冷泉天皇陵
被葬者:冷泉天皇(第63代天皇)
陵  名:桜本陵(さくらもとのみささぎ)
陵  形:円墳
同  域:威子(後一条天皇皇后)火葬塚
所在地:京都府京都市左京区鹿ケ谷
最寄駅:蹴上駅(京都市営地下鉄東西線)
探訪日:平成15年(2003年)12月2日、他数回

蹴上駅の北方、哲学の道の中ほどにあります。
この陵域にはメインの冷泉天皇陵の他に、後一条天皇皇后の藤原威子の火葬塚とされる小円墳があります。(実際に見ることはできませんがね。)
なお、威子皇后の本陵は宇治市の宇治陵内にあります。


冷泉天皇
冷泉天皇
・第63代天皇
・御  名:憲平親王(ノリヒラ)
・生没年:天暦4(950)年~寛弘8(1011)年
・在  位:康保4(967)年~安和2(969)年
・続  柄:(父)村上天皇、(母)中宮藤原安子
村上天皇の第二皇子として生まれたが、外戚の力関係により第一皇子の広平親王を抜いて、生後間もなく立太子した。
父帝の崩御に伴い18歳で即位。しかし、元来精神を病んでいたため藤原実頼が関白として政を観た。
在位中は同母弟の為平親王と守平親王のどちらが皇太弟になるかを巡って安和の変が起きた。これは背景には藤原氏による他氏族排斥の意味合いが強く、実際に左大臣源高明が失脚している。
結局皇太弟は守平親王となり、冷泉天皇の譲位を受けて天皇に即位した(円融天皇)。
上皇となってからは長く余生を過ごしたが表舞台に立つことはなかった。
在位3年、上皇年数42年、宝算62歳。

この天皇、上記の通り精神を病んでたらしく、様々な奇行が伝わっています。
足が傷つくのをかまわず蹴鞠をし続けたり、父村上天皇に男性器の絵を送りつけたり、病で伏しているにもかかわらず大声で歌ったり、儀式の最中に途中で飽きて近くにいた命婦と通じたり、・・・とまぁいろいろやってますね。
最もこれらの行為は村上天皇第一皇子の広平親王の外祖父藤原元方の呪いという説や、行為の多くが皇太子時代から天皇在位時に行ったもので過度のプレッシャーを感じていたことが原因という説もあり、実際に上皇となってからは静かに余生を過ごしていたようです。
ただし、普段は風流を好む人物であり「冷泉院御集」という歌集を残しています。また当時の皇族貴族の中でもかなりの美麗な容姿の持ち主だったようです。



マップ

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