円照寺宮墓地

被葬者:文智女王(後水尾天皇皇女)
    文察女王(後水尾天皇皇女)
    瑞光女王(後西天皇皇女)
    文喜女王(霊元天皇皇女)
    永応女王(霊元天皇皇女)
    文乗女王(霊元天皇皇曾孫女)
    文亨女王(霊元天皇皇孫女)
    永皎女王(中御門天皇皇女)
    文秀女王(後伏見天皇十九世皇孫女)
墓地名:円照寺墓地(えんしょうじみやぼち)
墓  形:宝篋印塔等、宝塔等
所在地:奈良県奈良山町
最寄駅:帯解駅(JR桜井線)
探訪日:平成15年(2003年)12月18日

帯解駅の真東にある円照寺という寺院のさらに東側にあります。
なお、円照寺自体は非公開寺院のため参道以外の境内は入れないのですが、この宮墓地は境内とは別の場所にあるため、自由に参拝できます。


文智女王(ブンチ)
・初代門跡
・生没年:元和5(1619)年~元禄10(1697)年
・続  柄:(父)後水尾天皇、(母)典侍四辻与津子
後水尾天皇の第一皇女として生まれたが内親王宣下はされなかった。12歳で大納言鷹司教平に降嫁したが、3年後には離別した。
21歳で父上皇の許しを得て出家し、はじめ修学院に草庵を営んだ。しかし女王は京を離れることを望み、はじめは近江永源寺に移り、最終的には大和国八嶋に草庵を営み円照寺門跡を開いた。数年後には八嶋から現在地の山村に再度移転している。
享年78歳。


文察女王(ブンサツ)
・生没年:承応3(1654)年~天和3(1683)年
・続  柄:(父)後水尾天皇、(母)典侍四辻継子
9歳で京の光照院に入り得度し尊賀と称した。その後円照寺に入り文察と改称したが第2代門跡を引き継ぐ前に薨去した。
享年29歳。


瑞光女王(ズイコウ)
・生没年:延宝2(1674)年~宝永3(1706)年
・続  柄:(父)後西天皇、(母)典侍清閑寺共子
9歳で慈受院に入り得度、慈受院門跡となった。その後、30歳で円照寺に移ったが、結局晩年は慈受院に戻ったという。
享年32歳。


文喜女王
(ブンキ)
・第2代門跡
・生没年:元禄6(1693)年~元禄15(1702)年
・続  柄:(父)霊元天皇、(母)典侍五条経子
生後間もなく文智女王の門弟となり出家。9歳で円照寺門跡となるが、その年の暮れに薨去した。
享年9歳。


文応女王(ブンオウ)
・第3代門跡
・生没年:元禄15(1703)年~宝暦4(1754)年
・続  柄:(父)霊元天皇、(母)後宮藤原氏
6歳で円照寺に入り出家、22歳で大聖寺に入り永応と称した。翌年には朝廷から紫衣を賜っている。
その後は円照寺に戻り第3代門跡を継いで、文応と改称した。晩年は前住宮に隠居した。
享年51歳。


文亨女王(ブンキョウ)
・第4代門跡
・生没年:延享3(1746)年~明和7(1770)年
・続  柄:(父)有栖川宮職仁親王、(母)二条淳子
円照寺に入り出家、第4代門跡を継いだ。
享年24歳。


文乗女王(ブンジョウ)
・第5代門跡
・生没年:寛政9(1797)年~弘化3(1846)年
・続  柄:(父)有栖川宮織仁親王、(母)不詳
光格天皇の猶子となり、11歳の時に円照寺にて出家。第5代門跡を継いだ。
享年49歳。


永皎女王(エイコウ)
・生没年:享保17(1733)年~文化5(1808)年
・続  柄:(父)中御門天皇、(母)掌侍久世夏子
生後間もなく大聖寺に入り出家、永応女王の門弟となった。9歳で大聖寺門跡となり朝廷から紫衣を賜った。
37歳で円照寺門跡も兼任し、享和元年に朝廷から70歳の御賀を受けた。
享年77歳。
薨去後に准三后を追贈された。


文秀女王
(ブンシュウ)
・第6代門跡
・生没年:天保15(1844)年~大正15(1926)年
・続  柄:(父)伏見宮邦家親王、(母)木村世牟子
7歳で円照寺に入り出家、第6代門跡を継いだ。24歳の時に明治維新となり、出家していた法親王等が相次いで還俗し宮家を創設したため、女王も伏見宮へ移籍となった。
しかし、戒律を守り仏弟子として過ごしたため、これを不憫に思った父邦家親王の許可を得て円照寺に戻った。その後は皇族最後の尼門跡として円照寺門跡を務めた。書、和歌に優れていたという。
享年83歳。



マップ


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