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地名散歩 諫早(いさはや)

長崎地名的散歩
09 /14 2024
 自分は昭和の頃、長崎市内から諫早市へ移り住み、途中、出稼ぎにも行ったが、もう長いことこの街に暮らしている。
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 長崎の地名を語るなら、「諫早」についても、そろそろ私見を述べておかにゃんならんこっで、ござんすナタ。
 (無理してコアな諫早弁を使おうとせんでいい!)

 「イサハヤ」の地名由来は、郷土史などでも納得できる説は見られない。自分でも考えてはみるがどうも決め手がなく、すぐ飽きて、ネットで「侵略!イカ娘」などのアニメやネコちゃんの動画を見てほっこり癒やされ、宝焼酎を飲んでパンツ一丁で横になり「ムニャムニャもう食べきれなーい」と言いながら寝てしまうことが多かった。
 (いや、そんなカス情報は一切いらんぞ)

 「伊佐早」の名が文献に初めて登場したのは、鎌倉時代の「八幡宇佐宮 御神領大鏡(ナントカおおかがみ)」。
 (そこはちゃんと書けよ)
 今から800年以上前の室町時代に、伊佐早村が宇佐神宮の神領だった事が書かれている。
 ムツゴロウの踊り食いセットやワラスボの干物をお供えしていたのだろうか?
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     ※諫早干拓 背後は多良岳。広いところにいるだけで何となく気持ちがいい。
 諫早は、古くは「伊佐早」と書いたが、伊も佐も「万葉仮名」で、意味は無いはず。古い地名ほど「音」が重要だ。単語の分け方は、イサ+ハヤが妥当だろう。
 まずは、先人が集めた地名用語で、土地の状況に当てはまることを探した。

「イサ」 ・漁場(いさば) ・砂、砂地(いさごのイサ) ・石(石はイサとも読む)
「ハヤ」 ・急流(川や潮流) ・崖(ハイ、ハキの転) 

「有明海の干潟」は泥の海だが、ベースは砂地であり、漁場でもある。ここは砂と漁場の「イサ」。諫早の干拓は、かなり古い時代から始まっているが、古代はどこからが干潟で、どのような姿だったかはよく判らない。中心部から遠ければ関連性は低いだろう。
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   ※写真は佐賀県鹿島市 諫早湾にもかつて、同様の干潟が広がっていた。 
◎諫早の市街地を流れる「本名川」は、日本一短い一級河川として知られ、大雨で豹変する暴れ川。これまで何度も洪水の被害があった。
 「ハヤ」は、「増水して急流になる川」という洪水地名の可能性がある。
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◎諫早氏の居城があった高城(たかしろ)・諫早公園から宇都(うづ)町付近には、断崖が続いている。ここは崖の「ハヤ」。
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     ・高城町 諫早公園の楠木
 しかし、ウヅという地名自体が「崖とウツロ谷」のことだし、これが地域全体の地名になる程の特徴かと考えると、疑問、くまモン、水戸黄門だ。
(ゲッ、つまらん!)

◎諫早は、長崎半島、島原半島、多良岳山系の地峡部であり、古代には、この土地を越えて有明海から大村湾に移動し、外洋に出る船に乗り継いだ事から「船越(ふなこし)」と呼ばれていたそうだ。そして、ここには古代官道の船越駅があったと言われている。
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     ・Googleマップより
 当時は有明海が深く湾入し、現在の船越町付近は海岸だったらしい。
 移動する者は船で来て一旦上陸し、半造川を小舟で遡上するなどして、陸上競技場の先、マヨたこの付近から「小船越(おぶなこし)」の丘を歩いたりおんぶしてもらったりして越え、大村湾から大きな船に乗りかえたと考えられる。
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 その船越町の周辺を、のちに「イサハヤ」と言ったのではないかと思うのだが、「イサ」や「ハヤ」が該当しそうな所は、平野になった現在の地形からはちょっと想像できない。

◎栗面(くれも)町から山の方へ上ったところに、近ごろ造成された、南諫早産業団地がある。
 ここの一部は小字地名が「諫早山(いさはややま)」なので、イサハヤ地名の重大ヒントがあるのではないかと思っていた。しかし、気づくと産業団地の工事が始まり、以前の地形はすっかり消えてしまった。
 ただ、工事中の様子は見ることができ、ここは荒々しい岩山だったことが判った。
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 大型の重機が悪戦苦闘し、巨大な岩を動かしていた。ここは石の「イサ」だ。
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 しかし、こういう土地は諫早の中心部にはほとんど無いし、ここに「諫早山」の地名がつけられた時期も動機も、推定するのは難しい。
 もしかしたら、元はイサハヤヤマに似た地名、「石場山(イサバヤマ)」とかで、昔のおせっかい野郎が「諫早」の字を当てただけかもしれない。

◎諫早市の八天町付近には、土園川(どぞのがわ・どぞんこ)という小字地名がある。
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 自分は「◯◯川」という地名の多くは、大雨で川のようになる土地だと考えている。
 地名用語の「ソノ」は、ソネと同じく「石がゴロゴロ」している所と言われる。(古代地名語源辞典 楠原祐介編) 

 土園(ドゾノ)だと「泥まみれで石がゴロゴロしている」という事になる。

 検討を初めた頃は「川のようになる土地」の考えもまだ無く、何のことか判らなかったが、1999年7月に諫早に大雨が降り、福田川(土園川)が内水氾濫して周辺の低地が水浸しになったことを思い出した。
 当時の八天町付近の報道写真には、泥水があふれて多数の石が転がる様子が写っていたと記憶している。
 それはまさに「土園川(どぞのがわ)」。昔から氾濫を繰り返していたのだろう。

 そして、もっと規模の大きい同様のことが、本名川でも起きていた。
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 昭和32年の諫早大水害の写真を見ると、いろんなものが川から打ち上げられている。各地で土砂崩れも起きた。
 災禍のあと、転がった木は燃料や建材に使われ、泥は雨で流され、重い石が残る。現在なら重機でホイだが、昔は手作業だ。道端は放置された石だらけだったのかもしれない。
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 つまり、「イサハヤ」は、「(洪水で打ち上げられた)石が転がる、暴れ川のほとり」という、災害地名ではないかと考えた。
 しかしよく考えると、そんな具体的な荒れた様子が、広い範囲の地名由来とも思えない。それに、室町時代頃は、本名川周辺は、まだ中心部ではなかったはずだ。
 そういうことで、なかなか「諫早」という地名についての考えは、まとまらなかった。
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 やはりここは、似た地名の土地と比較して、共通点を探るのが確実なようだ。
・鹿児島県伊佐(いさ)市
 広大な伊佐盆地を横切る羽月川に、多くの支流が流れ込んでいる。ここもたびたび洪水が起きるところ。川の曲流部には砂が堆積している。
 前にも言ったが、市歌は「伊佐はとってもいーさ」だ。

・山口県美祢(みね)市 伊佐(いさ)町
 山に囲まれた土地で、曲流する伊佐川が流れているが、砂州ができる程ではない。ここには、石灰石を産出する宇部伊佐鉱山があるので「石」が由来と思われる。

・兵庫県養父(ちちぶ)市 八鹿町伊佐(いさ)
 円山川が大きく3回、曲流するところ。砂の堆積が多い。周辺は昔から洪水を繰り返している。

・茨城県稲敷市 伊佐津
小野川が曲流するところ。広い川幅の半分以上が河川敷になっている。

・京都府舞鶴市 伊佐津
伊佐津川に接する河口近くの土地。中洲が発達したと思われるところ。川には砂の堆積が見られる。大雨でたびたび浸水している。

 「イサ」のつく地名の土地を調べると、低地で川が曲流していて、洪水の起きるところが多かった。「ハヤ」ではなく、「イサ」が洪水に関係するという事になる。

 そして、共通点はどうやら、堆積した「砂(イサ)」のようだった。

 確かに、洪水が繰り返し起きるような川の下流や河口には「砂州」ができる。それは、山から運ばれた大量の土砂が川底に堆積するからだ。
 場合によっては、砂州は入り江の大半を埋め、新しい土地ができる。

 流れてきた土砂は、山の養分が豊富で作物がよく育つ。そこに新しく農地を作り、人が住むようになる。しかし、河口の中洲は水害の危険もある。
 そのような所を「砂の土地」という意味で「イサ」と表したのではないだろうか。
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 諫早の本名川は、普段は水量は多くはなく、土砂の堆積はあるが、砂州というほどではない。それは、川の距離が短く、石が小さく砕けて砂になる時間が足りないからだろう。

 下流域は、諫早大水害以降に余裕をもって拡幅された。しかし、いつの間にか広い範囲に土砂が積もって洲になり、木が育って森のようになっている所もある。
 これも「砂の土地」だ。
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 しかし、諫早の場合はそういう事ではなかったようだ。もっと、とんでもない量の砂泥が、遥かな時代からずっと、波に運ばれてこの土地の海岸に押し寄せ、積もり続けていた。
 それは「有明海のガタ土」

 有明海は、世界的にも特殊な「行き止まりになった海」であり、干満差が6mもある。有明海の潮流は、熊本から反時計回りに、福岡、佐賀の沿岸に沿って進み、各地の大きな川の土砂や養分、阿蘇山の火山灰などを、波静かな諫早湾に運び込む。
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  それは引き潮になると取り残され、ガタ土となって積もる。それを古代から延々と繰り返してきた。
 そうしてできたのが、広大な「干潟」だ。
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   ※昭和38年の諫早湾 国土地理院空中写真サービスより

 今から一万数千年前、地球温暖化で「縄文海進」が起こり、諫早の平野部は、ほぼ海だった。
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 それがだんだん干上がって行くのだが、奈良・平安時代は、まだ陸上競技場の辺りまで有明海が細長く湾入していたと言われている。
 諫早の低地で工事をすると、地下からガタ土が出てくる事がよくあるそうだ。干潟が奥深くまで入り込んでいたということになる。
 古い時代には、陸上競技場付近の「小船越」まで、大きな船で行けたのかもしれない。
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 それならば、室町時代頃の「船越」付近も、干潟の海岸だったはず。潮が満ちるのを待って船を着けたのだろう。ここも「イサ」と考えてよさそうだ。

 古代のイサハヤが少し見えてきたようだった。
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    ※諫早干拓 小野島町付近
 諫早は元々、田畑に適した平地が少なかったため、人々は干潟に丸太を打ち込み石を積んで囲い、干上がらせて塩を抜き、田畑に変えてきた。
 諫早の「干拓」は、室町時代ごろから徐々に始まったらしい。
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     ※冬の諫早干拓 遠く雲仙普賢岳は、雪の冠。
 現在、諫早湾と有明海は、ギロチンと呼ばれた「潮受け堤防」の鉄板で分断され、ガタ土は侵入できなくなっている。もうここに干潟が広がることは、日本が滅亡しない限り無いのだろう。
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 「イサハヤ」は、洪水によって「砂が堆積する、暴れ川のほとり」とも考えたが、有明海のガタ土が出てくると、川の存在や関連はあまり感じられなくなった。
 「ハヤ」は、洪水による濁流のことでは無かったようだ。

 では、「ハヤ」とは何だろう。

 かつての諫早湾には、驚くほど早いものが、ふたつあった。
 無論、「すき家と吉野家」とかでは無い。私はそういう冗談は好きではない。大好きだ!
 (いいからさっさと進めんか)

・ひとつは干潟の泥が堆積して広がる早さ」ナーント!「年に10m」。10年経ったら干潟が100m広がるという事だ。ただ、海の深さもあるので、ずっと同じではないだろう。
 そしてこれは、諫早の干拓が延々と繰り返されて来た大きな理由でもあった。
 これがイサハヤの「ハヤ」だったのかもしれない。
 「イサハヤ」は、「干潟(砂地)がとても早く広がるところ」ということだ。

・そしてもうひとつは「潮の満ち引きのスピード」
 干潟のそばで、5歳児に叱られるほどボーッとしていると判るのだが、完全に干潟の状態から徐々に水位が上がり、そのうちターボが効いたようにピューン!と満ちてきて、気づいたらあっという間に海の中。
 潮の流れが早く、干満差が6mと大きいことなどもあり、そうなるらしい。
 「イサハヤ」は、「干潟(砂地)が広がり、潮の満ち引きが非常に早いところ」

 地名の動機としては、こっちの方がアリな気がする。実際に眼で見て印象に残る特徴だからだ。
 ただ、これは有明海の奥の方ならどこでも同じはず。諫早湾の干潟は広くて波静かで真っ平らだったので、特に早く感じることはあったかもしれない。

 だがしかし、やはり諫早湾特有の現象である、「干潟が早く広がる」の方のような気もする。
 諫早を訪れた人が、2年後に再び訪れて、干潟のすぐ近くにあったはずの建物が20mも奥に移動していたら、混乱して「天狗様の祟りじゃあ」とか「魔王を倒して元の世界に」とか言い出すかもしれない。けっこうインパクトはあるだろう。
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 よし決めた。イサハヤは「干潟(砂地)がとても早く広がり、潮の満ち引きも非常に早いところ」。これでどうだろうか。
(いや、どっちかに決めんかい!)

Ramblingbird

長崎南部の自転車散歩やどうでもいい出来事を、小学生ギャグを交えて書き散らします。お下劣な表現を含みますのでご注意下さい。 

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