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1: 日本@名無史さん 2010/12/17(金) 08:12:22
戦国板で、豊臣家が徳川家康を挑発したから、
大坂の陣は起こったという主張があります。

実際は、どうなんでしょうか?








3: 日本@名無史さん 2010/12/28(火) 18:49:36
>>1
そのとおりです。タヌキオヤジに大阪方は嵌められたのです。

4: 日本@名無史さん 2010/12/28(火) 19:05:11
それより大阪の役はどうすれば豊臣方は勝てたんだ?
関ヶ原なら西軍は裏切りがなければとか、秀頼よりを無理やり出馬させれば勝てたんだろうけど
大阪の役の豊臣勝利はやっぱ無理ゲーなん?

5: 日本@名無史さん 2010/12/28(火) 20:10:25
堀を埋めなければ負けなかった。

17: 日本@名無史さん 2011/01/28(金) 18:41:43
>>5
家康は豊臣方が埋めた堀を掘り返したのを見て
宣戦布告であると言って出陣、滅ぼしてるからね。
どの道力づくでも堀を埋める気だった。
ちなみに、大阪城攻略法として秀吉が冗談で言っていたのを
家康が覚えていて秀吉の言葉によって息の根を止めたともされている。

7: 幸村 2011/01/10(月) 08:28:39
大坂方は、真田幸村とかが色々作戦出したけど
それが実行されなかったのが勝敗の原因らしいです。
その理由は大坂方は関が原の戦いなどで流された牢人の集まりだったから
信頼とか絆?を築く時間がなく、案を出しても大野治長ら(秀頼の家来)に
信用されず受け入れられなかったってことです。

11: 日本@名無史さん 2011/01/10(月) 23:14:22
>>7
その城外出撃策なるものはなかったという説聞いたことあるが。
あったとしても当時の情勢を分析すると結局籠城戦が一番現実的だったと。

14: 日本@名無史さん 2011/01/20(木) 12:51:44
出撃説って本当にそう主張したのかどうかが怪しい。
周りが全部的なのに出撃は無謀だろ。
篭城策を取ったのは当然だ。

8: 日本@名無史さん 2011/01/10(月) 09:33:55
アホな妾の淀が外交もいくさもむちゃくちゃにして豊臣家を沈没させただけ。それ以上でも以下でもない。
権力者の妻妾が政治に口出しして国を傾ける例なんていくらでもあるじゃん。その一例に過ぎんよ。

12: 日本@名無史さん 2011/01/11(火) 02:13:05
豊臣方は最低でも指揮系統の統一が必須だろうな
そうなると総大将には豊臣譜代の家臣にも大きな影響力があり、かつ浪人衆も納得するような百戦錬磨の武将
となると既に死んでる加藤清正か、福島正則あたりが良かったんだろうけど、
現実的に八丈島から宇喜多秀家を連れてきて総大将になってもらうのが一番現実的だったかな

13: 日本@名無史さん 2011/01/11(火) 21:48:07
福島なんかすでに徳川の犬じゃんか。

32: 日本@名無史さん 2011/01/29(土) 06:46:55
前田みたいに徳川政権にヘイコラ言ってたら、秀頼も大大名のままでいられたかもしれないけどね。
所領は既に摂河泉の大部分にまで削られてたわけだし。

9: 日本@名無史さん 2011/01/10(月) 10:46:04
家康が豐臣家を滅ぼす意図を固めたのは、冬の陣あたりからだろう

42: 日本@名無史さん 2011/02/02(水) 20:31:26
家康は関ヶ原で豊臣家を66万石の大名にまで落とした。
それでも飽き足らずにさらに淀の人質や
秀頼の領地がえを要求していたのだから
生かしておく気だったという理論の方が難しいだろう。
同じく徳川の姻戚であった加賀前田家は100万石を許しているのに
豊臣は66万石でも駄目なわけだ。

45: 日本@名無史さん 2011/02/02(水) 21:36:06
>>42
大坂は上方でしかも経済的にはドル箱の港湾都市だからな。
そんなところに潜在的な敵を大藩のままで置くわけないじゃん。
だから家康は九州に移そうとし、淀君は拒んだ。
それだけの話だろうに。

46: 日本@名無史さん 2011/02/02(水) 21:58:12
>>45
秀頼の転封地は大和じゃなかったっけ?
九州って、誰を動かしてねじ込むの?
大坂から出ていけば残してやるってもんでもないだろうに。
豊臣も女系まで根絶やしにしている。

47: 日本@名無史さん 2011/02/02(水) 22:00:25
淀がヒステリーとか言ってる人って、
司馬遼太郎の小説の読み過ぎじゃないかな?
秀頼のもとには淀のほかにも織田家やら石田やら
毛利やらいろいろな旧臣たちがいてその総意だったろうに。
23歳にもなった秀頼が意見も言えないぼんくらだったというのも
小説家が造り上げた妄想だろ。
悪いことは全部淀に押し付けるという。

52: 日本@名無史さん 2011/02/02(水) 23:09:15
テレビドラマ真田太平記では淀はヒステリックだが綺麗な女に演出されていたよ

55: 日本@名無史さん 2011/02/03(木) 20:13:08
>52
淀をバカだ阿呆だと言う奴が多いけど、相手は歴戦の兵の家康だよ
たいていの参謀がついていても勝ち目は薄い。
冷静に考えたら、実戦を指揮したことのなり淀が指揮して、少しは
家康の肝も冷やさせた戦いなのだから、彼女は有能だったと思う。

56: 日本@名無史さん 2011/02/03(木) 20:59:11
>>55
大坂城という天下の名城にいて真田信繁や後藤又兵衛といった大将を擁し、十万の兵を集めたが、
城攻めが苦手な家康の調略の標的となって騙され堀を埋められ、そのまま落城。
実質的な総指揮官が淀じゃなくて物言えぬ石ころならもっと戦えたのに。

57: 日本@名無史さん 2011/02/04(金) 19:43:25
>>56
あれは家康がだましたんでしょ。
一方的かつ強引に堀を埋め、大坂方がこれを掘り返したら
徳川に対する宣戦布告だといって一気に秀頼と淀を殺した。
家康は前々から秀頼を殺したかったが、大阪城内にいて
それが果たせなかっただけ。
むしろ大阪城が血気盛んな男の城だったら、
もっと早くに秀頼は家康に殺されていたはず。

58: 日本@名無史さん 2011/02/04(金) 19:48:34
>>56
家康は関ヶ原で西軍についた連中を徹底的に粛清して、
豊臣を除く日本国中の大名を家康配下においた。
大阪城冬の陣の時点で、城持ち大名はすべて家康に味方している。
その状況で、関ヶ原で粛清された浪人たちが勝つのが無理なんだよ。

で、豊臣は家康に生きるも死ぬもお好きにどうぞ、
と首を差し出すくらいなら、と徹底抗戦に臨んだ。
戦国時代、大名は必ず降伏さえすれば命を助けてもらえるとか、
大名として扶持してもらえるとか、天下を渡してでも降伏するべきだったとか、
そんなの一概に言えないでしょ。
家康がたまたま誰にでも降伏して運よく生き残ってきたというだけで
特に恨みのある豊臣に対しては大恩に報いたとも思えないし
名誉の死を選ぶ大名はいくらでもいたのだから。

60: 日本@名無史さん 2011/02/04(金) 20:20:35
>>58
>家康は関ヶ原で西軍についた連中を徹底的に粛清して、

首謀者程度しか粛清していないから大坂城に真田や長曽我部が入ったわけだ。処刑したのは
石田と小西くらいで、他の大大名に対して家康がやったのは単なる領地召し上げ。宇喜多でさえ
島流し、真田親子でさえ高野山追放で済んだ。

>家康がたまたま誰にでも降伏して運よく生き残ってきたというだけで
>特に恨みのある豊臣に対しては大恩に報いたとも思えないし
>名誉の死を選ぶ大名はいくらでもいたのだから。

大恩には報いないよ。家康が大名内の世論を慮って将軍徳川家への従属を申し入れた豊臣家を
処遇するとしたら、秀吉が織田に対してやったこと程度に扱うのがふさわしい。旧主をその程度に
冷遇する前例はわざわざ豊臣家が作ったわけだし、従属を申し出た相手を殺しては天下人としての
人徳が疑われ、他の大名の猜疑心を生む。

59: 日本@名無史さん 2011/02/04(金) 20:00:56
生き残りたいなら大阪捨てて田舎へ引っ越しするか
いっそ領地を捨てて家康から2万石くらいもらって公家になるとか
完全に公家化する前提なら清華くらいの家格でも承認されたと思う。

61: 日本@名無史さん 2011/02/04(金) 20:22:08
>>59
家康は別に武家であっても許したと思うけどね。大坂城にいることをどうしても無視できなかっただけの話。

62: 日本@名無史さん 2011/02/04(金) 20:27:18
家康に右大臣家を滅ぼす理由はあるよ
乱世の種は摘まなくてはならないから

64: 日本@名無史さん 2011/02/04(金) 20:39:37
>>62
一度いくさになればね。国松が殺されたのはいくさにまでなったために徹底的に滅亡させる
大義名分ができたから。
しかし、せっかく10年以上もいくさがなかったところに大いくさを起こすこと自体が
体制側にとってはより大きな乱世の種になる。いくさは技術だから行われなければ
技術が廃れていって反乱を起こせなくなる。そこにわざわざいくさを起こそうってんだから。

74: 日本@名無史さん 2011/02/05(土) 08:02:32
俺も家康は何があっても豊臣家を滅ぼすつもりだったと思うよ

ただ、大阪からの転封に応じるなどして時間稼ぎしていれば
家康の寿命が尽きて逃れれたかもしれんが
それでも家光くらいまでに滅ぼされてたかもな

あの官位であの石高、さらに豊臣恩顧の大名の存在
目障りすぎるでしょ

75: 日本@名無史さん 2011/02/05(土) 08:41:57
>>74
恩顧なんて、既に目の前で豊臣が滅ぼされても逆らえないくらい無意味なものになってるし、意にそぐわず従軍してる大名も、むしろ豊臣を生かしておいた方が逆らいにくくできる。徳川にとって豊臣が目障りなのは、立場不相応の拠点を有しているからに過ぎない。

反徳川の盟主として担がれる懸念については、むしろいくさが廃れれば自然消滅する。わざわざいくさを自分から行っては懸念材料を増やすようなものだ。徳川の世が続けば、反徳川の盟主として豊臣の存在感は薄れるしね。なにしろ天皇に将軍として認められた家柄だし、豊臣は織田から政権を簒奪した歴史があるから、同じことをしただけの徳川を悪として批判するいわれはないしね。
心情で豊臣びいきの大名たちも、道理でなく秀吉個人への忠誠心でしかないから。何度でも繰り返すけど、その秀吉は主君の織田から政権を簒奪したんだよ。

政治的決着は関ヶ原の段階でついていた。それを受け入れなかったのは加藤清正くらいかもな。

76: 日本@名無史さん 2011/02/05(土) 08:47:29
>>75
家康がいい人で、将来の戦乱のもとになっても秀頼を生かしておくつもりだったというのは、
それこそ小説をもとにした妄想にすぎないよ。

それくらいに家康は天下を欲していた。
たとえ自分が天下をあきらめても秀頼様を生かしておく、
なんて人間じゃないんだって。

79: 日本@名無史さん 2011/02/05(土) 09:11:54
>>76
既に天下取ってるし、秀頼を生かすか殺すかはいい人か否かでなく、政治的事情で決まる。人情で大勢力の扱いを決めたら秀吉の二の舞だ。秀吉ですら必要に迫られて行っただけの選択だというのに。

96: 日本@名無史さん 2011/02/05(土) 10:33:25
徳川慶喜はさっさと新政府に降伏して体力を温存しようとした。
しかし、逆に腰ぬけのように言われるんだよな。

新政府は意図に反して慶喜の体力温存は認めなかった。
雄藩体制を否定して徳川家を無力化、
徳川家は辞官納地を命じられ、
慶喜は隠居、徳川家家督も別の家に移った。
慶喜はその後60年間趣味のカメラに生きただけだった。

97: 日本@名無史さん 2011/02/05(土) 11:15:15
でも徳川家は存続したな、しかも公爵位

100: 日本@名無史さん 2011/02/05(土) 13:39:31
>>97
慶喜が公爵になったのは明治35年だよ。
それまでは無位無官で明治政府によって、
ひたすら静岡に監禁されていた。
明治35年、すでに幕臣の多くが死に絶え、
明治天皇の恩情によって奇跡的に監禁を解かれたときには、
慶喜は感激して自分の葬式は明治天皇をあがめる神式で行えと言ったくらいだ。

115: 日本@名無史さん 2011/02/06(日) 07:57:00
徳川が豊臣を潰しにかかったのは、「前代覇者だから」ではなく、「大坂の大大名だから」だ。
軍事政治的にも経済的にもこの状態での共存はありえない。

168: 日本@名無史さん 2011/02/18(金) 22:22:18
真田丸ってさ、秀吉が大坂城に最初から作っとくとかすればいいのに

まあ、それじゃ警戒されて効果半減かも知れないけど、
速攻で作れる仕掛けとかあったら面白いのに

169: 日本@名無史さん 2011/02/18(金) 22:42:57
>>168
大坂冬の陣講和の時、真田丸は東軍に破却される前に解体して、大坂城に収納したから、
作る方もすぐできるだろう。

170: 日本@名無史さん 2011/02/18(金) 23:04:38
徳川家康は何度も大坂城に入り実際に居住したこともあって
秀吉築城の大坂城を熟知してたんだよね。
大坂城を攻めるなら外堀を埋めることだと城普請に定評のある秀吉が
家康に冗談で言ったら家康にそれを実行されて豊臣家が滅んでしまったとも言う。
秀吉が築いた伏見城も秀吉死後はなぜか家康の居城に乗っ取られてるし。
つくづく、秀吉が家康と言う不気味な男を信用しすぎたせいで滅んだんだと思うわ。
家康って信長の同盟者時代からいろいろ言われてたけど
(本能寺へ向かった光秀の雑兵が家康を討ちにいくと思ってたとか)
不思議と信長にも秀吉にも殺されなかったんだよね。

171: 日本@名無史さん 2011/02/19(土) 07:33:39
>秀吉が築いた伏見城も秀吉死後はなぜか家康の居城に乗っ取られてるし。
>つくづく、秀吉が家康と言う不気味な男を信用しすぎたせいで滅んだんだと思うわ。

家康がやったことは秀吉が信長の一族にやったことと同じだよ。大大名の信雄が移封を拒否して
放逐されたようなもん。豊臣みたいに徹底抗戦の構えを見せていれば信雄も滅ぼされていたことだろう。

>不思議と信長にも秀吉にも殺されなかったんだよね。

信長には表立って逆らうことがなかったからな。そろそろ統一には邪魔な存在になりつつあったが、従う従順な同盟者を滅ぼすと悪名が広まって統一がやりにくくなる。信長が生きてれば徳川征伐もやったかもしれんが。あるいはその前に徳川が所領を自ら削って臣従するかもね。
秀吉には徹底して力を誇示しつつ形だけ従属してただけ。武力でも政治力でも排除が難しかった。

177: 日本@名無史さん 2011/02/19(土) 08:44:04
>>171
家康は秀吉に臣従すると、秀吉の母を返し、
代わりに自分の息子を秀吉の人質に送りつけている。
秀吉の北条攻めでも家康は辛い先陣を率先して勤めている。
家康が秀吉に臣従する様子は信長のときと同様で、
秀吉は家康の力があまりに強いので
政治的にも武力敵にも排除できなかったというのは違う。
秀吉は人質を送り、先陣を勤め、秀頼の叔母を後継者の正室とした家康を信頼。
秀頼の姻戚として親友の前田利家とともに実質徳川家康に秀頼を託した。
託されておいてそれを裏切るというのは
秀吉が織田家に対してやったこととはまったく違う。
秀吉は織田家の内紛に乗じて政権を取ったが(内紛している織田家も悪い)、
家康は秀吉から託された正統な後継者である秀頼を殺してしまったのだから。


227: 日本@名無史さん 2011/02/26(土) 14:30:15.51
>>1
積極的に「ファック・ユー」みたいな挑発したわけではないが、
臣従しなかったのは一種の挑発とも言えると思う。

家康の言うとおりにしていれば、少なくとも家康の時点での徳vs豊はなかった。
その後はどうかは知らんが上手く立ち回れば取りつぶしもなかったと思う。

最終的には10万石ぐらい←テキトー

229: 日本@名無史さん 2011/02/26(土) 21:26:27.04
籠城戦で勝利しても得る土地もないのに、
浪人どもが豊臣に同調したのが不思議だ。

232: 日本@名無史さん 2011/02/27(日) 06:50:24.75
>>229
名を挙げて死ぬのが武士というものだ。後藤又兵衛とかは大喜びで死に場所を見定めてやってきたことだろう。
それに、摂河泉の土豪も結構入ってたようで、俺の祖父の生まれ故郷にもそういう人間がいる。つーか俺の先祖自体が城に入ってて、落城後に土豪を頼って村に至り帰農した可能性がある。

237: 日本@名無史さん 2011/02/27(日) 12:36:36.24
>>229
今の就職難と同じだからだろ
今だと派遣切りされてもまた派遣?って感じだろ
豊臣に行くしか就職の可能性がない

239: 日本@名無史さん 2011/02/27(日) 14:02:53.81
>>229
大阪に入城すれば食べれるから

241: 日本@名無史さん 2011/02/27(日) 21:20:18.58
浪人が豊臣に与した理由が>>237>>239がいう程度なら
戦意は極めて低いよな。
だらだらと長引けば長引くほどいいわけだ。
前線なんてとんでもない。

242: 日本@名無史さん 2011/02/28(月) 11:11:56.21
手柄を上げればどっさり貯めてある金銀財宝で褒美がもらえるけどね

243: 日本@名無史さん 2011/02/28(月) 12:54:35.40
真田信繁の首を取って「やった、三万石だ!」みたいなやつか

244: 日本@名無史さん 2011/02/28(月) 20:50:14.65
「やった三万石だ!」って真田幸村の首を取れば万石の分限になれると思ったのに家康に評価されず万石の夢は脆くも崩れた加賀か越前の武士だよね?

246: 日本@名無史さん 2011/03/01(火) 14:26:13.91
>家臣として秀頼を盛り立てるという誓詞もだしてるし

室町将軍を追放した織田を乗っ取った豊臣が、
そんな紙切れに効果ないのはたぶん一番知ってる。

250: 日本@名無史さん 2011/03/01(火) 16:30:30.88
征夷大将軍就任で切れました

251: 日本@名無史さん 2011/03/01(火) 17:07:27.96
>>250
将軍就任では主従関係は切れないだろうw
実際に諸大名は、家康の将軍就任後も大坂と江戸に参勤しており
家康も一時的に政権を預かっているというフリをしていたので
秀忠の将軍就任後も毛利や伊達の書状では、いずれは秀頼が成人して関白になり
政権をとるだろうという観測が書かれている
秀忠が将軍になった時、秀頼の官位も昇任し、秀忠より上位になった
その後、京で秀頼と対面した時、家康は対等の礼を望んだが、秀頼は拒否してるw

252: 日本@名無史さん 2011/03/01(火) 17:34:49.72
>>251
それはただの噂、イギリス商館長も日本の噂は参考にならないとしている
秀頼の拒否は豊臣家側の都合なだけ

261: 日本@名無史さん 2011/03/02(水) 01:57:22.62
>>252
うわさというか、伊達政宗が家康側近の今井宗薫に宛てた書状でも
いかに太閤秀吉の子であっても、能力がないなら、二三ヶ国を与えて存続させればよいとあり
毛利輝元の国元宛ての書状でも、秀頼が関白になるらしいと書かれている
なので秀頼が関白に任官し、関白型の公儀体制に戻ると思われていた
家康は将軍は武家の棟梁なので大名が臣従するのは当然だが、
関白型の公儀を継ぐべき豊臣家への忠誠心とは矛盾しないと
豊臣恩顧大名には説明してだんだろう

265: 日本@名無史さん 2011/03/02(水) 08:10:12.27
>>261
もしかすると秀頼の関白任官の動きが水面下で起こっていたか
そのような動きがいつ生じてもおかしくない情勢で
想像以上に豊臣家が政治的、経済的に弱体化してないことに
家康は危惧を抱き、あのタイミングしかないってことで征伐したのかもね
秀頼との会見がきっかけとの指摘はその通りだが
それ以外に京で実感した豊臣の公家衆らへの存在感とかね

267: 日本@名無史さん 2011/03/02(水) 14:17:12.83
>>265
自分の死期が近いとわかって、徳川家の存続(不安要素の除去)
しか眼中になくなったんだろう、徳川幕府体制は作ったものの、
豊家は、その幕藩体制外で、家康が死ねば、朝廷への抑えもきかなくなる。
実際、十万規模の浪人を抱える経済力もあるわけだしね。
(最近では、家康が分配してしまったものもあるが、三カ国以外にも
まだかなりの蔵入地[大和・讃岐など]が残っていたことが判明してる)

253: 日本@名無史さん 2011/03/01(火) 17:37:49.54
豊臣があくまで権威で上位に立とうとしたから下克上でフルボッコされたと言いたいわけだな。
そこまで政治感覚がなければそりゃ滅ぼされるわw

261: 日本@名無史さん 2011/03/02(水) 01:57:22.62
>>253
上位に立とうとしたというか元々上ですよ
主従関係が切れてないのは二条城での会見でも明らかで
「徳川実記」によると、家康は秀頼が到着すると、わざわざ庭まで出迎え上座に案内
帰るときは玄関まで秀頼を見送っている
毎年の年賀には、関白を初め、親王なども大坂城に訪れ、秀頼に祝いをのべていた(大坂の陣の年まで)

268: 日本@名無史さん 2011/03/02(水) 14:43:24.98
豊臣が関白になろうと、武力がないなら武家政権に抑えられるのは、数百年の戦国の世を経ている人間なら誰もが理解できること。それをあえて実権まで握ろうとしたら武力で排除されるのは当然。後鳥羽上皇や後醍醐天皇のように。
家康が死ぬまで状況を維持する政治力がないんだから、徳川が戦いを仕掛けないという都合のいい思い込みで構えていたら滅ぼされるのは当然。つーか豊臣は武家の力を弱めようとする朝廷の工作に踊らされてただけじゃないのか。官位が秀忠より秀頼の方が上だっていうのならね。

269: 日本@名無史さん 2011/03/03(木) 01:51:48.61
>>268
武力は実際にあるし、関白になるとすれば、秀吉のように武家関白になるわけだ。
家康ですら、あやうく義元の二の舞になりかけたわけで、家康が死んでたら結果はわからんw。
また、朝廷の工作というか、秀吉在世当時からの豊臣>徳川を変えてないだけで
家康自身が、諸大名に幕府に従うという誓詞(三か条の誓詞)を差し出させた時にも
豊家は、その対象になってない(誓詞を求められてない)
朝廷、徳川とも豊家を上位として扱っていたわけで
秀忠は将軍就任時内大臣になったが、秀頼も同時に昇進し、より上位の右大臣になっていて
そのご機嫌伺いに前田や島津、上杉、その他、豊臣恩顧大名が多数大坂城に行っていた。
千姫の輿入れの際にも、諸大名が多数大坂城に参集して祝ったが、
その際、福島が主導して、密かに秀頼さまに異心なき旨の誓詞をしたためたという噂がたったw。

273: 日本@名無史さん 2011/03/03(木) 09:31:39.14
大坂の陣の時点で大坂方にはまともな政治家がいないだろ。
武力の問題だけでなく、早晩政権は崩れる。
オンナやコネ出世の大野が威張っているようではどうにもならい。
本多がいるか? 土井がいるか? 酒井がいるか?


274: 日本@名無史さん 2011/03/03(木) 09:46:59.92
>>273
政治力のないトップは担ぎやすいから新たな火種になる。
征夷大将軍に任じられた徳川家が積極的に火種を排除するのは当然。
それが朝廷から課せられた義務だ。
その程度の判断させ出来る奴がいないなら、豊臣滅亡は既定路線。

281: 日本@名無史さん 2011/03/03(木) 16:54:14.73
>>274
そのトップ(秀頼)を補佐するのが家康の役目
秀頼の家老として前田や徳川がいたわけで、関ヶ原で、他の家老(毛利・上杉)を追い落とし
無二の家老になったが、やがて、「私、将軍になりますけど豊家は別格です」と将軍になり
当初は諸大名にも大坂に参勤させ二重公儀体制を認めてたが、とうとう逆臣となり主君を滅ぼす
秀吉の場合は、重臣会議(清州)で、柴田の押す信孝でなく三法師を家督に推挙、
三法師を生涯優遇した秀吉とは大違い

275: 日本@名無史さん 2011/03/03(木) 11:07:39.45
豊臣が徳川に譲歩すれば秀頼は殺されなかったというのは言い過ぎだろうな。
老醜の家康が鐘銘事件をでっちあげてまで秀頼殺害に躍起になった。
関ヶ原で西軍についた大名たちを家康は自在に
領地を取り上げたり高野山に追放したりしており、
現実に、関ヶ原の後、豊臣家減封にも成功している。
つまり、家康がその気になれば秀頼を減封の上生かしておくこともできたが、
あえてそれをしなかったということだ。

279: 日本@名無史さん 2011/03/03(木) 16:19:55.63
>>275
>つまり、家康がその気になれば秀頼を減封の上生かしておくこともできたが、

だから、豊臣側がその気にならなかったから力押しせざるを得なかったと言ってるんだよ。
豊臣は諸大名を頼りにしてただろうし、それらが全て徳川についたのを見せられてさえ
降伏しようともしなかった。おかげで律義者で通っていた家康は晩節を汚すはめに。

292: 日本@名無史さん 2011/03/03(木) 21:16:51.98
秀頼が大坂城退去に応じていたら、
大和郡山で20万石くらいの待遇は受けられたのかな?

294: 日本@名無史さん 2011/03/03(木) 22:43:41.98
>>292
伊勢か大和の一カ国
国替えに応じれば、秀頼が家康に臣従することを意味するので
それなら家康にとっては万々歳
戦になれば、どんな事態になるかわからない(実際に義元のように首を取られかけた)
ので、なるべくなら不要な戦はしたくない

299: 日本@名無史さん 2011/03/04(金) 14:53:33.45
大阪の陣前夜の秀頼の態度は、織田包囲網を形成した足利義昭の態度に近い。
自分は敵対勢力に対して軍事的に無力なのに、権威を笠に天下太平の世の成立を遅らせた。

後の世の視点では、これほど迷惑な存在もなかろ。普通は孝明天皇のようになるのがオチだ。

319: 日本@名無史さん 2011/05/31(火) 18:40:47.75
これ、右大臣と内大臣の戦いなんだっけ?

321: 日本@名無史さん 2011/05/31(火) 20:02:40.44
>>319
豊臣秀頼は大坂の役の頃には官職を辞していた
一方大坂の役のときの徳川秀忠の官位は右大臣

343: 日本@名無史さん 2011/10/23(日) 09:57:04.96
裸城になれば終わりだとわかっていて、なんで濠を埋めさせたの?

349: 日本@名無史さん 2011/11/05(土) 16:56:54.03
>>343
最後まで、豊臣が意のままに動かなければ、家康が本気で豊臣を潰す覚悟だとは理解できなかったから。
幕府にとって自分自身が危険すぎる存在と自覚できず、圧力を加えられて自己防衛のために浪人を山ほど雇い、攻められて大幅譲歩を受け入れ、それでも戦略拠点の大坂から動かなかったから言い掛かりをつけられて排除された。

大坂城を実質的に仕切っていた淀や取り巻きの女どもは単なるバカ。鉄砲構えていながら、警察に撃つな撃つなと泣き言言ってるようなもん。

350: 日本@名無史さん 2011/11/15(火) 12:27:51.26
「秀吉亡き後、秀頼を支えるように」
ということで定められた「五大老」制度は、いつ廃止されたのですか?

どうしても「大坂の陣」の大義名分がわからない。
諸大名は、こんなことでよく徳川についてゆく気になれたもんだ。
「筋が通らない」と思った者はだれもいなかったのだろうか?

351: 日本@名無史さん 2011/11/15(火) 12:37:02.06
>>350
五大老制度は秀吉没の翌年早くも秀吉の盟友前田利家が病没し
関ヶ原の合戦で事実上崩壊だな

関ヶ原は豊臣家家臣団の分裂を利用して家康が勝たせていただいただけなので
結局主君である豊臣秀頼を殺せなかった
この教訓から大阪の役で家康は豊臣の息がかかった大名は一切呼ばずに
徳川家血族と譜代大名(三河時代からの家康直臣)だけで戦ったはず

364: 日本@名無史さん 2011/11/15(火) 21:42:58.85
>>351
いや、大坂の陣には真田の兄ちゃんも伊達も毛利も上杉も参戦してるだろ。
来んな、って言われたのは福島正則ぐらいのもの。

そもそも五大老制度ってそれほどカチッとしてものでもないんだよね、もともと。
秀吉自身が、利家が大坂で秀頼を後見し、家康が伏見で政務をとれ、と言い残してる。
で、豊臣家の天下の実務は五奉行が担ってたんだから、五大老の家康以外が
政務に関する判断をしなくちゃいけないケースって何?って話。

利家と家康が険悪になりかけた、徳川と諸大名の婚姻問題についても、「政務は家康
がとる」という太閤の遺言に従えば、「政務」である大名家の婚姻を家康の判断で
行なっても問題ない、とも言えるのさ。
まぁ、毛利・上杉・宇喜多にしてみれば、五大老なのに無視しやがって、と感情的に
面白くなかっただろうけど。

豊臣の天下のシステムの崩壊は五大老の消滅よりも、五奉行の消滅だと思う。
五奉行の消滅で豊臣家には天下を治める事務遂行能力が無くなった。
片桐且元はそれなりに優秀だが、天下すべての統治を行えるほど優秀では
勿論無い。
豊臣家に天下を治める能力がなくなり、徳川家の官僚団が引き継いだ、関ヶ原後が
実質的な徳川家の天下の始まりだと思う。

365: 日本@名無史さん 2011/11/16(水) 10:38:39.89
>>364
真田は徳川家康の娘(養女)婿で家康の義理の息子。
伊達政宗は徳川家康の息子を娘婿に迎え徳川忠輝の岳父となっている。
いずれも徳川家康の血族だよ。
上杉景勝は召集がなかったにもかかわらず関ヶ原で家康に敵対したことに対する弁明のために
家康に「どうか味方に加えていただき、豊臣家滅亡に加担させてください」と起請文を提出。
半ば強引に兵を率いて上洛し、勝手に家康に参陣した。
大河ドラマで直江兼続が千姫救出をしているので上杉が大坂城攻めしたと思ってる人が多いが
実際に上杉軍が陣取ったのは後方部隊で当時京都八幡山におり、大坂城は攻めていない。
当然上杉景勝や直江兼続が大坂城の千姫を救出するはずもない。
大坂城攻めをしていたのは徳川家血族と譜代大名。

367: 日本@名無史さん 2011/11/16(水) 22:21:45.51
>>365
いや、あのな。
嫁もらったからには徳川一族、なんて分け方初めて聞いたぞ。
それだけで全面的に信頼できるんなら、そもそも秀頼自体が
信頼できる徳川シンパってことになるじゃねえか。
無茶だろ、それ。

将軍家からもらった娘が外様大名の子供を生んだら、
次の代は親藩扱いになるわけ?

370: 日本@名無史さん 2011/11/17(木) 18:56:53.69
>>367
家康も秀吉存命中は豊臣一門みたいな顔してたぞ
豊臣家の嫁貰って
大坂城攻めには前田みたいな外様は呼ばれてないし

371: 日本@名無史さん 2011/11/17(木) 19:21:53.50
>大坂城攻めには前田みたいな外様は呼ばれてないし

なんで息するように嘘をついてのけるかなあ。


Osaka_no_eki_winter


372: 日本@名無史さん 2011/11/18(金) 10:24:27.10
真田幸村「だから宇治・瀬田で防げとあれほど言ったのに。」

374: 日本@名無史さん 2011/11/18(金) 19:15:53.55
防ぐってよりも野戦にしなかったら絶対負ける。
全戦力で野戦を挑めば勝ち目がないわけでもなかろうに。
一度勝って畿内を固めることができれば風向きが変わったかもしれん。

375: 日本@名無史さん 2011/11/19(土) 15:22:13.57
秀頼公が前線に御出馬されたらどうなっていたかな?
徳川方諸大名にも動揺が出たかも知れないのだが。

376: 日本@名無史さん 2011/11/19(土) 15:27:37.66
信長の子供も失敗したんだし
実力が無きゃ駄目なんじゃね。

377: 日本@名無史さん 2011/11/19(土) 15:37:46.53
>>376
秀忠vs秀頼だったら正直秀忠が上だとは思えんが。
当時は家康が死ねば秀頼>秀忠ってのは皆が思っていたのでは?

378: 日本@名無史さん 2011/11/19(土) 15:56:39.29
個人よりも組織
豊臣家の組織はカスだが、幕府は幾十幾百の手足を持つ化物

383: 日本@名無史さん 2011/11/23(水) 14:02:23.90
冬の陣で1年間篭城したらどうなったかわからんよ。

384: 日本@名無史さん 2011/11/23(水) 16:04:53.48
士気が落ちて
裏切り内通が現れ
オシマイ

385: 日本@名無史さん 2011/11/24(木) 08:19:45.19
>>384
それは徳川方も同じ。果たして兵糧が続いたかどうか。

387: 日本@名無史さん 2011/11/24(木) 09:24:58.50
>>385
11月28日に小堀政一に命じて蔵米8万石と豊臣氏の没収知行米5万8千石を兵糧とするように命じている

386: 日本@名無史さん 2011/11/24(木) 09:12:13.72
自分の領地にいても、大坂城を囲んでいても、飯は食う。
徳川方は半数ずつ兵を帰してもいい。
籠城している豊臣方がきつい。

391: 日本@名無史さん 2011/11/24(木) 16:34:49.17
冬の陣では大坂方は兵糧はともかく、火薬は欠乏していた

392: 日本@名無史さん 2011/11/24(木) 16:54:33.22
城下町を焼かれた後、民は城を出入りして物を売っていたというけどね。
誤解の果てになし崩しに城を囲む形になったってことを徳川側が演出してたから。

394: 日本@名無史さん 2011/11/24(木) 19:23:26.24
小田原城攻めより簡単。
延々と大砲撃ちこむだけで城は壊れるし。
豊臣方の主戦力は知行持ちじゃなくて傭兵だから秀頼以外助命するといえば
上層部はともかく下のほうは最後まで戦わんだろ。

396: 日本@名無史さん 2011/11/26(土) 11:40:24.27
>>394
夏の陣で豊臣方の方が士気が高かったことは周知の通り。
彼らは行き場のない浪人であったために集まった手負いの虎
調略もしくは降服をするはずがない。
また夏の陣後の残党狩りは凄まじかったことも文献残ってますね。

397: 日本@名無史さん 2011/11/26(土) 17:16:40.62
逃げ延びた浪人も多いけどね。いつまでも浪人狩りが続いたってことは、瞬殺できず逃げるチャンスがいくらでもあったことを示している。行き場がなくていつまでも大坂にいたから狩られたんだ。

俺の先祖も大坂城に入っていて、豊臣の蔵入り地の土豪と仲良くなったおかげで助かったようだ。

399: 日本@名無史さん 2011/11/27(日) 17:57:46.35
福島正則が「あと三年早いか、三年おそければ勝機はあったろう」と
吐いたのが痛いほど正論すぐる

引用元: 「大坂の冬の陣、夏の陣」







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