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皇后島はいつ、ねずみ島になったか

長崎地名的散歩
05 /31 2017
長崎港に浮かんでいたねずみ島は、港湾開発の埋め立てで
埠頭の一部となり、現在は島ではなくなっている。



むかしのねずみ島
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(国土地理院空中写真サービス 昭和37年撮影)

明治から昭和にかけて、ここは水泳の訓練場であり、市民の
ための海水浴場でもあった。
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私の姉の世代までは、小学生は夏休みになると大波止から
船で数分のこの島へ渡り、水泳教室に通った。

船はハシケに屋根をつけたような団平船(ダンベセン)で、
乗客は立ったまま乗る。揺れたら波がザプンと床に入って
来るというスリリングな乗り物だった記憶がある。

子ども達はゴムひもに沢山の五円玉を通した「財布」を
腕に巻いて泳ぎ、休憩時はそれでおやつを買った。
シワシワの濡れた手で五円玉を渡して。


島は無くなったが、高みの部分にはねずみ島の名を冠する
公園が作られ、海岸の一部も自然のまま残されている。
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何も残ってないよりはいい。


すぐそばには大きな金属ゴミのリサイクル所。
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海岸に放置された廃船。「銀杏丸」というらしい。
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どうもこれが観光スポット扱いされているようなのだが、渚には崩落した
サビの塊が、ハングル文字の浣腸などのゴミと一緒に打ち寄せている。
水質汚染で泳げなくなった所なので、どうでもいいのだろうか。

頭の悪い子どもがキャー!と言ってボロ船によじ登り、
床がズボッと抜ける事もありそうだ。残すのなら少し
考えた方がよさそう。


顕彰碑の胸像は、田中直司氏。水泳の先生らしい。
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貧乏で裸なのではない。


この島は、正式名称は皇后島(こうごじま)なのだが、
いつの頃からか「ねずみ島」と呼ばれるようになった。

こちらは、神功皇后伝説があった事を教える石碑。
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長崎周辺の海岸の町には、神功皇后が立ち寄ったという
説話があちこちに残っている。

これは船着き場の跡らしい。ここから上陸したようだ。
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周辺には多くの釣り客。遠くに伊王島大橋も見える。
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「ねずみ島」の由来には、次のものがある。
・中心地だった深堀から見て子(ね)つまり北の方角だから。
・昔、ねずみが大量発生したから。

どちらも根拠が薄い。子の方角をネのスミとは言わんだろう。
それにこの辺りの島は、深堀から見ればすべて北じゃわい。

天敵のいない島でねずみが増えすぎる事があるとは聞くが、
史実なら記録がありそうなもの。


他に由来があるのだろうと考えていたが、「小瀬戸番所」と
いうものが江戸時代にあって、長崎港への外国船の侵入を
見張っていたという話を何かで読み、ピンと立った。いや、
ピンときた。

番所はねずみ島の目の前の海岸にあった。
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現在の市役所小榊出張所うしろの丘の上に、遠見番所。
その丘の中腹には、中番所。
そして海岸近くに、不寝番所。

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(国土地理院空中写真サービス 昭和37年撮影)

この三ヶ所で睨みをきかせていたそうな。

「不寝番」はフネバンでは無く、フシンバンと読むが、
漢文読みで「ネズバン、ネズノバン」とも読む。

交代で、夜通し寝ずの番をした所だ。

話し言葉が皆に判りやすいので「ネズ番所」と呼ばれて
いたと思うのだが、今のところその証拠はない。


つまり、不寝番所の目の前にあるこの島は、月明りの下
いやでも一晩中「寝ず見る島」だったはず。
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これが、ねずみ島の由来ではなかっただろうか。


初めは自分でも「まさかねぇ~」と思ったが、調べたら
「ねずみ」に関する地名で同様の由来と考えられて
いる例が複数見つかり、結局、一番ありそうに思えた。


江戸の直轄地だった長崎。長く続いた太平の世で育った
番人のひとりが、夜の見張りの緊張と退屈を紛らすため、
「寝ずに見る島ねずみ島、トテ、チントンシャン」などと
洒落て言ったのが、だんだん広まったのではないか。

そんな想像をさせるのは、真面目だが根は楽天的な
日本人の話だからだ。


1813年 伊能忠敬作成の地図には、小瀬戸の番所と共に、
すでに「鼠島」と書かれている。

小瀬戸番所が出来たのは1600年台後半。ニックネームが
本名より有名になるまで、100年もあれば充分だろう。

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中途半端に埋まってしまったねずみ島だが、また100年後
くらいにはやっとその価値が認められ、周囲を掘り返し
橋を渡し「ネズミーシーアイランド」などと称して、どっかで
見たようなネズミロボットが泳いでいるかもしれない。


「寝ず見島説」は、思いつきで検証もしていないが、
同様の話を見かけなかったので書いてみた。

ハッ!まさか、くだらなすぎて誰も書かなかったとか‥?


もっと古い文献で「鼠島」の記述が見つかった時は、
即、この記事を消し、何も無かった振りをする予定。

伊木力の地名再考

長崎地名的散歩
05 /30 2017
諫早市多良見町舟津
旧伊木力(いきりき)村の中心部。
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以前、伊木力の地名由来について記事を書いたが、
徳川埋蔵金探しのような中身のない話だったため、
期待して読んだ人は、チェッ!と言った事だろう。

これはいかんよなあアハハハ(^O^)と思ったので、
心からの反省を込めて、もう一度考えてみた。


長崎の小字地名で「桐ノ木(きりのき)」というのを
たまに見かけるのだが、ある日、地名一覧を見ていて
「ノ」がつかない「桐木(きりき)」を発見した。

そして、気づいた。

あいたぁ~!キリキに「イー」ばつけたらイキリキ
なったいね~。うんにゃ、うったまげた~!

と、言うことは、桐木の地名の意味が判れば、
伊木力の地名の謎も解ける可能性が高い!


キリキ・キリノキは、大体は桐木・桐ノ木と書かれるが、
家具に使われる桐の木がある場所という訳ではない。

桐の木がある所にいちいち桐の木地名をつけていたら
桐がないからだ。 うむ、つまらん。


桐木、桐ノ木の意味を、地形地名用語で考えてみよう。

キリ=①切ったような形状
    ②「断(き)る」で崖の事
    ③農地や住居、道路のために土地を切り開く事
      
キ=①~の所
   ②キワ、縁、端、限り、境界地
   ③キワなので崖の事
  
ノキ=「退き」の意で崩壊の怖れがある崖の事。


いろいろな解釈があって断定するのは難しい。

傾斜地の畑作地帯なので、どれも一応当てはまり、
いろいろな組合せパターンが成り立つ。

結果、自分が想定した答えに向かってのこじつけに
なりやすいので、客観的な視点が大事だ。


桐木地名の土地を、航空写真や現地調査で確認して
意味を検討した結果、 「切ったような形状の斜面」 
というのが一番合っているように思った。

切ったような斜面というのは、浸食や崩壊によって
「山の斜面にタテ方向に切り削られた谷」のこと。

山あいの谷ではなく、連続する斜面の一部が不自然に
切り削られた状態になっている所を指すようだ。

諫早市久山町旧茶屋の近くに「桐木」の小字がある。
長崎県小字地名総覧での読みは、「きりのき」。
江戸時代の古地図を見ると、桐木山と書いてあった。

現地を見ても木や草で覆われていてよく判らないが、
航空写真を見ると、山の斜面が大きくタテに切れた
地形になっている。
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国土地理院空中写真サービス 昭和50年撮影 より

キリキとキリノキは違いがあるのかという点だが、
確認した事例から見る限り、同じだろうと思う。

他の地域の桐ノ木地名の所も、地図と航空写真で
同様の地形がいくつか確認できた。

・五島市岐宿町川原 大桐木(おおきりぎ)
・長崎市西海町木場 桐木
・長崎市中里町 桐ノ木
・長崎市現川 桐ノ木谷


では、
伊木力のとは何か。

最初につくイは、意味を強める接頭語の場合が多い。
つまり「すんごく切り削られた谷」となる。
とりあえずこれで進めよう。


地名の由来を考える場合は、まず、その地名が
どの範囲を指すのか、全体なのか一部なのかを
想定する必要がある。

旧伊木力村は、舟津郷、野川内郷、山川内郷、
佐瀬郷の四郷。

舟津地区以外は、だいたい地形通りの地名。
・野川内 川沿いの緩傾斜地
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・山川内 山あいを流れる川沿いの地
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・佐瀬 山に囲まれて狭い川瀬の地 
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舟津は「船着場」の事だが、範囲が山の上までと広い。
元々はこの辺りの地形を、イキリキと表現したの
ではないかと考え、舟津周辺を検討エリアとした。


さてここに、「すんごく切り削られた谷」があるか。
舟津周辺を航空写真やGoogleストリートビューで見る。


谷があることはあるが、さほどインパクトを感じない。

現在、斜面の大半は畑になっており、麓には住宅も
多く建っていて、元の地形は判りにくい。

ただ、少し離れてはいるが、水田を挟んだ元釜地区の
大草駅周辺の崖には、くし歯のように侵食された谷が
いくつも並んでいる。
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イキリキという地域が最初はもっと広い範囲だった
としたら、これがイキリキの可能性もありそうだ。

旧伊木力村全体でも探したところ、キリキの地形は
他にもあったが、そう目立つものではなかった。


とにもかくにも、現地へ行って確認する事にしよう。


まず、大草駅方面の山の斜面を眺めて見たが、
実際に、切れた地形はハッキリは見えなかった。
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至って普通の山の風景だ。


不審者と思われながら辺りをうろつきまわった結果、
集落の背後に、三つの大きな「キリキ」を確認できた。
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まずひとつ目。一番北側の谷。

新しい国道207号線の高架橋が架かっている所から
山を見上げてみると、頂上付近から切れたように
ずっと斜面になっており、段々畑が続いている。
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近づいてみると、なかなかの傾斜地!
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これは、迂闊におむすびを落とせない。

急な斜面を川が流れ、谷の下には農業用水を汲む
設備がある。水量もありそうだ。
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山の上の農道より見る。
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急すぎるのか、この辺は畑にもなっていない。

ふたつ目。

ここは下の方は広めにえぐれたような形状。
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国道の部分には盛土をしてあり、ダムのような格好に
仕切られている。川の水はトンネルを通って海へ。

谷は途中で向きを変え、複雑な形状になっている。
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さらにその隣に、麓からは判りにくいが、奥行きが
一番長くて深い三つ目の谷がある。

深くて険しいためか、上の方は何にも使われていない。

山の上の農道。この奥まで切れ込みが続く。
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この会社の裏の岩からは湧水が滝のように出ていた。

この並んだ大きな谷が、「イキリキ」ではないかと思う。


現在は、谷もほとんどがみかん畑になっているが、
大昔には、大崩落した斜面が頂上付近から麓まで
続き、なかなか壮観だったに違いない。

スッキリしないのは、キリキを強調するのなら、
「大キリキ」でもよかったのではないかと言う点。
なぜ「イ」だったのか。

もしかしたら「イ」は、生活に必要な「井」、
つまり谷川の水の事を言ったのかもしれない。

崖ばかりの土地でも、水さえあれば何とかなる。
幸い、ここには谷川があり、みかん山の農業用水に
利用できるほどの大量の水が流れている。

伊木力の地名がつけられたのが、いつの時代かは
判らないが、ここには縄文時代から人が住んでいる。

波静かな大村湾の奥なので、魚や貝も獲りやすく
遥か昔から人が暮らしやすい土地だったのだろう。
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以上が、伊木力の地名について再度検討した結果。
全然違うかもしれないが、前回よりはマシなはず。


それにしても、伊木力を含め多良見のみかん山に登ると、
開拓農家のたくましさというものを感じる。
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儲かるというのもあるのだろうが、少しでも少しでもと
畑を広げていって、縦横無尽に道路がつながり、今では
山の斜面全体がほぼみかん畑になっている。

「キリ」には開拓するという意味もある。
イキリキは、「すごい開拓地」とも言えるだろう。


みかん山は、松の頭峠を越えて長与町まで続く。
長与町もまた、みかんの町。

麓の本川内駅からトンネルを抜け、旧伊木力村を通って
大草まで、JR線路沿いにもみかん畑の風景が広がる。
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それは、三十数年前スリムだった私が、学校帰りの汽車の
窓から眺めた風景と、まだそんなには変わっていない。

Ramblingbird

長崎南部の自転車散歩やどうでもいい出来事を、小学生ギャグを交えて書き散らします。お下劣な表現を含みますのでご注意下さい。 

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