土方歳三が銃創を負ったのは4月21日の官軍側による宇都宮城奪還戦である。傷口は、”足指”と”くるぶし”の両説があるがいずれも3ヶ月の重傷と言われる。さらしでぐるぐる巻きにした足では乗馬も叶わず山籠に乗り会津に向かった。治療行には、宇都宮→今市→会津(約150km)間をほぼ1週間[ 宇都宮(4/22) → 今市(4/23夜or4/24) → 田島(4/29出) → 会津七日町(4/29) ]かかっている。流山で旗をあげた土方は、初戦の宇都宮城攻防戦で負傷し早々と治療のため第一線を退き、新撰組第三隊長の斎藤一に指揮を委ね会津若松入りしている。
私的には函館の土方歳三と同様に会津での土方歳三の行動に関心があるのだが、司馬遼太郎は「燃えよ剣」の中で、会津における土方をなぜか司馬熱情をして書いたと思える節が見つからない。誠にあっけない書き方である。あるいは抜けていると言ってもいいくらいだ。なぜだろうか?いろいろと思いを馳せ考えることもあるのだが、書き始めると長くなるのでここでは会津において土方歳三がなしたことを箇条書きする。
1)自身の銃創治療
--3ヶ月の治療。為の東山温泉の湯治
2)近藤勇の墓を建立
--松平容保に許可を得、近藤の法名を頂く
3)陸軍奉行並みに就任
--北上の榎本武揚と面談・協議・軍議
4)仙台藩の対官軍行動の説得工作
--青葉城登城・軍議→仙台藩官軍に恭順
5)会津を見切り蝦夷へ転戦
--斎藤一:会津恩義に報い玉砕派
土方歳三という人間の本質が最も現れたのが会津での行動であったと思える。京都以来、新撰組のそれぞれ第二、第三隊長を務めてきた斎藤一との激烈な方針論争の上での別れにそれが端的に現れていると言えよう。
斎藤:これまでの会津公の大きな恩義に報い会津と玉砕
土方:会津は諦め仙台に行き榎本と合体して蝦夷に転戦
よく言えば、戦略家だが戦略の本質が個人の為であって、決して組織(国や藩)ではないことが極まったのが会津の土方ではないだろうか。
流山で旧幕府軍を設立し「会津藩の下、奥州が連合すれば官軍恐るにたらず」と言って旗揚げしたのが、戦傷もあるが、そそくさと会津に退避し治療専念。直下にこれはどう頑張っても会津はダメだとささと見切り仙台藩の巻き込みに勢力を傾け、挙句に鶴ヶ城籠城戦はほぼ拘らず、さっつさと艦戦での仙台脱出と。目先は聞くが、義理人情には拘泥しない。おおよそ合理的と言えば合理的な人物である。だから、会津を見捨てた土方歳三は、会津人にとっては余り好ましく映らないのではなかろうか。最後に土方と正反対の生き方をとった新撰組第三隊長斎藤一の方が地味ながらも大切にされているのでは?
司馬遼太郎にしても封建文化の花と称えた会津藩が燃え落ちようとする最中こんな(こんなである)表向き国家戦略家のようなツラをしながら、その実、単なる大向こう受けの自己死を求めているに過ぎない土方歳三という人間を封建文化の花たる会津に絡め描くことなどできなかったのではないだろうか。(もちろんこれは私的与太話である)
最後に、話を土方歳三が湯治した東山温泉に戻すが、
土方が、どこの旅館を利用したかについては、現在、三説推定されている。
@ きつね湯:現在の向龍・会津藩の保養場
A 瀧の湯 :庄助の宿・会津藩の座敷役場
B 猿の湯 :不動滝旅館
現在、実際に「土方歳三湯治の湯」と観光案内を出しているのはB案の不動滝旅館だ。(以下参照)
また、中村彰彦の「新撰組始末記」によれば「東山温泉「きつね湯:会津藩経営旅館=現在の向瀧」に6月末まで滞在」と記されている。これは@案。
観光案内の写真に江戸時代の温泉旅館があるが、この写真の右端の二階建てが現在の向瀧。真ん中の部分は現在なくて、左端の建物が現在の不動滝の宿か?観光案内(土方歳三湯治の湯)と示される場所もこの左端の河原に開放されたような部分に一致する。
さて、結論だが、私は@の向瀧説をとる。なぜなら、土方歳三は松平容保の侍医・馬鳥瑞園とその親友でシーボルトに師事した外科医・古川春英の治療を受ける好意に預かっており、両医師の勧めで、東山温泉の会津藩の共同湯で温泉治療を励行することになった。この際、殿様の客分としての利用となれば、当然ながら上級武士の保養所として用いられていた向瀧(きつね湯)の利用となるのが必然のように思える。
そうすれば、私が利用する向瀧のきつね湯は土方歳三も利用した湯となるのだが。さて?誠か狐か?はてさてどちらか?...(長駄文悪しからずです)
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■会津の旅シリーズ
▼会津の旅(会津追分)(My Blog)
▼会津の旅(第一只見川橋梁)(My Blog)
■参照情報
▼土方歳三(幕末トラベラーズ)
▼新撰組紀行(PHP文庫:中村彰彦)
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