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1: 小魔玉  ◆N10JLQ90IM 2006/10/24(火) 22:46:38 ID:OoIrwPEP0
才覚一つで王朝を樹立した太祖・ヌルハチを筆頭に、八旗制を充実させ、国の基礎を固めた太宗・ホンタイジや、遠征に遠征を重ね、清の領土を広げ清王朝の最盛期を築き上げた乾隆帝などの英雄と呼べる皇帝たち。
清王朝の末期、軍事・外交に挑み続けた李鴻章。日清戦争で最後の輝きを放った左宝貴や黄海海戦で海軍提督となり奮戦した丁汝昌、そして中華帝国洪憲皇帝と称した袁世凱などなど…日本にも大きな影響を及ぼした清王朝のあまり知られていない英雄達について語っていきましょう!!

と、清王朝に最後の最後まで抵抗を続けた国姓爺・鄭成功についても語っていきたいと思ってますw








3: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/24(火) 23:04:47 ID:1mQzRoWo0
まずは、清朝にとって、開国の戦いとも言うべき、サルフの戦いについて、語りましょうか。

11: 小魔玉  ◆N10JLQ90IM 2006/10/28(土) 20:10:12 ID:NXlP7CEu0
>>3
サルフの戦いで、明王朝軍側に劉挺と李如柏の名前が見えますが、この2人は文禄・慶長の役で小西行長と戦ったみたいですね?

と、清王朝(後金)VS明王朝の山場といえる“寧遠の戦い”で、常勝・ヌルハチに敗北を与え、一人孤軍奮闘した袁崇煥!!彼がもう少し早く生まれていれば、明王朝の滅亡は遅くなっていた…かもしれませんw

12: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/29(日) 12:36:07 ID:26deI4230
>>11
林則徐は文官だけど英雄と呼んでいいと思うよ。
英雄とは何も武将に限らないから。

サルフの戦いに参加した李如柏は、遼東安定に功績のあった李成梁の子で、朝鮮の役で碧蹄館の戦いで明軍を率いた李如松の弟。
明では部門の名門と言える。ちなみにこの李氏は朝鮮出身らしい。

袁崇煥はもう少し早く生まれていればと言うより、冤罪で処刑されちゃったから微妙だね。
李 成梁(り せいりょう、1526年 - 1615年)は、明代の軍人。字は汝契、号は引城。

遼東総兵として遼東一帯を統括し、女真族の鎮撫に当たった。李成梁は軍備を拡充しつつ、建州女直・海西女直などに分かれていた女真族が明との交易権を巡って争っていることに付け込み、内部分裂を図ることにより、遼東の安定に多大な功績を上げた。この時期、李成梁の後援を得て勢力拡大に成功したのが、後の清の太祖ヌルハチである。

20: 小魔玉  ◆N10JLQ90IM 2006/11/06(月) 22:38:54 ID:1tiaz1Zk0
>>12
おぉ~!!李如柏は朝鮮・李氏の出身だったんですね?

アヘン戦争以後の清の“グダグダ”に(アヘン戦争→太平天国の乱→日清戦争→義和団→辛亥革命)涙が出てきます

22: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/10(金) 23:26:27 ID:LgbViBId0
清代じゃないけど、李成梁の影響は大きいな。

23: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/14(火) 23:45:54 ID:YBw/bV9U0
李成梁は朝鮮系らしいけど、朝鮮の王朝の李氏とは関係があったのだろうか?

37: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 14:36:14 ID:LLssZ0AR0
清の太祖はヌルハチだけど、その前の李成梁の存在が大きいよな。

38: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 11:02:35 ID:PnKMZmIa0
ヌルハチが生まれた頃の女真族は建州女真五部、海西女真四部、野人女真四部に分かれており、互いに激しい抗争を繰り広げていた。その抗争の主たる原因は、明に対する朝貢の権限を求めてのことである。
朝貢によりこの地方の特産物である高麗人参や動物の毛皮を売買することで巨利を得ることができた。これを利用して明は朝貢の権利を分散させることで飛び抜けて勢力の強い部族を出さないようにし、また互いに権利を巡って争うように仕向けた。
 
しかし女真の抗争があまりにも激しすぎると思った明の遼東総兵李成梁は、一つ明が制御できる程度の大きな勢力を作り、その後ろ盾となることで女真族を治めようとした。これに選ばれたのが、建州女真のヌルハチである。
ヌルハチが選ばれたことの理由としては、ヌルハチの部族は祖父の代から明に対して友好的であったからであろう。ヌルハチの祖父と父はある戦闘中に明軍に協力していたにも拘わらず、誤って明軍に殺されたということがあり、これが李成梁の負い目となってヌルハチに助力したとも考えられる。
 
事態は李成梁の思惑通りに進み、ヌルハチは女真族の中の大勢力となり、1589年(万暦17年)には建州女真五部を統一した。それと同時に李成梁の懐に入る賄賂の量も大幅に増えた。これに気をよくしたのかヌルハチの統御の事を忘れてしまっていた。

39: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/03(水) 16:11:05 ID:N5AfSxer0
そのまま争わせておけばよかったのに。
外敵がいなくても明の内乱は避けられなかっただろうけど。

49: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/27(火) 00:31:43 ID:nowa3BIa0
清朝歴代皇帝のクオリティは歴代最高だろうな。
暗君らしい暗君なんていないんじゃない?
普通衰退期の皇帝は暗愚(若しくはそう見なされる)が殆どなのに、光緒帝や同治帝、宣統帝も無能ではなかった。

50: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/27(火) 01:10:11 ID:MYU6zSe40
クォリティはともかくブランドイメージは漢人のエンペラー達に比べ大分落ちる。
有能でなければならない必然が彼らには存在した。
まあそれでも雍正帝は神だけど。

51: 名無しんぼ@お腹いっぱい 2007/03/27(火) 20:09:53 ID:ThxP97j20
ただ、惜しむらくは、清王朝も乾隆帝以降は中華思想にとらわれて、康熙帝の頃まで持っていた対外的柔軟性を失ってしまった事かな。

52: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/02(水) 22:38:43 ID:P4E6hWHY0
少数の満州族による多数の漢族支配という、苦しい構造を抱えていたから、前半に暗君が出ていれば、それだけで滅亡に直結する可能性があっただろうね。

53: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/20(日) 20:33:29 ID:LXxzI9QX0
太祖ヌルハチから康熙帝まで、複数の創業者が連なった感じ

55: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/02(土) 22:49:46 ID:CWSjM3Pv0
>暗君らしい暗君なんていないんじゃない?
普通衰退期の皇帝は暗愚(若しくはそう見なされる)が殆どなのに、光緒帝や同治帝、宣統帝も無能ではなかった。


確かにそうとは思いますが咸豊帝には良い印象がないのですが
あと睡簾聴政を跳ね返せないというのは……
咸豊帝(かんぽうてい)は、清の第9代皇帝(在位:1850年 - 1861年)。

即位後の道光30年12月10日(グレゴリオ暦では既に年が明けた1851年1月11日)に太平天国の乱が勃発。咸豊8年(1858年)にはアロー戦争(第二次アヘン戦争)に敗北し、天津条約を結ばされた。

咸豊10年(1860年)、英仏連合軍は更に侵略を続け、北京にまで攻め上った。咸豊帝は粛順の言を容れ、北京を恭親王に任せて熱河へ撤退した。

その後に恭親王を通じて北京条約を結び、天津条約の内容に加えて天津の開港、イギリスへの九竜半島割譲などを認めさせた。北京条約締結の翌咸豊11年(1861年)に、咸豊帝は結核によって30歳で崩御した。

崩御後、側室西太后が恭親王と結託してクーデター(辛酉政変)を起こし、粛順らを処刑、咸豊帝と西太后の子である同治帝を即位させ、垂簾聴政を行った。


63: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/17(月) 22:24:07 ID:AuLbay7k0
同治帝が暗君ではないなどと誰が思う?とんだバカ皇帝だろうが。
いや、そもそも君主として政治手腕を評価される資格すら無い。

64: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/18(火) 15:12:57 ID:Tue1MnJ00
清朝は全般的に名君が多いから、相対的に評価基準が厳しくなるね。

65: 愛妃 2007/09/27(木) 02:48:57 ID:cXuvUynbO
雍正帝はある意味英雄。父・康熙帝の後を立派に継ぎ、四男・乾隆帝の時代を全盛期へと導いた。国民のための政治だったと思える。雍正帝大好き!

66: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/27(木) 15:25:41 ID:t0exzr9p0
嘉慶帝と道光帝って個人として話題に上らないね
道光帝(どうこうてい)は、清の第8代皇帝。

嘉慶年間よりイギリスからのアヘン密輸が激増し、国内で中毒患者が増加した。道光16年(1836年)、道光帝は林則徐を欽差大臣に任命し、アヘン密輸取締りを命じた。翌年、林則徐は断固たる態度で禁輸に臨み、商人たちのアヘンを没収し、これを焼き払った。ア

ヘン戦争に大敗し、屈辱的な南京条約を結ばされた。条約は香港島の割譲、五つの港の開港を求めるなどの内容であった。その後同様に、フランスと黄埔条約、アメリカと望厦条約を結ぶことになった。それ以降の清は、外に帝国主義の植民地活動を、内に軍閥による権力奪取を警戒せざるを得なくなった。

道光30年(1850年)に道光帝は崩御。在位は30年に及び宝算68。その直後に太平天国の乱が勃発する。


67: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/27(木) 23:29:50 ID:cXuvUynbO
嘉慶帝はあまりにも皇父の存在が大きかった。
道光帝はアヘンや乱など努力をしたのに今でいう官史による「政治と金」で手の打ちどころがなかったんでしょうね。
康熙→雍正→乾隆→雍正→雍正→光緒→嘉慶→道光なら今も清朝は続いていたかな?

68: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/10/02(火) 15:43:17 ID:HPhli2pK0
>>67
やっぱり少数派の満州族による多数派の漢族支配という構図は厳しいものがあるんじゃないかな?
続くとしたら、満州族側が、自ら漢族に同化する道を選ぶとか。

72: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/10/29(月) 23:16:40 ID:h/gPwFqG0
万暦帝が雍正帝並みに働いていれば、張居正の跡を継いで完璧だったのに。

75: 漢の献帝 2007/11/10(土) 09:35:35 ID:sbvYvjCq0
張居正なかりせば大明帝国は秀吉の侵略で瓦解していただろう。
当然朝鮮に援軍を送る余裕も無かった筈。
となれば、秀吉か秀次が初代大倭帝国皇帝となり、清朝の出る幕は無かっただろう。
但し、清朝のように上手く支配を続けられたかどうかは大いに疑問だが...。
清朝ですら中華文明に取り込まれてしまったのだ。 秀次も中国語を話す事になったかも...。

76: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/10(土) 14:27:45 ID:ArIaHUGk0
>>75
戦術的な勝利を積み重ねることができたとしても、戦略的な勝利は得られずに撤退に追い込まれたと思うよ。

80: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/14(水) 06:52:22 ID:eAC6LxXq0
中国の歴代の征服王朝が一番苦労しているのは、軍事的な勝利ではなく、いかに占領した土地を統治するかだよ。

98: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/21(土) 23:28:56 ID:N1h5B0Yt0
康熙帝≧ヌルハチ>雍正帝>ホンタイジ>順治帝≧乾隆帝>光緒帝>宣統帝>道光帝>嘉慶帝>咸豊帝>(同治帝)

99: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/22(日) 19:09:42 ID:u2xsDsMu0
清でも比較的凡君と言われる道光帝が明に移籍したらたちまち名君です

100: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/22(日) 21:12:11 ID:4RxaxCUi0
清の平均レベルの皇帝を一人譲ってやったら、明は百年ぐらい寿命が延びるんじゃないか?w

101: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/22(日) 22:21:01 ID:u2bkYqpj0
明なめんな
洪武帝陛下なんて世界屈指の名君だぞ

103: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/23(月) 03:20:51 ID:L2axf1kx0
仁宗は?あと孝宗も
神宗は張居正がいる間は良かったと思うが

106: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/14(月) 12:44:28 ID:YDk2voHAO
乾隆帝が確か清って国号を定めたんだっけ?その理由が「清和」の末裔って言ったらしいけど、彼ら騎馬民族はチンギス・ハンの末裔を自称だから、乾隆帝→チンギス・ハン→清和って遡るとチンギス・ハン(義経?)って話が出てくるんだね

107: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/14(月) 13:34:43 ID:nt4BdaeUO
順治帝の頃じゃないの?

108: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/14(月) 19:59:29 ID:6+6oI/mJ0
最初の国号が(後)金なのにモンゴルの末裔を自称? 

109: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/14(月) 22:07:27 ID:YDk2voHAO
ロシアが皇女を迎えていたからといってビザンツ帝国滅亡後に正統を訴えたのと同じでしょ。直系じゃなくても末裔を語るなんて珍しくないよ。

110: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/14(月) 23:23:37 ID:rADlREjk0
国号を大清にしたのはホンタイジ(1636)だろう

>>106は清が後金であったことも女真族であったことも騎馬民族でないこともしるまい

113: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/15(火) 07:23:16 ID:p7BrWVab0
ヌルハチが国号を大金としたのが1616
ホンタイジが国号を大清としたのが1636
北京にはいったのが1644
乾隆帝が即位したのは1736
国号が清になってから100年もあとの話

115: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/23(水) 11:27:10 ID:s8916gyU0
末期の清軍てよく弱いて言われるけどそんなに弱かったの?

116: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/23(水) 12:09:40 ID:2HbMYhmo0
初期もそこまで強くなかったけど、統制はキチッと取れていた。
やっぱ三世の春以降じゃないか?堕落し始めたのは。

117: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/24(木) 11:42:14 ID:UmgL8vx30
初期は普通に強かっただろ

118: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/25(金) 08:18:21 ID:Lrv5PNB90
とはいえ、八旗だけでは、入関も全土制圧も無理だったわけだ
そりゃ絶対数が少ないんだから、だから弱いってことじゃないが

119: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/29(火) 16:43:51 ID:PNJVND2j0
乾隆帝の遠征でも結構苦戦してなかったけ

120: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/31(木) 08:55:05 ID:JvpjLqaK0
乾隆帝の頃かな清軍が弱体し始めたの

121: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/08/11(月) 07:56:26 ID:iLagUVn30
清軍の弱体化しめすエピソードとかある?
124: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/08/20(水) 11:48:49 ID:pA4fj6dC0
>>121
僕が読んだ『曽国藩』〈中国人物叢書 12〉宮崎市定監修だと三番の乱あたりから八旗は使えない状態だったらしいよ。

125: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/08/21(木) 09:23:36 ID:agIYsnn+0
三藩の乱も結構苦戦してたからな

123: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/08/20(水) 10:20:19 ID:J9KEiiIm0
清は皇帝だけでなく、皇族政治家・将軍もおおむね有能、まともかなぁ

127: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/08/22(金) 11:49:11 ID:iOI0Z5aP0
満人枠で高官になる連中は使えたんだろうか?

134: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/02/04(水) 14:22:17 ID:1LOFc/fl0
私は功夫映画が好きでよく見るんだけど清朝って絶対的な悪なんだよね、映画では。
もちろん少林寺焼き打ちをやってたり漢民族王朝じゃないってのはわかるんだけど、実際歴史的にみて漢民族に対してひどい圧政をしてたりってことはあるんですか?
そういったことで詳しい内容教えてください。
わかるとおもっと映画がおもしろくなると思うんで。
よろしくお願いします。

135: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/02/05(木) 13:11:21 ID:MIRxJXdW0
清朝の漢民族に対する姿勢はひどい圧政というよりアメ鞭
例えば弁髪の強制なんか漢民族にとってこの上ない屈辱なわけで、いっそ僧形に変わろうという漢人も多かったと言われる。これが鞭
少林寺の坊さん達が弁髪を嫌って入門したかまでは判らんけどね

ただ被支配者の漢民族は数の上ではマジョリティでただ厳しいだけでは統治できなかったから、清朝は漢人を軍や官僚の組織に周到に組み込んだし明朝での重税を軽減したりもした
これがアメといえばアメかな
行政の末端では役人が民草に非道なことをすることがあったかも知れんが、それは清朝独特というよりはどの王朝でもあり得たことと思う

136: 134 2009/02/05(木) 21:12:42 ID:GFueMYL80
>>135
ありがとうございます。
ようするに功夫映画での清の悪役っぷりは少林寺弾圧と異民族による統治の反発ってことでOKですよね?
そりゃ清側としても勝手に山奥の寺にこもって集団で武術修行なんかされたら「自己鍛練です」とか言われても「はいそうですか」とは言えないですよね。
僧兵化している訳ですから。

137: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/02/06(金) 23:57:24 ID:BMbZXoDrO
清が悪役になっているのは物凄く浅いナショナリズムからきていると思うよ。
歴代王朝としても清はかなり優秀。その前の明なんか目も当てられない。
スウォーズマン・女神伝説の章あたりで苗族かなんかの少数民族が清朝に刃向かっていたけど、五代皇帝ヨウ正帝の改土帰流は「田舎者を都会に移して文明の恩恵に預からせてやろう」というコンセプトの政策で、それに対して父祖伝来の地を離れることを拒否した結果、清朝が苗族などの少数民族を虐殺することにはなったけど、一応改土帰流は冷酷残忍の名君ヨウ正帝の親切心からきたものだしね。

148: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/11/26(土) 23:19:57.07 ID:Ikk1FYtw0
雍正帝は李世民や康熙帝より優秀な歴代最高の君主だと思う

152: 名無しさん@お腹いっぱい。 2019/05/21(火) 07:51:39.37 ID:Dek5cEa90
雍正帝は陰険な糞野郎だけど有能

引用元: ・【太祖】清王朝の英雄達【李鴻章・左宝貴etc】


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