[7] 臨終について

「新・人間革命」(4482) 『母の詩 三十一』を無断転載
                     (聖教新聞 平成22年11月6日付け) 



 山本伸一は、母の幸に、日寛上人の「臨終用心抄」を要約して講義し、力強く訴えた。
 「日蓮大聖人は、題目を唱え抜いていくならば、成仏は絶対に間違いないと、お約束されています。
  伝教大師が受けた相伝にも、『臨終の時南無妙法蓮華経と唱へば妙法の功に由て速かに菩提を成じ……』(注)とあるんです」
 そして、伸一は、傍らの御書を開き、「松野殿御返事」を拝読していった。
 「『退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ、妙覚の山に走り登って四方をきっと見るならば・あら面白や法界寂光土にして瑠璃を以って地とし・金の縄を以って八の道を界へり、天より四種の花ふり虚空に音楽聞えて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや、我れ等も其の数に列なりて遊戯し楽むべき事はや近づけり』(御書1386ページ)
 大聖人は、“退転することなく仏道修行を重ねて、最後の、臨終の時を待ってご覧なさい。そうすれば、必ず寂光土に行くことができる”と言われているんです。そして、その世界について、こう述べられています。
 『妙覚の山に走り登って、四方を見渡せば、なんと、すばらしいことでしょう。あらゆる世界は、すべて寂光土で、地面には、瑠璃が敷き詰められ、金の縄で、涅槃に至る八つの道の境が作られている。
 天からは、四種類の花が降り、空には音楽が聞こえ、もろもろの仏や菩薩は、常楽我浄の風にそよめき、心から楽しんでおられる。私たちも、そのなかに入り、自在の境地を得て、楽しんでいける時は、もう近いのだ』
 つまり、死も、なんら恐れることはないんです。死後も、楽しく、悠々と大空を翔る大鳥のごとき、自由自在の境涯が待っているんです」
 母の幸は、病床に伏しながら、「うん、うん」と、目を輝かせて頷き、伸一の話を聴いていた。それは、伸一が母のために行う、最初で最後の講義であった。


 *(注)日寛上人著「臨終用心抄」(『富士宗学要集 第三巻』所収)堀日亨編、創価学会






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 ※ 松野殿御返事(御書1386ページ)(抜粋)

 退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ、妙覚の山に走り登って四方をきっと見るならば・あら面白(おもしろ)や法界寂光土にして瑠璃(るり)を以って地とし・金(こがね)の縄(なわ)を以って八(やつ)の道を界(さか)へり、天(そら)より四種の花ふり虚空に音楽(おんがく)聞えて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや、我れ等も其の数に列なりて遊戯し楽むべき事はや近づけり、信心弱くしてはかかる目出たき所に行くべからず行くべからず、不審の事をば尚尚承はるべく候、穴賢穴賢。
  建治二年丙子十二月九日               日 蓮  花押



 ※ 上野殿後家尼御返事(御書1504ページ)(抜粋)

 御供養の物種種給(たび)畢(おわ)んぬ、抑(そもそ)も上野殿死去の後は・をとづれ(音信)冥途より候やらん・き(聞)かまほしくをぼえ候、ただしあるべしとも・をぼえず、もし夢にあらずんば・すがた(姿)をみる事よもあらじ、まぼろし(幻)にあらずんば・みみ(見)え給う事いかが候はん、さだ(定)めて霊山(りょうぜん)浄土にてさば(娑婆)の事をば・ちうやに(昼夜)きき御覧じ候らむ、妻子等は肉眼なればみ(見)させ・き(聞)かせ給う事なし・ついには一所とをぼしめせ、生生世世の間ちぎ(契)りし夫(をとこ)は大海のいさご(沙)のかず(数)よりも・をを(多)くこそをはしまし候いけん、今度のちぎり(契)こそ・まこと(真)のちぎりのをとこ(夫)よ、そのゆへ(故)は・をとこ(夫)のすすめ(勧)によりて法華経の行者とならせ給へば仏とをが(拝)ませ給うべし、いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死とも仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり、法華経の第四に云く、「若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり」云云。
 夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむね(胸)の間にあり、これをさと(悟)るを仏といふ・これにまよ(迷)ふを凡夫と云う、これをさと(悟)るは法華経なり、も(若)ししからば法華経をたも(持)ちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ、たとひ無量億歳のあひだ権教を修行すとも、法華経をはな(離)るるならば・ただいつも地獄なるべし、此の事日蓮が申すにはあらず・釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏の定めをき給いしなり、されば権教を修行する人は火にや(焼)くるもの又火の中へいり、水にしづ(沈)むものなをふち(淵)のそこ(底)へ入るがごとし、法華経をたも(持)たざる人は火と水との中にいたるがごとし、法華経誹謗(ひぼう)の悪知識たる法然・弘法等をたの(侍)み・阿弥陀経・大日経等を信じ給うは・なを火より火の中・水より水のそこ(底)へ入るがごとし、いかでか苦患をまぬ(免)かるべきや、等活・黒縄(こくじょう)・無間地獄の火坑・紅蓮(ぐれん)・大紅蓮の冰の底に入りしづ(沈)み給はん事疑なかるべし、法華経の第二に云く「其の人命終して阿鼻獄に入り是くの如く展転(てんでん)して無数劫(むしゅこう)に至らん」云云。
 故聖霊は此の苦をまぬか(免)れ給い・すでに法華経の行者たる日蓮が檀那なり、経に云く「設い大火に入るも火も焼くこと能わず、若し大水に漂(ただよ)わされ為(て)も其の名号を称れば即ち浅き処を得ん」又云く「火も焼くこと能わず水も漂すこと能わず」云云、あらたの(頼)もしや・たのもしや、




 ※ 妙法尼御前御返事(日蓮大聖人御書全集 1404ページ)(全文)

 御消息に云くめう(妙)ほう(法)れん(蓮)くゑ(華)きやう(経)をよる(夜)ひる(昼)となへまいらせ、すでにちか(近)くなりて二声(ふたこえ)かうしやう(高声)にとなへ、乃至いきて候し時よりもなを(猶)いろ(色)もしろ(白)くかたちもそむ(損)せずと云云。
 法華経に云く「如是(にょぜ)相(そう)乃至(ないし)本末(ほんまつ)究竟等(くきょうとう)」云云、大論に云く「臨終の時色黒き者は地獄に堕(お)つ」等云云、守護経に云く「地獄に堕つるに十五の相・餓鬼に八種の相・畜生に五種の相」等云云、天台大師の摩訶(まか)止観(しかん)に云く「身の黒色は地獄の陰に譬う」等云云、夫以(それおもん)みれば日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命(いのち)は無常なり、出る気(いき)は入る気を待つ事なし・風の前の露尚(なお)譬(たと)えにあらず、かしこ(賢)きもはかな(愚)きも老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先(まず)臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師・人師の書釈あらあらかん(勘)がへあつ(集)めて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並に臨終の後とに引き向えてみ候へばすこ(少)しもくもりなし、此の人は地獄に堕ち給う乃至人天とはみ(見)へて候を、世間の人人或は師匠・父母等の臨終の相をかく(隠)して西方浄土往生とのみ申し候、悲いかな師匠は悪道に堕ちて多くの苦みしの(忍)びがたければ、弟子はとどまりゐて師の臨終をさんだん(讃嘆)し地獄の苦を増長せしむる、譬へばつみ(罪)ふかき者を口をふさ(塞)いできうもん(糾問)しはれ(腫)物の口をあけずしてやま(悩)するがごとし。
 しかるに今の御消息に云くいきて候し時よりも・なをいろ(色)しろ(白)くかたちもそむ(損)せずと云云、天台の云く白白は天に譬ふ、大論に云く「赤白端正なる者は天上を得る」云云、天台大師御臨終の記に云く色白し、玄奘(げんじょう)三蔵御臨終を記して云く色白し、一代聖教を定むる名目に云く「黒業は六道にとどまり白業は四聖となる」此等の文証と現証をもんてかんがへて候に、此の人は天に生ぜるか、はた又法華経の名号を臨終に二反となうと云云、法華経の第七の巻に云く「我滅度の後に於て応(まさ)に此の経を受持すべし、是の人仏道に於て決定して疑有ること無けん」云云、一代の聖教いづれもいづれもをろかなる事は候はず、皆我等が親父・大聖教主釈尊の金言なり皆真実なり皆実語なり、其の中にをいて又小乗・大乗・顕教・密教・権大乗・実大乗あいわかれて候、仏説と申すは二天・三仙・外道・道士の経経にたいし候へば、此等は妄語・仏説は実語にて候、此の実語の中に妄語あり実語あり綺語(きご)もあり悪口もあり、其の中に法華経は実語の中の実語なり・真実の中の真実なり、真言宗と華厳宗と三論と法相と倶舎(ぐしゃ)・成実(じょうじつ)と律宗と念仏宗と禅宗等は実語の中の妄語より立て出だせる宗宗なり、法華宗は此れ等の宗宗には・にるべくもなき実語なり、法華経の実語なるのみならず一代妄語の経経すら法華経の大海に入りぬれば法華経の御力にせめられて実語となり候、いわうや法華経の題目をや、白粉の力は漆(うるし)を変じて雪のごとく白くなす・須弥山に近づく衆色は皆金色なり、法華経の名号を持つ人は一生乃至過去遠遠劫(おんのんごう)の黒業の漆変じて白業の大善となる、いわうや無始の善根皆変じて金色となり候なり。
 しかれば故(こ)聖霊・最後臨終に南無妙法蓮華経と・となへさせ給いしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給う、煩悩(ぼんのう)即(そく)菩提(ぼだい)・生死(しょうじ)即(そく)涅槃(ねはん)・即身成仏と申す法門なり、かかる人のえんの夫妻(つま)にならせ給へば又女人成仏も疑なかるべし、若し此の事虚事ならば釈迦・多宝・十方・分身の諸仏は妄語の人・大妄語の人・悪人なり、一切衆生をたぼらかして地獄におとす人なるべし、提婆達多(だいばだった)は寂光浄土の主(ぬし)となり教主釈尊は阿鼻(あび)大城のほのを(炎)にむせ(咽)び給うべし、日月は落ち大地はくつがへり河は逆(さかしま)に流れ須弥山はくだけをつべし、日蓮が妄語にはあらず十方三世の諸仏の妄語なりいかでか其の義候べきとこそ・をぼへ候へ、委(くわし)くは見参の時申すべく候。
  七月十四日                        日 蓮  花押
    妙法尼御前申させ給へ





 ※ 生死一大事血脈抄 (日蓮大聖人御書全集1336ページ)(全文)

                      日 蓮  記 之
 御状委細披見せしめ候い畢(おわ)んぬ、夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり、其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫(おんのんごう)より已来(このかた)寸時も離れざる血脈なり、妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり又此れを当体蓮華とも云うなり、天台云く「当に知るべし依正の因果は悉(ことごと)く是れ蓮華の法なり」と云云此の釈に依正と云うは生死なり生死之有れば因果又蓮華の法なる事明けし、伝教大師云く「生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳」と文、天地・陰陽・日月・五星・地獄・乃至仏果・生死の二法に非ずと云うことなし、是くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり、天台の止観に云く「起(き)は是れ法性の起・滅(めつ)は是れ法性の滅」云云、釈迦多宝の二仏も生死の二法なり、然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解(さと)りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり、所詮(しょせん)臨終只今にありと解(さと)りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を「是人(ぜにん)命終(みょうじゅう)為(い)千仏(ぶつ)授手(じゅしゅ)・令不(りょうふ)恐怖(くふ)不堕(ふだ)悪趣(あくしゅ)」と説かれて候、悦ばしい哉(かな)一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給はん事・歓喜の感涙押え難し、法華不信の者は「其人(ごにん)命終(みょうじゅう)入(にゅう)阿鼻獄(あびごく)」と説かれたれば・定めて獄卒迎えに来つて手をや取り候はんずらん、浅猨(あさまし)浅猨、十王は裁断し倶生神は呵責せんか。
 今日蓮が弟子檀那等・南無妙法蓮華経と唱えん程の者は・千仏の手(みて)を授け給はん事・譬えば蓏(うり)夕顔(ゆうがお)の手を出すが如くと思(おぼ)し食(め)せ、過去に法華経の結縁強盛なる故に現在に此の経を受持す、未来に仏果を成就せん事疑有るべからず、過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり、謗法不信の者は「即断(そくだん)一切(いっさい)世間(せけん)仏種(ぶっしゅ)」とて仏に成るべき種子を断絶するが故に生死一大事の血脈之無きなり。
 総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思(おもい)を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、剰(あまつさ)え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し、日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継(つ)がしめんとするに・還つて日蓮を種種の難に合せ結句此の島まで流罪す、而るに貴辺・日蓮に随順し又難に値い給う事・心中思い遣(や)られて痛(いたま)しく候ぞ、金は大火にも焼けず大水にも漂(ただよ)わず朽(く)ちず・鉄は水火共に堪えず・賢人は金の如く愚人は鉄の如し・貴辺豈(あに)真金に非ずや・法華経の金を持つ故か、経に云く「衆山の中に須弥山為(これ)第一・此の法華経も亦復是くの如し」又云く「火も焼くこと能わず水も漂わすこと能わず」云云、過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、「在在(ざいざい)諸仏土(しょぶつど)常与師(じょうよし)倶生(ぐしょう)」よも虚事(そらごと)候はじ。
 殊に生死一大事の血脈相承の御尋ね先代未聞の事なり貴(とうとし)貴(とうとし)、此の文(ふみ)に委悉なり能く能く心得させ給へ、只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ、火は焼(やき)照(てらす)を以て行と為し・水は垢穢(くえ)を浄(きよむ)るを以て行と為し・風は塵埃(じんあい)を払ふを以て行と為し・又人畜草木の為に魂となるを以て行と為し・大地は草木を生ずるを以て行と為し・天は潤(うるお)すを以て行と為す・妙法蓮華経の五字も又是くの如し・本化地涌の利益是なり、上行菩薩・末法今の時此の法門を弘めんが為に御出現之れ有るべき由・経文には見え候へども如何が候やらん、上行菩薩出現すとやせん・出現せずとやせん、日蓮先ず粗(ほぼ)弘め候なり、相構(あいかま)え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり、委細の旨又申す可く候、恐恐謹言。
  文永九年壬申二月十一日         桑門  日 蓮 花押
    最蓮房上人御返事





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 追記

 生命を本源から変革 =『宿命転換』について


   みんなで学ぶ教学 ~新会員のために~
    聖教新聞 平成24年6月10日付けより

 あなたの未来をつくるのはあなた自身! 日蓮大聖人の仏法は、自らの意志と努力で自身の人生を切り開き、幸福境涯を確立する「宿命転換の仏法」です。ここでは、宿命転換の原理と、宿命を使命に変えていく仏法の実践について学びます。

Q―教えて!
  なぜ信心に励む人は困難に負けないの?
A―お答えします
  苦難は自らを鍛える好機! 戦う中で境涯が開きます


 過去世(かこせ)の悪業(あくごう)の報い

 三世の生命観を説く仏法では、人生の中で出あうさまざまな出来事は、“過去世において自分が行った行為の結果である”と捉えます。
 宿業(宿命ともいう)の「業」とは、もともとは「行為」を意味する言葉です。この業には、善と悪の両方がありますが、仏教で取り上げられるのは、主に悪業の方です。
 “現在、直面している困難は、自身が過去世に積んだ悪業の報いである。幸福になるためには、それまでに自分が積んだ悪業を全て消滅しなければならない”とするのが、一般仏教で考えられる宿業論です。しかし、未来世にわたって生死を繰り返しながら、過去世の悪業を一つ、また一つと消していくのは、気の遠くなるような道のりです。
 これに対して、日蓮大聖人は根本的な宿命転換の法理を示されました。すなわち、万人成仏・人間尊敬・自他共の幸福を説き切った正法である法華経を誹謗すること(謗法)が、一切の悪業の根源にあると捉えます。この根本的な悪業を、正法を信じ、弘めていくという実践によって今世のうちに転換していけると説きました。御本尊を信じ、仏法の実践に励むことで、生命を本源から変革し、一切の宿命を転換できるのです。


 転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)

 信心に励んでいても、人生の苦難に直面することがあります。また、前回学んだように、広布の実践の途上には、いろいろな障魔が競い起こります。大聖人は、こうした苦難に出合って宿命転換できるのは、むしろ「転重軽受」の功徳であると教えられています。
 転重軽受は「重きを転じて軽く受く」と読みます。過去世の重い罪業によって、今世だけでなく未来世にわたって重い苦しみの報いを受けていかなくてはならないところを、今世に正法を信じ、弘める功徳力によって重罪の報いを一時に軽く受けて、罪業を全て消滅できるとの教えです。
 「地獄の苦みぱっときへて」(御書1000ページ)と仰せのとおり、一切の宿業を根本的に転換できるのが大聖人の仏法です。ゆえに、信心に励む中で起こった難も、“本来ならば長期にわたって受けるべき業の報いを転じて軽く受けているのだ”と確信して立ち向かっていくことが大切です。
 大聖人は「鉄は鍛え打てば剣となる。賢人・聖人は罵られて試されるものである。私がこのたび受けた処罰(佐渡流罪)には世間上の罪は全くない。もっぱら過去世の業の重罪を今世で消し、未来世の地獄・餓鬼・畜生の三悪道の苦しみを免れるためのものなのである」(同958ページ、通解)とも仰せです。
 いかなる苦難も、宿業を消して生命を鍛錬し、今世で確実に宿命転換を果たすための好機にほかならないのです。


 願兼於業(がんけんおごう)

 また、法華経には、悪世で苦しむ人々を救うために、菩薩が願って悪世に生まれると説かれています。これを「願兼於業(願いが業を兼ねる)」といいます。
 日蓮大聖人は、御自身が大難の渦中にあっても、ますます喜びを増しているとして、「小乗経の菩薩が、『願兼於業』といって、つくりたくない罪ではあるけれども、父母などが地獄に堕ちて苦しんでいるのを見て、型を取るように同じ業をつくり、自ら願って地獄に堕ちて苦しみ、そして父母たちの苦しみに代われることを喜びとするようなものである。日蓮も、またこの通りである」(御書203ページ、趣意)と述べています。
 信心で難を乗り越えようとする人にとっては、難の意味が大きく変わり、“悪世に生きて苦難を受けるのは、実は人を救う菩薩の誓願のゆえであり、人々に苦難を乗り越える模範を示す機会である”ということになります。
 池田名誉会長は、「願兼於業」の法理を踏まえて、「宿命」を「使命」に変えていく生き方を教えています。
 「誰しも宿命はある。しかし、宿命を真っ正面から見据えて、その本質の意味に立ち返れば、いかなる宿命も自身の人生を深めるためのものである。そして、宿命と戦う自分の姿が、万人の人生の鏡となっていく。すなわち、宿命を使命に変えた場合、その宿命は、悪から善へと役割を大きく変えていくことになる。『宿命を使命に変える』人は、誰人も『願兼於業』の人であるといえるでしょう」
 どんな苦難も“自ら願ったもの”であるゆえに、乗り越えられないはずがありません。だれもが“人生勝利の劇”の主人公になれるのです。


*さらなる理解のために

 「このたびの佐渡流罪は、過去世の業の重罪を今世で消し、未来世の苦しみを免れるためのものである」――日蓮大聖人が、流罪地・佐渡において、御自身の宿業を見つめられた“魂の軌跡”を認(したため)められたのが「佐渡御書」(御書956ページ)です。『御書の世界』(本社刊)の「佐渡流罪(下)」を読むと、日蓮仏法における「宿命転換」の原理への理解が一層深まります。

この記事へのコメント

あずま ゆきお
2020年06月17日 15:39
我が家に、怪我をして瀕死の状態で転がり込んで15年以上生活した猫ちゃんが最近老衰で死亡しました。全身黒く目玉の大きな猫でした。
 死亡して一日ほど硬直していましたが、仏前で経文を読み、唱題して葬式をしてあげました。
 すると、いつの間にか開いていた眼が閉じて、手足がダラダラに緩んでいました。いつか先輩から聞いたペットの成仏の現証をみることができました。

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