第4回あきたこまちデビューは「初打席で満塁本塁打」 激化する産地間競争

有料記事みちのくコメ物語

荒海謙一
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 終戦の日の1945(昭和20)年8月15日。ドラマなどで暑い日として描かれることが多いためか、この年は「暑い夏」のイメージがある。だが、実は冷夏だった。

 全国の作況指数は最悪レベルの67。西日本には台風も襲来した。コメ不足は避けられず、戦争の続行ははなから無理だったのかもしれない。

 深刻な食糧不足は戦後も続き、主食のコメは質より量が求められた。化学肥料や農薬が多用され、たくさん取れる品種が重宝された。

 ところが60年代後半、一転して「コメ余り」になる。食の多様化で、1人当たりの年間コメ消費量は62年度の118キロ(2022年度は50キロ)がピークだったのに加え、67年から2年連続で作況指数が110前後の大豊作になった。

 戦時中に制定された食糧管理法で、一手にコメを買い入れていた政府は膨大な在庫米を抱え、70年代に減反(生産調整)を本格化させた。その前の69年には「自主流通米制度」も導入している。これは、良質なコメに限って政府を介さずに集荷団体と卸業界の売買を認めたもので、生活レベルの向上でおいしいコメを求める消費者の声に応える狙いもあった。

あきたこまちの衝撃

 自主流通米になれば政府の買…

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