深化する日米拡大抑止協議 「ニクソン・ドクトリン」の時代との違い

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聞き手・牧野愛博
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 米国は1969年7月、同盟国にさらなる負担を求める「ニクソン・ドクトリン」を発表しました。当時の日本では「自主防衛」の議論が起きましたが、その直前にまとめられた非核三原則はそのまま維持されました。55年後の7月28日、日米両政府は米国の核を含む戦力で日本を防衛する「拡大抑止」を巡る初の閣僚協議を開きました。防衛研究所戦史研究センターの千々和泰明主任研究官は、背景にデタント(緊張緩和)から対立に向かっている世界の状況があると指摘します。

 ――69年当時の日本の対応について教えてください。

 米国はベトナム戦争を巡る苦境を背景に、ニクソン・ドクトリンを通じて「核抑止力は責任を持つから、残る分野でさらに責任を負担すべきだ」と同盟国に迫りました。韓国では在韓米軍削減の動きが生まれ、米第7艦隊は台湾海峡の「常時パトロール」を「随時パトロール」に切り替えました。

 こうした状況を受け、70年に防衛庁長官に就任した中曽根康弘氏(後の首相)らは「自主防衛」を唱えました。ただ自主防衛と言っても、米国との同盟に頼らず、日本の力だけで防衛をやっていくという意味ではなかったことに注意が必要です。「日本の自助努力の範囲を広げ、日米安保体制の強化を図る」という趣旨です。76年に「防衛計画の大綱」、78年には「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」が、それぞれ初めてまとめられました。

 ニクソン・ドクトリンが発表…

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この記事を書いた人
牧野愛博
専門記者|外交担当
専門・関心分野
外交、安全保障、朝鮮半島