所在地:福井県福井市大手町
縄 張:輪郭式平城
城 主:松平氏
遺 構:天守台、櫓台、石垣、堀
文化財:なし
探訪日:平成23年(2011年)9月25日、平成27年(2015年)3月22日、
令和2年(2020年)7月23日
概要
江戸初期に結城秀康(徳川家康の二男)が築いた城。同地にはかつて柴田勝家の築いた北ノ庄城があったが、その跡地に重なる形で新城が築かれた。築城の最中に秀康は松平姓へと複し、徳川家親藩の城として相応しいように本丸や二の丸の縄張りは家康自身が行い、四層の天守も備えていた。なおこのころは勝家の城と同じく「北ノ庄城」と称していた。
三代忠昌の頃になると地名を北ノ庄から福井に改め、それに伴い城名も「福井城」とされた。以後松平氏が藩主を務めたが、江戸中期以降になると分藩や飢饉等によって藩政は逼迫した。しかし、幕末の藩主慶永(春嶽)によって藩政改革が行われ、立て直しを行っている。
維新後は廃城となり建物は取り壊されて、本丸以外の堀は全て埋められた。また、藩庁でなくなった後も県庁として機能し、現在でも福井県庁がおかれている。
(令和2年9月24日再編集。)
県庁・イン・ザ・キャッスルの一つですが、他の県庁が建つ城に比べて非常に保存状態は良い城跡です。
県庁の建物が高いため、見た目はイマイチですが、天守台を始めとした本丸の石垣、そして堀は見ごたえあり。
縄張り図
当時は本丸の周りを四重の郭で囲った巨大な輪郭式城郭だったようです。
足羽川の水を堀として取り込んでいるのも特徴。
で、これだけ広大な城域を誇っていましたが、現在は本丸が残るのみ。
天守台
本丸の北西隅にある巨大な天守台。
というか天守郭。
この天守郭一杯に天守が建てられていたわけではなく、内部に実際の天守台と控天守台というものがあります。
この控天守台の役目は不明ですが、片側がかなり窪んでいます。
これは福井大地震で崩れたため。
また、築城当時は四層五階の天守がありましたが、江戸前期に焼失し、以後は幕府への配慮等の理由により再建されませんでした。
復元図はこんな感じ。
天守台の横にも付櫓台があるため、控天守台の役割がやはり謎。
ちなみに天守郭の中には「福の井」と呼ばれる井戸があります。
これが福井の名の由来となったとのこと。
御廊下橋(復元・木造)
本丸の山里口御門前にある廊下橋。
廊下橋は普通の橋に比べ通行人を隠すという効果がある橋です。
山里口御門(復元・木造)
御廊下橋の奥にある枡形門。
平成29年に復元が完了しただけあり新しいですね。
ここは珍しく内側と外側の二重枡形になっている点。
御廊下橋を含め、天守台の直下の門ということで万全の防御力ですね。
また、屋根材として石瓦が使われているのも珍しいところ。
他に石瓦というと同じ福井県の丸岡城天守で使用例がありますが、やはり寒さ対策でしょうか。
瓦御門跡
これは城の南側。
現在は瓦御門跡から近代的な石の橋が架けられていますが、当時は木造の橋でした。
本丸巽櫓台
本丸の南東にある櫓台。
ここに建っていた巽櫓は古写真が残っており、三層櫓でした。
当初は二層櫓だったんですが、天守が焼失してから三層に改修され、天守代用として機能していました。
本丸坤櫓台
本丸の南西にあった櫓台。
北不明門跡
当時は枡形を形成していましたが、現在は石垣が取り払われただの平虎口に。。。
雁木積石垣
本丸内部にある石垣。
雁木積とはご覧のとおりの階段状の石垣であり、有事の際に狭間のある塀まですぐに登れるようになっています。
舎人門(木造・復元)
この舎人門は外郭の北に設けられた門で、福井市立郷土歴史博物館の脇に最近復元されました。
御廊下橋脇の塀の屋根もそうですが、福井城の瓦って赤瓦だったんですね。
この他、城域の南端にあたる柴田神社(いわゆる北ノ庄城跡)にも遺構が残っています。
百間堀跡石垣
百間堀はこの場所から福井駅を覆い本丸付近まであった巨大な堀でしたが、現在はこの痕跡を残すのみ。
また、石垣をよく見ると刻印が施されていますが、これは名古屋城や大坂城、金沢城といった巨大城郭でよくみるもの。
南西外堀跡石垣
日向門跡
先ほどの二つの堀に挟まれた場所にある食違い虎口の門跡。
左側の石垣に勝家さんが乗っていますが、この石垣も北ノ庄城のものではなく、この福井城日向門の石垣なのです。
県庁が置かれている割には本丸の保存状態が非常によく、本丸の他にも舎人門や柴田神社内の遺構等見どころ十分な福井城でした。
オススメ。
マップ
より大きな地図で 城 を表示
縄 張:輪郭式平城
城 主:松平氏
遺 構:天守台、櫓台、石垣、堀
文化財:なし
探訪日:平成23年(2011年)9月25日、平成27年(2015年)3月22日、
令和2年(2020年)7月23日
概要
江戸初期に結城秀康(徳川家康の二男)が築いた城。同地にはかつて柴田勝家の築いた北ノ庄城があったが、その跡地に重なる形で新城が築かれた。築城の最中に秀康は松平姓へと複し、徳川家親藩の城として相応しいように本丸や二の丸の縄張りは家康自身が行い、四層の天守も備えていた。なおこのころは勝家の城と同じく「北ノ庄城」と称していた。
三代忠昌の頃になると地名を北ノ庄から福井に改め、それに伴い城名も「福井城」とされた。以後松平氏が藩主を務めたが、江戸中期以降になると分藩や飢饉等によって藩政は逼迫した。しかし、幕末の藩主慶永(春嶽)によって藩政改革が行われ、立て直しを行っている。
維新後は廃城となり建物は取り壊されて、本丸以外の堀は全て埋められた。また、藩庁でなくなった後も県庁として機能し、現在でも福井県庁がおかれている。
(令和2年9月24日再編集。)
県庁・イン・ザ・キャッスルの一つですが、他の県庁が建つ城に比べて非常に保存状態は良い城跡です。
県庁の建物が高いため、見た目はイマイチですが、天守台を始めとした本丸の石垣、そして堀は見ごたえあり。
縄張り図
当時は本丸の周りを四重の郭で囲った巨大な輪郭式城郭だったようです。
足羽川の水を堀として取り込んでいるのも特徴。
で、これだけ広大な城域を誇っていましたが、現在は本丸が残るのみ。
天守台
本丸の北西隅にある巨大な天守台。
というか天守郭。
この天守郭一杯に天守が建てられていたわけではなく、内部に実際の天守台と控天守台というものがあります。
この控天守台の役目は不明ですが、片側がかなり窪んでいます。
これは福井大地震で崩れたため。
また、築城当時は四層五階の天守がありましたが、江戸前期に焼失し、以後は幕府への配慮等の理由により再建されませんでした。
復元図はこんな感じ。
天守台の横にも付櫓台があるため、控天守台の役割がやはり謎。
ちなみに天守郭の中には「福の井」と呼ばれる井戸があります。
これが福井の名の由来となったとのこと。
御廊下橋(復元・木造)
本丸の山里口御門前にある廊下橋。
廊下橋は普通の橋に比べ通行人を隠すという効果がある橋です。
山里口御門(復元・木造)
御廊下橋の奥にある枡形門。
平成29年に復元が完了しただけあり新しいですね。
ここは珍しく内側と外側の二重枡形になっている点。
御廊下橋を含め、天守台の直下の門ということで万全の防御力ですね。
また、屋根材として石瓦が使われているのも珍しいところ。
他に石瓦というと同じ福井県の丸岡城天守で使用例がありますが、やはり寒さ対策でしょうか。
瓦御門跡
これは城の南側。
現在は瓦御門跡から近代的な石の橋が架けられていますが、当時は木造の橋でした。
本丸巽櫓台
本丸の南東にある櫓台。
ここに建っていた巽櫓は古写真が残っており、三層櫓でした。
当初は二層櫓だったんですが、天守が焼失してから三層に改修され、天守代用として機能していました。
本丸坤櫓台
本丸の南西にあった櫓台。
北不明門跡
当時は枡形を形成していましたが、現在は石垣が取り払われただの平虎口に。。。
雁木積石垣
本丸内部にある石垣。
雁木積とはご覧のとおりの階段状の石垣であり、有事の際に狭間のある塀まですぐに登れるようになっています。
舎人門(木造・復元)
この舎人門は外郭の北に設けられた門で、福井市立郷土歴史博物館の脇に最近復元されました。
御廊下橋脇の塀の屋根もそうですが、福井城の瓦って赤瓦だったんですね。
この他、城域の南端にあたる柴田神社(いわゆる北ノ庄城跡)にも遺構が残っています。
百間堀跡石垣
百間堀はこの場所から福井駅を覆い本丸付近まであった巨大な堀でしたが、現在はこの痕跡を残すのみ。
また、石垣をよく見ると刻印が施されていますが、これは名古屋城や大坂城、金沢城といった巨大城郭でよくみるもの。
南西外堀跡石垣
日向門跡
先ほどの二つの堀に挟まれた場所にある食違い虎口の門跡。
左側の石垣に勝家さんが乗っていますが、この石垣も北ノ庄城のものではなく、この福井城日向門の石垣なのです。
県庁が置かれている割には本丸の保存状態が非常によく、本丸の他にも舎人門や柴田神社内の遺構等見どころ十分な福井城でした。
オススメ。
マップ
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赤瓦だったんですね。
赤瓦は普通の素焼きの黒瓦と違って釉薬を塗って焼くので、表面に気泡が無いので冬季の水分の膨張による破裂が抑えられますので、石瓦も寒冷地対応なんでしょうね。