団塊おんじ 人生100年時代を行く!

長く生きるかではなく、どう生きるかの試行錯誤録

自然の背後に隠れているもの

 日本民俗学の父といわれる柳田國男(やなぎた くにお)さんは、萩原朔太郎『青猫』に収められた「自然の背後に隠れて居る」という詩を好んでいたようです。(菅野覚明著「柳田國男」のあとがきより)

 

 草むらの影、地平のかなたに「見えない生き物」の存在を感じ、怯えているのにそれに惹かれてしまう子供の心持ちが、そこでは語られています。

 

 日本人すなわち「我々の父祖」は「何を信じ何を怖れ」て生きてきたのか。

 

 柳田國男氏がそれを尋ねる営みは、彼らが実在を信じた妖怪と神々、死者の霊との関わり、自然環境との交感へと視線を伸ばしていきます。

            Monikaさんによるpixabayからの画像

 

 私が小学生の頃、私の家は賑やかな地区から少し外れた場所にありました。

 

 まだ街灯もろくに整備されていませんでしたから、夜になると漆黒の闇となります。

 

 家の前には、街の篤志家が提供してくれた子どもの遊び場がありました。

 

そこも夜には光がまったくありませんでしたが、山から流れてくる清水を溜めた小さな池があり,夏になると池のまわりにホタルが飛び回っていたものです。

 

 まだテレビもありませんでしたから、夕食を済ませ、共同浴場で風呂に入った帰り道、その遊び場に立ち寄っては、ホタルの飛び交う様子を眺めていたものです。

 

 しんと静まり返ったその場所では、ちょっとした草むらの虫が動き回る音もよく聞こえました。

 

 ときに風が吹くと、ザワザワという木々の音も、私に何かを語りかけてきているような気がしたものです。

 

 小学生高学年になって宮沢賢治の「風の又三郎」を読みました。

 

 風の強い夜、寝床の中で読んでいると、「どっどどどどうど どどうど どどう」

と強い風の吹くさまが表現されています。

 

 不思議な擬音語で表現される風の音に、幼い私は布団の中で身震いしたものでした。

 

 ろくに遊び道具もない子供時代、自然を相手に遊び方を考えながら過ごしたあの頃は、自然環境から発せられるメッセージを体で受け止めながら過ごしていたような気がします。

 

 

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