新今宮から大和路快速の日なた向きに座って、友人の親父さんの葬儀に向かう。
列車の窓から入る陽射しは眩しいけれど、遅くまで詰め込んで仕事していたので、
薄目で遠くの明るいところを見ていると目の奥をほぐすようなきもちいい光。
一番前の車両なので座席越しに久しぶりに見る秋色の木々がパノラマに流れて行く。
陽射し側の人はまばらで、みんな日よけを閉めているけれど、一人、日のあたた
かさを感じ、友人の親父を思い出していた。小太りで元気な社長さんのおっちゃん
だった。大きな工場があって仕事も家族も立派でいつもいい家族だなっておもってた。
友人とよくバイクに乗って遊んでいた若い頃、お邪魔していた家の間取りと、
楽しかった 若い頃の 家族の顔が頭に浮かぶ。
一週間前も親戚が死んで、葬儀にでて歳をとった人が集まっている中で、死ぬってどんな
ことだろうとこないだから考えてた。喪服を着て、革の黒い靴をはいて、日のあたるシート
に座る自分が見える。 こういうときが、神様が考えなさいってくれたたいせつな時間な気がする。
人が亡くなった時に仕事も予定も不幸ごとだと、断ってもみな仕方ないこととみんなわかってくれて
しかたないこと、としてそこへなんとしても向うことができる。いかなきゃいけない。
故人やその家族には わるいけどありがたいものと考えてる。合わなかった人にあえて、
考えさせてくれて 死んだひとが会わせてくれて、休憩させてくれているのだね。と思う。
日常でない列車の中で自分を見る事ができて、これからのどうしたら良いか、
列車の音を聞き落ち着いた気持ちになる。
スピードが落ちて、少し電車が横に揺れて懐かしい駅のホームに着いた。
30分もかからなかったけれど50年分映画を見ていた感じで階段を登る。
お坊さんのお経も、焼香の意味もこの歳になっても意味もよくわからないけど、
友達と家族が泣いたのでたまらず泣けた。