夜、テレビの向こうの背広を着た男性が、「宮崎何某の死刑が執行された」と伝えていた。正直、わたしにはどうでもいい出来事であるが、つい先日の、秋葉原通り魔事件のときにも感じた、犯人の内面に通じるかもしれない、わたしのなかのわたしにも説明しきれぬ心の模様を、ふと、また意識してしまった。そしてそれはこの宮崎何某にも、ずっとずっとたどっていけば通じるのかもしれないとの思いに至った。■こんな奴ら(人道に反する犯罪者)は極刑だと、絶対の自信をもっていえる、“良心的”な人間よりも、わたしは、はるかに、宮崎何某や通り魔事件の犯人に近いのかもしれない。(もちろん、わたしは犯罪者でないし、これまでの人生で「人を殺したい」などと思ったことは、ない。わたしの刃は、わたし自身に向いており、それが彼らとの決定的な違いなのだろう)。■先日の「多様化」を求める話は、どこか高い場所からの意見ではなく、わたしがわたし自身の内面にこそ「それが必要」と思い、書いたのである。社会にナニナニが必要という場合、実は、社会なんてまぼろしに求めるのではなく、自分の内面にこそ、それを求めればいいのだろう。
青大将?
玄関を守るようにヘビがいた (本日午後撮影)
翌日(18日)の追記
*最近にしては珍しくNHK以外のニュース番組(ニュース23)を見た。そしたら、そこで、「死刑反対論者は遺族の気持ちを分かっていない」「見せしめ、多いに結構」など、なんだか、イケイケどんどん!的な、視聴者の意見が紹介されていた。わたしは怖くなった。その視聴者たちの空気こそが怖くなった。うまくいえないが、そこには、自分のエゴや不安を投影しただけの思いが先頭になって渦巻いているようで。
*わたしは死刑制度に関して、賛成でも、反対でも、どちらでもない。考えたことがないのだ。
*たとえば、子供が被害者になる事件が起きると、「同じような年齢の子供をもつ」親の発言が、説得力ありげな参考意見として、ニュース番組などで紹介される。一見、「被害者家族」に似た環境の者の意見は、“もっとも”のように映る。いや、事実、もっとも、なのだろう。そういったことを根幹に社会は成り立つのだろう。しかし、そういった「情」だけで社会を動かそうとするのはおそろしい。「情」は説得力があり、おおいに参考にすべきだろうと思うけれど、社会を運営していくには、「情」だけでなく、時には「情を押殺して」でも、情を乗り越えたものも、重視されなければならないのではないか。
*先のテレビに紹介された視聴者の意見に戻るが、「死をもって償う」という言葉が、やけに目についた。不思議でたまらん。人を殺してしまったら、なにをもっても償うことなど、不可能ではないのか? まあ、みなさん、「償えるわけではない」とは分かっていて、「少しでも、償いに見せかけられる、それに近い行為」として、「死をもって償う」という言い回しを使っているだけだと思うけど。「死んで償えるものなど、なにもない」と、わたしは考える。
*葬式や法事が遺族のための行いだとすれば、この死刑制度というのも、被害者の遺族&残された社会に生きる者たちのためにある、といっても、間違いではなかろう。
*犯罪被害者家族のなかに、死刑反対の立場を公にしている方がいるらしい。(わたしはよくわからないが、被害者家族のなかでこの立場をとるのは非常に勇気がいるらしいな)。「加害者の本心を知るためには、加害者を生かしておかねば」というような理由らしい。先に書いたように、わたしは死刑制度賛成でも反対でもないけれど、どちらかといえば、この意見に近いかも。
*死刑制度は犯罪の「抑止力になる」という考え方・・・、これ、どうなんだろうな。一歩間違えると、人間のエゴにまみれてしまいそうな考え方だ。
*わたしの深部内面が犯罪者の彼らと通じるかも・・・という話に関し、「(自分のなかにある負の感情を)バクハツするのとしないのとでは大きな溝がある」とか、「そもそもあなたの刃は他人ではなく自身に向かっているのでしょ」などという意見は、ナンセンス。もちろん、「バクハツする・しない」では大きく違うけれど、そーゆー話ではないのだ。また、もちろん、これは誰かを裁いたり、かばったり、の類の話ではない。