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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/19(金) 15:16:24 ID:/dny6RAj0
劉備(161 - 223年、在位221 - 223年)は、東漢末期から三国期にかけての武将で、蜀漢の建国者。西漢の中山王劉勝の末裔を称し、字は玄徳、諡号は昭烈帝。
三国演義においては、主人公格の待遇を与えられ、正義の君子として描かれている。








2: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/19(金) 15:53:23 ID:Ov2VhAAJ0
劉備は自ら西漢の景帝の第8子、中山王劉勝(生年不詳 - 前113年)の末裔と主張していた。劉勝には、劉貞を初め、孫も含めて120人以上の子を残しており、劉備の直接の祖とされる劉貞は、紀元前116年に涿郡涿県の列侯として爵位を賜った。だが、紀元前112年の年始頃に、劉貞は皇族のみに課された漢朝への上納金を納めなかったために、叔父である武帝の逆鱗に触れてしまい、侯の地位を取り上げられそのまま涿県に住居していたという。そのため、系図もそこで止まっており、劉備との系図の繋がりを確認することはできない。
以降の劉備の家系は歴史研究学者の事実に基づいた検証の積み重ねの成果と、まだ発掘されてない当時の記録書が発掘されることを期待するのみである。

その一方で、当時の東漢では西漢以来の歴代皇帝の末裔に対して幅広い税の減免が認められていたため、一般の住民が勝手に漢の皇帝の末裔の証しとも言える劉姓を名乗ることは重大な違法行為であり、もちろんそのような事を行なうことは困難であったとされている。そのため、劉備の主張を単純に嘘と決めつける事はできない。

また、中山王劉勝は淫色に耽った王として有名であり、子は50人以上もいたため、約300年後の当時には中山王の末裔は中山国を初め、涿郡や常山郡などに拡がっていたと思われる。仮に劉備が中山王の末裔だとしても、あまり価値はなく劉備同様に没落して庶民同様に零落した家は珍しくなかったと思われる。 逆に言えば、劉備が中山王の末裔だった可能性も充分にあると言える。

なお、『三国演義』では献帝の前で、劉貞から劉雄までの間の13代を読み上げられる場面が書かれているが、これはもちろん創作である。

43: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/02(金) 17:25:40 ID:Bug5+iGV0
劉備ってこんなヤツ

劉元起 「一門の人間の中で並みの子供ではないからだ」(先主伝)
麋竺 「劉備でなければ徐州を治めることが出来ない」(先主伝)
袁紹 「劉備は度量が広く立派な信義のある人物だ。劉備が徐州を治めることは私の希望に沿ったものでもある」(先主伝注)
呂布配下諸将 「劉備はしばしば態度を変えるしてなづけるのは不可能。始末するべき」(先主伝注)
程昱・郭嘉 「ずば抜けた才能を持ち人心もつかんでる。最後まで人の下にいる人物ではない。始末するにしくはない」(武帝紀、程昱伝、郭嘉伝注)
呂布 「この男が一番信用できんぞ」(呂布伝)*
曹操 「今、天下に英雄と言えるのは君と余だ。袁紹などは問題にならん」(先主伝)
程昱・郭嘉 「劉備を自由にしてはいけない」(武帝紀、程昱伝、郭嘉伝注)
董昭 「劉備は勇敢にして大きな野望を持ち関張がその羽翼となっているので信頼してはいけない」(董昭伝)
曹操・郭嘉 「劉備は人傑であり今攻撃しないと後の災いとなろう。袁紹は機を見るに敏でなく行動を起こさないだろう」(武帝紀、郭嘉伝注)
張遼他 「北方討伐の隙を突き劉表に説いて許を襲撃するに違いない」(武帝紀、張遼伝注)
傅巽 「劉備では曹操に対抗できない。仮に対抗できるとしたらいつまでも劉琮の下位にはいないだろう」(劉表伝)
程昱 「劉備は英名があり関張の武は万人に相当する。孫権は彼らと協力し我らに抵抗するだろう。それはやがて分裂するだろうが、その時にはもう劉備を殺すことは出来ないであろう」(程昱伝)
曹操 「劉備はわしと同等だが、計略を考え付くのが少し遅い」(武帝期注)
劉巴 「劉備は英雄で受け入れれば必ず害をなすので断るべき」(劉巴伝)
黄権 「劉備は勇名を馳せており、部下として遇することは出来ず、賓客として扱えば二君を認める形になる。国境を閉鎖して入国させてはならない」(黄権伝)
劉巴 「劉備に張魯を討たせることは虎を野に放つのと同じことだ」(劉巴伝)
趙戩 「用兵は稚拙で逃走にあけくれてる。一方、蜀は小国と言えど堅固な地である。併合は不可能だろう」(先主伝注)
傅幹 「劉備は度量があり部下に力をふりしぼらせる事が出来る。また政治・戦略に優れた諸葛亮が大臣となり、勇敢で万人を相手に出来る関張が将軍となっている。成功しないことがあろうか?」(先主伝注)
張魯 「曹操の奴隷となっても劉備の上客にはならん」(文帝紀注)
劉曄 「劉備は人傑で度量もあるが行動は遅い。今蜀を手に入れたばかりでまだ治まってないので今これに付けこんで押しつぶすべき。さもないと政の諸葛亮、武の関張らを用い要害を利用して防備し再び犯すことは不可能となろう」(劉曄伝)
曹操 「玄徳がこのような策を考えつくわけがない。誰かの入れ知恵に違いない」(法正伝)
龐徳 「劉備は小物に過ぎない。わしは国家の鬼となっても、賊の将にはならん」(龐徳伝)
賈詡 「劉備は優れた才略を有し群臣にこれに匹敵するものがいない」(賈ク伝)
劉曄 「劉備と関羽の関係は道義では君臣だが恩愛では父子。小国といえども必ず報復の軍を起こすだろう」(劉曄伝)
曹丕 「劉備は戦争を理解していない」(文帝紀)
陳登 「傑出した雄姿を持ち王覇の才略を備えている点で劉玄徳を尊敬している」(陳矯伝)
裴潜 「中原にいれば乱を齎すことは出来るが太平を招くことは出来ない。しかし要害の地を占めれば一方面のあるじとなるだけの器量はある」(裴潜伝)
彭羕 「劉備は老いぼれて話にならん」(彭羕伝)*
(*付きは悔し紛れの罵詈雑言なので除外してもいいかな?)

46: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/03(土) 12:37:27 ID:/0CCQ39Y0
>>43
すばらしい
高祖、光武帝のDNAが含まれてると信じてしまうな。

83: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/15(日) 20:41:12 ID:EC5RIsC20
>>43
> 麋竺 「劉備でなければ徐州を治めることが出来ない」(先主伝)

ごめん。これ病床にある陶謙が麋竺に向かって言った言葉だった。

44: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/02(金) 17:46:24 ID:5WUhnEijO
こうして見るとほんとに劉備って不思議な人物だね
三国志で一番得体の知れない人物だな

45: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/02(金) 20:59:19 ID:/LJyeXc70
呂布と愉快な手下たちはそろって「こいつ信用できないよ」って思ってるのか。
お前に言われたくないよバーカバーカw
現代日本で抱かれているイメージだと
>傅幹 「劉備は度量があり部下に力をふりしぼらせる事が出来る。
ここらへんが一番近そうかな?

49: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/10(土) 14:46:44 ID:pIIAabdI0
むしろ程昱とか予言者かと思ってしまう。

190: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/28(土) 23:13:27 ID:mQRrQUjJ0
やっぱり劉備には説明できない魅力があったんだろうなあ
何もしなくても嫌われる俺とは大違いだ

192: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 2007/07/29(日) 09:02:33 ID:MeSSZ2am0
>>190
劉備は外見が良かったから

193: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 2007/07/29(日) 15:30:27 ID:G6zarsUX0
耳が肩までたれてるなんて外見がいいか?
少なくとも俺は気持ち悪いと思うぞ

194: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 2007/07/29(日) 15:44:52 ID:IQoYJnZl0
手長で耳デカってのはオールマイティな人間だったって言う比喩じゃなかったっけ

195: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/29(日) 20:45:03 ID:34ugdJCp0
腕が膝を超える人間なんてあり得ない、仏様が大耳・手長に描かれることが多いから劉備の異相も仏教の影響だろう、という説を複数の研究者が唱えてる。
当時どれだけ仏教が普及してたか、という疑問がないではない。

196: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/29(日) 21:15:10 ID:raVlYbIu0
劉備の耳長手長って外見的特徴は正史にも記述あったんだったっけ

198: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/29(日) 23:39:29 ID:7fFdRuWC0
先主伝に
「手を下げると膝にまでとどき、ふり返ると自分の耳を見ることができた。」
とある。

202: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/30(月) 11:08:27 ID:alr1S7Ly0
腕長はなぜか魏晋南北朝の人物に多いような・・・
苻堅は手が膝に届いて、目に紫光があったというから劉備+孫権みたいな感じか?

220: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/02(日) 02:24:45 ID:Q6aUaEiL0
血統詐称と寡黙で感情表に出さなかったのがカリスマ性に関係あったのかな?

221: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/02(日) 02:45:27 ID:5QJJsINd0
血統詐称とも言い切れんだろうに。
曹操や夏侯氏よりかは信憑性ある。

222: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/02(日) 06:20:20 ID:jr/jF3JQ0
まさか劉備も1800年以上も後の時代に、自分の血統が疑われるとは思っていなかっただろうな
皇族ではないにしろ、劉氏を代々名乗っていたんだから、自分も先祖を辿れば一応はそこそこの王族に繋がっていたんだろうなあ、くらいは普通に思っていたんじゃない?
別に詐称するのであれば、当時の権門の姓を詐称した方が遥かに利益大きそうだけどね、野心家的には
(北斉の高歓が渤海高氏を詐称したように)

223: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/02(日) 07:52:31 ID:tMdBrh3/0
劉氏なら王族の子孫って考えられるお前が凄い。
高祖の時代に劉氏を使い始めたわけでもなければ、徳川みたいに皇族以外の劉姓使用禁止したわけでもない。
先祖の段階で劉姓を勝手に使ったとか、家系を買い取った可能性もありえる。
劉裕の例もあるわけで詐称はありえないとも断言できない。

>別に詐称するのであれば、当時の権門の姓を詐称した方が遥かに利益大きそうだけどね、野心家的には

劉姓は名乗る価値が無いから、別の姓を名乗ったはずだってか、ずいぶんと乱暴すぎる理屈だな。

>1800年以上も後の時代に
って、現代になっていきなり言われ始めた話でも無いだろうに・・・

なんにしてもはっきりした証拠があるわけじゃないし、劉表・劉焉・劉岱・劉虞・劉曄など経歴のはっきりした皇族と違って疑わしいところが残るのは事実だろ。

224: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/02(日) 08:28:56 ID:jr/jF3JQ0
>>223
劉備が純粋な皇族、貴種の末裔なんて俺は言ってないけどね
皇族扱いになったのは、劉備の実力と時勢によるところ大ではあるが劉姓の庶民が成り上がって皇族待遇、どっか不自然なところある?(強いて言うなら劉備の強運)

そもそも大家族単位で生活している中国において、劉備の数世代前でいきなり姓を詐称しちゃいましょう、て発想に至るんかね?
一族全部で詐称?姻族やら近所づきあいの柵もあるのに血統詐称説てリスクとコストが高すぎること、全く考慮していなくない?

230: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/02(日) 16:25:33 ID:GLAiwjYj0
>>224
よく演義のイメージ鵜呑みにして勘違いしてるやつ多いが、劉備の家はただの庶民じゃなく、それなりの豪族な。
劉備個人の家が落ちぶれてたみたいなだけで。

そういう家が、権威付けのために、いつのまにか先祖が有名人になるのはありがちなことではある。

228: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/02(日) 12:16:46 ID:08U0WiM10
何度か書いたけど当時劉氏を名乗るのは税の免除や職の優遇などある反面嘘だとばれれば死罪だった
簡単に詐称詐称いってるけどお気軽にできるもんでもないんだよ

229: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/02(日) 13:03:21 ID:Spv1/XfJ0
山田論文にもあった話だな
ただ、皇族を詐称すれば死罪、という取締りが実効力のあったものかはまた別問題で中央の統制があまねく行き届いてたかという疑問はある

例えば人事権ひとつ取っても各軍閥が勝手に地方官やら雑号将軍を任命してたし軍閥同士の互選も頻繁に行われてた。中央の統制がキツければあり得ない話
人事とは違うが、劉備自身が小役人の頃に督郵を半殺しにしても咎められた記録が無いことを見ると、中央の統制はザルだったとも考えられる

もちろんこれが詐称を裏付ける訳じゃない

232: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/02(日) 23:08:17 ID:3OV24osH0
証明するものが何一つ無い状態で皇族名乗れてる時点で皇族を詐称すれば死罪って言う法律の判断基準なんてあるわけも無い。

234: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/02(日) 23:25:02 ID:e/CNRsaf0
皇族ってのは宗正の属籍に名を連ね、労役免除などの特権がある「宗室」のことを言ってるんだと思うけど、劉氏でも宗室の属籍から外れている者=皇族ではない者はいるよ
王の末裔でも、犯罪を犯した場合などには宗正の属籍から外れる場合がある

ちゃんと区別して考えないと混乱する一方だよ

236: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/03(月) 04:07:16 ID:+EiuKdOb0
結局、劉備が本当に中山靖王の末裔だったという確証はないし、そうではないと否定する明確な根拠もない。
確かなことは、劉備が中山靖王の末裔を称していた、ということのみ。
なので「自称中山靖王の末裔(真偽不明)」くらいが一番妥当な表現だと思う。


241: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/03(月) 18:51:29 ID:WP7pr99k0
酎金失侯って意味わからんけど、分家した直後からずっと庶民だったってこと?

242: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/03(月) 19:26:22 ID:CgNO/if40
>>241
ちくまの訳によると「酎祭の献上金不足のかどで侯位を失い(坐酎金失侯)」とある。
ちなみに失った侯位は「陸城亭侯(陸成侯)」で、「分家」の意味が良くわからないが、中山靖王勝の子貞が封じられた侯位を失ってからは庶民だということだろうね。
それが事実なのか、家系伝説として何代か前からあったのか、劉備が世に出る際に捏造したのかはわからない。

245: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/03(月) 21:20:19 ID:vyrLemos0
>>242にもあるけど、当時列侯は祭祀の時に金を献上しなければいけなかった。
これが「酎金」だが、武帝の時に「金の純度が低い!不敬である!」と大規模摘発され、功臣の子孫から諸侯王の分家から100人以上の列侯が金の純度不足による不敬罪で摘発され列侯の位を失うという大事件となった。
劉備の祖もその事件にひっかかって父中山王から分家した列侯国を失った。

しかし彼が皇族(宗室)としての特権まで失ったかどうかは不明だし、劉備と血縁関係が本当にあったかなんてわかるわけがない。

大体、劉備ってそんなに皇帝の血筋であるってことで得してるかねえ?
最後の最後、漢中王になり皇帝に即位するあたりはわかるけど、それ以外ってそんなに良くも悪くも影響していないような気もするんだがな。

256: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/04(火) 22:20:04 ID:4TEA9vXZ0
そもそも皇統を自称した、なんてのはどこから出てきた話なんだ?

先主姓劉諱備字玄徳たく郡たく縣人 漢景帝子中山靖王勝之後也

正史読む限りじゃ景帝の子孫だと断言してるんだが

257: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/04(火) 22:36:44 ID:BfCa0zVz0
演義の劉皇叔が念頭にあるんじゃね?

275: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/05(水) 12:45:52 ID:pwNrT+9/O
正史に漢室の子孫と書いてある以上、それを覆す反証をしなければならないがそれが全く出来てないね
系図がないのは劉備に限らず全員そうだし

277: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/05(水) 13:26:35 ID:frz28qW80
劉備が中山靖王の末裔と断定できると主張してるみなさんへ。
『典略』の「劉備は元来臨邑侯のわかれである」という記述はどう解釈してるの?

279: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/05(水) 14:42:59 ID:pwNrT+9/O
>>277
劉備の親父さん辺りが妻子を連れて養子にでも入ったんじゃないか?
だから「元々は」臨邑侯(劉譲のこと?)の支流であったと

278: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/05(水) 13:58:05 ID:o3ha2/l80
劉備が中山靖王の末裔と断定する気はないが
『典略』を持ち出せば、その史料価値を吟味する必要が出てくる

劉禅に関する珍説は有名だな

284: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/05(水) 16:54:38 ID:/3KK4+Vp0
販履織席で生活し、失侯あるいは枝屬の家系である人。

失侯あるいは枝屬の家系を自称する可能性……
失侯あるいは枝屬の家系を自称するメリット……

413: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/07(金) 08:56:16 ID:YZNF/gl30
ルーツでループしてる流れを切るために別の話題

劉備が非凡だと思えるのは、荊州奪還のために動いた事と、失意の中死ぬ際に諸葛亮に「禅がマトモなら助けてやってくれ。無能なら君が代わって皇帝になれ」って言ったことかな。
劉備は荊州の自領はあきらかに魏への侵攻路としかみなしてなかったと思う。
逆に言うとその侵攻路は三国鼎立から魏打破という、国家戦略の第二フェーズで必要不可欠な物だったから、寡勢で現状復帰して和睦を狙ったんじゃないかなと。

荊州ありだと漢中~長安ルートに加えて江陵~襄陽南陽ルート、それに呉の合肥ルートの三方面から。
荊州を失ったら漢中~長安ルートのみに絞られ、呉は荊州からの独立した侵攻戦力を置かないだろうから、戦術的に可能性が大幅に減る。

ここで妄想の飛躍になるけど、劉備の諸葛亮への先の言葉は
「おまえの戦略構想破綻させてしまったよ。荊州取り返してイーブンにしようとしたけど駄目だった・・・ごめんな」
と、以後蜀が辿る静かなデカダンスを見抜いていた上での発言じゃないかな。
「君の才能は曹丕の10倍」ってのは、劉備自身では蜀のみで本気の侵攻は無理だったけど諸葛亮ならやれるかもしれないっていう期待。

諸葛亮も第一次までは本気で挑戦したんだろうけど、本拠地から漢中、漢中から長安という飛び地を2つ跨ぐことになる補給の不利
一方の魏は長安を守ればいいだけという利
仮に長安を奪取しても、さらに補給が伸び、独立した司令官が漢中のみならず長安にも必要という飛び地の増加
こういう事実を身にしみて感じて、北伐は国家のアイデンティティーを確立するためを第一として、魏になんらなかの異変が起きるまで国力を温存という消極主義に転換したんだと思う。
魏延なんかはこの構想を理解しておらず、また諸葛亮もタテマエ上「侵攻するフリだからマジになんな!」とも言えずに後に困ったことに・・・

まぁ、「劉備は多分これらのことを全て承知でバクチに出たと思う」という長文でした。スマン。

418: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/07(金) 23:48:39 ID:aZ7XrAbSO
>>413
俺は徐州救援に動いたことの方が非凡だと思う。
呂布と張バクももしかしたら目的は一緒だったかもしれないけど、圧倒的に不利な戦場へ入り込んで弱い人々の為に大軍に立ち向かおうという精神が凄い。
劉備が呂布を招き入れたのは、劉備だけでなく徐州の多くの人が呂布に恩義を感じていたからではなかろうか。

421: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/08(土) 09:00:39 ID:17vkQmGiO
劉備はやっぱり凄い人なんじゃないかなあ
ビジクなんか曹操からもらった官職捨ててついて行ってるし
陳登や陳群に逃げられたと揶揄されることもあるが、普通に考えたらついて行く方がアホだろ
そしてその有り得ないことをさせて当然、むしろ陳群を連れていけないことを笑われる劉備はものすごく評価されてる、過大評価なまでに

422: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/08(土) 09:50:39 ID:xRy6bexu0
何だかんだであの乱世を掻い潜って、地方政権とは言え、皇帝にまで登ったんだから、劉備の実力は確か。
聖人君子ではなく梟雄に近いとは思うけどね。

424: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/08(土) 12:23:46 ID:17vkQmGiO
>>422
ただの梟雄と言い切るのもどうかと思うんだよね
「度量が大きく強い意志を持ち、おおらかな心をもって礼儀正しく人に接し、人物を良く見極めて、ふさわしい待遇を与えた。それらは前漢の高祖(劉邦)に通じ、英雄の器を備えていたといえよう。国のその後を諸葛亮に全て託すのに際して、何らの疑念を抱かなかったことは、君臣の公正無私な関係を現すものとして、永遠に手本とすべき事例である。好機を得るための機知や、行動の根幹をなす戦略では、魏武(曹操)に及ばなかったため、勢力の基盤となる領土も、その才能の差に準じて狭かった。しかし、挫折して人に屈しても諦めることなく、最終的には誰の下にも居らず独立したのは、彼らの器量を考えた時、自分を何時までも許容し続けてくれるような人間だとは到底思えないがためにそうしたのである。
単純に自分の利益だけを考えての事ではなく、自分にふりかかった災難を避け、殺されないようにするためだったと言えよう」
簡単に一言で言い表せない多面的な顔を持つ人だと思う

428: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/10(月) 03:01:05 ID:s3QrNuw20
常に前漢の高祖を意識してたんだろうな。

劉禅は意識せずに中山王劉勝のような
生き方をしたんだろうけど

429: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/10(月) 17:00:28 ID:yS5xG9Xy0
没落しても何故か配下に慕われ、難局を乗り切って生き残る術は、真似しようとしても簡単には出来ないだろう。
基本的に似ていたところがあったんでしょ。

430: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/10(月) 19:45:37 ID:8979mDX90
曹操や孫家もそうだしな
英雄の最低条件とも言える

ま、それでも重耳や劉邦とじゃ比べものにならんな

432: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/11(火) 01:27:30 ID:ZiDVwLxS0
コウソンサン、トウケン、リョフ、ソウソウ、エンショウ、リュウヒョウ、リュウショウに次々に取り入るって考えると凄いな。
各勢力には劉備の履歴と人物みて、かなり警戒する部下もいたし、君主ごとに全く性格も違うのにねぇ。もろに敵対していた勢力までいるし。
かなりの特技OR魅力があったとかかな?
正確に情勢を読んで、適時的確に自分に危害を加えない相手を選んでいるし
しかも寄生先が滅んでもしぶとく生き残って這い上がるなんて、まさに怪人。
曹操みたいなわかりやすい怖さじゃないけど、得体が知れない怖さがあるな。

433: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/11(火) 04:04:54 ID:jP7YTHjl0
劉備軍団には傭兵としての期待があったんじゃないかな
当時の群雄たちには呂布と同じで危険ではあるが結構な戦力になると思われていたかと

434: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/11(火) 04:48:43 ID:MX8KfY3RO
つうか普通に人気者だろ。
危険な匂いがしてくるのは劉璋以降で、それ以前は人気者劉備のタニマチみたいな者ばかりだろ。
劉備には乗っ取りの野心どころか頼る相手を選ぶ余裕すらなかったはず。
トウケンに到っては放っておいたら曹操に食い物にされてたのを助けただけ。

436: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/11(火) 20:07:34 ID:0kqCXw1Z0
>>434
>つうか普通に人気者だろ。

同意。庇護を受けた回数も内容も、まるで春秋時代の公みたいでこの時代ではありえない。
特筆すべきは、ちょっと前までは間接的な敵(派閥)だった勢力にも受け入れられてる所。

>危険な匂いがしてくるのは劉璋以降

郭嘉・程昱・周喩などは劉備の危険性を十分予測していたようだが・・・
殺せとか、飼い殺しにして外に出すなとか、物騒なことばかりだから相当なものでしょ。
梟雄ってw

>それ以前は人気者劉備のタニマチみたいな者ばかりだろ。

そんなに甘くはないと思う
真偽は定かではないけど、皇室の末裔という由緒は受け入れられていたし、なにより
公孫サン→陶謙→曹操→袁紹→劉辟→劉表→劉璋
いずれも劉備の武力をアテにしてたか、名をアテにしてたかで、庇護者と被庇護者という関係よりgive and takeに近い関係のほうが多い。
傘を借りる代わりに劉備の力を貸すと(性格上、劉備の立場が弱いことは明白だが)。
公孫?の下では袁紹戦に功を上げ、陶謙への援軍の前には孔融を賊から助け・・・負けたのは袁術呂布曹操といった猛者ばかりだしな。
孫権にしたって、赤壁こそ単独だけどその後の江夏を譲り受けてるわけだし、江陵と南部四郡は共同で平定してるし。
この辺りからもう劉備は完全に対等(少なくとも「上客」)な関係になっている。

>劉備には乗っ取りの野心どころか頼る相手を選ぶ余裕すらなかったはず。

流浪中にどこぞかの勢力を乗っ取る機会など無かったと思うよ。
曹操誅殺の件は乗っ取りというより必死の刺し違えだろうし(出来る訳ないと踏んで逃げた?)、袁紹に居候してたときは兵など持ってない上に乱を起こしても曹操に利するだけ。
劉表の時は曹操が北を制圧中で、唯一の「機会」だったけど、完全制圧は益州のように2、3年も掛かるだろうしね。
襄陽取っただけで終わるのなら劉備も終わる。

色んな意味で唯一にして最大の機会が益州だったわけで、決して楽ではない獲物を逃さなかった劉備は凄いと思うよ。

450: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/12(水) 12:28:37 ID:O4RBM5ow0
> 評曰、先主之弘毅寬厚、知人待士、蓋有高祖之風、英雄之器焉。
> 及其舉國託孤於諸葛亮、而心神無貳、誠君臣之至公、古今之盛軌也。
> 機權幹略、不逮魏武、是以基宇亦狹。

陳寿の評、ここまではまさにその通りである。

> 然折而不撓、終不為下者、抑揆彼之量必不容己、非唯競利、且以避害云爾。

ただ最後の部分はちょっと好意的に過ぎるなw

452: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/12(水) 22:17:13 ID:sW+C5eS20
曹操はだいたいどんな人物だったか想像できるが劉備は謎。人物評聞いても、イメージが固まらない。

489: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/13(木) 23:53:33 ID:9WttOJ4r0
一番ドラマ性がある生涯だね
曹操は正統派の英雄すぎ、孫権は若い頃の政治は凄いけどやっぱりちょっと地味

490: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/14(金) 05:16:55 ID:mO/qfO/n0
>>489
別のスレでも話題になったが、曹操は早くに登りつめすぎて、物語の主人公としてはいまいち盛り上がりに欠ける。
袁紹を破ったあと、自分より強大な敵というのが存在しないから、物語的に緊張感に欠けるんだよね。
その点劉備は、前半生の苦労が長い分、後半の急成長の爽快感が高く、 ずっと曹操という格上の敵が存在して、緊張感が途切れず小説の主人公には最適なキャラだろうと思う。

509: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/25(火) 19:19:26 ID:JbtVtZs40
三人の中でただ一人皇帝にならなかったのが曹操というのは皮肉だよな。
孫権は最初から漢王朝に対して忠も不忠もないから「ふふん」と帝位についたのも面白い。

512: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/27(木) 12:44:09 ID:A3vxEp7P0
>>509
今盡力一方 冀以輔漢耳 此言非所及也

魯粛が「漢なんかどーでもいいから江東に拠って帝王になれ」
って考えを披露したときの返事。
定型で無難であたりまえの返事だけど、魯粛は筋金入りの蒼天既死思想を持ってる人間だから、孫権が遠慮する必要はない。

・親父が皇室の墓を復旧したことを自慢してること
・兄貴が僭称した袁術から離れたこと
さらにこの二つを加味するに、けっして「忠でも不忠でもないようなスタンス」ではなかったと思うよ。
むしろ勤皇(漢)で通ってるのが孫一族。
皇帝になる時も漢を称する蜀漢に断りを入れてるしね。 

539: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/10/12(金) 23:04:14 ID:E9Db5+mR0
でもやっぱり劉備は侵略者なんだよね。逆に曹操は河北の戦乱を平定した人。
劉備は身内からものすごく慕われてるのは史料からも存分に伺えるが、元の立場が侵略者では「国力」という面でも曹操や孫権に劣るのは間違いナッシング。

540: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/10/13(土) 12:56:38 ID:PRy1WstQ0
ま、よそ者らが大挙して押し寄せてきて支配者層に居座り、 また別のよそ者らが大挙して押し寄せてきて一年も土地を荒し回って支配者になり、挙句にその戦禍も癒えぬ内に北へ東へと出兵だからな。
搾取される立場の民衆からすればたまったもんじゃない。

541: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/10/13(土) 13:25:32 ID:r8CMciIO0
>>540
搾取される以上に、その軍閥が政府機能を十二分に発揮してくれれば民衆としてはそこまで反感抱かないだろうねえ、まあ税金が安いことに越したことはないだろうけど。

543: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/10/16(火) 10:39:20 ID:B4ZFsbMu0
蜀で大規模民乱が起きたって聞いたことないけどそれなりにまとまってたのか

545: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/10/16(火) 21:15:29 ID:im0HC3MMO
>>543
南側は何度も反乱起こしているよ
苦労したみたいよ

553: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/10/20(土) 21:18:04 ID:n9/tLMBH0
>>545
南方はもともと平定されてないだろ?
そこを国力増強のため平定しようとしたんだから乱が起こって当然。
蜀全体としては政権が安定するのに越したことはないでしょ。

劉禅とて浪費で国土を疲弊させたという記録はとくにないし、まあ住民にとってはそれなりにいい時代だったのではないかなあ。

548: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/10/18(木) 05:31:12 ID:8VBJlGDN0
劉備が益州に侵入した頃は、率いていた兵はどれぐらいのものだったのだろうか?

551: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/10/19(金) 19:30:02 ID:StA8lDg/0
>>548
現地でもある程度の兵力増強はできたと思う。
でも5万人以下ぐらいなんじゃないかと。

554: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/10/20(土) 22:32:42 ID:HNn+qbIc0
>>548-551
益州入りするときに「数万」とされてるが・・・
しかし・・・
張魯を攻める前に劉璋は劉備を歓待してお互いに官位を与え合い(w
さらに兵を(その他軍需物資も)与えて3万強となったとある

X(入蜀時の劉備手持ち数万)+Y(劉璋の与えた兵)=3万強
3万強+ウソの催促で得た増援4千=3万5千(侵攻開始時)

ここからが状況証拠と推測だが:
Xは恥ずかしくも「万」とあるから1万程度は最低あったと見て間違いない。
あたりまえだけど3万以下。
益州を強奪せんとする矢先に、果たして過半数以上を劉備にとって「新兵」にあたるような構成にするだろうか?
侵攻開始までの1年以内に完全な劉備の私兵とすることができるだろうか?
急襲で得た白水関の将兵の妻子を人質にしたと書いてあるおり、劉備はこの辺がシビアであるのは間違いない。
だとすると3万の半分は劉備自身の兵だったと思ったほうが妥当に思える。

で、ここまでの推測からすると1万5千以上3万以下。
ここからはどうやって幅を狭めるかが問題だけれどもヒントが2つある

一つは鄭度が劉備の軍勢を「1万弱」であると述べてる点。
もう一つは劉備がウソの催促で「1万」を要求してる点。

鄭度が言っているのは間違いなく劉備子飼いの軍勢であることは間違いない。
そして1万弱と言っているのは
・この時点で既に劉備の益州総軍勢もややダメージ(戦死や離反など)を受けているから子飼いも少なくなったと述べた可能性
・劉璋を楽観させるために少なめに述べた可能性(暗に劉備子飼いの軍は少ないから一撃で瓦解するかもしれませんよ、と仄めかした可能性もある)
この2つが考えられるが、これはひとまず置いとくとして・・・

次の増兵要求が1万だったという点・・・前回劉璋が自発的に与えた兵より、劉備が借りようとした兵が多いと考えるのは理に適ってない。
つまりYは1万以上2万以下であったと考えるのが極自然。つまり劉備には間違いなく1万以上は最初の出迎えで渡している。
そもそも劉璋は益州-漢中のイザコザと何の関係もない劉備に武力行使を頼んでいるわけだから、それに見合う恥ずかしくない援助をしてるはず。

以上の点を勘定すると

1万5千前後というのが最終的な数字になるのだが・・・

これを多いと見るか少ないと見るかは
赤壁時に推定3万を持って、荊州南部掌握までほとんどダメージを受けてない点。
荊州の地盤を得て戸籍を把握(徴税・徴兵)する時間と実行できる人脈があった点。
曹仁の江陵撤退後に劉表の遺臣民が劉備に集まったという点。
雷諸の帰服で「数万」(但し、一族郎党老若男女非戦闘員含む可能性が非常に高い)を得た点。

これらをよ~く考えると、荊州は残された兵と将からして必ず磐石であるという事実があって、
「実に計算されている」としか形容できない・・・その、つまり、劉備がタダモノではないことが伺えると思う。

562: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/10/23(火) 23:23:18 ID:TgzzAQZy0
もし劉備が曹操の陣営に留まり続けていた場合はどうなっただろう?
上手く立ち回れば、魏内部でかなり力を持てたりして。

563: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/10/24(水) 05:01:54 ID:au9nFl5H0
テイイク・カクカ等によって速攻始末されるか、飼い殺し。
もしくは辺境戦線で生かさず殺さずこき使う。


572: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/10/27(土) 03:16:44 ID:E9vOZsn70
>>563
劉備のゴキブリ並みの生存能力と
寄生虫並みの乗っ取り能力舐めとるな

引用元: ・【大耳児】 劉備 【昭烈帝】



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