(2014年7月6日初出に加筆)
ゴジラは日本人の神観をよく表している。
日本人にとっては、自然界の森羅万象そのものが、「神」である。「人知を超えた大いなる畏怖すべきもの」全般が、日本人の言う「神」なのだ。そして、そこにはキリスト教のような善悪の区別といった概念はない。日本の神は絶対的な正義でもなければ、絶対的な悪でもない。だから、ある時は恵みの神となって人間に幸いをもたらし、ある時は「荒ぶる神」となって災いをもたらす。ちょうど、台風が甚大な被害を人間にもたらすと同時に、命の源となる豊かな水をももたらしてくれるように。だがいずれにせよ、その力の前には、人間はなすすべもない。ただ、その荒々しさが鎮まるのを願いながら、ひたすら待つしかないのである。台風も大雨も地震も津波も大雪も噴火も、日本人にとってはみな「神」なのだ。
ゴジラもまた、作中に於いて、人間の力を超越した、畏怖すべき存在である。だがゴジラは絶対的な正義でもなければ、絶対的な悪でもない。ある時は人間の街を滅ぼし尽くす恐怖の破壊者であるが、ある時は宇宙人の侵略から人間を守るヒーローとなる。そんなゴジラの前に、人間はなすすべもない。ゴジラは不滅だ。本当に不滅だ。何しろ水爆の炎を浴びてなお生き延びた存在である。氷山に閉じ込められようが、火口に落とされようが、死なない。宇宙空間でも平気だ。ある時は地底のマグマの中を通って何百キロも移動していた。もちろん、人間の兵器など全く通用しない。
ゴジラはまた、自然界の象徴であるだけではなく、戦争の犠牲者の象徴でもある。史実である1954年の第五福竜丸被爆事件が、同年公開されたゴジラの原点だ。水爆実験で放射能を浴びて怪獣化し、住みかを追われたゴジラは、その恨みをはらすかのように人間の街を襲う。ゴジラは原爆の投下を受けた日本人の生き写しなのだ。しかしそのゴジラが襲うのは日本の首都東京であるが、その有り様は正に、東京大空襲の再現である。「(戦死したと思われる)お父ちゃまのところへもうすぐ行けるのよ」と言って、子供たちを抱きながら死を覚悟する母親。長崎の原爆から逃れながら、今度はゴジラの襲撃に遭遇する女性・・・・・。しかし、ゴジラはなぜか皇居は襲わない。天皇の名の下に戦い死んでいった兵士たちの複雑な思いが、そこに表れていると分析する人もある。事実、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃』では、ゴジラは戦死者たちの思念と一体化したものと設定されている。
そして、『ゴジラVSデストロイア』では、それ自身生きた原子炉と化していたゴジラが、ついにメルトダウンを起こして、身体が崩壊し、放射能を撒き散らして東京を「死の街」にしながら死んでいく。1995年の作品だが、まるで福島原発の危機を予言していたかのようだ。
このように、日本人にとってゴジラは正に「神」なのだ。大自然の化身でもあり、戦死者の御霊でもある。だから、ゴジラの綴りは「GOJIRA」ではなく「GODZILLA」なのだ。ところが、1998年のハリウッド版『GODZILLA』は、ゴジラを、マグロをむさぼり食らう下等なトカゲにしてしまった。あげくの果てに、この「ゴジラ」は米軍のミサイルであっけなく死んでしまうのだ。この「冒涜」に、日本人は怒った。2004年の『ゴジラ・ファイナルウォーズ』にはこのハリウッド版ゴジラも登場した。しかしその名は「GODZILLA」から「GOD」を除いた「ZILLA(ジラ)」とされていた。そして本家日本のゴジラに秒殺され、「マグロ食ってるようなのはダメだな」と揶揄されている。
その点、2016年の『シン・ゴジラ』は「神・ゴジラ」と読めるとおり、ゴジラの神性がよく描かれた作品だった。作中には、「ゴジラは神だ!」と叫ぶデモ隊も登場していた。ある博物館には、日本の民俗のひとつとしてゴジラが展示されているという。ゴジラ・シリーズは、単なる娯楽映画ではなく、日本人の精神文化を如実に描き出した、歴史に残る作品とは言えないだろうか。
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