[5] 池田大作×茂木健一郎 往復書簡(第五信と第六信)

『中央公論』2010年4月号から全文を無断転載

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 【第五信】 茂木健一郎 ⇒ 池田大作 

 お手紙をいただき、ありがとうございます。
 東西を隔てていた壁が崩壊してから二〇年経ったベルリンで、これまでのやり取りを改めて読み返しておりました。私のような若輩者に、池田さんが胸襟を開いて対してくださったことに、深く感謝しております。
 ドイツにおける冷戦の象徴は消え去って月日が経ちました。しかし、人間の社会の中には、今もなお数多くの「壁」が存在し続けているように思われます。そんな中で、誤解に基づく対立が、まるで「化石」のように温存され続けているケースも多いようです。
 もともと、私が「池田大作さんとお話ししてみたい」という希望を抱いた理由の一つは、日本のメディアの中で、池田さんが長年指導されてきた「創価学会」、及び池田大作さん御本人の扱われように違和感を抱いていたという点にあります。
 全国に百万人単位の会員が存在する創価学会。そこに集う人たちにとっては、生きることの糧、支えになってきたのでしょう。ゆかりの深い「公明党」は、一〇年にわたって連立政権に参加してきました。そのように日本の中で大きな意味合いを待ってきた組織に向き合うことが「タブー」であるような状況はおかしい。そこには、人工的につくられた「壁」がある。そのことによって、大切な対話が閉ざされている。そのように感じてきました。
 少なくとも、自分たちと同じ社会の構成メンバーのうち、かなりの人たちが関わっている組織に対して、温かい関心を抱かないのは良いことなのでしょうか。自分の隣人に対する眼差しを閉ざしてしまうことは、どんな場合にも正しいこととは思えません。私は、多方面に大きな影響を及ぼしてきた池田大作さん御本人と対話することで、「壁」を溶かしてみたいと願ったのです。
 その過程で、一般のメディアの中で報じられている池田さんの姿とは異なる、一人の人間が浮かび上がってくるのではないかと期待しておりました。その期待は、裏切られませんでした。これまでお手紙をやりとりする中で、池田大作さんのすぐれた学識、人間が生きるということの困難や喜びについての深い洞察が伝わってきました。また、組織の功罪についても、さまざまな思いを抱かれていることが感じられました。
 おかげで、「壁」の向こうが少し見えてきたように思います。本当に、ありがとうございました。心から、感謝いたします。
 すでに申し上げたように、私自身は、どんな宗教組織にも関係しておりません。子どもの頃から、さまざまな団体の方とお話をする機会がありました。一番最近では、取材で訪れたソルトレークシティで、モルモン教の方々とずいぶん話し込みました。しかし、結果としてはどの組織にも所属しようとは思わなかった。ある特定の組織と関わることによって私の心身に起こるであろう変化を、警戒する気持ちが人一倍強かったのかもしれません。
 組織というものは、時に不便なものです。宗教に関わる組織だけの話ではありません。たとえば、「大学」という組織で言えば、「入試」や「卒業」といった決まり事があります。「入試」という通過儀礼を経なければ、大学という組織の恩恵を受けることができない。キャンパスの容量などの物理的制約から、ある程度は仕方がないこととは言いながら、そのことによって、人と人との自由闊達さが随分失われてきているように思います。
 仮に、尊敬できる先生がいたとして、その人に師事するためには、「入試」という制度を経て、その大学に「所属」しなければならない。インターネットによって世界が瞬時に結ばれる時代に、そのような壁は、いかにも不自由に思われます。
 私は、これからの時代を考える上での一つのキーワードは、「脱組織」ということではないかと考えています。下手をすれば、さまざまな組織というものが壁になってしまう。組織という括りを離れて、一人の人間として自由に活動することが、大切になるのではないかと考えるのです。
 幕末の志士、坂本龍馬は土佐藩を脱することで、思いのままに活動する自由を得ました。二十六歳の時、郊外にある和霊神社に参拝した龍馬は、「吉野に桜を見に行く」といって、そのまま土佐を離れていったのです。
 当時、「脱藩」は、もし捕まれば本人は切腹、縁者にも累が及びかねない重罪でした。龍馬の行動には、今日の日本で会社を辞めるというのとは比較にならないほどの重みがあった。それでも、行き詰まっていた当時の日本を打開するためには、脱藩せざるを得ないと龍馬は思ったのでしょう。
 よく知られているように、脱藩した後の龍馬の活躍は目覚ましいものでした。勝海舟に会いに行き、その人柄に惚れて弟子入りします(龍馬は、当初は勝海舟を暗殺するために会いに行ったという説もあります)。脱藩仲間を集めて、「貿易商社」である「亀山社中」(後の「海援隊」)を結成。武器などの輸入を行います。長州の桂小五郎と薩摩の西郷隆盛の間を取り待ち、「薩長同盟」を結ぶことに尽力しました。明治新政府の体制に影響を与えた「船中八策」を立案。そして、世界史上でも希に見る「無血革命」であった「大政奉還」を実現します。
 大政奉還が成った直後、何者かに京都で暗殺された坂本龍馬。幕末という激動の時代を、目覚ましい活躍を見せながら駆け抜けたのです。疑いなく「偉人」の一人である龍馬ですが、その人となりは現代の私だちと比較して、決して遠い存在ではないように思われます。
「寺田屋事件」において、危うく難を逃れた坂本龍馬は、妻のおりょうと一緒に霧島へと日本で初の「新婚旅行」に出かけます。「強さ」よりは、むしろ「優しさ」や「共感力」で周囲の人々を動かした坂本龍馬。今日の私たちにも手が届くように思われる存在だからこそ、龍馬は根強い人気を持ち続けているのでしょう。
 龍馬の活躍は、「土佐藩」という組織の論理に縛られていては、とても不可能だったことでしょう。組織というものは、人間の自由闊達な精神を時に奪ってしまうものです。今日の大学における「入試」などの手続きがあっては、龍馬が勝海舟に即座に「弟子入り」することは不可能だったことでしょう。組織を離れて自由に考え、行動する勇気を持っていたからこそ、龍馬は新しい時代を切り開くことができたのです。
 もちろん、世の中には、組織がなければできないこともたくさんあります。一つの思想、ある生き方をあまねく届かせようとすれば、いろいろと妥協したり、我慢したりしなければならないこともあるのでしょう。組織というものは、結局、社会的存在である人間が持っている「原罪」のようなものなのかもしれません。
 池田大作さんは、世界のさまざまな方々との対話を重ねることによって、日本という社会を実質上「脱藩」されたのではないかという思いがよぎります。今回、お手紙をやりとりさせていただくことで、池田大作さんの肉声、一人の人間としての息づかいのようなものを受け取ることができたことは、幸せなことでした。組織という発想にとらわれて、個人を見ることがなかなかできないというのが、現代の日本の悪弊なのでありましょう。
 池田さんがトインビー博士と対談された折に博士が発せられたという「悩みを通して智は来たる」という箴言、大変重く受け止めました。おっしゃるように、「悩む」ことで、人は生きるということの深い意味に思い至り、そして叡智に達することができるのではないでしょうか。
 脳科学を研究している私のもとには、現代の日本を生きる若者たちから、多くの悩みが寄せられます。明るい未来をなかなか思い描くことができない社会の中で、自分たちの生き方を設計することができないでいる青年たちがいるのです。
 悩むということは、つまりは、世間で前提とされてしまっていることをそのまま受け入れることなく、自らの頭で最初から考えようとすることです。苦しい道ではあるけれども、それ以外に叡智に達する方法はない。先がなかなか見えないという時にこそ、真理は実はすぐ横にあるのです。
 人間の脳の中には、特定の目的や文脈にとらわれずに活動する時に起動される「デフォルト・ネットワーク」と呼ばれる神経回路網があります。正解がなかなかわからない。そんな中で、懸命に模索する。そのような心の状態の時にデフォルト・ネットワークは活動します。
 脱藩する。悩む。壁を乗り越えようとする。今までのやり方を越えて未踏の地に踏み込もうとする時に、脳のデフォルト・ネットワークが支えてくれる。お話を伺って、池田大作さんの生涯そのものが、そのような悩みと迷いの積み重ねであったのだと確信いたしました。だからこそ、池田さんは、さまざまなことを見て、感じ、自分のものとすることができた。
 池田大作さんの言われる「慈悲」は、現代社会の中にあるさまざまな壁を乗り越える原理になってくれるのでしょう。人は一人ではない。お互いに悩みや不安を分かち合うことができる。「共苦」という、人間の脳に備わったすばらしい働き。もし、現代人の「生まれ出づる悩み」を分かち合う場として機能するならば、その点において組織に積極的な意義を見出すことができる。
 ベルリンで、壁についての資料館を訪れました。印象的だったのは、壁ができるプロセスについての記録写真でした。一九六一年八月に始まった壁の建設。最初は、その高さも低く、どこか牧歌的な雰囲気さえ漂います。子どもたちが肩車をして壁の向こう側を見たり、壁のこちら側と向こう側で、手を振って挨拶をしたりしているのです。
 最初はやわらかな印象さえあった壁。それが、徐々に高くなり、やがて兵士が監視する無人ゾーンが出来上がります。壁を乗り越えて向こう側に行こうとする者は、狙撃される。多くの人が、東西分断の犠牲になりました。
 最初は大した壁ではないと思っていても、油断しているうちに、いつの間にか行き来ができない絶対的な障害になっている。似たようなことは、私たちの社会の中にたくさんあるのではないでしょうか。
 池田大作さんの言われるように、「悩み」を共有すること。そして、「慈悲」の心を持って、他者に接すること。そのような気持ちを忘れなければ、壁はいつか壁ではなくなるのではないかと確信いたします。
 多くのことを学ばせていただきました。本当にありがとうございました。お便りの文面から伝わってきた温かいお人柄の感触、決して忘れません。
 なかなか光が差さないかにも見える今日の世界の中で、未来にささやかな希望を抱きつつ、ペンを置かせていただきます。


 【第六信】 池田大作 ⇒ 茂木健一郎 

 温かな思いにあふれた、ベルリンからのお手紙、感銘深く拝見いたしました。
 芳書に記されていた通り、人生も社会も、立ちはだかる「壁」との戦いの連続でしょう。茂木さんが探究されている脳科学からは、壁があればあるほど、それを乗り越えゆく英知を引き出そうという息吹が伝わってきます。
 茂木さんとの往復書簡を通して、私のほうこそ新鮮な啓発を受け、多くのことを学ばせていただきました。心より御礼申し上げます。
 書面を拝見し、私も、一九六一年十月に、初めてベルリンを訪れた日のことを思い起こしました。東西対立の象徴となった分断の「壁」が築かれ始めて、二ヵ月後のことです。
 ブランデンブルク門の手前では、霧雨の中、銃を担いだ兵士たちが警備に立ち、装甲車も走り、厳戒態勢が布かれておりました。
 東西の境界線となるベルナウアー通りには、そこかしこに花束が置かれていました。東から西へ逃れようとして、建物から飛び降りて亡くなった方々へ、市民が手向けた花です。銃弾の跡も、痛ましく残されておりました。
 案内してくれた壮年のドライバーが、親族と引き裂かれた悔しさを涙ながらに語っていたことも、忘れられません。
 私は、同行の青年たちと心に期しました。
 「どんなに強大な権力の壁も、心まで分かつことはできない。対話の力で心と心を結んでいけば、『壁』は必ずなくせるはずだ」
 当時、私は三十三歳。この若き情熱のまま、一民間人として対話の波を世界へ広げてきました。
 それから二八年後、ベルリンの「壁」は立ち上がった民衆の手で崩されました。「人間がつくった問題は人間によって打開できる」ことの証明の劇であったとも言えましょう。
 歴史転回の指揮を執られた統一ドイツのワイツゼッカー初代大統領とお会いしたのは、「壁」の崩壊から二年後のことでした。
 この折、私は大統領に尋ねました。
「多くの人々は、東が西に学ばねばならないと言います。しかし、むしろ、私がお聞きしたいのは、東のほうが西よりも優れている点は何かということです」
 哲人大統領は、質問に込めた私の心を汲んでくださり、東の人々の「連帯する力」など、「精神文化の財産」への敬意を語られました。そして「大切なのは、互いに尊敬し合って、見つめ合うことです。相手を見下すことは許されません」と結論されたのです。
 二十一世紀も、新しい一〇年へ進んでいます。
 「異なる他者と学び合い、尊敬し合うこと」──人類は今こそ、この共通の地平に立つべき時を迎えているのではないでしょうか。心を結び、力を合わせて、打ち破らねばならぬ“分断の壁”は、いまだ幾つもあるからです。
 分厚い壁を勇敢に突き破り、新しき時代を開いた先例として、茂木さんは、坂本龍馬の「脱藩」を挙げられました。
 私の恩師も龍馬が大好きでした。よく龍馬の話を、青年に聞かせてくれたものです。
 暗殺される九日前、龍馬は若き同志の陸奥宗光(のちの外相)に書き送っております。
「世界の話でもしようではないか。最近は、おもしろい話も、興味深い話も、実に実に山のようにたくさんある」
 大政奉還を成し遂げた功労者でありながら、栄誉栄達などには少しも汲々としなかった。
「藩」に続いて、龍馬は日本という「島国」の壁も、愉快に飛び越えて、世界との連帯の航路を創りゆこうとしていたのでしょう。
 中国や韓国の私の友人にも、龍馬に好意を寄せる人は少なくありません。
 龍馬の挑戦──それは、現代の日本社会に垂れこめた閉塞感を打ち破りながら、新しい知の世界を生き生きと開拓されゆく茂木さんの尊き努力とも、相通じます。

「壁」を破れば、新たな視界が開ける──このことを、大乗仏教の精髄である法華経は、壮大なドラマを通して示しております。
 法華経の舞台構成は、「二処(にしょ)三会(さんえ)」と言われます。これは、二つの場所で三つの会座(えざ)がもたれることです。
 全体の二十八品(章)のうち、前編の第一章から第十章までは、釈尊は、インドに実際に存在する「霊(りょう)鷲山(じゅせん)」という岩山で法を説いたとされます。
 それが、中編の第十一章から第二十二章では、舞台は一転して「虚空(こくう)」という大空間に移ります。ここでは、地球大のスケールの荘厳な宝の塔が出現します。そして釈尊とともに、一座の衆生も、その虚空会へと引き上げられるのです。おとぎ話のように聞こえる物語の展開は、不可思議な人間生命の大きさとダイナミズムを表現しているともいえましょう。
 大地は、いうなれば、生老病死の苦悩が渦巻く現実の世界です。これに対し、虚空とは、仏の広大無辺の境涯です。そこには、時間や空間の制約も超えた、永遠にして自在無礙(じざいむげ)の生命力が満ちあふれています。
 虚空会に連なった衆生は、釈尊と同じ尊い境地へ向上していくことができる。
 譬えるならば、地上において、目の前の壁と悪戦苦闘していた心が、その壁を悠々と見下ろせる天空の高みヘ一挙に上昇するのです。
 それは、茂木さんが志向されている「人間の自由闊達な精神」とも響き合うものでありましょう。
 トインビー博士が、オックスフォード大学に一時亡命していたアインシュタイン博士の逸話を紹介されたことがあります(『交遊録』、長谷川松治訳、社会思想社刊)。
 ──ナチスとの戦いの渦中にあっても、あまりにも自由闊達なアインシュタイン博士に、ある教授は思わず尋ねた。「何を考えているのですか」。すると、アインシュタイン博士は答えた。「この地球は、要するに、きわめて小さな星にすぎない、ということです」と。
 ともあれ、私たちの生命が、本来、どれほど、伸びやかな広がりをもっていることか。
 ゆえに、どんな困難な壁に直面しても、決して押しつぶされない。いかなる壁も勝ち越えゆく智慧と力を、人間は「心の宇宙」から湧きいだしていくことができる。
 これが、脳科学とも深く共鳴する、法華経の励ましのメッセージなのです。
 法華経の後編の第二十三章から終章では、舞台は、「虚空会」から「霊鷲山」に戻ります。すなわち、霊鷲山→虚空→霊鷲山という往還になります。
 師・釈尊の教えを受けて、自らの尊貴な生命に目覚め、崇高な使命を担い立った弟子たちは、再び悩みの絶えぬ現実世界へ突入して、人々のための行動を貫いていくのです。
その精神を、仏法では「願兼於業(がんけんおごう)」(願(ねがい)、業(ごう)を兼(か)ぬ)と説きます。すなわち、衆生を救済しようとする願いの力によって、あえて悪業の世に生まれ、人々の苦悩を引き受けて戦う心です。
 たとえ、自分は一人で悠々と自由を謳歌できる境遇にあったとしても、そこから、民衆の幸福のため、社会の平和のために、勇んで人間群の中へ飛び込んでいく生き方です。
 仏法の目から見るならば、人を幸福にできる人が真に幸福である。人を自由にできる人が真に自由なのです。
 日本の軍部政府に弾圧された二年間の獄中闘争にあって、この法華経の生命尊厳の哲理を深く体得したのが、戸田会長です。恩師は、その真髄を「人間革命」運動として現代に蘇生させ、民衆組織を創り上げてきました。
 軍国主義に苦しめられた恩師ですから、軍隊に象徴される組織悪も嫌というほど知悉していました。しかし、だからこそ、庶民の一人ひとりが強く賢く向上しながら、連帯しゆく組織を構築しない限り、日本はいずれまた、権力の魔性に翻弄されてしまうと憂慮していたのでしょう。
「貧乏人と病人の集まり」という悪口をも、むしろ誇りとしながら、恩師と私たち弟子は悩める友と固く広く手を携えてきました。
 恩師は「戸田の命よりも大切な民衆の組織」と遺言し、この庶民の和合を世界へ広げゆくことを、若い私に託されたのです。
 太平洋戦争の悲劇の激戦地の一つであったグアム島に、五一ヵ国・地域の代表が集ってSGI(創価学会インタナショナル)が発足したのは、一九七五年一月のことです。
 この折、私は署名簿にサインを求められ、国籍欄には「世界」と記しました。今、仏法を基調とした平和・文化・教育の連帯は一九二カ国・地域に広がりました。
 北は経済危機と戦うアイスランドからも、南はサッカーのワールド杯が開催される南アフリカからも、それこそ世界中から四六時中、間断なく報告が届きます。一通の手紙やメール、一枚のファックスの向こうには、必死に現実と格闘している友がいる。一回の会合をとっても、集った方々の人生は、みな違う。十人いれば十の悩みがあり、百人いれば百の苦しみがあります。
 しかし、その一人ひとりが必ず「人間革命」をして、自他共に幸福を勝ち開くことができる。この希望の哲学を、わが友に贈りゆくために、私たちの組織があるのです。
 今日、多くの人々は、「組織は所詮、悪に転化するものだ」というシニシズム(冷笑主義)を抱いているといっても過言ではありません。
 その背景には、二十世紀のナチズムやスターリニズムがおぞましいまでに見せつけた、「組織のための人間」という悲惨な転倒があります。さらにまた、硬直した官僚主義の冷酷さなどに接する時、組織を「原罪」に譬えられた茂木さんの心情もよく理解できます。
 茂木さんの「脱組織」という問題提起は、「組織の中に、果たして人間主義は可能なのか」という問いかけにも置き換えられるでしょう。
「人間のための組織」なのか、「組織のための人間」なのか。どんなに善意から生まれた組織であっても、やがて「組織のための人間」という転倒や硬直化は避けられないのか──。
 私自身は、「人間のための組織」は可能であると信じております。いな、人類は「人間のための組織」の創造に永遠に挑んでいかねばならないと、確信しております。
 核兵器の廃絶のために生涯を捧げられた、パグウォッシュ会議のロートブラット名誉会長が最晩年に渾身の力で取り組まれたのも、若い科学者のための組織の結成でありました。
 茂木さんは語られました。
「もし、現代人の『生まれ出づる悩み』を分かち合う場として機能するならば、その点において組織に積極的な意義を見出すことができる」と。まったく同感であります。
 ダイヤモンドは、ダイヤモンドでなければ磨けない。人間も人間でなければ磨けません。個々人が孤立化を深めゆく現代社会にあって、青少年を励まし伸ばしゆく教育力の結合、さらにまた、高齢者を護り支える地域力のネットワークは、ますます切実に要請されているのではないでしょうか。
 アメリカの未来学者ヘンダーソン博士は、一人の母として、子どもたちを苦しめる環境汚染に立ち上がり、草の根の市民運動を広げてきた女性です。この博士との対談で深く一致したことがあります。
 それは、民衆自身の手で、一人ひとりの精神を目覚めさせていく「民衆の民衆による民衆のためのエンパワーメント(力を与えること)」こそ、世界を真に変革していく原動力になる。そして、各人が自立して成長を続ける組織をつくるためには、何にもまして、女性の意見、母たちの声を大切にしていかねばならない、ということです。
 紙幅の都合で、茂木さんとの往復書簡が、ここで終わらねばならないのは残念です。
 しかし、私は茂木さんの「脳」の探究の中から、新たな希望の光が輝き出ることを信じてやみません。人間生命こそ、人類の永遠の「フロンティア」なのですから!
 かつての小学校の担任の先生が、世界を飛び回る私の健康を案じ、お手紙をくださったことがあります。そこには「高く茂れる木は、強い風に耐えねばならぬ」との励ましが綴られておりました。新時代の天空へ屹立する知性の大樹たる茂木さんに、この一言を謹んでお贈りしたい。
 ともあれ、壁との戦いは永遠に続きます。先日、再会した、冷戦終結の立役者ゴルバチョフ元ソ連大統領とも、私は、「どんな壁も必ず打ち破れるのだ」という勇気を、今再び、青年に贈っていこうと約し合いました。
 若き世代の先頭に立たれる茂木さんのますますの御活躍を心から祈りつつ、私の拙い筆を置くことにします。ありがとうございました。

この記事へのコメント

めちゃくちゃ
2010年11月06日 11:24
感動しました。
心が震えるとはこのことでしょうか
すまぴー
2011年02月10日 18:04
結局、茂木氏はやんわりと批判していました。
sz
2012年04月25日 03:23
対話ににじみ出る人格を感じ、本当に感動した。やはり語り合いの中からこそ見出せる人間の本質というものがある。
なみ
2013年04月23日 23:07
感動した。
見入った。

素晴らしい対談だった。
寝太郎
2013年12月21日 01:28
>私の恩師である戸田城聖・創価学会第二代会長は、よく話っておりました。
「日蓮をはじめ、釈尊、キリスト、マホメット(ムハンマド)といった宗教の創始者たちが一堂に会して『会議』を開けば、話は早いのだ」と。

これが駄目でしょう。仏教にもいろいろなセクトがある。日蓮を出すのならば、我々の教祖もと、何千何万の「宗教の創始者」が一堂に会したら(会しませんが)会議は開けません。池田氏は日蓮を一歩譲って「釈尊」に帰することをよしとすべきです。
こういち
2022年10月26日 15:16
素晴らしい内容でした。
当時、読めなかったので大変感謝しております。
ありがとうございました。

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