1: 日本@名無史さん 2014/05/21(水) 01:31:05.02
たしかに全国から見ても番狂わせの戦いだったけど、一大名が天下を取るまでのし上がるまでの出来事とは思えない
なにが他の大名と違ったんだろ?








4: 日本@名無史さん 2014/05/22(木) 01:10:43.27
まあ、桶狭間の戦いの後の美濃平定まではそこそこ時間がかかっているわけだけど

9: 日本@名無史さん 2014/05/23(金) 12:00:15.85
尾張へ平定したものは天下を取りやすい。
ただ、それだけのこと。

なぜならば、尾張を平定した時点で、日本第二の平野である濃尾平野の支配が容易になる。
対抗馬の美濃は尾張に比べて地形的に一つの勢力にまとまりにくいから、美濃から尾張を征服するよりも、尾張から美濃を征服するほうが簡単だから。

日本第一の平野である関東平野は、日本の東の辺境にあるが、濃尾平野は日本に中心部であり人口が最も多い畿内の征服が射程圏内になる。
しかも、畿内ってのは人口多いけど、地理的に複数の盆地や平野に分かれて一つの勢力に統一されにくいので、濃尾平野の支配者にとって容易な草刈り場となる。

そんなこんなんだから、古代から尾張は中央政権の重要な一族の直轄領になった。

古代においては、皇祖ニニギの兄のホアカリの子孫で嫡流とされた尾張氏の支配地域。
壬申の乱のときに勝者の大海人皇子を支援した最大の勢力は尾張氏の軍で大海人皇子側の兵力の半分は尾張氏の傘下の軍だった。

中世においては、足利幕府の中では、足利家の分家出身の諸侯で最高家格の名門とされた斯波氏の直轄領とされた。

近世においては、徳川幕府の中では将軍継承権を有する徳川御三家の筆頭にあたる徳川義直の子孫の直轄領とされた。

14: 日本@名無史さん 2014/05/24(土) 10:16:13.76
>>9
平野が優位な土地と認識されたのは、まさに信長の時代以降。
それまでは天然の城壁である山に囲まれた盆地が大名の拠点に相応しかった。
奈良盆地や京都盆地がそれ。

堺や津島などの経済力に目をつけた信長秀吉家康の頃から海運に適した平野部が重視されるようになった。
大阪や江戸がそれ。

15: 日本@名無史さん 2014/05/24(土) 10:41:12.32
>>14
鉄砲が原因なんでしょうか?
どうしても狭くなる山城よりも大きく築ける平山城、さらに大きく築ける平城となったの?(鉄砲の射程距離的に)

41: 日本@名無史さん 2014/06/01(日) 20:56:27.43
>>15
戦国時代は大名たちが治水工事を積極的に行って、それまで湿地帯だった下流域も耕作地になっていたというのがあるんでしょうかね?

345: 日本@名無史さん 2015/12/26(土) 16:29:09.11
>>41
尾張はまさにそうやって生産力を急速に増大させた土地
伊勢湾の干拓が始まって可耕面積が広がったのがちょうどこの頃
前田利家の生まれた荒子城は言うなればフロンティアの最前線

11: 日本@名無史さん 2014/05/23(金) 12:37:24.35
濃尾ってかなり開発が進んでたんだろ
平野部もそうだが伊勢湾を主体とした海商関連の記録もあるもんな
北陸方面なんて越後上布の取り引きにも苦労してるあとあるもんな

12: 日本@名無史さん 2014/05/24(土) 00:26:30.28
大義名分が重視されていたことを考えると、位置的に京に近かったのは大きいと思う
その点では九州や東北の大名は不利といえるし

それから巧みな外交もあったと思う 相手が格上だと下手に出て貢物をし、戦力が整えば積極的にしかけていく 面子にこだわらない信長らしいやり方

17: 日本@名無史さん 2014/05/25(日) 00:07:33.62
上杉、武田と隣り合っていなかった地理的有利もある 両者が牽制しあっている間に美濃をはじめとした地盤を固めることができた 

28: 日本@名無史さん 2014/06/01(日) 08:52:56.96
尾張→美濃→近江という先進地域かつ米持ち国を進んでいけば、そりゃ他勢力と比べてアドバンテージ大きいわな。
個別の戦闘で負けても、何度も繰り返し兵士を動員して戦争できる体力を持てる。

40: 日本@名無史さん 2014/06/01(日) 20:02:11.08
宗教団体でさえ皆殺しにできる神経は信長ならではだったと思う
一揆制圧のためにやむなく戦った例は他の大名にもあるが、積極的ではなかったし、懐柔策を取る場合も多かった

神仏に帰依するのが当たり前の時代、そこまで冷徹になれたことは、信長が頭一つ抜きん出た要素の一つだと思う

43: 日本@名無史さん 2014/06/01(日) 23:01:23.94
神仏であろうと焼き討ちするのは平清盛だってやっていたし、もっと罰あたりなのは高師直
程度の問題はあるにせよ信長の先輩はいる

45: 日本@名無史さん 2014/06/02(月) 08:24:35.42
過去には先輩はいたけど、あそこまで過激な奴はあの時代にはいなかったってことじゃね?

58: 日本@名無史さん 2014/06/07(土) 11:34:23.28
桶狭間で今川義元の首を獲ったことで、それまで信長に懐疑的だった連中が信長を信頼するようになったってのは大きいだろうね
そうなれば元々の生産力は全国屈指の尾張
勢力を拡大させるのはそれほど難しくない

59: 日本@名無史さん 2014/06/07(土) 12:29:05.14
その当時、信長に対抗できるだけの石高っていったら数は限られる?

60: 日本@名無史さん 2014/06/07(土) 14:06:45.76
あくまでも目安の一つでしかないけど、慶長期の国別石高ベスト5
1位 陸奥 1,672,358石
2位 近江  775,359
3位 武蔵  667,126
4位 尾張 571,737
5位 伊勢 567,105

61: 日本@名無史さん 2014/06/07(土) 14:31:00.88
織田信長は尾張と美濃の二カ国を平定した時点で石高130万石だから。
伊勢や近江を抑えて、あっというまに200万石を突破した。
武田信玄なんて、広範囲の5か国を平定しても、山ばかりの地域だからギリギリ100万石だろう?
小田原の北条も関東の大半を抑えて、やっと200万石
毛利元就も晩年、九州や四国にも手を広げても170万石ぐらい。

62: 日本@名無史さん 2014/06/08(日) 17:34:30.64
>>61
それ表高で実高250万石くらいある。家臣団も多いから相殺されるけど。

68: 日本@名無史さん 2014/06/08(日) 20:36:32.07
当時は美濃あたりのほうが、東北や越後の石高より高かったってこと?
地形に恵まれていたんだな、信長は

69: 日本@名無史さん 2014/06/08(日) 23:24:42.27
太閤検地といえどどのくらい正確かは正直よくわからない部分はあるけど、当時の稲作技術だと東北や越後といった寒冷地よりも尾張や美濃の方が安定して米作りができたのは確かだろうね

74: 日本@名無史さん 2014/06/12(木) 19:39:42.38
英雄たちの選択

【番組概要】
「シリーズ・戦国合戦の謎(2)桶狭間の戦い・信長を天才にした逆境」
初公開!!信長の手紙▽桶狭間の戦いの内実▽降伏さえあり得た!?▽信長を天才にした逆境

79: 日本@名無史さん 2014/06/13(金) 00:15:26.71
>>74
これをみると今川の駿河、遠江、三河の総石高は100万石ほどだったとあるけど

82: 日本@名無史さん 2014/06/13(金) 05:07:20.88
>>79
今川本国である駿河で15万石
遠江で25.5万石
三河で29.1万石

一方で尾張で57.2万石

(慶長三年の検知高を基準とした)

徳川の動向が織田・今川の雌雄を決していた
徳川が今川を離反して時点で今川の敗北は必至
恐らくは家康は人質ではなかった
横柄な態度を取り、でかい面をして一時的に今川についていたのであろう

83: 日本@名無史さん 2014/06/13(金) 05:19:51.97
当時の書簡などで今川氏真殿に仇討の気持ちがあった事はハッキリ分っているんだが、岡崎の御曹司徳川家康が駄々捏ねて従わないどころか三河を切り崩そうとまでするのだから始末に負えない。
遠江も独立しようとする動きも出てさすがの氏真公も家臣団を纏まり切れず地団駄を踏んだようです。

氏真に桶狭間の敗戦の復讐戦の気持ちはハッキリとありました。
だけど、本領駿河15万石だけではどうにもなるまい。

85: 日本@名無史さん 2014/06/13(金) 07:25:15.65
>>83
それに加えて信玄も三国同盟を破棄してるんだよね
これじゃー、氏真が気の毒すぎる

90: 日本@名無史さん 2014/06/21(土) 09:41:27.49
名古屋から米原か京都まで新幹線で一往復すれば岐阜の地勢が天下取りにどれだけ寄与したか解る
京側には開けた通商路が在り北側は飛騨山系が障壁と立ち東側には木曽三川が江戸期以降とは比べ物にならない暴れ川状態で天然の水濠を為し大阪城スケールで見れば巨大な水城だった
守るも攻めるも思いのままで税金も取り放題だったが露天商の出店税は免じたらしい

110: 日本@名無史さん 2014/07/24(木) 20:40:32.34
桶狭間の後は美濃攻略で足踏みしてんだけど…
快進撃は大国の尾張伊勢美濃を抑えてからだよ

111: 日本@名無史さん 2014/07/24(木) 21:18:31.17
一般的な認識だと桶狭間から飛躍したって思っている人が多そうだな
たしかにインパクトは大きかったかもしれないけど

112: 日本@名無史さん 2014/07/24(木) 22:51:49.87
美濃攻めも後半に入ってからは、将来の伊勢攻めを見越した準備も始めてるし、畿内の大名たちの中に味方を作るべく外交交渉もかなり進めてるよな

美濃制圧が佳境を迎える前から松永との同盟がすでに成立してるほどだ。

おそらく浅井との同盟は美濃攻めをはじめる前から交渉を進めてたんじゃないか。
で、美濃攻めを始めてからかなり早い段階で同盟は成立してたんじゃないかと思う。
どう考えても、武田との同盟より先に締結されてるよな。

115: 日本@名無史さん 2014/07/25(金) 22:31:37.30
駿遠三3か国で尾張一国程度の国力しかないよな
尾張統一した織田にとって今川は本当に脅威だったの?

116: 日本@名無史さん 2014/07/25(金) 23:53:33.34
>>115
桶狭間の当時は尾張の1/3ぐらいは今川領だろ

117: 日本@名無史さん 2014/07/26(土) 10:34:30.88
尾張に侵攻する際に、義元は伊勢の北畠と緊密に連携取ってるんだよね
伊勢湾の制海権を掌握して、信長を窒息させようというのが狙い
実際、信長は津島や熱田の現金収入に頼ってたわけだし

こうやって考えると、信長にとっては出撃するしか選択肢なかったんだろうな
籠城してもその間に津島や熱田が敵の手に落ちれば負け確定なわけだし

127: 日本@名無史さん 2014/07/28(月) 12:22:48.83
>>117
当時、市が定期的に立っていた町は

駿河:駿府、沼津
遠江:浜松、島田
三河:吉田、岡崎、刈谷
尾張:清洲、熱田、津島、岩倉、尾張一宮、犬山、国府宮、半田、起
伊勢:桑名、四日市、伊勢神戸、安濃津、松阪、宇治山田、亀山
美濃:加納、大垣、関、美濃加茂、鵜沼、羽島(大須)

静岡寄りの地域より名古屋寄りの地域のほうが商業が盛んで、しかも尾張の場合、主だった集落や市は極端に西に寄っている。
もともと西尾張は水害が多く、たびたび戦乱も発生したが、それでもこういう分布になったのは美濃や伊勢との繋がりが大きかった証左。

128: 日本@名無史さん 2014/08/01(金) 16:26:53.36
もともと信長は天下取りを夢見ていたか疑問だが、当初は那古屋を併合するだけでも精一杯。
なのに尾張に侵攻してきた今川をくだしてからの勢いで美濃を攻略し、浅井長政に近江南部を通過させてもらい上洛。
義昭を御輿にし堺の鉄砲軍団、雑賀衆を屈服させ近畿を制覇してしまった。さらに室町幕府を潰した。センセーショナルな一戦だぎゃ。

129: 日本@名無史さん 2014/08/01(金) 18:44:42.08
信長が天下取りというものを意識しはじめたのは美濃攻めの後半に入ってからでしょ、遅くとも美濃攻めが終わるまでには、天下を意識して、諸方面に同盟工作をしてる。
ただし、その時点での天下は、京都を支配するという意味でしかないが。
いわゆる天下統一、日本全域を束ねようという意識を持ち始めたのは、おそらく晩年に入ってから。
最大限に早く見積もっても義昭追放の前後が上限だろう

130: 日本@名無史さん 2014/08/04(月) 22:57:24.56
義昭を京都から追放してから、信長は室町幕府を滅ぼしたが、いわゆる安土城 に楽市楽座を設け安土桃山時代を確立した訳だが。浅井長政を倒し近江の国を光秀と秀吉に二分させて、朝倉を姉川の闘いで滅ぼしたが その時1573年前後甲府の武田信玄が亡くなった。
確かに義昭を追放してからの領土拡大につき後年秀吉のような小田原攻めや島津攻略とまではいかず、毛利水軍と対峙応援に駆けつける本能寺で光秀に討たれた

133: 日本@名無史さん 2014/09/06(土) 23:47:57.35
京都から追放しただけで幕府を滅ぼしてない
京都追放後も安芸で幕府は存続し権威を持ち続けている
当時の感覚では大内や三好のように、信長も一時的に京都を占領した奴の1人に過ぎない

134: 日本@名無史さん 2014/09/07(日) 00:07:20.72
幕政を動かしていた官僚たちの大半は義昭に同行せず京都残留、信長に従っていた

室町将軍15代に含まれない堺幕府が幕府の官僚の少なからぬ部分を引き入れていたのと違い、鞆幕府(公方)としての義昭は幕府の名に値しない亡命政権。
将軍職を保持しているだけで政治的な実態はすでに失っている。

この時点で信長は、簒奪者・成り上がり扱いながらも、すでに天下人であり、室町幕府に代わる新政権として広く認められている。
それゆえに、室町幕府滅亡とみなされるわけ。

135: 日本@名無史さん 2014/09/10(水) 19:34:14.95
他サイトからの転載~全国の石高

これ見ると織田と今川の勢力は互角なんだけど・・・?


no title

138: 日本@名無史さん 2014/09/10(水) 21:30:15.80
>>135
信長はまだ尾張統一してなかったし、今川は北畠と組んで海上封鎖してる
当時の信長はジリ貧状態

136: 日本@名無史さん 2014/09/10(水) 20:21:03.60
快進撃は美濃穫ってからでしょ。
結構な年数かけてるよね美濃に

140: 日本@名無史さん 2014/09/13(土) 01:41:07.93
北部や西部の一部が織田領じゃなかったり、南部や東部を中心にかなり今川領になっていたりするからな
尾張の半分ぐらいは信長の領地じゃない

信長が動員した兵力は5000以上はいるとは言え、万には遠く届かないだろ
それに、桶狭間での衝突より以前の前哨戦の段階で、1500以上の兵が敗走ないし壊走して失われてるしな
主要な城の残留部隊を差し引いたら、2千数百ぐらいしか桶狭間の現場には行ってないんじゃないの。

142: 日本@名無史さん 2014/09/13(土) 07:11:02.28
石高の割に桶狭間で用意できた兵って3千程度だったんだな 異常に少なすぎない?

143: 日本@名無史さん 2014/09/13(土) 14:55:28.01
弓、槍、斬馬刀持っていたのはそんな程度じゃね?
鉄生産量が江戸時代より多いとも思えんし

大半、投石部隊や棍棒部隊の方が多かったりしても不思議じゃない

145: 日本@名無史さん 2014/09/13(土) 16:00:05.46
国府を落として尾張一円支配できたのが桶狭間の直前だし。
雑兵でよければもっと集められるけど募兵は計画的にやるもので、攻められたから募兵するんでは間に合わない。

148: 日本@名無史さん 2014/09/13(土) 18:26:10.61
>>145
国府って清洲じゃなかったの?
岩倉とか犬山あたりには斉藤と連携してたんじゃなかろうかって感じの親族やら守護代がいたが。

それより、南部を含め広範囲に今川領が散在してたことを考えれば、尾張のうち信長の支配下に合った範囲が限られてるだろ。半分よりは広かっただろうが、尾張一円とは言えないはず

147: 日本@名無史さん 2014/09/13(土) 16:47:03.03
今までもさんざん言われてるように、尾張の半分くらいは信長の支配下じゃなかった上に、それ以外にも信長に懐疑的な連中は少なからずいたから
例えば柴田勝家なんかも、桶狭間で活躍したことを示す資料は残ってないし

172: 日本@名無史さん 2014/10/10(金) 22:55:21.67
清洲同盟がでかい
家康と同盟を結んで国境を決めることで小勢力が日和見できなくなってしまった
清洲同盟で信長は尾張の完全掌握を成し遂げたのさ

引用元: ・なぜ桶狭間の戦いの後、信長の快進撃が続いたのか?