「日本の作戦、死地の戦闘ばかり」兵士が見たノモンハン

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編集委員・永井靖二
【動画】ノモンハン事件を振り返る元大本営・作戦課長の稲田正純大佐=南カリフォルニア大学東アジア図書館提供
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 地平線まで延々と続く行軍を、ロングショットでとらえた1枚の写真がある。1939年6月下旬、旧満州国の国境に近く、兵営があったハイラルからノモンハンの最前線まで、徒歩で移動する日本兵の姿だ。その中に、当時24歳の川畑博信上等兵が写っていた。

 「この写真は2度目の出動のときのものです」。川畑は2008年の取材時、こう言って当時の自分の姿を指さした。重量30キロもの装備を身につけ、200キロの距離を6日がかりで歩いてそのまま戦闘へ投入されたという。

 川畑は鹿児島出身。1936年に熊本高等工業学校(現・熊本大学工学部)を卒業し、翌年8月に応召。38年8月に歩兵第64連隊へ配属され、ハイラルへ。復員後は東京の機械メーカー勤務を経て大阪で学習塾を経営。晩年までノモンハン事件を調べ続け、約500ページの手記を残し、2011年に亡くなった。

 1939年5月28日。川畑は初めての実戦に臨む。最初は20~30メートル先に砲弾が落ちても「怖くてたまらなかった」が、その日のうちに慣れたという。モンゴル軍が相手と思っていたが、燃える戦車に向けて突撃し、刺殺した敵はロシア人。「これは手ごわいぞ」と予感した。

精神論に傾いた戦い

ノモンハン事件とソ連の対日侵攻。当時の日本が直面した戦争の諸相を浮き彫りにするプレミアムA「ノモンハン 大戦の起点と終止符」。第2章は物量差を前に精神論で強行した戦いを、兵士の視点で描きます。

戦車に歩兵で挑む

 29日。敵を挟み撃ちにする…

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この記事を書いた人
永井靖二
大阪社会部|災害担当
専門・関心分野
近現代史、原発、調査報道