カナン人の女に見る異邦人の救い

マタイの福音書15:21~28及びマルコの福音書7:24~30に、イエスに娘をいやしてもらった異邦人の女の話が出てくる。彼女は必死にイエスに願うが、はじめイエスは彼女を相手にしない。

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには、遣わされていません。」「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」すなわち、イエスはユダヤ人を救うためにやって来たのだから、ユダヤ人ではない異邦人を助ける筋合いはない、というのである。

だが、女はなおも食い下がる。「小犬でも、主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」イエスの言うことはもっともであるが、異邦人でもユダヤ人のおこぼれに与るくらいは許されるのではないか、と。イエスは彼女の信仰をほめ、その時娘はいやされた。

ところでこの女、マタイではカナン人、マルコではギリシア人となっている。これは矛盾ではない。恐らく彼女は人種的にはこの地方(フェニキア)の先住民のカナン人であったが、アレキサンドロス大王以来この一帯を覆ったギリシア風の「ヘレニズム文明」に属するギリシア語話者だったのであろう。

ともかく、カナン人は旧約聖書ではイスラエルの敵対民族であり、「聖絶」の対象として滅ぼされるべき存在であった。イエスがはじめ拒絶したのも無理からぬことに思える。

しかし、イエスが十字架に架かって死に、復活した後、事情は一変する。カナン人であれギリシア人であれ、あらゆる民族、あらゆる異邦人が、救われて神の国を受け継ぐ資格を与えられたのだ。

私たち日本人も、いや実はユダヤ人だって、すべての人は、本当ならば聖絶され滅ぼされて然るべき罪人であった。しかし、イエスが「贖いの代価」として、私たちの身代わりに十字架でいのちを差し出してくれたので、私たちは救われたのだ。

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それは正に、食卓からこぼれ落ちるパン屑を分けてもらうような、恵みにほかならない。あのカナン人の女は、こうした異邦人の救いの先駆けであり、また象徴だと言えよう。


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