかけの言葉と花の絵が残されたことや、塔の屋上に散歩に出た際に見つけた花を摘み取り、花好きの母のためにと、既に住人がいないことを知らぬルイ17世が母の部屋の前にそっと置いたというエピソードが残されている。

1795年6月8日、ルイ17世の短い生涯は終わりを告げた。10歳2ヶ月没。

Louis_Charles_of_France5

この話に救いがあるとするならば、ルイ17世の虐待に加わったものは後に処刑され、ルイ17世の遺体の解剖を行った医師によって持ち出されたルイ17世の心臓と言われるものが、2004年6月になってようやくDNA鑑定でルイ17世のものと判定され、父のルイ16世と母のマリー・アントワネットが眠るフランス王家の墓地があるサン=ドニ大聖堂に、ルイ17世の心臓が埋葬された。(wiki:ルイ17世)

579: 名無しさん 06/02/17 05:54:35
ルイ16世は、今で言うアスペルガー症だったらしい。 

理系に秀でているが、情緒に乏しく共感能力に欠ける。 

587: 名無しさん 06/02/17 10:49:18 
>>547 
でもお人良しだったらしいし、平和な時代ならいい国王で通ったかも、とも言われてるが、外交は弱そうだな…。 

ちょっとアントワネットつながりになるけど、彼女のお気に入りの女性…ランバール公爵夫人だっけ?あの人もすごい殺され方をしているよ。 町中引き回されながら民衆に撲殺、髪の毛や陰毛も引きちぎられ、手足を折られ…ですごかったらしい。 

アントワネットの恋人フェルゼン伯爵も、民衆に襲われて撲殺されたな。 

※:ランバル公妃マリー・ルイーズ:
1792年8月10日、ランバル公妃は、ルイ16世一家と共にタンプル塔へ幽閉されるが、ラフォルス監獄へと移された。革命裁判所にて革命の正当性を認めるよう強要されたが従わなかったため、彼女が王妃の友人であり王党派であることを憎悪した民衆たちによって起きた暴動の際に撲殺され、その遺体は切り刻まれた。

通説では、暴徒と化した民衆はその首を「旗印」として晒し物にし、幽閉中のマリー・アントワネットへ向けて窓に掲げて見せつけたという。また、彼女は殺害直前もしくは殺害後の遺体が陵辱されたという説が有るが、混乱の最中での出来事であり、真実は不明である。42歳没。(wiki:ランバル公妃マリー・ルイーズ)

※ハンス・アクセル・フォン・フェルセン:
スウェーデン王カール13世には世子がなかったため、アウグステンブルク家のクリスチャン・アウグスト(カール・アウグストと改名)が王太子に指名されたが、1810年クリスチャン・アウグスト王太子は事故死した。

その直後から、王位を狙った暗殺事件であるとの噂が飛び交い、暗殺の首謀者としてフェルセンの名が取り沙汰された。しかしカール13世は冷静を装ってフェルセンに葬儀執行を命じ、フェルセンもそれに従った。

1810年6月20日、クリスチャン・アウグストの遺骸がストックホルムに運ばれ、市内の広場で葬儀が行なわれたが、そこに馬車で現われたフェルセンに群衆が暴動を起こした。

現場にいた近衛連隊の指揮官と兵士たちはあえて暴動を制止しようとせず、フェルセンは群衆によって惨殺された。フェルセンの遺体は、全裸で側溝に投げ捨てられるという無惨な扱いを受けた。54歳没。(wiki:ハンス・アクセル・フォン・フェルセン)

516: 名無しさん 06/02/16 00:12:07 
悪の限りを尽くしたシナの宦官で、全身を切り刻まれて何日間か掛けて殺されたのがいるけど、これなど同情はしないが悲惨だと思う。

517: 名無しさん 06/02/16 00:51:16
>>516 
レンツェだねー。ジョンゾーンのアルバムのジャケットがコレやってる最中の写真だぁね。 

拷問とかで調べると、年老いた女王が、馬に四方に引き裂かれて処刑されたりとか、結構悲惨な死に方してるパターンが見られるね。

※凌遅刑(りょうちけい、レンツェ):
清の時代まで中国で処された処刑の方法のひとつ。存命中の人間の肉体を少しずつ切り落とし、長時間にわたり激しい苦痛を与えて死に至らす処刑方法。

LENG TCH’E
ネイキッド・シティ
トイズファクトリー
1992-11-01





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