1:◆1t9LRTPWKRYF 2015/11/14(土) 12:13:41.89 ID:0oXNO4iLo
校舎裏で青春ドラマが始まったのを、部室の窓から見下ろしていた。
時刻は午後三時四十分。
「告白?」
となりからの声に、俺は曖昧に頷いた。
「それっぽいよなあ」
園芸部が管理している畑のそば、
裏庭にひろがる雑木林の手前くらいに、男子と女子の背中がひとつずつ。
たぶん、下級生だろう。
どことなくだけど、そんな感じがした。
快晴とまではいかないが、天気は晴れだった。
最近は日も長いし、四時前の時点じゃまだまだ明るい。
東校舎三階の窓から、裏庭の様子ははっきり見える。
声までは聞こえないし、顔まではわからないけど。
がっつり覗きたいってわけでもない。
ある意味ちょうどいい距離感とも言える。
2: 2015/11/14(土) 12:14:07.60 ID:0oXNO4iLo
「ロケーションはそこそこだね」
なんて偉そうなことを、窓から顔半分をつきだした出歯亀女が言った。
かくいう俺も出歯亀男なわけだけど。
「そう?」
「放課後、校舎裏、ふたりきり」
「はあ」
「言葉だけでもドキドキしない?」
「どうかなあ」
覗きがいるぜ、って言おうと思ったけど、やめておいた。
言わぬが花って言葉もある(ちょっと違うか?)。
どうでもいいことを考えているうちに、眼下のふたりに変化が起こった。
3: 2015/11/14(土) 12:14:33.86 ID:0oXNO4iLo
「あ、手握った」
言葉のとおり、ふたりは手を握り合っていた。
というより、片方が片方の手を掴んだらしい。
三秒、四秒……。
見ていられなくなって、視線をはずして窓から離れた。
窓際から距離をとって、わざとらしく伸びなんかして見せると、覗きの相棒は不満げに唸った。
「なーにさ、冷めたふりしちゃって」
口を尖らせている。
俺は気取って肩をすくめた。
「こっ恥ずかしくて、見てらんないっすよ」
「やーね、そこがいいんじゃない?」
ワイドショーを見たがる中年の主婦みたいに、彼女はにへらっと笑う。
4: 2015/11/14(土) 12:15:00.43 ID:0oXNO4iLo
それから、覗きにも飽きたんだろう、体を屋根の内側にしまいこんでから、窓をピシャリと閉めた。
ちょっとアテられたみたいな疲れた声音で、彼女は呟く。
「いいよねえ、新入生には未来があってさ」
「俺らにだってあるでしょうよ」
俺の言葉にすぐには返事をせずに、彼女は窓辺を離れた。
ちんまい体で跳ねるように歩き、定位置のパイプ椅子まで戻ると、
くるっと翻った勢いのまま体を落として座る。
彼女のそういう動作はなんとなくおかしくて、見ていて飽きない。
去年、本人にそんなことを直接言ってみたら、
「見物料払え! 一回百円だぞ!」と脅されたものだった。
よおしと思った当時の俺は、財布から取り出した千円を彼女に手渡して、
「じゃあやって見せて。最初のは引いて、残り九回ね」と焚き付けてみたりした。
彼女は困ったような怒ったような顔になって、
しばらく唇を物言いたげに動かしていたかと思うと、
最後には「うがー!」とバカみたいに吠えて、俺に野口を突き返してきた。
5: 2015/11/14(土) 12:15:30.86 ID:0oXNO4iLo
「あのねえ、たっくんさ、ちょっと考えてもごらんなさいよ」
おどけた口調、わざとらしい呆れ顔。
今度はどこかのコメンテイターみたいなすかした感じで、彼女は言った。
"たっくん"は、俺のことだ。
「彼らは高一」、と既に閉めきった窓の外を指さして彼女は言う。
次に自分の顎を人差し指でつっついて、「うちら高二」とけだるげに呟いた。
「ほーらね?」と彼女は得意顔になったけど、俺にはよくわからなかった。
「つまり、どういうこと?」
「たっくん、カレンダー見て」
五月。
「五月だね」
「そう。五月。うちらにしたら、高二の五月。彼らにしたら?」
「高一の五月」
トン、と両足を揃えてふたたび立ち上がると、彼女はツタツタと窓辺に歩み寄った。
6: 2015/11/14(土) 12:16:13.25 ID:0oXNO4iLo
「分かる? 彼らにはこれから、高一の初夏、梅雨、夏、夏休み、秋に冬……が、あるわけ」
「はあ」
「わたしたちにはある?」
「ないね」
「そう。ないの。ないのよ。一生に一度の高校一年生の学校生活は、うちらにとっては過去ってわけ」
はー、とこれみよがしに溜め息をつく女子生徒。名を高森 蒔絵と言う。
中学時代のあだ名はマッキー(だったとかなんとか)。
以前、気まぐれにそう呼ぼうとしたら、
「次にその名で呼んだら呪う」と、哀しみのこもった瞳で睨まれた。
けっこう嫌だったらしい。
代替案として、タッキーとかモリリンとか、そういうあだ名を提案してみたこともあるけど、結局ぜんぶ棄却された。
「普通に呼んで」と懇願されてからは、特に理由がないかぎり彼女のことを「高森」と呼ぶことにしている。
ちょっとつまらない、と思う。
7: 2015/11/14(土) 12:16:44.94 ID:0oXNO4iLo
そんな高森と俺はいま、東校舎三階の一角にある文芸部室にふたりきり、だ。
見ようによっては青春ドラマ的と言えなくもないかもしれない。
「放課後、文芸部室、ふたりきり」
と、さっき高森がやったのと同じ調子で試しに呟いてみると、彼女は目を丸くして、
「はあ」
と溜め息のような声をもらした。
「言葉だけでドキドキする?」
「言葉だけならね」
手厳しい。
まあ、俺だって、いまさら高森と青春ドラマが発生するなんて思っちゃいない。
8: 2015/11/14(土) 12:17:15.50 ID:0oXNO4iLo
べつに付き合いが長いってわけじゃないけど、一年一緒にいても相手を意識するようなことも起こらなかった。
入学したときクラスが一緒で、部活も同じところに入ったから、自然と顔を合わせる機会が増えたってだけ。
よく言えば気さく、悪く言えば馴れ馴れしいって感じの高森は、受け身がちな俺にとっては話しやすい相手だ。
本人には言わないけど、結構ありがたい存在だったりする。
「なーんかこう、ああいう青春ドラマを見せられると、うちらは去年一年間で、いったい何をしたっけって思うよねえ」
「勝手に一人称複数にしないでくれる?」
「思わないの?」
「べつになあ」
「充実してた?」
「……ってわけでも、ないけどさ」
9: 2015/11/14(土) 12:19:20.32 ID:0oXNO4iLo
高森はつまらなそうな顔をしていた。
でも、俺は自分の高校生活の一年目に、これといった不満があったわけでもない。
クラスメイトとの仲だって悪くなかったし、これといったトラブルに巻き込まれた記憶もない。
派手に遊んだり騒いだりってこともなかったし、恋愛関係の出来事なんて皆無だったけど、けっこう楽しかった。
「じゃあ、高森はああいうことしたかったわけ?」
「ああいうことっていうと?」
「つまり、放課後、校舎裏、ふたりきり、みたいなこと」
「そう言われると、そうでもないんだけどね」
肩をすくめて、高森は溜め息をつく。そこで会話は終わった。
文芸部室にふたりきり。もともと部員数の少ない部活だけど、今日はいつもより人数が少なくて、なんだか気だるい。
本を読んで、ときどき適当に何かを書いて、あとは年に四度、部誌を出すだけの部。
退屈ってわけでもないけど、情熱を燃やすような部活でもない。
「彼氏ほしいなあとかも思わないんだよね、不思議とさ」
「そういうもん?」
「自分の時間が減っちゃうからなあ」
「趣味人はたいへんだねえ」
からかうつもりもなくつぶやくと、彼女はジトッとした視線をこちらにぶつけてきた。
よくは知らないが、高森は昔からネットゲームにハマっていたらしくて、そのなかで友達がたくさんいるらしい。
10: 2015/11/14(土) 12:19:46.78 ID:0oXNO4iLo
「土日は経験値が二倍だから、出かけたくないの」
結構前に、そんなことを言っていた。
未知の領域。ゲーム内ではネナベの友達と結婚しているらしい。
「たっくんはー?」
「たっくんいうなマッキー。……なにが?」
「マッキーいうな。彼女ほしいとか思わないわけ?」
「思わないって言ったら、負け惜しみって思う?」
「べつに。きみ性欲なさそうだし」
いやあるよ、と否定しそうになって、思いとどまる。
からかわれるのが目に見えていた。
「……俺だって思春期っすよ」
「じゃあ、好きな子とか、いるの?」
なんてことない世間話、暇つぶしのための話題振り。
いかにも『どうでもいいです』という高森の態度に、ちょっとむっとしつつ、それでも少し考える。
と、一瞬、脳裏をよぎった女の子がいたけど、すぐに振り払った。
「いませんな」
「いませんか」
11: 2015/11/14(土) 12:20:25.94 ID:0oXNO4iLo
ほうほう、なるほどね、と、何度もわざとらしく頷いたあと、ありもしない眼鏡を直す手振りをして、
「うそだな」
と高森は言った。
「なにゆえ」
「うそつきのスメルがした」
あっさり看破しやがって。
「年上? 年下? 同い年?」
「……」
「……年下か」
「エスパーか、きみは」
「やーい、年下年下ー」
「子供かよ」
からかい方が意味不明だ。
「べつにそういうんじゃなくて、昔ちょっと……」
「ふうん?」
つっついてきたくせに、高森はたいした興味もなさげに相槌を打って、それ以上は何も言ってこなかった。
12: 2015/11/14(土) 12:21:05.88 ID:0oXNO4iLo
「それにしても、部長遅いね? どこまで行ってるんだろう」
「部員が非協力的だから、拗ねてるんじゃないの」
「たっくん、だめじゃん」
と高森は言った。
「そうだぞ、たっくん」
と俺も虚空に向かって話しかけてごまかそうとしたが、高森は相手にしてくれなかった。
むべなるかな。
「しっかし、まだ五月だってのに暑いねえ」
「まったくだ」
ぼやいてから、ふたりそろって黙り込んだ。
話題も尽きた。無駄話だっていつまでも出てきやしない。
高森は落ち着かないように部室を歩きまわって、また窓を開けた。
吹きこんだ風が日に焼けたカーテンをふくらませる。
気だるい熱気と薄暗さのなか、午後のゆるやかな風は干したての布団みたいに気持ちいい。
黙っていたら、居眠りしそうなくらいだった。
13: 2015/11/14(土) 12:21:34.70 ID:0oXNO4iLo
◇
「ただいま」という静かな声で、俺の意識は浮かび上がった。
すぐに、自分が座ったまま眠りかけていたことに気付いた。
「あ、おかえりなさーい」
高森が部室の入り口に向けて手を振った。
視線を扉の方に向けると、部長が戻ってきたところらしい。
文芸部部長は三年女子。物静かで取っ付きづらい印象がある。
顔立ちは綺麗だけど、どちらかというと冷たそうな感じがする。
表情も変化はあんまり多くない。
片側だけ耳にかけられた前髪が、気の強そうな雰囲気に拍車をかける。
話しづらそうだな、というのが第一印象だった。
あくまで、第一印象、だ。
14: 2015/11/14(土) 12:22:14.67 ID:0oXNO4iLo
部長は自分の定位置のパイプ椅子に腰掛けて、長めの溜め息をついた。
傍においてあった自分の荷物から下敷きを取り出したかと思うと、うちわ代わりに仰ぎはじめる。
よっぽど暑がっているらしく、額には汗が滲んでいる。
下敷きがつくった小さな風が、肩のあたりまで伸びた黒い髪をさらさらとなびかせていた。
「ずいぶん遅かったですね」
べつにたいした意味もない言葉だったのに、部長は「よくぞ聞いてくれました」という顔で口を開いた。
「それがね、先生に見せたら勧誘の文句があれじゃダメだって言われて……」
「描き直したんですか?」
「もうめんどくさいから、文字書いたところ塗りつぶして、そのうえに新しく書いちゃった」
あいかわらず、見かけに反して豪快な人だ。
15: 2015/11/14(土) 12:22:42.58 ID:0oXNO4iLo
「だから時間かかったんですね」
「そうそう。職員室でペン借りて三十秒で終わらせたんだけどね」
「はは」
と俺は適当に笑った。高森も「ははは」と笑った。
そのあと俺たちふたりは黙りこんで、静かに視線を交わす。
……三十秒で終わったなら、何に時間が掛かったんだ?
少し気になったけど、考えないことにした。
降って湧いた沈黙のなか、部長は首をめぐらせて視線をあちこちにさまよわせはじめた。
「あれ、ゴローくん、帰っちゃったの?」
部長の問いに、俺と高森は目を見合わせた。
俺が黙っていると、高森が答えてくれた。
「よくわかんないですけど、帰っちゃいました」
「なんで?」
「なんか、『ミートソースとボロネーゼの違いが分からない』って打ちひしがれてて」
高森の言葉に、部長は一瞬硬直した。
16: 2015/11/14(土) 12:23:21.48 ID:0oXNO4iLo
「……え、名前が違うだけじゃないの?」
「そうなんですか?」
「たぶんだけど。だってミートソースって英語でしょ。イタリアだとボロネーゼって言うんじゃない?」
「あ、ミートソース……あ、そうですね。英語ですね、ミートソース。そういえば」
「でも、こないだ行ったお店だとメニューに別々に載ってましたよ?」
「え? じゃあ何が違うんだろうね」
……すごくどうでもいい会話だ。
こほん、と部長が咳払いをする。
「そんなわけで、一応ポスター掲示板に貼ってきたから」
気を取り直すように背筋をピンと伸ばして、俺たちふたりの顔を順番に見てから、部長はそう言った。
「お疲れ様です」という俺の声に、「でもいまさらですよねー」という高森の声が重なる。
「そうなんだけどね。仮入部期間も終わっちゃってるし。でも、先生うるさいから」
いかにも真面目そうな態度、落ち着いた表情なのに、話す言葉はあまりに普通。
俺のものの見方が妙な先入観に侵されているだけなんだろうけど、
部長が普通のことを喋るたびに、それを聞くのが少し楽しい。
17: 2015/11/14(土) 12:23:48.78 ID:0oXNO4iLo
「それにしても、勧誘の文句、ダメだったんですか」
「そう。ごめんね、せっかくふたりに考えてもらったのに」
「全然いいですよ」と俺は曖昧に笑う。
自分がどんな提案をしたのか、既に覚えていなかった。
なんとなく高森に視線をやると、彼女は彼女で、
「なんて書いたんだっけ?」
とぼんやり首をかしげていた。
ふたりの視線が俺に集まる。
沈黙。
「……忘れた」
また沈黙。
やがて、部長がくすくす笑った。
18: 2015/11/14(土) 12:24:19.53 ID:0oXNO4iLo
「……えっとね、最初は、"まったりしましょう"でいいってタクミくんが言って」
タクミくん、も俺のことだ。
「蒔絵ちゃんが、それじゃ面白くないって言って、"レッツまったりトゥギャザー"にしようって言って……」
「……うわあ」
俺は自分たちのセンスのなさに身震いした。
高森の方に視線をやると、彼女もまた「トゥギャザーはないわ……」と頭を抱えていた。
「はは、トゥギャザーって、文章からにじみ出る頭の悪さが文芸部とは思えないな」
俺はひそかに自分を棚にあげた。
「頭悪いって失礼だな。……というか、たっくんもわたしの案、『最高!』って褒めてたじゃん!」
「え、そうだっけ?」
「うん。『お、いいじゃん。グローバリゼーションだよな、やっぱ』とか言ってさ」
「……たしかに言った気がする」
部内は雑談のノリが軽いから居心地がいいんだけど、話す内容が悪ノリに流れがちなのが困ったところだ。
後になって自分の発言に悩まされることも少なくない。
19: 2015/11/14(土) 12:24:48.46 ID:0oXNO4iLo
「……で、採用された文章はなんだったんですか?」
部長はブレザーの内ポケットからスマホを取り出して、「ん」と画面をこっちに向けた。
どうやらポスターを撮ってきたらしい。
俺と高森は画面に向かって揃って顔を寄せた。
掲示板に貼られたポスターの写真。文面は以下のようになっていた。
「文芸部部員募集中! お気軽に部室まで」
担当顧問の名前と部室までの案内が、ポスターの右下にそっと添えられている。
勧誘文句の脇には、椅子に座って本を読む「考える人」の絵が描かれていた。
描いたのは部長だ。クオリティは無駄に高い。
「やっぱ部長、絵うまいっすね」
俺の言葉に、部長は「やー、そんなことないよー」と照れた感じで前髪を何度も直しはじめた。
自分の言葉で女の人が照れたと思うと、妙にうれしいのはどうしてなんだろう。
俺がそういうほのかな幸せを感じている横で、高森はちょっと不満そうな顔をしていた。
「……部長、日和りましたね」
「あ、ばれた? やっぱりちょっとおかしいよね。よく見ると足が短いもんね」
「絵の話じゃないです」
「え?」
20: 2015/11/14(土) 12:25:23.68 ID:0oXNO4iLo
「絵の話じゃないです。文です」
「え、文?」
「なんですか、この文……」
「なんかまずかった?」
「まずいっていうか……」
なんとなく、不穏な気配が広がった。
いったいどこが気に障ったのか分からないが、段々と彼女の声は大きくなってきている。
妙な緊迫感。
「高森、どうしたんだよ。べつに普通のポスターだろ、これ」
「だって、これじゃ――」
俺は生唾を飲み込んだ。
「――これじゃ、普通の文芸部みたいじゃないですか!」
大真面目な顔で、高森はそう言った。
俺と部長はあっけにとられる。
「……いや、普通の文芸部だろ、うちは」
はあ、と溜め息が出た。何かと思えば、くだらない話だった。
「そうだけど! だからこそ勧誘ポスターくらい面白くしたいじゃない?」
その結果がトゥギャザーだろ、とは言わないでおいた。
21: 2015/11/14(土) 12:25:49.79 ID:0oXNO4iLo
「大いに不満です。こんな定型文みたいな勧誘文句じゃ、部員なんて来ませんよ」
「うーん、そこはもともと、あんまり期待してないんだけどね」
部長はふわっと苦笑した。
「日和っちゃダメです、部長。五月ですよ。この時期にこんな文じゃ、新入生は興味も示しませんよ」
どうやら、テンションのスイッチが切り替わったらしい。
高森は妙な盛り上がりを見せ始めた。
対して、俺と部長のテンションは低空飛行を続けている。
顧問が「勧誘くらいしろ」とうるさかったのと、どうせ暇だったから、ってので作っただけのポスターだ。
新入部員が来るかどうかなんて、正直どうでもよかったりする。
「わたしたちは文芸部なんですから、文章には責任と誇りをもたないと!」
「……うーん」
部長が「ちょっとめんどくさいかなあ」という顔をしたので、仕方なく俺が高森に乗ってやることにした。
22: 2015/11/14(土) 12:26:27.64 ID:0oXNO4iLo
「責任と誇り?」
「仮にも創作活動をする部なんだから、借り物の言葉じゃ駄目なんだよたっくん!」
だからその結果がトゥギャザーだろ、と。
「たとえば、どんなのならいいの?」
俺の問いかけに、彼女は口舌をとめて真顔に戻った。
「えっと……」
「うん」
「東京モード学園のCMみたいな……?」
イメージからして借り物なのに創作活動とはよく言ったものだ。
なんてことを俺が言うより先に、
「創作は模倣からはじまるんだよ!」
高森は言い逃れするみたいに断言した。
「ふむ」
と俺は頷き、鞄から筆記用具を取り出した。
「じゃあ、今から考えてみるか。どんな文章ならポスターにふさわしかったか」
高森は目を輝かせて頷いた。
どうせ退屈していたのだ。暇つぶしの手段は多いに越したことはない。
乗り気になった俺たちふたりを見て、部長は、
「なんできみたちの熱意ってスロースターターなのかなあ」
と溜め息をついていた。
23: 2015/11/14(土) 12:26:57.57 ID:0oXNO4iLo
それから俺と高森は熱心にキャッチコピーを考え始めた。
やがて、せっかくだから作ってしまおうという話になり、部室の隅で埃を被っていたPCを起動する。
一応ネットには繋がっているから、そこから適当に、それらしいフリー画像をダウンロードして背景にする。
さすがに速度はあまり出ず、画像ファイルを落とし終えるのに数分かかることもあった。
部室の場所と顧問名を記載してから、ああでもない、こうでもないと試行錯誤しつつ、考えたフレーズを入れてみる。
まずは夕焼けに染まる街をバックに、
「世界は君の言葉を待っている。」
と一言。
「おお、東京モード学園っぽいよ、たっくん」
「なんかテンション上がってくるな」
「……でも、たぶん、世界は新入部員の言葉なんて待ってないよね?」
まあ、たしかに。
「世界からしたら寝耳に水だよね、このキャッチフレーズ。『いや、別に待ってませんけど?』みたいな」
「じゃあ、『世界は君の言葉なんて待っていない。』にしとくか」
「うん、なんかそっちの方が文芸部っぽいかも」
文芸部っぽさってなんだろうね、と部長がぼそりと後ろで呟いたが、俺たちは聞こえないふりをした。
世界は君の言葉なんて待っていない。
大きめの明朝体。白字に黒い縁取りをつける。
24: 2015/11/14(土) 12:27:26.09 ID:0oXNO4iLo
「でも、ちょっと長いね」
「二行に分けてみる? こう、下の行のインデント変えて」
世界は君の言葉なんて
待っていない。
「なんか微妙だね」
「下の行が短すぎるな……」
「上の行を少し削ってみる?」
「って言ってもな。削れそうなのが『世界は』しかないぞ」
「となると……『君の言葉なんて待っていない』になっちゃうね」
「勧誘ポスターにそのフレーズじゃ、ただのツンデレになっちゃうな」
「たしかに……。縦の方がいいかもね。うーん、まあ、別のパターンも作ってみようか」
とりあえず、『世界は君の言葉なんて待っていない.docx』を保存する。
25: 2015/11/14(土) 12:28:45.20 ID:0oXNO4iLo
「じゃあ次……」
「あ、応答なしだ」
「また? 重すぎでしょこのパソコン。部長、先生に新しいPC買ってもらいましょうよー」
「どうせ普段使うのは軽めのテキストエディタだし、そんなに支障ないでしょ」
「部誌つくるときはワードじゃないですか」
「コンピュータルームに借りにいけばいいじゃない?」
「不便ですよー」
「部誌まとめてるのわたしだもん。蒔絵ちゃん、代わりにやってくれる?」
「……さて、たっくん、次いこっか」
「うっす」
「……薄情だなあ、ふたりそろって」
俺は聞こえないふりを続けた。
26: 2015/11/14(土) 12:29:11.24 ID:0oXNO4iLo
次の画像は綺麗な青空の写真を選んだ。
「綺麗な空の写真にそれらしいフォントでそれらしいこと書いとけば人目を引くよ。わたしなら見るもん」
と高森は言った。
誇りと責任はどこにいった、と思ったが、声には出さなかった。
「フレーズはどうする? モード学園系?」
「どんなのあったっけ……」
高森はルーズリーフを見ながら、しばらく悩んでいたようだった。
「じゃあこれ」
と彼女が指さしたものを、フォントをいじりながら入力する。
『原稿用紙の上に、法定速度はない。』
「意味が分からんな」
「意味の分からん爽快感はあるよ」
「うわっつらだけって感じが否めないっす」
27: 2015/11/14(土) 12:29:54.60 ID:0oXNO4iLo
「でもこれだったら、二行にしてもちょうどよさそうだね」
「空が背景になってる理由がさっぱり分からないけどな」
「いいの! 盗んだバイクで走りだす前に原稿用紙に思いの丈をぶつけてみるの!」
そもそも、うちは原稿用紙なんてめったに使わない。
「あと、これだと勧誘ポスターだってわかりにくいし、しっかり何のポスターなのか書いておこうよ」
監督の指示に従い、キャッチフレーズの下に小さめのフォントで『文芸部、部員募集中。』と追記した。
「ダッシュとか使ってみない?」
『――文芸部、部員募集中。』(明朝体、黒縁白字)
「やだ、こんなかっこいい部員募集ポスター見たことない」
「フォントと縁取り変えただけで結構ハイセンスに見えるな」
部長がうしろで溜め息をついたのが聞こえた。
28: 2015/11/14(土) 12:30:20.93 ID:0oXNO4iLo
「次行ってみよう!」
「ノリノリだな、おい」
「楽しくなってきた。次これね」
そんな調子で、俺と高森は適当な写真に適当な言葉を乗せるという作業を十数回繰り返した。
テンションが落ち着いてくる頃には四時半を回っていて、
その頃には俺の目もじんわりと疲れを訴えはじめていた。
「……たっくん、あのさ」
と、パイプ椅子にもたれて、顔を天井に向けたままの高森が声をあげた。
疲れた声、気だるい姿勢。机に顔をのせている俺も、たぶん、似た風に見えているのだろう。
「なに?」
あのね、と高森は言う。
「……すっごい徒労感」
「言うな……」
「どうする? このファイル……」
とりあえずデスクトップにフォルダを作り、完成したファイルを入れておいたが、用途は皆無だろう。
29: 2015/11/14(土) 12:30:56.59 ID:0oXNO4iLo
「貼ってきたらいいんじゃない?」と部長は言った。
「いやです。こんなの実際に貼れません。勧誘ポスターは自己表現の場じゃありませんので」
高森は部長の提案をあっさりと拒絶した。
じゃあなんで作ったんだ?
……問うまでもなく答えが浮かんだ。その場のノリだ。
「わたしは良いと思うけどな。『文章は、吃音症者が発しそこねた言葉の残骸だ。』とか」
「うわあああ!」
と俺は頭を抱えた。
十分前の自分が恨めしい。
「タクミくんが書くものって、だいたい思春期全開だよね」
「……し、思春期まっただなかの人間の言葉だけが、思春期の少年少女に届くんです! きっと!」
なるほどね、と部長は楽しそうにくすくす笑う。
「吃音症者に対する配慮が欠けてるよ!」と、横で聞いていた高森が唐突に口を挟む。
「たしかに」と頷いたものの、正直もうどうでもいい。
30: 2015/11/14(土) 12:31:50.49 ID:0oXNO4iLo
「……やっぱトゥギャザーが一番ダメージ少ないよな。笑われてもネタにできるし」
「たっくん、冷静になって。トゥギャザーも相当アレだったよ」
俺と高森は体力と気力を使い果たし、パイプ椅子にもたれるだけの脂肪の塊と化した。
部長はずいぶん前からひとりマイペースに本を読み始めていて、俺たちのことは一顧だにしない。
そんな静寂が二、三分続いたあと、高森は、
「あ」
と声をあげたかと思うと、勢い良く立ち上がった。
「どうした?」
「バスの時間。いかなきゃ」
「じゃあねー」と、部長が本から顔を上げてゆらゆら手を振る。
「おつかれさまですー、また明日!」
高森がバタバタと部室を出て行ったあと、俺と部長は静けさの中に投げ出された。
31: 2015/11/14(土) 12:32:18.40 ID:0oXNO4iLo
「さて」と、本をぱたんと閉じて、部長は立ち上がった。
「どうしました?」
「印刷しちゃおう、さっきのデータ」
「え」
口を開けた俺にむけて、部長はにやりと笑った。
「わたしの『偽・考える人』だけが衆目にさらされるなんて、どう考えてもフェアじゃないもんね」
「ちょ、っと待ってください。文をさらすのと絵をさらすのじゃ、だいぶ違いますって」
「違わない違わない。大丈夫、この部屋の壁に貼るだけだよ。悪用しないって」
「やめましょうよそれ、俺と高森、後悔と向かい合いながら生活するハメになりますって」
「それ、いいね。それもポスターにしちゃおう。『後悔と向き合いながら、生活する。』」
「無駄! 資源の無駄ですって!」
俺が必氏になるのがおもしろいのか、部長はいつにもない笑顔でパソコンに向かいはじめた。
「ほんと、勘弁してくださいって。……ひょっとして、何か怒ってます?」
「べつに。わたしひとりにポスター作成任せたくせに今更やる気になるなんてむかつくとか、
さっきまで無視されてて腹が立ったとか、そういうんじゃないよ」
根に持たれていた。
32: 2015/11/14(土) 12:32:48.70 ID:0oXNO4iLo
「……あの、すみませんでした」
「うん。許す」
にっこり笑いながら、部長は印刷ボタンをした。
旧式のプリンターがガッコンガッコンと不穏な音を立てながらA4用紙を吐き出しはじめる。
負い目があるので止めようにも躊躇するが、高森と俺の名誉の為に、どこかの段階で阻止しなければならない。
「部長……あの、勘弁してください」
「『ことばが、こころを守る。』」
「マジで勘弁してください!」
彼女は俺の懇願を尻目に、鼻歌まじりに印刷を続ける。
「あとで職員室のコピー機で拡大印刷しようね?」
「……分かりました。好きにしてください」
お手上げのポーズをして、俺は溜め息をつく。
仕方ない。こうなったら、とりあえずは一旦引こう。
俺が抵抗をやめる素振りを見せると、案の定、部長はつまらなそうな顔をした。
おそらく、からかって面白がっているだけなのだ。
あとは部長が飽きたときに、あるいはパソコンから離れた隙に、データを消してしまえばいい。
印刷されてしまったものに関しては……部長の行動に注意を払っておけば、晒しものになることは避けられる、はず。
「……ふむ。思ったよりいい感じだね」
プリンターが吐き出したポスターの出来栄えに、部長は感心していた。
33: 2015/11/14(土) 12:33:18.98 ID:0oXNO4iLo
「……環境省に怒られますよ」
「だいじょうぶ。ちゃんと使えば、無駄遣いじゃないもんね」
「……あのー」
「好きにしてって、言ってたじゃない?」
部長は完成したポスターをぺらぺら揺らしながら立ち上がった。
俺はうしろから静かに忍び寄り、部長の手から紙を奪い取ろうとする。
「おっと」という声と同時、彼女は体をひらりと翻し、後ろ手にポスターを隠す。
「やりますね、部長……」
「こう見えて、わたし、G級ハンターだから」
「……絶対関係ないですよね、それ」
意外な言葉に戸惑っているうちに、プリンターが次のポスターを吐き出しはじめていた。
とっさに伸びた俺の手より先に、部長がそれを確保する。
「『給水塔の鴉が、僕に何かを伝えようとしていた。――文芸部、部員募集中。』」
勧誘ポスターだということをすっかり忘れて、それらしいだけの言葉を並べ始めたのが敗因だ。
「捨ててきます」
「環境省に怒られますですよ?」
部長はわざとらしい敬語でそう言ってにっこり笑った。
ほんとに、いい性格してる。
34: 2015/11/14(土) 12:33:53.90 ID:0oXNO4iLo
「……仕方ないですね。俺も腹を括りましょう」
「やっと諦めてくれた?」
「ただし、俺のだけじゃなく高森の書いたものもですよ」
「うん。よーし、じゃあ下駄箱あたりに貼りにいこっか」
彼女が胸の前にポスターを戻したのを狙って、
「とったあ!」
と腕を伸ばした。
「おっと」
さっきと同じようにポスターは後ろに隠される。
惜しい、ちょっと掴んだのに、なんてことを考えられたのも束の間。
部長が「あっ」と声をあげた。俺が引っ張ったせいで、ポスターは彼女の手からすべり落ちたらしい。
A4用紙はひらひらと風に乗り、開けっ放しだった窓の外へと舞い降りていった。
「げっ」
「あーあ」
「う、うわあ!」
思わず本気の悲鳴が口からこぼれた。
窓辺に駆け寄って外を見下ろす。
校舎裏の草むらに俺たちの考えたキャッチフレーズがさらされていた。
35: 2015/11/14(土) 12:34:19.93 ID:0oXNO4iLo
「しーらない、と言いたいとこだけど、ちょっとごめん」
やりすぎちゃった、という顔で、彼女はぽりぽりと頭を掻いた。
「ちょっと取ってきます。さすがに文芸部って書いてあるし」
「そっか。ばら撒いたら勧誘になるかもね」
「美化委員に怒られますよ」
というか俺と高森が怒る。
「とりあえずいってきます」
「いってらっしゃい」
部長はひらひらと手を振ってくれた。
36: 2015/11/14(土) 12:34:46.62 ID:0oXNO4iLo
◇
階段を駆け下りて、一階の渡り廊下から土足で校舎裏に回る。
一応土のないところを選んで歩いたが、汚れてしまったらあとで洗うなり拭くなりしよう。
くしくも、園芸部の畑の近く。
さっきの青春下級生たちは、もういなくなってしまったらしい。
そりゃそうか。あの出来事から三十分は経っているのだ。
そうだよな、今時間だと、もう誰もいないはずだ。
ほっとして溜め息をつきかけたところで、視界に人影を見つけた。
しかも、何かの紙のようなものをじっと見つめている。
制服のままってことは、園芸部の連中ではあるまい。
あんまりな不運だ。
こんなことってあるだろうか。なんだってこのタイミングで、こんな場所に誰かいたりするんだ。
俺はどうにかごまかす手段を考えたが、結局正直に声をかけるしか打つ手はなさそうだった。
「あの、ちょっといい?」
仕方なく、俺はその見知らぬ女子生徒に声をかけた。
37: 2015/11/14(土) 12:35:15.03 ID:0oXNO4iLo
「え?」
彼女は、びくりと大きく体を跳ねさせた。
こんな人気のない場所で、話しかけてくる奴がいるなんて思わなかったんだろう。
ちょっと悪いな、と思ったけど、状況が状況だから仕方ない。
彼女が手にもっているのは、たしかにさっき落としたポスターのようだった。
なんて不運だ。
たまたま紙が落ちたタイミングに、たまたま人が来るなんて。
「それ、うちの部のなんだ。上から落としちゃって」
と、俺は三階のあたりを指さした。
「勧誘ポスターなんだよ」
内容のセンスに関しては、こちらからは触れないことにした。
「……そうだったんですか。突然降ってきたから、なにかと思いました」
「ごめん。拾ってくれてありがとう」
俺は必氏に体裁を取り繕いながら、ポスターに書かれた文が俺ではなく高森の考えたものであることを祈った。
「文芸部なんですか?」
38: 2015/11/14(土) 12:35:41.33 ID:0oXNO4iLo
「うん。きみは新入生?」
そう問いかけたところで、彼女と目が合う。
そのとき初めて、彼女の容貌をはっきりと意識した。
背丈は、高森よりは高いけど、部長よりは低い、ちょうどまんなかあたり。
低くもなく、高くもない。細く見えるのは、手足の関係か。
「はい」
どことなく緊張した様子。
それでも彼女は、ぎこちなく微笑んだ。
俺はひそかに見とれていた。
肩まで伸びた髪は、毛先までストンと落ちるようなストレート。
夕日のせいかもしれないけど、栗色に光って見えた。
雑木林の木々が風でざわめく。
不器用そうな笑い方。柔らかい雰囲気。
べつに際立って線が細いとか、色素が薄いとか、そういうわけじゃない。
それなのに、ふとした瞬間に滲むように消えてしまいそうな不確かさ。
気のせいだろうか。どこかで、会ったことがあるような気がする。
それどころか……いや、まさかだ。
39: 2015/11/14(土) 12:36:12.68 ID:0oXNO4iLo
「これ、もらっちゃだめですか?」
「……え?」
「ポスター」
大真面目な顔で、彼女は自分の手元に視線を落とした。
「まだ、部活決めてなかったんです。ちょっとだけ、興味がわいたから」
いや、部室の場所だけ教えるから、ポスターは返してくれないか。
と、そう言いたかったけど、そんな空気じゃなかった。
「……ああ、いいよ」と、俺は仕方なく頷く。
「よくできてますね、これ」
彼女の視線がポスターの紙面に落ちるのを見て、心臓がドクンと震える。
俺は気が気じゃなかった。
「興味があったら、部室まで来てよ」と俺は言った。
「放課後なら、いつでも誰かしらいるからさ」
じゃあ、と言って、俺は背を向けた。とにかくいますぐこの場から逃げ出したかった。
「ありがとうございます」
と、後ろから声が掛けられる。さっきより緊張がとけた感じの、軽やかな声。
俺は返事ができなかった。
40: 2015/11/14(土) 12:37:41.71 ID:0oXNO4iLo
◇
なんとなくすぐに部室に戻る気になれなくて、俺は東校舎の屋上へと向かった。
本校舎の屋上も東校舎の屋上も、一応開放されてる。
天気の良い日には本校舎の屋上をランチに使う生徒もすくなくない。
もともとそういう用途だったのだろう。芝生が植えられていて、ベンチなんかも置かれていたりする。
東校舎の屋上は、そういうのとは違う。すこしそっけなくて、どちらかといえばひとりになるための空間に近い。
ベンチも芝生もない。その差はなんとなく、示唆的だという気がする。
よく晴れた五月、じっとしているだけで汗の滲んでくる肌を、屋上に出た途端、フェンス越しの風がゆるく撫でた。
頬をたれた汗を手のひらで拭う。空はゆっくりと夕焼けに近付いていく。俺は何かを思い出しそうになった。
さっきの女の子の顔を思い出す。
見間違いかもしれないけど、俺は彼女のことを知っているような気がする。
考えないようにしていたことを、また、考えてしまう。 そんなタイミングで、
「暇なの?」
って、うしろから声がした。
「……びっくりした」
振り返ると、校舎につながる鉄扉のすぐそば、かくれるみたいに、ひとりの女の子が膝を抱えて座っていた。
変な日だ。女の子とばかり会う。ゴローは帰っちゃうし。
「……佐伯?」
「うん。佐伯ですよ」
と言って、彼女は手に持っていたシャボン玉用のストローをふっと吹き込んだ。
吹きこまれたシャボンはまんまるく光ながら風に乗る。
41: 2015/11/14(土) 12:38:25.92 ID:0oXNO4iLo
いちおう、文芸部員である佐伯。物腰が落ち着いていて、普段は大人びているんだけど、
ときどきこういう、変に子供っぽいところを見せる。部活サボって屋上でシャボン玉吹いたり。
「……なんでこんなところにいるわけ?」
「朝、コンビニ寄ったらシャボン玉おいてあってさ」
「はあ」
「ちょっとやりたいなって」
「なるほどな」
おまえの方が暇なんじゃねーかと思った。
「浅月、なにかあったの?」
浅月、も、俺のことだ。
「なにが」
「すごい顔してたよ、今」
「どんな顔?」
「誰かに似てたな。誰だっけ……」
そう言ったきり、彼女は何か考えこむような様子で黙りこんでしまった。
42: 2015/11/14(土) 12:38:56.75 ID:0oXNO4iLo
「部活は?」
「高森とゴローは帰ったよ。そっちこそサボり?」
「べつにさぼってないよ。こういう時間が必要なんだよ」
「知らないけどさ」と、俺は溜め息をついた。
「浅月」
「なに?」
「なんかつらそうだよ」
「……や。そんなことないけど」って、俺はごまかし笑いをした
「やっぱり誰かに似てるなあ」って佐伯は言った。
佐伯がつくりだしたシャボン玉が、屋上にふわふわ浮かびながら、昼下がりの太陽を浴びてきらきら光っている。
なんとなく、いろんなことを思い出す。順不同に。
子供の頃の夏。中学のとき、屋上で言われた言葉。眠られずに起きたとき聞いた、両親の会話。途絶えたメール。誰かの泣き顔。
「……そろそろ帰るよ」
「そう? そうだね。もうそういう時間だね」
じゃあばいばい、って佐伯はひらひら手を振った。
43: 2015/11/14(土) 12:39:31.61 ID:0oXNO4iLo
◇
部活を終えてマンションに帰ると、静奈姉はもう帰ってきていたみたいだった。
ダイニングのソファに寝転がって、クッションを抱えたままテレビを眺めている。
「ただいま」と声をかけると、「おかえりなさーい」と声だけは元気に帰ってきた。
「遅かったね」と静奈姉は言った。
「いつもどおりだよ」と答えると、彼女はちらりと掛け時計の針を見つめたあと、小さくうなずく。
「うん。たしかに。そうかもしれない」
地元から遠くの高校に進学すると決めたとき、俺は一人暮らしをしようと思っていた。
というと因果関係が逆で、実際は一人暮らしがしたかったから遠くの高校に進学しようとしたんだけど。
当然、両親からは猛反対を食らって、何回も説得されたけど、最終的には折れてくれた。
折れたというより、諦めたって感じだったけど。
それでもいきなり一人暮らしなんてさせるわけにはいかないから、せめて親戚の家に下宿という形で、と言われたが、
俺はこれも拒否した。自分でもワガママ言い放題、困った子供だとは思う。
べつに自立心が旺盛だったわけじゃないし、なんでも自分ひとりでできるとたかを括っていたわけでもない。
それどころじゃなかっただけだ。
44: 2015/11/14(土) 12:40:02.60 ID:0oXNO4iLo
進学先の高校の近くに親戚が暮らしていることは分かっていた。
だからこそ、そこを選んだという面もある。
お目付け役をつける形なら、話も通ると思ったのだ。本当はそれだけじゃなかったけど。
とはいえ、そもそも下宿と言っても、子供のワガママの為に親戚に迷惑をかけるのは、両親の望むところでもなかった。
そこで手を挙げてくれたのが、大学に通うために一人暮らしをしていた静奈姉。
五歳か六歳だったか、年上の親戚。
子供の頃から従姉弟のように遊んでいて、お互い知らない仲じゃない。
なによりも俺の心情を汲んでくれて、
家賃や諸々の生活費を折半することを条件に、俺がここで暮らすことを許してくれた。
おじさんたちと静奈姉には頭があがらない。
もちろん、実際に俺が払うべき金を出してくれている両親にも、感謝はしている。
そういう状況になってはじめて、うちが世間一般的には、比較的裕福な家庭に属するのだとも知った。
……そういうことの諸々が、俺としては嫌だったんだけど。
「タクミくんさ、何部だっけ?」
寝転がったまま、静奈姉は気の抜けた声でそう訊ねてきた。
「文芸部」
「……文芸部かあ」
何かを思い出すみたいに、彼女はしばらく黙り込んだ。
45: 2015/11/14(土) 12:40:29.11 ID:0oXNO4iLo
「……ごはん、つくろっか。お腹すいたでしょ」
そう言って笑った静奈姉は、ソファから起き上がった。
「手伝う」
「いいよ。疲れてるでしょ」
「運動部でもあるまいし、べつにたいして疲れてもないよ。静奈姉こそ、バイトだったんでしょ?」
「いーの。タクミくんにご飯つくらせたりしたら、お父さんたちに何言われるかわかんないもん」
「世話になってるのは俺だし」
「……このやりとり、何度目だっけ?」
「忘れた」
「変わんないよね、お互い」
彼女はくすくす笑ってからヘアゴムで長い髪を後ろにまとめて、ビリジアンのエプロンをつけた。
かたちから入るタイプなんだ、って、ここに来てすぐの頃に言っていた。
変わらないと彼女はいうけど、昔の静奈姉はもっとはしゃいだり、感情をあらわにすることが多かったような気がする。
もちろん、歳をとって落ち着いてきた、といえばそうなんだろうけど。
そういう些細な変化が、この街にいなかった俺には少し寂しかったりする。
時間の流れを突きつけられるようで。
46: 2015/11/14(土) 12:40:59.05 ID:0oXNO4iLo
そのままキッチンに向かって、静奈姉はひとりで料理をはじめてしまった。
俺はとりあえず着替えることにした。
一応2DKで、俺用の部屋も用意してもらえた。もともとは物置として使っていたらしい。
荷物をおいて部屋着に着替えてからダイニングに戻ると、
「お皿出してもらえる?」と声を掛けられた。
うなずいて俺はキッチンに入り込み、棚から食器を用意した。
食事ができあがってからテーブルに運び、向い合って座る。
「いただきます」
「めしあがれ」
そして黙々と食事がはじまる。お互い喋らないってわけじゃないけど、何を話せばいいのか分からなかった。
そういう雰囲気がまるまる一年続いて、なんだかお互い、口数も段々減ってきたような気がする。
気まずさを感じているのは、俺だけなのかもしれないけど。
47: 2015/11/14(土) 12:41:25.60 ID:0oXNO4iLo
「……学校、どう?」
ときどき、沈黙を嫌うみたいに、静奈姉は俺にそういう質問をぶつけてくる。
気まぐれなのかもしれないし、ずっと話しかけるタイミングを窺っていたのかもしれない。
俺には知りようもないことだ。
「楽しいよ」
「そっか。ならよかった」
静奈姉はふんわり笑った。
この人に迷惑をかけているのだと思うと、すぐにでもここを出て行くべきだという気持ちになる。
でも、ぜんぶがいまさらだ。
途中でやっぱりなし、にするわけにも、たぶん、いかないのだろう。
「新学期だけど、新入部員とか来たの?」
「いや。全然だよ。部員全員、やる気ないし、勧誘もとくにしてるわけじゃないし」
ポスターの話をしようかどうか迷ったけど、どう話せばいいのかわからなくて、結局やめた。
会話が途切れるのをおそれるみたいに、静奈姉は言葉を続けてきた。
「……明日は、バイト?」
「うん。夕方から」
「ご飯はどうする?」
「適当に買って済ませるけど……どうして?」
普段からそうしているから、いまさら聞くこともないのに。
「ううん。明日、ともだちにご飯誘われたから、どうしようかと思って」
48: 2015/11/14(土) 12:42:06.72 ID:0oXNO4iLo
「行ってくればいいじゃん」とすぐさま言ってから、ちょっと偉そうだったかな、と反省する。
「俺に気使うことないよ」
「そうかな」と静奈姉は曖昧に笑った。そうもいかないよ、と内心では思っているんだろう。
「いつも俺のせいで迷惑かけてるんだし、そこまで気使われたら、俺、申し訳なくてここにいられないよ」
静奈姉は少し戸惑った顔をしていたけど、やがて取り繕うように笑って、頷いた。
申し訳ない、だってさ。俺は自嘲する。ここにいる時点で、いまさらだ。わかってるのに。
「うん。じゃあ、明日、帰り遅くなるかも」
「了解」
その話が終わると、気まずい雰囲気はきっかけもなく徐々にほぐれていった。
俺と静奈姉は、ふたりで並んでテレビを見ながら、出ているタレントについてのゴシップめいたあれこれについて話した。
お互いが思っているだろうことについては、何も喋らなかった。これまでそうしてきたように。
53: 2015/11/15(日) 19:07:29.17 ID:ZQjZY+y8o
◇
「時間は取り戻せません」と、去年の入学式の後、教卓に立っていた当時の担任は言った。
「どんなふうに過ごしていても時間は流れます。楽しくても苦しくても、何もかもが過ぎていきます。
なにかのきっかけで大きく変化してしまうこともありますし、
ちょっとした変化だったはずなのに、積み重なって大きく変わってしまっていたことに気付くこともあります。
ごく当たり前のことです。仲の良かった人といつのまにか話しづらくなったり、
以前は想像もしていなかったような相手と、気付いたら深く結びついていたりします」
それでも時間は、すべて地続きになっています、と彼は話を続ける。
「ふとしたときに、ふるい友達のことを思い出して、懐かしくなったり、寂しくなったりします。
以前とは大きく変わってしまっていることに不意に気付き、悲しくなったりします。
大事だったもの、楽しかった繋がりが、いつのまにか失われていることに気付いて、耐えられなくなることもあります」
彼はそこで笑った。
「年寄りのたわごとです。笑ってください。あなたたちはそれが許される年齢です」
実際、何人かはバカにして笑った。
「覚えていてください。どんな人間も、突然大人になるわけでも、突然子供でなくなるわけでもありません。
過去を現在から切り離すことは困難ですし、未来は現在の地続きにあります。
地続きですが、それでも変化は必ず訪れます。
変化が不可避なら、後悔も不可避です。あなたたちは、可能なかぎり現在に真摯に、誠実に生きてください」
気付いたときに何もかも手のひらからこぼれ落ちている、そんなことにはどうかしないでください。
そんな、それだけの言葉を、俺は不思議と覚えている。説教臭いって鼻で笑おうとしたのに。
54: 2015/11/15(日) 19:07:55.36 ID:ZQjZY+y8o
◇
そして、そんな取り戻すことのできない貴重な高二の初夏の土曜に、
俺は友人の家で怠惰にゲームにふけっていた。
『じゃあ、セント・マキエルの街でシーカーたちを壊滅させたのは……』
『あなたの仕業だったのね! グレイル!』
「なー。タクミくんさあ」
ゴローの部屋のゴローのベッドで横になったまま、ゴローは、俺にそう声を掛けてきた。
「あい?」
俺はボタンを押した。
『……話す義務はない』
『どうしてだ、グレイル! どうしてそんなことを!?』
「ゲームすんのは別にいいんだけどさあ」
「おう」
『……ふん』
『グレイル!』
『勘違いしないでほしいものだな。最初からおまえたちの仲間になった覚えなどない。私は常に、私の目的の為に行動している』
「……人んちで、がっつりRPGすんなよ」
『グレイル、てめえ……!』
55: 2015/11/15(日) 19:08:51.92 ID:ZQjZY+y8o
「んー、でも、ここまで来たら続き気になるし……。な、最近のゲームって当たり前みたいにボイスあるんだな」
『グレイル! ちくしょう、おまえみたいな奴を、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ良い奴だと思ってた俺がバカだったよ!』
「タクミ、あのさ……」
「んー?」
『……好きに罵ればいい。そんな言葉などでは、何ひとつ取り戻せん』
「グレイル、氏ぬぜ」
「……おい、まじかおまえ」
「レオン庇って氏ぬ」
「マジか、おい」
「ちなみにグレイルの目的はレオンの肉体に宿った呪印の副作用を除去することでな……」
「やめろ、おいやめろ」
「そのために必要な魔鉱石の加工技術を手に入れるために敵組織に参加して……」
「ごめんゴロー、俺が悪かった」
「それというのもグレイルの正体はレオンの姉の元許嫁で、氏んだ恋人の弟の命を守るために恋人の仇である組織のしもべとなり……」
「うわー、あーあーあー!」
俺はコントローラーを放り投げて頭を抱えた。目を閉じても耳を塞いでも手遅れだった。
知ってしまったことを、知らなかったことにはできない。
刻まれた情報は、抹消することができない。
俺がこの短い人生の中で学んだいくつかの教訓の中で、もっとも実感に基づく言葉が、また思い出された。
56: 2015/11/15(日) 19:09:23.14 ID:ZQjZY+y8o
ベッドに寝転がるゴローを睨んだ。こいつには慈悲というものがないのか。
「どういうつもりだ、貴様!」
思わず詰め寄った俺に対して、ゴローは呆れたような溜め息をついた。
「どういうつもりはこっちの台詞だ。何しに来やがった」
「遊びにきたんだよ! で、遊んでたんだよ!」
「どうぞ続けてくれたまえ」
と言って、彼は手のひらでコントローラーを示した。
知的に眼鏡の位置をくいっと直しながら、首を動かして前髪を揺らす。切れ長な目元がかすかに笑っている。
「続けられるか! ネタバレされて!」
「大丈夫。世の中にはネタバレを読んでから叙述トリックミステリを読むような人間もいるんだぜ」
俺はゲーム機本体の電源を切った。
「……セーブしなくていいのかい?」
「いいさ。人生はオートセーブだからな」
「ま、たしかに」
ゴローは神妙に頷いてから、さっきからぺらぺらとめくっていた漫画雑誌をパタンと閉じて、体をベッドから起こした。
57: 2015/11/15(日) 19:10:00.31 ID:ZQjZY+y8o
「たしかに。なるほど。言い得て妙。セーブポイントからやり直しってわけにはいかないさな」
しきりにうんうん頷きはじめる。変なところでひっかかる奴だ。
それ以降急にゴローが黙り込んでしまったので、なんだろうと思って、俺は奴の顔をしばらく眺めていた。
ゴローとも、なんだかんだで一年以上の付き合いになるのだと思うと不思議な感じがする。
はじめは、部活が一緒ってだけの付き合いだった。クラスだって違うし、話したこともなかった。
べつに性格が合わないってわけでもないけど、ゴローは積極的に誰かと話すタイプじゃなかったし、俺もそうだ。
それでも一応、少人数の部活で長い時間一緒にいるとなれば、よくも悪くも距離は近くなるわけで、
気付いたころには、けっこう仲良くなってた。
「……は。ため息も出ねえな」
なんて、不意にゴローは言って、はー、とため息をついた。
出てるじゃねえか、と思ったけど口には出さなかった。
どうでもいい。
「どうしたんだよ」
尋ねると、眼鏡の向こうの二対の瞳が、くるりと動いてこちらを見た。
ちょっとどきりとする。
「どうかしたのはおまえの方じゃないか?」
「え?」
58: 2015/11/15(日) 19:10:27.05 ID:ZQjZY+y8o
「普段だったら、ゲームに飽きて出かけようって言いだす頃だろ」
「え、いや……」
言われてみれば、いつもはたしかにそういうパターンが多かった。
時計を見ると、正午を回っていた。腹をすかせて出かけている頃だ。たしかに。
「べつに、どうかしたってわけじゃないけど」
「ふうん?」とゴローは意味ありげに首をかしげてから、ベッドを降りた。
「変だぜ、今日のおまえ」
真顔で、ゴローはそう言った。
「去年の今頃もそんな感じで上の空だったな」
「ホントに、べつに何も……」
「ホントに?」
「……なくはないけど」
「内容には、興味はないけどな」
ゴローがぽつりと呟いたときに、開けっ放しだったドアの隙間から三毛猫がえらそうな顔で部屋に入り込んできた。
そいつはそのまま俺の膝あたりまでやってきて、太腿あたりに額をこすりつけてくる。
そいつの頭をそっと撫でた。
59: 2015/11/15(日) 19:10:57.43 ID:ZQjZY+y8o
「……よくわからないんだよな」
「なにが」
「なにが分からないのかさえ、よくわからない」
「自分で分からないことが、他人に分かるわけもないわな」
ゴローはうんうん頷く。俺もそう思う。分かってもらえるなんて思ってたわけでもないけど。
「タクミくんさ、一年の頃からずっとそうだよな」
感慨深げにゴローは溜め息をつく。
「何がそんなに引っ掛かってるんだ?」
なんだろう。それは難しい質問だ。答えるのが、とてもむずかしい。
たくさんのこと。いろんなことの、重なり。さまざまな行き違い、座礁、混乱。
掛け違いのボタン、誤字だらけのメール、宛先不明の郵便物。
「つまり、俺は……」
と、口を開く。
「俺は?」
とゴローは続きを促す。
60: 2015/11/15(日) 19:11:23.91 ID:ZQjZY+y8o
「俺は……ロマンチストなんだよ」
「ほお?」
けったいな言葉が出てきやがった、とゴローは肩をすくめた。
「ロマンチストだから。自分が暮らしてる世界が、もっと素晴らしくドラマティックであるべきだと思ってるんだな」
「ふむ?」
「楽しくて、きらきらしてて。昔は、そういうふうに見えたんだ。でも、ずっとそのままってわけにはいかない」
「そうかい?」
「いつのまにか、会えなくなった人とか。せわしなくなって遠ざかった縁とか。楽しかったこと、ずっと続くと思ってたんだ、俺」
「なるほどね」
「いつのまにか、会えなくなってた。いろんな人と。そうこうしてるうちに俺にもいろいろあったし、昔のままじゃいられない」
「……」
「気付いたら、見える世界は偏ってて、退屈で、どこか色褪せてて、昔みたいにきらきらしなくなってた」
「はあ」
61: 2015/11/15(日) 19:11:50.91 ID:ZQjZY+y8o
「これからもう、ああいうきらきらした景色に出会うことはないのかなって思うんだ。
ぜんぶ変わっていって、なくなっていって、残るのはこういう、やりきれない気持ちだけなのかもしれないって」
昔は何も知らなかった。何も知らなかったから、楽しかった。
今は、少しだけど知ってしまった。変わっていくこと。流されていくこと。
「ふうん、なるほどね」
ゴローはどうでもよさそうにうなずいて、俺のかたわらの猫を抱き上げて、肉球をふにふにしはじめた。
「じゃあさあ、タクミくん。こうしないかにゃ?」
「きもちわる。いまどっから声出した?」
「喉から。……なあタクミくん、俺と賭けをしないか?」
「賭け?」
そう、賭けだよ。ゴローはそう言って眼鏡をはずして、枕元のボックスティッシュから紙を二枚抜き取ってレンズを拭いた。
そんな何かの片手間みたいなどうでもよさそうな調子。それなのに、ゴローの声はいつもより真面目そうに響いた。
62: 2015/11/15(日) 19:13:29.77 ID:ZQjZY+y8o
「きらきらじゃなくなってしまった世界。楽しいことが過ぎ去っていく世界。なにもかも悲しくて悲しくてとてもやりきれないだけの世界。
いま、おまえが言ったのは、そういう世界のお話だ。違うか?」
「違わない」
「じゃあ、賭けをしようぜ、タクミ」
そう言ってやつは、猫の肉球で俺のうなじをパンチしはじめた。くすぐったい。
「この世は本当に、なにもかもやりきれないだけの、退屈なだけの世界なのか?
それとも、世界はもっときらきらしていて、ドラマティックで、素晴らしいものなのか?
どちらかが真実で、どちらかが嘘なのか?」
「……は?」
「世界は、退屈か? それとも、きらきらか? そういう賭けをしようぜ」
季節は初夏。けだるい土曜の午後、天気は晴れ、部屋には人間が二匹と猫が一匹。
くしくも、夏への距離は遠くない。
「……何を、どう賭けるんだよ」
「おまえが勝ったら、なんでも言うこと聞いてやる。俺が勝ったら牛丼おごれよ」
「勝敗の基準は?」
「簡単だろ。これからおまえの日々に、きらきらが起こるかどうか、だ」
きらきら。きらきらってなんだよって思った。どういうことだよ、きらきらって。
でも、
「いいよ」って俺は頷いた。
こうして、この土曜、まどろんだような心地のまま、俺とゴローの賭けははじまった。
べつに深い意味なんてなかったんだけど。
63: 2015/11/15(日) 19:14:33.91 ID:ZQjZY+y8o
その土曜は結局することもなくて、仕方なく本屋にいったり中古ゲームショップにいったりしたけど何も買わなかった。
昼食はマックで済ませて、あとは自転車でそれぞれの家に解散した。大概の土曜はそんな感じだ。
当然、日曜だって何か特別なことが起こるわけでもなかった。
眠かったから寝て、腹が減ったから起きだして、昼過ぎからバイトだった。
バイト先に選んだのはコンビニだった。
距離的に近かったからというのもあるし、仕事が楽そうだったから、というのもある。
ガソリンスタンドやなんかは雰囲気に馴染めそうになかった。飲食店でもよかったのだが、時間帯と距離の都合でやめた。
当然バイトはただのバイトで、とくにきらきらとしたことは起こらなかった。
暇な時間に他のバイトの学生と無駄話をしていたら仕事は終わっていた。
もちろん、こんな調子で何かが変わるわけもない。
で、翌週の月曜、当たり前のように登校して、自分の席に腰掛けて、「やっぱり五月だってのに暑いな」ってぼやいてたら、
「たっくん!!」
って、泣きそうな顔の高森が教室ににやってきて、春からのクラスメイトたちは面食らっていた。
「たっくんって誰?」というふうにさまよう同級生たちの視線。
この状況で立ち上がるのはいやだなあと思ってたら、高森が俺の姿を見つけて急ぎ足でツタツタ歩み寄ってきた。
64: 2015/11/15(日) 19:15:00.28 ID:ZQjZY+y8o
「たっくん、どういうこと!」
「な、なにが」
「心当たりがないなんて言わせないからね? これ!」
と高森が俺の顔の前に突き出してきたのは、先週つくった例の勧誘ポスターだった。
"ことばは、きみの思いにかたちを与える"――文芸部、部員募集中。(高森作)
「下駄箱のとこに貼ってあった!」
「……まじで?」
「たっくんじゃないの?」
「俺、知らない」
「……え、じゃあ部長?」
「いや、部長はさすがに、そういうことしないと思うけど」
「じゃあゴローくん? それともちーちゃん?」
「どっちもあの日は部室にいなかっただろ」
「じゃあ誰!」
「高森、犯人探しは後にしようぜ」
「でも!」
「冷静になれよ、一枚貼られてたってことは……」
「……まさか」
65: 2015/11/15(日) 19:15:36.54 ID:ZQjZY+y8o
そこからの俺と高森の行動は迅速だった。危険でない程度の速度で廊下や階段を素早く移動。
掲示板や壁をくまなく調査し、例のポスターが貼られていないかどうかを確認。
もし発見された場合はすぐに回収。画鋲は放置した。
結果、回収されたのは九枚。下駄箱、各階廊下の掲示板やトイレ前の壁など、実にさまざまな場所に掲示されていた。
俺と高森は回収作業を終えたあと、東校舎と本校舎をつなぐ渡り廊下の出入り口に座り込んで呼吸を整えた。
「何者かの敵意を感じるよね」と高森は疲れきった声でぼやく。
「最悪の朝だ」と俺も思わず唸った。
何が悲しくて月曜の朝から校舎中を駆け回らなきゃいけないんだろう。
「やっぱり陰謀だと思う?」
「誰の」
「第二文芸部とか」
「まさか。あいつら俺らに興味ないだろ」
「じゃあ生徒会? PTA?」
……文芸部の勧誘ポスターを貼ってそいつらに何のメリットがあるんだ?
66: 2015/11/15(日) 19:16:31.92 ID:ZQjZY+y8o
と、高森の行き場のない怒りが疑念になって方々に向かいはじめたまさにそのとき、
「おおい」と校舎の方から声が掛けられた。
ハンプティダンプィみたいなまんまるい体型。普通の人より一回り以上大きい体躯。
太っているせいで、首がどこにあるのかよくわからない。
整えられているわけでもない伸びっぱなしのまばらな無精髭、ぼさぼさの髪はくるくると渦巻いている。
野暮ったい黒眼鏡から覗く瞳は熊のように優しげだ。
「ポスター剥がしちゃったのかあ?」
「あんたか!」
と俺と高森の声がそろった。
「え、なに?」と戸惑った様子でおどおどしはじめた大男は、文芸部顧問の中田 英之。
担当教科は現国。あだなはヒデ。
「先生か……盲点だった」
高森に恨ましげにみつめられて、ヒデはかわいそうなくらいにおろおろしはじめた。
「え、なんかまずかった? 部室に勧誘ポスターあったから、みんなやる気になってくれたんだなあと思って……」
「……どういうこと? 印刷したのは先生じゃないんですか?」
やべ、処分してなかった、と俺は視線を逸らした。
「……たっくん?」
「あー、うん」
やは、とごまかし笑いが出た。
67: 2015/11/15(日) 19:17:06.33 ID:ZQjZY+y8o
◇
そんな騒々しい朝の顛末の影響は、案外早く訪れた。
といっても、問題になったのはポスターそのものじゃない。
その日の放課後のこと。
いつもの文芸部室には、今日は四人の部員がいた。
俺にゴロー、高森、部長。佐伯はたぶん、屋上かどこかだろう。
気だるい午後の日差しのなかで、ゴローは居眠り、部長は読書、俺と高森は"バリチッチ"をやっていた。
朝のポスター騒動も、早めに対策をとれたおかげで被害はなかったし、多少責められはしたが、高森は上機嫌だった。
「チッチッチッチー、バリチッチ。2」
「あっ」
「ふふふ。たっくん、まだまだだね」
「……なに、その遊び」
部長は呆れ顔だった。
「子供の頃やりませんでした?」
「覚えてないなあ」
「わたしも従兄に教わったんですけどね」
「俺は親戚に」
そんな話をしてるときだった。嵯峨野 連理があらわれたのは。
68: 2015/11/15(日) 19:17:32.33 ID:ZQjZY+y8o
ノックの音は、なんとなく威圧的に聴こえた。どこか肩肘の張ったような。
でもとにかくノックはノックだったし、ポスターは回収したけど、一応文芸部は部員を募集中だ。
不意の来客があっても変なわけじゃない。
「どうぞ」と部長が言うと、ドアは静かに開かれた。
「失礼します」と儀礼めいた声音で呟いた男は、見るからに身長が180センチ前後はありそうなすらりとした男子だった。
長い手足に整った顔立ち。髪は短めだけど、ワックスかなにかでふんわりボリュームを出して整えてある。
切れ長の目元、しゅっとした顎。体つきは細いけどガリガリってわけでもなさそうだ。
その人は扉の内側に体をしまいこんでから、あたりを落ち着いた様子で見回して、
「第一文芸部の部室はここでいいのかな?」
静かに訊いてきた。
「そうですよ」と部長は答えた。
「何か用事? 嵯峨野くん」
俺は部長の顔と例の男子生徒の顔を見比べた。
「部長のお知り合いですか?」
「同級生」
「はあ」
先輩なのか、と思った。まあなんとなく、そうじゃなかったら落ち込んでたけど。
69: 2015/11/15(日) 19:17:58.64 ID:ZQjZY+y8o
「いや。朝、廊下でその子とぶつかって」と、彼は高森の方を見た。
「あー」という顔を高森はした。
「その節はとんだご迷惑を……」
「いや。こっちも不注意だった。それで、そのときにこれを落としていったから、使うのかもしれないと思って」
彼は手に持っていた紙を前の方に掲げた。
「あ、それ」
「勧誘ポスターみたいだけど、今時期たいへんだね」
嵯峨野先輩はにっこり笑って、部長にポスターを差し出す。
「ありがとう。教室で渡してくれてよかったのに」
「ああ、うん」
そのとき彼が、ちらりと高森の方を見たような気がした。気のせいかもしれない。
「それにしても、第一文芸部って、活動してたんだね」
「してましたよ」と部長は心外そうに言った。
「てっきり都市伝説みたいなものだと思ってたから、部室があるって知ってびっくりしたよ」
「そりゃ、第二に比べたら人数も少ないけどね……」
70: 2015/11/15(日) 19:18:38.96 ID:ZQjZY+y8o
なんでかわからないけど、俺は居心地悪く感じた。
「よくわからないんだけど、どうして文芸部って分裂してるの?」
「なんだろ、音楽性の違いかな」
部長の適当な返事に、先輩は軽快に笑った。
「それじゃ、行くよ。お邪魔しました」
背を向けた先輩に対して、部長は「うん。ばいばい」と言ってひらひらと手を振る。
少しの沈黙が残る。
「わたし、あの人苦手」
ぼんやりこぼした高森に対して、ゴローが無責任に、
「そう? かっこいいじゃん」なんて言った。
たしかに、と俺も思う。
そのときはそれで終わりだと思ったのだ。
71: 2015/11/15(日) 19:19:05.60 ID:ZQjZY+y8o
◇
それから高森は手遊びにも退屈したのか、しまってあった部誌のバックナンバーに目を通し始めた。
手持ち無沙汰になった俺は部長とどうでもいいような話をはじめた。
「シンデレラってあるじゃないですか」
「あるね、シンデレラ」
「めでたしめでたし、で終わるじゃないですか」
「うん」
「あれ、どう思います?」
「どうって?」
「シンデレラは王子様と結婚して幸せに暮らしましたとさ、めでたし、めでたし、で物語は終わりますよね?」
「うん」
「もしそこに続きがあったとしたら、部長は知りたいと思いますか?」
「めでたしめでたしの、その続きってこと?」
「はい。もしかしたら、シンデレラはもっと幸せになっているかもしれないし、もしくは、突然の不幸に見舞われているかもしれない」
幸せな終わり方をする物語、御伽話。めでたしめでたし、の物語。
その物語の続き。
72: 2015/11/15(日) 19:19:45.59 ID:ZQjZY+y8o
恋愛映画でようやく結ばれた男女は、三ヶ月後には価値観の違いで別れているかもしれない。
青春小説で固い絆で結ばれた友人たちは、やがては離れ離れになるだろう。
さまざまな思索の末にささやかな幸せを実感できた中年男性は、日々の忙しなさに負けて、また元通り憂鬱な生活を送るのかも。
仲の良かった友達が自分のことを忘れるかもしれないし、大好きだった人たちが、喧嘩別れをしているかもしれない。
物語に続きがあるとすれば、それは幸せなだけではないかもしれない。
好き合っていた男女だって、うんざりしてすぐに別れてしまったのかも。
「タクミくんは、知りたいの?」
「それを迷っていたんです」
「……どっちにしても、知らない方が幸せなことってあるよね」
「……」
知らない方が幸せだったこと。知ってしまったら、元には戻れないこと。
「もし、不幸な結末に耐え切れないなら、どうすればいいか分かる?」
部長は静かにそう訊ねてきた。俺は首を横に振った。
「ページをめくるのをやめればいいんだよ。幸せなページで、続きを読むのをやめてしまえばいい」
だからそれは、覚悟の問題なんだと部長は言った。
73: 2015/11/15(日) 19:20:43.43 ID:ZQjZY+y8o
「あるところに男の子と女の子がいました。ふたりは仲良くなって、お互い好き同士になって、付き合うことになりました」
めでたしめでたし、と部長は言う。
「その先に何があるのかな? もしかしたら、そこがもっとも幸福な地点なのかもしれない。もちろん、そうじゃないかもしれない。
でも、ページをめくるのをやめてしまえば、続きは知らずに済む。物語を幸福で終わらせられる」
だから、と部長は言った。
「不安ならページをめくらなければいい。その先に何があるのかなんて誰にも分からないんだから。
ひょっとしたら、知ってしまったら後悔することになるのかも。何もかも、台無しになってしまうかも。
それでもどうしても"つづき"が知りたいなら、"その後"を知りたいなら、それなりの覚悟をしなきゃいけないよね」
だって、その先に幸福が約束されてるなんて、かぎらないんだから。
――これからもう、ああいうきらきらした景色に出会うことはないのかなって思うんだ。
――ぜんぶ変わっていって、なくなっていって、残るのはこういう、やりきれない気持ちだけなのかもしれないって。
自分が発した言葉を、なぜか今思い出す。続く未来に幸せがないなら、ページをめくるのをやめてしまえばいい。
幸せなページで、読むのをやめてしまえば、幸せな場面で物語が終われば、それは幸せな物語だ。
幸せに物語を終わらせたいなら、そうすればいい。
でも、それは、まるで……。
考えかけたところで、また、部室の扉がノックされた。
74: 2015/11/15(日) 19:22:16.04 ID:ZQjZY+y8o
さっきとおんなじように部長が「どうぞ」と言うと、失礼します、と声が聞こえた。
女の子の声。聞き覚えのある声。
俺は少しだけ緊張した。
「文芸部の部室はこちらですか?」
みんながみんな、きょとんとした。
部長も、ゴローも、高森も。
俺だけが少しだけ違った。
先週、校舎裏で見た顔。見覚えのあった顔。ポスターを拾った少女。
彼女は俺の顔を見つけて、ほっとしたように息をついた。
「えっと、文芸部に興味があって、見学させていただきたいんですけど……大丈夫ですか?」
「……入部希望者?」
「あ、はい」
部長の質問にうなずくと、彼女はにっこり笑ってぺこりとお辞儀をした。
「一年の藤宮ちはるです。よろしくお願いします」
土曜の昼にゴローとした賭けのことを、俺は思い出した。
なんとなく、いろんなことが怖くなる。
それでも、藤宮ちはるは、うかがうように俺を見て、
それからもう一度にっこり笑った。
79: 2015/11/17(火) 21:47:36.28 ID:ZFXDl97Lo
◇
「ちーちゃんは既にいるから、なんて呼ぼっか。はるちゃん? るーちゃん?」
高森のそんな馬鹿げた質問に、藤宮ちはるは得意の笑顔で「じゃあるーちゃんで」とあっさり言った。
「よろしくるーちゃん」と言って高森は藤宮の頭をくるくる撫で回す。
あはは、って首を竦めて藤宮はくすぐったそうに身をよじった。
「藤宮ちはる」と俺は口の中だけで復唱した。誰にも聞こえなかったと思ったのに、ゴローだけは耳ざとく気付いたらしい。
「知り合い?」なんて訊いてきたから、とっさに「いや」って否定してから藤宮の方を見ると、彼女もこっちの方を見ていた。
一瞬だけかち合った視線があっというまに逸らされる。
そうこうしているうちに部長がささっと戸棚から紙切れを用意して、はい、と藤宮に差し出した。
「なんですか、これ」
「入部届」
有無を言わせない強引な勧誘だった。
80: 2015/11/17(火) 21:48:18.25 ID:ZFXDl97Lo
「……見学って言ってませんでしたか?」
「G級ハンターは狙った獲物をのがしません」
気まぐれめいた俺の質問に部長から帰ってきたのは、そんな声だった。
つい先週まで勧誘に対するやる気なんて片鱗も見せなかったくせに、一変大攻勢だ。
……もしかしたら、やる気がないからこそここで捕まえて終わりにしたいのかもしれない。
「あ、かまわないですかまわないです。入ります」
不思議とまったく戸惑いも見せずに、藤宮ちはるは入部届を受け取った。
まるで最初からそうすると決めていたみたいにあっさりと、にこにこと。
高森が差し出したボールペンを受け取ると、ペン先を紙に押し付けたままの姿勢で、彼女は少し沈黙する。
それからまた俺の方を見た。
「……ひょっとしてご迷惑ですか?」
うかがうように。
81: 2015/11/17(火) 21:48:52.32 ID:ZFXDl97Lo
「いや。……どうして俺に訊くの」
「なんだか、そういうふうに見えたので」
「べつに、迷惑じゃないよ。きみの好きにすればいい」
藤宮ちはるは、やけに俺のことを気にかけているみたいに、視線や、言葉を、向けてきたような気がする。
でもそれは、ひょっとしたら逆で、彼女は普通の態度で俺に接しているのかもしれない。
俺が彼女を気にかけているからそう見えるだけなのかもしれない。そういうのを察して、気にしているのかもしれない。
本当のところは分からない。
藤宮から目を逸らすと、高森と目が合った。
「なに?」って訊いたら、「なんでもない」って彼女はそっぽを向く。
変な日だ、と思った。
82: 2015/11/17(火) 21:50:01.81 ID:ZFXDl97Lo
◇
入部届には印鑑と保護者の連絡先が必要なので、実際にどうなるのかはまだ分からない。
それでも藤宮の態度を見るに、もう部員としてやっていく気でいるらしかった。
「ま、これで第一文芸部存続の危機は乗り切ったね」
部長はあっさりそう言った。
「……え?」
「存続の危機って、どういうことですか?」
俺と高森がおんなじところに違和感を覚えた。
気付いてなかったの? と部長は目を丸くする。
「今の二年生は、タクミくんにゴローくんに、蒔絵ちゃんにちえちゃんの四人でしょ」
「はあ」
一瞬だけ、ちらりと藤宮ちはるがこちらを見た気がした。たぶん、さっきから自意識過剰になっているんだろう。
「部活動の存続に必要な部員数は五名以上。わたしは今年の十月で引退だから、もし新入生が入らなければ部員数が五人を下回って……」
「……廃部だったんですか?」
うん、と部長はあっさりうなずく。
最初に言えよ、と思った。
83: 2015/11/17(火) 21:50:43.30 ID:ZFXDl97Lo
「厳密に言うと、廃部か同好会格下げか……一番ありえたのが、合併吸収だったね」
「っていうと……」
「第一が第二に吸収されてたかもってことですか?」
高森と俺はげんなりした。ゴローはどうでもよさそうに机に突っ伏して眠り始めた。
「えっと……第一と第二があるんですか?」
藤宮だけが、不思議そうに首をかしげる。
誰も質問に答えようとしなかった。
……誰か答えろよ、と俺は思った。
「部長」
「えっとね、パスいち」
「いや部長。こういうとき部長が説明するもんでしょう」
「パスはパス。蒔絵ちゃん?」
「わたし日本語わかんない。パスに」
「いやおまえ。文芸部が日本語わかんないっておまえ」
「たっくん、よろー」
「……ゴロー?」
返事はない。
……どいつもこいつも。
84: 2015/11/17(火) 21:51:10.42 ID:ZFXDl97Lo
「……とりあえず、座って」
俺は壁に立てかけてあったパイプ椅子を出して、適当な位置に置いた。
藤宮はぺこっと頭をさげてから腰を下ろす。
俺もまた定位置に腰掛けた。
「紳士だね」と高森が茶化す。
「きみらが適当すぎるんだ。それで、なんだっけ。第二の話か」
「はい。あ、その前に……」
「ん?」
「あの、名前……」
俺は一瞬、緊張した。
「俺の?」
「あ、はい。……えと、みなさんのお名前を、まだうかがってないなあ、と」
「あ、ああ」
勘違い。そりゃそうだ。普通、自己紹介くらいする。べつに正式に入部したときでもいいとは思うけど。
だからこういうの、部長の役目のはずなのに。
85: 2015/11/17(火) 21:51:54.61 ID:ZFXDl97Lo
そう思って彼女の方を見ると、ふうん、というような顔で俺と藤宮の方を眺めていた。
どうでもよさそうな、それでいて興味深そうな顔。
犬のトリミングを初めて見るみたいな顔だ。
こういうふうにやるんだ、と感心はするけど、そもそも興味があるわけではない、みたいな。
高森は高森で、眠そうな目でこっちを眺めるばかりで何も言ってくれない。
……なんなんだろう、いったい。
「名前に関しては、あとでそれぞれ各自に自己紹介させよう。めんどくさいから」
「あ、はい。わかりました」
めんどくさいから、ってところで、彼女は苦笑いした。
「とりあえず俺の名前は……」
やはり、少しだけ躊躇してしまう。ためらう理由なんてないはずなのに。
でも、偽名を名乗ったところで意味なんてない。結局すぐにバレてしまうことなのだ。
「浅月。浅月拓海」
「……あさづき、たくみ」
何か、音の響きをたしかめるみたいに藤宮ちはるは復唱した。
86: 2015/11/17(火) 21:52:56.65 ID:ZFXDl97Lo
「……呼び捨て?」
「あ、た、タクミ……先輩」
「はい」
「わたし、藤宮ちはるです」
「……さっきも聞いたよ」
「はい。藤宮です」
「うん。それで、藤宮……」
なんと呼ぶべきか、一瞬だけ迷って。
いちばん違和感のある呼び方を、けっきょく選んだ。
やっぱり、彼女は"そう"なんだろうか。名前からして、そうとしか考えられない。
でも……そうだとしたら、彼女の方から、何か言ってくるはずだ。
もし、覚えていれば。
もし"そう"だとしても、忘れているなら仕方ない。
たぶん、忘れてしまっているだろう。子供の頃のことだ。もうずっと昔のこと。
あれから背だって伸びた。声変わりだってした。内面だってあの頃のままとはいかない。
屈折したりひねくれたりしてきた。当時の自分がどうだったかなんて、思い出せない。
彼女がもしも本当に"そう"で、俺のことを忘れてしまっているんだとしたら。
俺が恐れていたとおりに、何もかもが変わってしまっていたんだとしたら。
やっぱり少し悲しい。それが恐くて、探すことだってできずにいたのに。
87: 2015/11/17(火) 21:53:31.15 ID:ZFXDl97Lo
「それで、第一とか第二って……?」
藤宮ちはるの質問に、俺は考え事を一時中断する。
いまさら考えたって仕方ないことだ。
「……うちの学校には、文芸部がふたつあるんだよ。第一と第二。で、うちが第一」
「はあ。どうしてまた?」
「方向性の違いだな。もともとはひとつだったんだ。部員数も多くて人気の文化部だった。
今の第一は部員数が五人。きみを含めると六人になる。第二はたぶん新入生合わせて、十八人くらいかな」
「じゅうはちにん」
と藤宮は復唱した。
「ええと、方向性って……?」
「つまり、もともとの文芸部っていうのが、文芸部とは名ばかりの茶飲み部だったんだ。
かろうじて年に一回部誌を発行して活動はしてたけど、それすらまともに出さない奴がいた。
それで、普通の文芸部として活動したい奴らが集まって、不真面目な奴らの排斥運動を行ったんだな」
「……排斥」
「そしたら、真面目な奴の方が少なくて、不真面目な奴らの方が多かった。結果、第二の方が人数が多い」
「なんだか、なんだかなあってお話ですね」
「あいつらは基本的に、第二理科実験室でお菓子食べながら喋ってるだけだから。それもそれで悪くはないんだけどな。
ただ、あっちは文芸部とは名ばかりだし、所属してる奴らのノリも、こっちとはちょっと違う」
そういう確執は何年か前に起こったことで、今となってはそれぞれ別の部として何のしがらみもなくなっている。
とはいえ、人種が違うというのはたしかで、一緒にいると、どうしてもエネルギーが吸い取られるのを感じる。
あっちはこっちを苦手に思っていなさそうなのが、かえってしんどかったりもする。
88: 2015/11/17(火) 21:54:37.83 ID:ZFXDl97Lo
「じゃあ、つまり、この部の人たちは真面目な文芸部員ってことですか?」
「いや?」
俺の否定に、藤宮はきょとんとした。
「昔はそうだったけど、今はこっちはこっちでサボり部だな。
要するに、あっちは騒ぎたいサボり部、こっちはまったりしたいサボり部って感じ」
「どっちにしてもサボり部なんですね……」
「入部を取り下げるなら今のうちだよ」
「いえ。ぜんぜん問題無いです。サボり、どんとこいです」
どんとこいて。
「まあ、といっても、一応年四回部誌は発行してる。これ、想像するより忙しないペースだったりするんだよな」
「はあ。部誌ですか。何を書くんですか?」
「好きなもの。小説とか詩とか川柳とか散文とか戯曲とか随筆とか」
「タクミ先輩は何を書くんですか?」
「随筆が圧倒的に楽だな」
「ずいひつ……」
「去年は冬の深夜に小腹が空いた時に夜食として食べるカップヌードルの魅力について書いた」
割と好評だった。
「それはそれは……」と藤宮は愛想笑いをした。
「まあ、きみもそのうち書くことになると思うから」
俺が言いかけたところで、部長が「あっ」と声をあげた。
89: 2015/11/17(火) 21:55:11.74 ID:ZFXDl97Lo
「ていうか、作るよ、部誌」
突然の断定に、俺は戸惑った。
「いつですか?」
「六月中には出したい」
「ていうと、来月中ってことですか」
「うん。言ってなかったっけ?」
訊いてませんでした。
「……ま、そういうわけで、けっこう忙しないんだよ」
「そうみたいですね」と藤宮は困った顔で頷いた。
90: 2015/11/17(火) 21:56:04.07 ID:ZFXDl97Lo
◇
「そんなわけで、部誌作るらしいぜ」
バイトがあるからと言って部活を早めに抜けだしたあと、東校舎の屋上に気紛れに顔を出すと、佐伯がこのあいだと同じように座り込んでいた。
「了解」
また、シャボン玉を吹いている。
退屈じゃないんだろうか。何をどう繰り返したところで、シャボン玉はシャボン玉だ。
何個つくったところで、どれだけ長く飛んだところで、同じものなのに。
「それで、新入部員はどんな子?」
「……」
「かわいい?」
「……まあ」
「何か思うところでもあるの?」
「まあ、ある」
「ふうん?」
「子供の頃、一緒に遊んだことがある」
「浅月、高校に入学するときに引っ越してきたんじゃないの?」
「うん。子供の頃、夏休みの間だけ、こっちの親戚んちに遊びに来てたことがあるんだ。そのときに、会った子だと思う」
「思う、って?」
91: 2015/11/17(火) 21:56:31.56 ID:ZFXDl97Lo
「名前は一緒」
「顔立ちとか、立ち居振る舞いは?」
「……似てるな。振る舞いとか仕草に至っては、懐かしいくらいだ」
「なのに、思う、なの?」
「……話さなかったから」
「訊いてみればいいのに」
「違うかもしれないし、あっちは俺のことなんて覚えてないだろうし」
「へんなの」と佐伯は言った。俺もそう思う。
子供の頃、一緒に遊んだだけの相手。そう思えるなら、べつに相手が覚えていなくたってかまわないはずだ。
声をかけて覚えていなくても、何か問題があるわけじゃない。子供の頃の話なのだ。
たしかめるのが怖いのは、どうしてだろう。
自分だけが過去に取り残されているような気がするからだろうか。
92: 2015/11/17(火) 21:57:23.52 ID:ZFXDl97Lo
あれから、数年経って、連絡を取り合わなくなってからも、お互い、いろんなことがあったはずだ。
小学生だった。でも、歳をとって、中学生になって、今は高校生になって。
部活とか、受験とか、友達関係とか、恋愛とか、いろんな変化があったはずで。
そんななかで、一緒に遊んだだけの相手のことなんて、もう覚えていないかもしれない。
それを確認するのが怖いのかもしれない。
俺はこんなに過去に執着してるのに、相手にとってそれがたいしたことのないことだったら、と。
「臆病だね」
佐伯は何かを察したみたいにそう言った。
「たしかに」と俺は頷く。佐伯に対しては、俺は妙に素直になってしまう。
覚えているのか、訊いてみたい気もする。でも、訊いたところでどうなる、という気もする。
よくわからない。
「そろそろバイトだから、いくよ。佐伯も、部活顔出せよ」
「部誌の原稿は遅れないから、へいき」
そういう問題じゃない。
「じゃあね、浅月」
ばいばい、と手を振る佐伯に見送られて、俺は体を校舎にしまいこんでから溜め息をついた。
藤宮ちはる。名前は一緒だ。俺が間違えるはずがない。表情も、仕草も、あの頃とは違うけれど、面影がある。
「違うかもしれない」なんて言いながら、俺は確信していて、そのうえで知らんぷりをしている。
あの子は、たぶん、“るー”だ。
97: 2015/11/19(木) 22:41:41.79 ID:s4jNJoDro
◇
五時から九時まではバイトだった。
平日の夕方というのはけっこう混みあうもので、仕事内容は簡単とはいえけっこう忙しかったりする。
七時過ぎくらいに高森が気の抜けた私服姿でやってきて、
「これちょうだい」
と言いながら二千円分のウェブマネープリペイドカードを差し出してきた。
「躊躇ないね」
「今八周年イベントで経験値二倍キャンペーンやってるの。ペットいないと不便なの」
「ふうん」
「今月のパッチで高レベル向けの新しいマップとグループクエストが実装されてね、みんなで行こうって約束してるんだ」
「はあ」
「そんなわけで帰るね。友達狩場で待ってるし。あんまり待たせちゃうと薬切れちゃうかもだし。たっくんがんばってね」
「そっちもなんか知らんががんばれ」
「おうともさ」
高森はウェブマネーと牛乳と食パンとチーズ、それからポテチと箱アイスを買って帰っていった。
98: 2015/11/19(木) 22:42:19.24 ID:s4jNJoDro
納品されてきた商品を棚に並べて在庫を整理し終わる頃には客足もおさまってくる。
一緒のシフトに入っている大学生の人はウォークインに入って飲料の在庫の整理、もうひとりは売り場を見ながら発注業務。
残った俺はレジにぼんやり立ちながら煙草や資材の補充をしていた。
ぼんやりしながら、俺はるーのことを考えた。
るー。
藤宮ちはる。
あの眩しかった夏のこと。
あのときは、あんな夏がずっと続くんだと思ってた。
次の年も、その次の年も、当たり前みたいに、夏になれば会えると思ってた。
中学に入って、部活や勉強や塾で忙しくなって。
夏休みになっても、親戚の家に遊びに行っている暇なんてほとんどなかった。
そもそも、墓参りなんかで行っていたわけではなくて、単に親が親戚に相談したいことがあって、そのついでにしばらく世話になっていただけだったようだし。
るーとは、会わなくなってからもメールのやりとりをしていたけど、
年が一個違う分、生活のなかで興味を持つ対象もずれてきて、
共通の話題だっていくつもなかったし、あったとしても、そんなにずっと続くようなものじゃない。
結局、いつのまにか、連絡をとらなくなって。
そうこうしてるうちに、一度携帯を壊してしまい、そのときに連絡先のデータが消えてしまった。
今では、連絡のとりようもない。
藤宮ちはる。
彼女は覚えてるんだろうか。
99: 2015/11/19(木) 22:42:48.14 ID:s4jNJoDro
◇
バイトを終えて部屋に戻ると、先に静奈姉が帰ってきていた。
「おかえり」と静奈姉はふんわり笑った。
前と変わらないような笑顔。俺はなんとなく気まずく思う。
るーに会ったということを、伝えるかどうか迷う。
こっちに来てから、俺と静奈姉はほとんどあの頃の話をしていない。
もちろん、お互い、忘れたわけじゃないことは分かっている。
昔話をしたことだってないわけじゃない。
でも、あの夏の話をすると、静奈姉はある地点で話すのをやめる。
まるでその地点から先のことが、まだ未消化のまま彼女の内側でくすぶってるみたいに。
それはたぶん、俺の知らない話なんだろうと思う。
俺がこの街を去ってから、きっと、何かがあって、前まで通りではなくなってしまったんだろう。
今ではなんとなく、その理由は想像がついていたりもする。
だからこそ、俺は静奈姉に、あの夏一緒にいてくれた人たちの話をできずにいた。
あんなに近くにいた人たちのこと。
100: 2015/11/19(木) 22:43:42.37 ID:s4jNJoDro
何をしてたんだっけ? 今じゃもう、思い出せない。
映画を見たりゲームをしたり、バーベキューにプール、夏祭り。
みんなで集まって泊まって騒いでたこともあった。
みんな、わくわくしてた。みんな笑ってた。楽しそうだった。
るーも、静奈姉も、俺も。
「……タクミくん?」
「え?」
ふと気付くと、静奈姉が俺の顔を覗き込んでいた。
「な、なに?」
「なにかあったの? すごい顔してたよ」
「すごい顔って。してないよ」
「してたよ。今世紀いちばんすごい顔だったよ」
意味がわからない。
「悩み事? バイトでなにかあった?」
「いや、べつに。始めてもう一年経つし、いまさら何もないよ」
「そう? そういえば、新人さんとか増えた?」
「いや、何人か面接に来たらしいけど、落としたって聞いた」
101: 2015/11/19(木) 22:44:11.57 ID:s4jNJoDro
「そうなんだ。……今日はご飯、食べてきたの?」
「一応、帰りに廃棄もらって」
「そ。それで足りた?」
「うん」
「そっか」
それっきり会話はなくなってしまった。
とりあえず最初にシャワーを浴びて着替えてしまった。
他人と共同生活をしているとなると、好きな時間に入るというわけにもいかない。
風呂からあがって自室に戻り、タオルで髪を乾かしながら、今日の授業のことと、出された課題のことを思い出す。
面倒だけど、やらなきゃいけないことを先延ばしにしているわけにもいかない。
でも面倒だな、って思ってベッドに寝転がる。
この部屋には漫画もゲームもテレビも何もない。
暇を潰すとなるとスマホをいじるくらいしかないわけだ。
102: 2015/11/19(木) 22:44:38.58 ID:s4jNJoDro
俺はなんとなくの思いつきで、子猫の画像を検索しはじめた。
小動物の画像をながめているとあっというまに一時間が潰れてしまった。
課題はとうぜん手付かずだ。
猫の魔力はおそろしい。
とりあえず、明日の朝考えることにしよう。
そう思ってベッドに入ってから、部誌の話を思い出す。
藤宮ちはる……にはああいったけど、今回はどうしたものか。
部長にも、俺の書くものはたいがい思春期全開だって笑われたし。
かといって、何も出さないわけにもいかない。
まあ、一応一ヶ月はあるはずだし、今考えなくてもどうにかなるだろう。
次に気がかりなのは、るーのこと。
……明日、声を掛けてみるべきかもしれない。
でも、と頭は混乱する。
話したところで、分かったところで、お互い気まずいだけなのかもしれない。
俺にとっては、覚えられていなくて、ああ、残念だ、で終わってしまえるほど、るーの存在は小さくない。
自分でもばかみたいだと思うけど、彼女に会えることを期待して、この街に来た部分もある。
まあいいや、と俺は思った。
ぜんぶ、明日考えよう。そう思って寝た。
103: 2015/11/19(木) 22:45:07.79 ID:s4jNJoDro
◇
夢見が悪くてうまく寝付けず、おかげで朝は寝過ごしそうになって、静奈姉に起こされた。
食パンにチーズをのせて焼いて、あとは牛乳を飲んで、それが朝食。
カーテン越しに差し込む朝の日差しを浴びながら、ダイニングのテーブルで向い合って食事する。
「今日もバイト?」
「だね」
「がんばってね」
「うい」
寝付きが悪かったせいで、目がしょぼしょぼした。
「……眠そうだね」
「眠りの体感時間って、どうしてあんなに差があるんだろうね」
「さあ。なんでだろう」
十五分ですごく寝た気になるときもあるし、何時間寝ても疲れがとれないときもある。
あれを操作できたら人生がすごく幸せになると思うのに。
104: 2015/11/19(木) 22:45:34.06 ID:s4jNJoDro
「昨日は眠れなかったの?」
「いろいろ考えてたら、寝付けなくて。課題のこととか、部誌のこととか」
「……やっぱり、何かあった?」
こういうところ、静奈姉は妙に鋭い。
「なにもないって」
「そう。なら、いいんだけど」
たぶん、べつに納得したわけじゃないと思う。引き下がってくれたんだ。
年頃の男の子だし、秘密のひとつやふたつ、みたいな。
……それはそれで不名誉な気がする。
105: 2015/11/19(木) 22:46:00.85 ID:s4jNJoDro
◇
準備を終えて外に出ると、五月の朝は晴れやかだった。
「まさに五月晴れって感じだなあ」
「そう? 違うと思うけど」
「違うの? 五月に晴れてりゃ五月晴れじゃないの? 五月晴れってどういうのなの?」
「分かってて"まさに"って言ったんじゃなかったの?」
静奈姉は呆れ顔をする。言葉は知ってるしなんとなくのイメージもつかめるけど、具体的にどういうものを言うのかは知らない。
「五月晴れっていうのは、梅雨時に見られる晴れ間のことらしいよ」
「え、五月って梅雨なの?」
「昔の五月は、いまでいう六月」
「あ、そういうこと」
「……どっちにしても、良い天気だね、今日は」
本当なら静奈姉はもっと朝がゆっくりなんだけど、今日は午前中に友達と会う約束をしているらしく、一緒の時間に出掛けることになった。
106: 2015/11/19(木) 22:47:17.56 ID:s4jNJoDro
「そっか。でももうすぐ梅雨だね」
「雨はいやだな。洗濯物、乾かないし。湿気で髪ボサボサになるし……」
「まあまあ、雨だってがんばってるんだから」
俺はなぜか雨の肩を持った。
さて、と俺は静奈姉と別れて学校へと向かう。
とりあえず、学校についたら課題やらないとな。
ランドセルを背負った小学生たちの流れ。
俺は駅へと急ぐ。
懐かしい街ではあるけど、俺が前に世話になったのは静奈姉の家だ。
今俺と静奈姉が暮らしている部屋とは、当然だけどけっこう離れている。そうじゃなきゃ部屋を借りてる意味がない。
だからなんとなく、俺はこの街に疎外感を抱いている。
自分ひとりが仲間はずれにされてるみたいに。
まあ、望んで来たんだけど。
107: 2015/11/19(木) 22:47:45.92 ID:s4jNJoDro
◇
「よくよく考えたらだよ、たっくん」
と、高森は朝から俺の教室にやってきて、俺の机に座って、不満気な顔で人差し指を立てた。
「六月に部誌出すっていったって、もう再来週には定期テストが始まるわけじゃない?」
「だな」
「正直、テスト勉強とかしたいわけじゃない?」
「まあ、そのためにテスト期間中は部活が休みなわけだし」
「でも部誌を出すって言われたら、原稿書かないわけにはいかないじゃない?」
「おう」
「つまり、わたしが勉強しなかったのは部誌の原稿を書かなきゃいけないからなんだよ」
「ん?」
「だからテストの結果が悪くても、それは部活のせいであってわたしのせいじゃない」
とんだ言い訳だ。
「それは建前で?」
「昨日買ったばかりのペットの期限がもったいないから勉強するよりゲームしたい」
「おまえちょっと生活改めた方がいいよ」
高森はうがーって吠えた。こういう愚痴ならクラスメイトに言えばいいのに。
と思うけど、まあ、部誌のことは部員に言うのが一番共感を得られるか。
108: 2015/11/19(木) 22:48:12.34 ID:s4jNJoDro
「たっくん眠そう?」
不意にこっちを向いて、はじめて気付いたみたいに高森はそう言った。
「まあ、うん」
「寝不足? 駄目だよ、ちゃんと寝ないと」
「おまえだってネトゲで夜更かししてるんじゃないの?」
「経験値二倍なの、夜十時までだから、日付変わる前には寝るよ」
こいつ、ネトゲの経験値で就寝時間決めてるらしい。筋金入りだ。
「というかね高森さん。僕はこれから勉強しなきゃいけないから、ちょっと机をどいてもらえない?」
「どうしたのたっくん。熱でもあるの?」
「俺だって勉強くらいする」
高森は俺の机から降りると、隣の席の椅子を勝手に借りた。
どうせその席の主も、他の誰かの席を無断借用してるみたいだからいいんだけど。
俺が筆記用具を取り出したところで、高森は思い出したみたいに、
「そういえば昨日の新入部員」
と口に出した。俺の意識はそこで急停止を迫られた。
109: 2015/11/19(木) 22:48:38.61 ID:s4jNJoDro
「藤宮ちはる?」
「そう。その子。たっくん、知り合い?」
「なんで?」
「なんとなくそういうふうに見えたから」
「知り合いっていうか……」
どう答えればいいか分からなくて、困った。
「わかんない。なんとなく、知ってるような気もするけど」
「ふうん?」
どうしよう、と思う。
藤宮ちはる。やっぱり話してみるべきかもしれない。気になるのはたしかなのだ。
つーか、今は課題だ。
「ほら、自分のクラスに帰れ。俺は勉強するんだ」
「ちぇ。はーい」
高森はようやく去っていったが、俺は奴の言葉のせいで課題に集中することがなかなかできなかった。
113: 2015/11/22(日) 17:21:12.28 ID:D4qOgycfo
◇
昼休みになった途端、俺はぐだあっと自分の席に突っ伏した。
結局どうしよう、こうしようなんてことを考えてるうちに授業に集中できなかった。
こういうのが俺の問題点だ。
考え事に気を取られて、現在の状況そのものを疎かにしてしまう。
過去の後悔や未来の不安ばかりに足を取られ、現在を楽しもうという意識が欠けている。
ゆとりがないのだ。
そんなことをぶつぶつ考えながら窓の外をながめて"地上の星"を鼻歌で歌っているとゴローがやってきて、
「タクミ、飯食お」
と誘ってきた。
「断る」
俺の一言にゴローは面食らっていた。
「なぜ?」
「いや。特に理由はないけど」
「じゃあ飯食お」
「いいよ」
「……なんで断ったんだよ」
「一回目はとりあえず断っとこうみたいな」
ゴローはめんどくさそうに弁当の包みを持ち上げて、俺を促して教室を出た。
俺も昼食を鞄から取り出して彼の背中を追う。
114: 2015/11/22(日) 17:21:42.37 ID:D4qOgycfo
ゴローは高いところが好きだ。
だから彼と昼食をとるって話になると、だいたい屋上に行こうって話になる。
本校舎の屋上。芝生とベンチのある憩いの空間。
広々としていて、何組もの生徒がそれぞれに集まって過ごしている。
「調子はどうだい?」って、ゴローはベンチに座って弁当の包みを広げながら訊ねてきた。
「何の?」
「賭けさ」
「ああ」
そんな話もあったっけ、と俺は思った。
もう遠い昔の出来事という気さえする。
「どうかな」
俺は首をかしげる。きらきら……? どうだろう。たしかに、平凡で退屈なだけではないかもしれない。
じゃあこれがいいことの前触れかと言われると、正直よくわからない。
115: 2015/11/22(日) 17:22:08.79 ID:D4qOgycfo
空は青く澄んでいる。頭上にはツバメが飛んでいる。五月のツバメ。
ベンチの脇に置かれたプランターのパンジーを眺めながら、俺はコンビニの袋からサンドイッチを取り出した。
最初の頃は静奈姉が張り切って弁当をつくるって言ってくれたけど、俺のために早起きさせるのは申し訳なかった。
俺自身が自分でつくってもよかったんだけど、そうしようとするとやっぱり静奈姉が作ると言い出す。
だから、結局コンビニで買ってくることにしている。
「今日もツナサンド?」
「おう」
「よく足りるよな、それで」
「自分でも結構不思議なんだよな」
「燃費いいよな。太んねえだろ」
「ときどき困る」
「ふうん」
116: 2015/11/22(日) 17:22:46.75 ID:D4qOgycfo
そんなふうに俺とゴローがぼんやり過ごしていると、高森と佐伯が並んで屋上にやってきて、
「おっす」
と声を掛けてきた。
「うす」
「一緒していい?」
「どーぞどーぞ」
喋っていたのは高森だけで、佐伯は高森の斜め後ろからいつものぼんやりした目で俺たちを眺めていた。
佐伯と高森は同じクラスらしくて、けっこう一緒に行動することが多いらしい。
パット見の印象だとタイプが違うように見えるから微妙に不思議だ。
でもまあ、高森も騒がしい印象はあるけど、内面的にはやっぱり第一文芸部的なところがあるし、合わないことはないのだろう。
「ねむ」と、高森はあくびをしながら弁当の包みを膝の上で広げる。
「部誌の原稿、どうするか決めた?」
「いや。まだ何も考えてない」
俺はそう答えてから、ゴローは、と訊いてみた。
「いつもどおり適当に書くけど」
117: 2015/11/22(日) 17:23:18.32 ID:D4qOgycfo
「そっか。どうしよっかな。何書こうかな」
悩み深そうに溜め息をつきながら、高森はたまごやきを食べた。
ときどき顔を合わせると、このメンバーで昼食をとることがある。
学年と部活が一緒ってだけだし、普段からみんなで遊んだりはしないけど、こういうふうに過ごすことは珍しくない。
みんな中身がまったりしててテンションが一定だから、付き合いやすかったりする。
「高森、あれ書かないの? オリエンタルファンタジー風味のやつ」
高森は去年一年間、四回の部誌の発行を、まるまる一本の小説に使った。
中世東洋風異世界ファンタジー。
漫画みたいだったけど、けっこう面白かった。長かったけどその分の読み応えもあった。
「あれ、もう完結したもん」
「スピンオフとか書けそうだったじゃん。俺、隠れ里の竜人の話読みたい」
うーん、と高森は唸った。
118: 2015/11/22(日) 17:24:05.38 ID:D4qOgycfo
「でもねえ、違うんだよ」
「違うって何が?」
「つまり、あの話は一度あそこで完結しちゃってるわけ」
「はあ」
「そこに何かを付け足そうとすると、もうそれは別のお話になっちゃうわけ。
けっこう、他の人にも書かないのって言われたりするんだけど、そのたびに悩んじゃうんだよね」
「ごめん、言ってる意味わかんない」
つまりさ、と彼女はからあげを咀嚼、嚥下してから語る。
「あれ、評判は悪くなかったけど、じゃああの続きとして、あの雰囲気のままのものを書こうとしても無理なわけね。
問題は解決して、一定の展開を見せた以上、それまでの雰囲気通りのものは書けないわけじゃない?」
「はあ」
「あれを読んで楽しかったって言った人が求めるのは、続きじゃなくて反復なんだよ。
"あの感じ"がまた読みたいのであって、"続き"が読みたいわけじゃないんだと思う。
でも、"続き"を書くとなると、"あの感じ"にはならない。べつに書いたっていいけど、それは誰かが求めるものとは違っちゃうんだよ」
"わたしはそれを書く/あなたの望むかたちとは違うかもしれない/あなたの望む通りではないかもしれない/とにかくわたしはそれを書く"
「なるほどな」
俺はよくわからなかったけどうなずいておいた。
119: 2015/11/22(日) 17:24:52.28 ID:D4qOgycfo
「たっくんはどうするの? 部誌」
「……どうすっかなあ」
正直、気分としてはそれどころじゃなかった。
藤宮には随筆と言ったけど、厳密に言うと俺の書いたものは随筆風の創作小説だった。
内容に関しては「よくわからない」とみんなに言われた。俺もそう思う。
何かを書くというのは、体力を消耗する行為だ。
わりと疲れるし、楽しくて書いてるときもあれば、しんどいのに書いてるときもある。
なんでかはわからないけど、しんどいからやめちまおうとは思わない。
しんどいけど書き続ける。そういう精神が、けっこうな頻度で必要になる。
それができなければ、何かを完成させることなんて、まぐれか幸運でしかできやしない。
「……考え中」と俺は答えた。
120: 2015/11/22(日) 17:25:20.72 ID:D4qOgycfo
そんな話をしていると、「あっ」という声がすぐそばから聞こえた。
どきりとする。
声だけで誰だか分かるって、どういうことだよって思った。
顔を合わせて何日も経ってないのに。
「あ、るーちゃん」
と、高森は決めたばかりのあだ名で彼女のことをあっさり呼んだ。
そのまんますぎて、俺にはしんどい。
「こんにちは」と彼女は笑う。
「皆さんでお食事ですか?」
「そうそう」
妙にかしこまった言い回しと、気取らない自然な表情。
彼女のうしろには友達らしい女の子がいた。
ふたりは「それじゃあ」と言ってあっさりと去っていく。
121: 2015/11/22(日) 17:26:45.11 ID:D4qOgycfo
「……声、かけないの?」
そう言ったのは佐伯だった。途端に、三人の視線は俺に集まる。
「……待て。なんでそうなる」
「知り合いかもしれないんでしょ?」
と言葉を返してきたのは高森だった。二人揃ってどういうことだ。
「まあ」
「確認してみたらいいじゃん」
煽る高森に、
「昔遊んだ子なんでしょ? 浅月が覚えてるくらいなら、あの子も覚えてるかも」
佐伯が追随する。
なにそれ聞いてない、って高森が食いつくもんだから、佐伯がぺらぺらと説明をはじめた。
「なんだよ、ちゃんと面白そうなことになってるんじゃないか」
ゴローは眼鏡をくいっと直した。
122: 2015/11/22(日) 17:27:57.59 ID:D4qOgycfo
「じゃあ、ひょっとしてこないだ言ってた、たっくんの年下の女の子って、るーちゃんのこと?」
なんだ、年下の女の子って。
「なにそれ」と訊ねたのはゴローだった。
「ゴロちゃん知らない? たっくんに好きな子いるのってきいたら、年下の女の子と昔なんかあったって言ってた」
「言ってねえよ」
「ゴロちゃんっていうな」
「でもエスパーかって言ってたし、あたってたってことでしょ?」
俺とゴローからそれぞれ別々のツッコミが入ったが、高森は片方にしか反応しなかった。
佐伯が冷静な調子で話を整理する。
「つまり、子供の頃一緒に遊んだ女の子のことを、好きな子をきかれたときに思い浮かべたんだね」
佐伯の場合、からかうつもりもなく、純粋に質問してくるからタチが悪い。
「そういやタクミ、自分のことロマンチストって言ってたもんな」
たしかに言った。
三人寄れば文殊の知恵とよく言うが、この場合、それぞれに対する俺の発言を整理すれば辻褄が合ってしまうわけか。
そうやすやすと他人に何かを話すもんじゃない。猛省する。
123: 2015/11/22(日) 17:28:48.17 ID:D4qOgycfo
「じゃあ、ひょっとして浅月の初恋?」
俺は返答に詰まった。
「……」
詰まった、のが答えのようなものだった。
「たっくん……しかも、たっくんとその話をしたの、るーちゃんが入部する前だったよね」
「……そうだっけ?」
「つまり、るーちゃんがこの学校にいることに気付くよりも先に、好きな子のこと訊かれてるーちゃんを思い浮かべたんでしょ?」
「……いや、どうだったっけ?」
「浅月、漫画みたいだね」
どういうたとえだ。
「うるさい。シャラップ。もういい。この件に関しては口出し無用だ。第一証拠はあるのか、証拠は」
「なるほどなあ、初恋の相手で、しかもモロに引きずってたから、話しかけるのを躊躇してたわけか」
「口出しするなというに」
「自分はめちゃくちゃ引きずってるのに相手が覚えてなかったらショックだもんね……」
「でも、遊んでたって言っても子供の頃なんでしょ? 中学ならまだしも高校入ってそれって、浅月、それもう一途とかじゃないよ。妄執だよ」
「そういうんじゃない! 俺はただるーと……」
「るー?」
三人は言葉を止めて俺のことをじっと見つめた。
俺はうつむくことしかできなかった。
124: 2015/11/22(日) 17:29:28.73 ID:D4qOgycfo
◇
そんなことがあったから、放課後になってもすぐに部室に顔を出す気にはなれなかった。
かといって他に行き場もないし、部屋に帰るつもりもなかった。
どっちにしてもバイトまではどこかで時間を潰さなきゃいけない。
俺は東校舎の屋上に向かった。
もしかしたら佐伯がいるかもしれない、とも思ったけど、今日はそんなことはなかった。
本校舎の屋上に出たあとだと、やっぱりこっちの屋上には寂しい印象を受ける。
それに、こっちの屋上にひとりでいると、どうしてもいろいろなことを考えてしまう。
逃げるようにこの街にきてから一年が経つ。
未だに消化できずにいることが、俺の前に横たわっている。
フェンス越しに、街を見下ろす。
この街で暮らしている人々のこと。俺の住んでいた街で暮らしていた人々のこと。
いろんなことを想像する。いろんな人達が、いろんなふうに生きているところを、想像する。
いろんなことが、分からなくなっていく。
125: 2015/11/22(日) 17:30:57.88 ID:D4qOgycfo
そんな気分のときにこの屋上に立っていると、決まって彼が現れる。
「ひさしぶりだな」
と、そいつは言った。
給水塔の脇。ハシゴを登った先のスペースから足だけを出して座っている。
口元には煙草。真っ黒の長い前髪が顔を隠していて、表情はほとんど覗けない。
骨ばった痩身の体格、ひょろ長い身長。骸骨みたいだと思う。骨格標本みたいだ、と。
ずっと前からの顔見知り。学年もクラスも知らない。けど、彼がここで煙草を吸っていることは俺も知っている。
あんまりにも堂々としているせいで、誰も咎めないのか。そもそもこんな屋上にやってくる奴は、そうそういないけど。
他の誰かがいるときは、不思議と顔を見せない。いったいどうやって他人を察知しているのか。
俺ひとりでくると、ときどきここで煙草を吸っている。
べつに咎める気も沸かないけど、一応第二文芸部に所属しているのに、部活に顔を出さなくていいんだろうか。
126: 2015/11/22(日) 17:31:56.18 ID:D4qOgycfo
「鷹島 スクイ」
と彼はずっと前、俺に名乗った。
「変な名前」と思わず口に出したら「俺のせいじゃない」と彼は笑ってた。
「親のせい?」
「いや、おまえのせいさ」
俺は意味も分からず笑ったものだった。
「何を考えてる?」
スクイは煙を吐き出してから楽しげに笑って、そう訊ねてきた。笑いどころなんてひとつもなかったのに。変な奴だ。
「女のことか?」
「あたり」
「姉貴のことはいいのかい?」
「……」
まあ、俺には関係ないけどな。スクイはそう言った。
「そっちこそ、部活はいいの?」
「そういやあ、、部誌作るって言ってたな。奴らも思いつきでよくやるもんだ」
「珍しいね」
「俺は何も書く気がしないけどな」
127: 2015/11/22(日) 17:32:28.44 ID:D4qOgycfo
「きみね、協調性とかないの?」
「協調性っていうのは、自分の判断や価値観や物事の正否の判断を一旦留保して、周囲の流れに合わせる能力のことか?」
「……そういう定義だっけ?」
「みんなが魔女狩りをしているときに魔女を火炙りにしたり、みんながユダヤ人を頃しているときに隣人を通報したりできる能力のことだろ?」
「……発言がいちいち黒すぎるんだよなあ、おまえ」
「みんながお国の為にって言ってるときに、戦争反対って言ってる奴がいたら、非国民だって村八分。なあ、それが協調性ってやつさ」
俺はコメントを差し控えた。
話せば話すほど、第二文芸部向きの性格じゃない。
ていうか、(俺が言うのものなんだけど)社会生活に向いてない。
「本当の協調性っていうのは、みんなに部誌の原稿を寄せることを強要するもんじゃない。
部誌の原稿を書きたくない奴の気持ちにも配慮して、書いてほしい奴と書きたくない奴の間の折り合いをつける。
それが協調性ってもんだろう」
だから俺は合唱コンクールも球技大会も修学旅行も不参加だ。スクイは堂々とそう宣言する。
おまえらが、「したくない」という俺の意思を尊重しないなら、「みんなでするべきだ」というおまえらの意思を、俺は尊重しない。
彼が言うのはそういうことだ。
いろんな人がいるもんだ。
128: 2015/11/22(日) 17:33:34.16 ID:D4qOgycfo
さて、とスクイは梯子の上から跳ね降りる。
結構な高さだというのに、なんてこともなさそうに。
「俺は行くよ」
「今日は何?」
「べつに用事があるわけじゃない。用事なんてあるわけがない」
「ふうん」
「まあ、おまえもがんばれよ。優等生」
「そっちもな。劣等生」
は、とスクイは皮肉げに笑う。どこか、うれしそうだった。
規律を無視し、秩序を乱し、集団を軽んじ、協調をあざ笑う。
大人はそれを思春期と呼ぶ。俺たち学生も、スクイみたいな奴をどこかでバカだと感じる。
でも、スクイにとってはそうではない。
スクイにとっては、スクイの言葉を理解しない奴が、バカなのだ。
そんなバカだらけの世界を、スクイはまともに生き延びようとは思わないのだ。
129: 2015/11/22(日) 17:34:00.84 ID:D4qOgycfo
ドッジボールで勝利するのはドッジボールに熱中して楽しめる奴だ。
「そもそもなんでドッジボールなんてしなきゃいけないんだ?」なんて考えはじめる奴は、残念だけどドッジボールの勝者にはなれない。
たぶん、次からは誘ってももらえなくなるだろう。
でも、そういう奴はべつに負けたところで悔しくはないだろうとも思う。
なぜドッジボールをするのか、なぜドッジボールで勝たなければいけないのか。
その前提に対してひとたび疑問を抱けば、「こうだ」と言える理由なんてひとかけらだって見当たらないことに気付けるはずだ。
勝たなきゃいけない理由がないなら、負けたところでなぜ悪い?
不参加を決め込んで不戦敗になろうと、何が悪い?
そう悟ってしまえば、ドッジボールなんて知ったことじゃない。
「そういうルールのそういうゲームをやるのはきみたちの勝手だけど、僕がそれに参加してあげる義理はないよね」
と、そう言ってしまえばそれで済んでしまう話なのだ。
ドッジボールで勝って大会に優勝してトロフィーをもらって嬉しいって、そういう気持ちもまあわからないでもない。
でも、みんながみんなトロフィーを欲しがってるわけじゃないし、ドッジボールを好きなわけでもない。
そもそもドッジボールなんて嫌いだって言う権利だってやっぱりあるはずだ。
天秤を疑うこと。たぶん、それがスクイの価値観だ。
でも、それは鷹島スクイの価値観であって、浅月拓海の価値観ではない。
130: 2015/11/22(日) 17:35:12.56 ID:D4qOgycfo
スクイが去ってしまってから、俺はいくつかのことについて考えた。
姉のこと、みんなのこと、スクイのこと、
るーのこと、
を、考えはじめた途端、鉄扉がぎいと音を立てて軋んだ。
振り返ると、そこには思い浮かべたままの顔が立っていた。
息を切らせて、肩を上下させて、いかにも階段を駆け上ってきたという風情。
彼女は屋上に昇って、いま俺の前にいる。
夕日を正面から浴びた彼女の表情は、ちょっと苦しげだった。
たいした距離じゃないのに、どれだけの勢いで走ってきたんだか。
そういえばあの子は、運動が得意じゃなかったかもしれない。
彼女の表情は夕日で橙色に染まっていたけど、彼女から見たら、俺の顔は逆光でよく見えなくなっているだろう。
逆光の中に、影法師みたいに映っているはずだ。
誰そ彼。
屋上の縁、フェンスの傍に俺は立っている。
そこから、入り口の鉄扉まで、距離は短くもないけど、長くもない。
その距離のまま、彼女は息を整えて、俺はその姿をじっと眺める。
131: 2015/11/22(日) 17:35:55.92 ID:D4qOgycfo
「どうしたの」と俺は近付かずに声をかけた。
「佐伯先輩が、きっとここにいるだろうって」
「……何か用事?」
「部活、出ないのかな、って」
はあ、と大きく息を整えてから、彼女はこっちへと歩み寄ってきた。
「呼んでこいって言われた?」
「いえ。わたしが勝手に」
「はあ。それはまた」
彼女は俺の隣までやってきて、俺がしていたように、フェンス越しに街を見下ろす。
わあ、と声をあげた。
「いい景色ですね」
たしかに、と俺は思う。
うちの学校はちょっと高台になっているから、屋上から街を見下ろすとなると、けっこうな高さからになる。
東校舎からは夕日も見える。
日没まではまだあるけれど、空は暗くなりはじめている。
こういう景色は、たしかに悪くない。
132: 2015/11/22(日) 17:36:25.10 ID:D4qOgycfo
そういえば。
ポスターを拾われたとき以来か。彼女とふたりきりになったのは。
「景色を見ていたんですか?」
「うん。いや、どうかな」
「……どっちですか?」
彼女はくすくす笑う。
「考えごとをしてた。いろいろ」
「……考えごと、ですか?」
「うん。答えが出ないこととか、考える前に行動すれば済むこととか。それでも最初に考えちゃうんだ」
「はあ。それは、たいへんですねえ」
他人事みたいな言い方が、なんだかなつかしくて、うれしかった。
133: 2015/11/22(日) 17:37:03.17 ID:D4qOgycfo
「部室、いこっか。暗くなってきたし」
結局何も言えずに、俺はフェンスに背を向けて、扉へと向かった。
ドアノブに手をかけたタイミングだった。
「あの」
と声をかけられて、振り返る。
今度は彼女の表情が逆光になってよく見えない。
「浅月、拓海先輩」
「……なんで急にフルネーム?」
「わたし、藤宮ちはるです」
「……うん。知ってる」
「……ちはるです」
動悸が走る。
134: 2015/11/22(日) 17:37:47.92 ID:D4qOgycfo
どう応えるべきか、迷った。
彼女の表情は、よく見えない。
何を俺に伝えようとしているのか、分からない。
いや、分かるような気もするけど。
それはなんとなく、俺の勝手な期待なんじゃないか、とか。
勘違いだったらどうしよう、とか。
「……わたしのこと、覚えてませんか?」
……そんなことばかりだ。
結局、俺は自分のことばっかり気にしてる。
自分を守ることばっかりだ。
顔が見えなくたってわかるのに。
彼女の声は震えてるのに。
彼女は何回も何回も、繰り返し俺に名前を告げた。
それはきっと彼女なりのシグナルだったんだろうと思う。
俺は自分が傷つきたくないがために、その信号を無視し続けていた。
135: 2015/11/22(日) 17:38:21.87 ID:D4qOgycfo
「名前、おんなじです。同姓同名じゃないですよね。珍しい苗字だし」
言葉を重ねるほどに声が震えていく。
俺は自分が嫌になった。なんで、この子にそんなことをさせてしまったんだろう。
分かってたのに。
「タクミくん、なんですよね? どうして、何も言ってくれないんですか?」
悲しいのか、怖いのか、よくわからない、取り繕おうとするような、冷静なふりをした、不思議な震え。
彼女はごまかすみたいに、笑う。
「どうして、連絡くれなくなったんですか? ……わたしのこと、きらいになったんですか?」
るー。
るーだ。
下手なごまかし笑い。強がりぐせ。大人ぶった口調は、もうだいぶ馴染んでいるけど。
素直で天真爛漫に見えるのに、相手を気遣って自分を抑えこみがちな性格。
去勢を張って強がるけど、臆病で怖がりで甘えたがりの。
それがわかってるのに、姿形が違うから、時間が流れたからって、俺は彼女のことを無視していた。
我ながら成長しない。むしろ退化したのかもしれない。子供の頃より、怖いものがたくさん増えた。
「るー」
そう呼んだ途端、彼女の肩からすっと力が抜けたのが分かった。
「ごめん。久しぶりすぎて、戸惑ってた」
会いたかった。会いたくなかった。話したいことがたくさんある。知られたくないこともたくさんある。
136: 2015/11/22(日) 17:38:55.15 ID:D4qOgycfo
藤宮ちはる――るーは、急に跳ねるみたいに駆け出してきた。
俺に向かって、早歩きよりちょっとはやいくらいの駆け足で。
まっすぐに。そう長くない距離を。そのままのスピードで。
ていうか。
ぶつかる。
「うお!」
と声をあげたのは俺だけだった。るーは減速もせず、勢いも殺さず、飛びつくみたいに体をぶつけてきた。
せめて抱きつくくらいにしてほしかったけど、ほとんどタックルだった。
俺の体はるーの勢いと鉄扉に挟まれて軋んだ。
体重が軽いからたいしたダメージじゃないっていっても、危うく頭を打つところだった。
「危ないって、るー!」
俺は思わず抗議の声をあげる。
彼女は一瞬だけくっついた体をパッと離して距離をとり、俺の両側のほっぺたを、両手でつねってのばした。
「なんで連絡くれなかったんですか!」
「いたひいたひ」
今度はぱっと指を頬から離して、握りこぶしをつくると俺の腹のあたりをぽすぽす叩き始める。
こんなテンションだっけ?
さっきまでのおしとやかとすら言えそうな雰囲気とのギャップに、少し戸惑う。
137: 2015/11/22(日) 17:39:54.34 ID:D4qOgycfo
「こっちにきてるなんて、聞いてないです。タクミくんのばか。ばか」
「いや、待てって。いろいろ事情があったんだよこっちにも」
「どんな事情ですか!」
「えっと、つまり、いろいろと……」
「説明してください!」
「待て、ひとまず落ち着け」
「落ち着けません。わたしをカナヅチにした責任、とってもらいますからね!」
「まだ泳げないのか? ていうかそれ、俺のせいか?」
「タクミくんのせいです! とにかく、言いたいことがたくさんあるんですからね!」
「……あー、待て。ほんとにひとまず落ち着け」
ふー、ふー、と息を荒くして、尻尾を踏まれた猫みたいに肩をいからせて、るーは俺をじとっと見つめてる。
目が潤んでる。
ていうか。
「……なんで泣くの」
「……泣いてないです。これは、目にゴミが」
うつむいて、ぽろぽろと涙をこぼしはじめる。
これはもう、言い逃れはできないな、と思った。
138: 2015/11/22(日) 17:40:21.22 ID:D4qOgycfo
俺はしばらく黙ったまま、るーが落ち着くのを待った。
とりあえずポケットティッシュを取り出して彼女に渡した。
るーは子供みたいに鼻をかんだ。
るー……だよなあ。こういうとこ。
「とりあえず、説明は全部する」
「……逃げませんよね?」
「逃げられないだろ」
「……え?」
「でも、とりあえず話は後にしよう。ここだとなんだからな」
「どういう意味ですか?」
俺は扉の方を向いて、深呼吸をしてから、ノブを捻って勢いよくドアを開けた。
高森とゴローと部長が揃って扉の近くに立っていた。
「……高森。おまえその覗き癖治せ」
「あはは」
と高森は苦笑した。
振り返ると、まだ赤い目元をこすりながら、るーは笑ってた。
142: 2015/11/23(月) 21:34:45.93 ID:uj/X8DPAo
◇
「じゃあ、今日は部活サボってずっと屋上にいたんだ」
部室についてから、部長はどうでもよさそうに言った。
「ずっとって……ちょっと屋上行ったら、すぐ顔を出すつもりでしたよ」
「ちょっと、ね」
と言って、部長は窓の外に視線をやった。
夕焼け。
……夕焼け?
「もうすぐ下校時間だよ」
「……そういえば」
さすがに、ちょっと戸惑う。
そんなに長い時間、俺は屋上にいたのか?
よく思い出せない。
「いったい何やってたの?」
「考えごとをしてたんです」
「まあべつにいいんだけどね。顔出せる日に出してもらえれば」
って、やばい。
「バイト……」
143: 2015/11/23(月) 21:35:13.97 ID:uj/X8DPAo
時計を見ると、バイトの時間まで三十分を切っていた。
「うわ」
「どうかしたんですか?」
すっかり落ち着いた様子のるーが、横から俺の顔を見上げた。
距離感は、さっきまでよりずっと近付いてるけど、その顔は今の俺には見慣れない女の子のものだ。
思わず目をそらす。
「や。今日、バイト。いそがないと、間に合わない」
「ずいぶんぼーっとしてたんだね」
部長はちょっと驚いた表情で、俺の顔をじっと見つめてくる。
視線から逃れるみたいに他の奴を見ると、ゴローもまた、こちらをうかがうように眺めていた。
「行かないと」
るーの方を、俺は思わず振り返って、目が合った瞬間、戸惑った。
べつに、怒ってもいなかったし、悲しそうでもなかったし、悔しそうでもなかった。
ただ取り繕ったような無表情で一拍呼吸をした後、
「仕方ないですね」
と笑った。
彼女はこんなふうに笑ったっけ? もうよく思い出せない。
144: 2015/11/23(月) 21:36:15.47 ID:uj/X8DPAo
「ごめん」
「いいです。ちゃんと説明してくれますよね?」
「うん。約束する。じゃあ……」
「はい」
にっこりと、また笑う。
その笑みが、衒いのないものなのか、それとも昔のような強がりなのか、見分けがつかない。
当たり前だ。いくら一緒に遊んだことがあるっていったって、言ってみれば"それだけ"だ。
この子のこと、この子の過ごしてきた時間のことを、俺は何も知らない。
さっきだって、ひさしぶりに仲の良かった友人に会ったから感極まっただけだったんだろう。
俺が彼女に抱いているような感情を、彼女もまた抱いているかもしれないなんて、そんなことは考えちゃいない。
そう思っておかないと、すがりつきそうになる。
145: 2015/11/23(月) 21:36:45.60 ID:uj/X8DPAo
店までの道を急ぎながら、俺はるーに、何をどこまで説明すればいいんだろうと考えた。
るーに会いたかったのは本当だ。
でも本当は、話したいことなんてなかったのかもしれない。
一緒に何かをしたかったわけでも、見せたいものがあったわけでもない。
それでもなんとなく、心が暖かくなっているのを感じる。
彼女は俺を覚えていた。それが嬉しかった。
店についたのは時間の五分前で、一分で着替えて売り場に出ると、先輩たちは「珍しいね」って笑ってくれた。
俺は遅れそうになったくせに上機嫌だった。
常連のおじちゃんに「なにか良いことでもあったの?」って訊かれるくらいに。
なんでもないですよ、なんて答えながら、俺は気持ちを落ち着かせる。
その日はひとつもミスをしなかった。クレームもトラブルもなかった。
いつもこうならいいのに、と思った。
146: 2015/11/23(月) 21:37:15.81 ID:uj/X8DPAo
そんな調子でバイトを終えて店を出ると、軒先のアーチ型バリカーに腰をかけている女の子がいた。
いや、女の子っていうか。
「……るー?」
「あ」
と、彼女はこっちを振り返った。ぎくっとした感じで。
「えっと、奇遇ですね?」
また、笑う。私服姿だったから、一瞬、反応に困った。
「……奇遇か?」
「ほんと。ほんと偶然」
「高森に聞いたの?」
そう訊ねると、るーはちょっと表情を凍らせたあと、素直にうなずいた。
147: 2015/11/23(月) 21:37:43.56 ID:uj/X8DPAo
「……はい。帰りに部長と蒔絵先輩と三人でケーキを食べに行ったんですけど、そのときに」
「ケーキ」
帰りにケーキを食べに行く。
「へ、へえ……」
高森にそんなおしゃれアンテナあったのか。
つーか部長もそういうのに付き合うのか。
女子部員と男子部員じゃ、当たり前だけど距離感が違うんだろう。
それにしても高森がそういうことをするのも珍しい。いつもはネトゲだバスの時間だってうるさいくせに。
ああ、でも、このあいだはイベント期間中だったから早めに帰っただけだったのかもしれない。
女子って行動範囲が男とは違うもんなのか、やっぱり。
俺は彼女たちに対する認識を改めるべきなのかもしれない。
148: 2015/11/23(月) 21:38:32.65 ID:uj/X8DPAo
なんて思って黙り込んでいると、
「ごめんなさい!」とるーは唐突に謝った。
「……怒ってます、よね?」
びくびくした調子でこちらを窺う彼女の態度に、俺は面食らう。
「な、なにが」
「いえ、ちがうんです。わたしも迷ったんです。学校一緒なんだからべつに明日でもかまわないって」
「はあ」
「それにいくらなんでもバイト先にまで押しかけて待ちぶせって、どう考えてもストーカー的ですし……」
「あ、うーん。そう?」
「べつにそういうつもりじゃないんですよ? 蒔絵先輩が、会いにいっても怒らないだろうって言ってくれたので……」
「るー」
「でも、やっぱり気味が悪いかなあとか、いろいろ……」
「るー、落ち着け」
「……はい」
るーは空を仰いで、ふー、と軽く息を吐いた。
緊張しているのか、上気して赤くなった頬を、彼女は右手でパタパタ仰いだ。
そういうのがわかると、こっちはかえって落ち着いてくる。
149: 2015/11/23(月) 21:38:58.77 ID:uj/X8DPAo
「一回帰ったの?」
「はい?」
「服」
「あ、はい」
「で、わざわざこっちまで来たんだ」
「……はい」
「わざわざ」
静奈姉の部屋から近い店を選んだから、るーの家からだと、けっこう離れてるはずだ。
地下鉄二駅分くらい。
「……やっぱり、ちょっと、変ですよね」
「べつに気にしてないよ」
そこまでされるとは思ってなかったら、けっこう意外だけど。
るーは何を言ったらいいのか分からなくなったみたいに「あー」とか「うー」とか言い始める。
何を俺相手にそんなに緊張することがあるんだ分からない。
150: 2015/11/23(月) 21:39:39.86 ID:uj/X8DPAo
「とりあえず、もう遅いし帰ろう。送るから」
「……はい」
なんだか気まずそうに、るーは俯いた。
送る、という言葉に、特に異論もないらしい。
そりゃ、まあ、そんな話はいまさらか。
何か話したいこととか、訊きたいこととかあって会いに来たんだと思った。
だから彼女が話しだすのを待っていたけど、しばらく黙っていても、るーは何も訊いてこなかった。
たぶん、似たようなことを考えてるんだろう。そう思った。
「お姉さんたち」
「……はい?」
「元気?」
「あ、はい。それはもう」
「今何してるの?」
「ちい姉は、いまは大学で、すず姉は、専門です」
呼び方が変わってるな、なんてことを思った。たぶん、彼女は気付いていないのかもしれない。
離れていた分、そういう些細な変化にいちいち気付いてしまう。
151: 2015/11/23(月) 21:40:35.34 ID:uj/X8DPAo
「専門って、何の?」
「動物です」
「あー」
似合う。
そんなふうに、誰がどうしてるとか、何がどうなったとか、当時頻繁に顔を合わせた人たちの話で盛り上がる。
それくらいしか、共通の話題はなかった。
ひとしきりそういう話が終わる頃には駅についていた。
切符を買って改札を抜け、車両を待つ間、しばらく沈黙が続く。
「……どうして」
と不意にるーは言った。
「どうして、連絡くれなかったんですか?」
「……えっと、まあ、それはいろいろあったんだけど」
というか。
彼女の方も、俺とそんなに連絡を取りたがってなかったんじゃないかと思ってた。
最初の頃はともかく、徐々に面倒になっていったんじゃないかって。
152: 2015/11/23(月) 21:41:19.25 ID:uj/X8DPAo
それでも、彼女にとって俺は友達だったのだろう。
今になってそう思えるのは、なんとなくうれしい。
怒ってくれたことがうれしい。
「携帯壊れたんだよ」
「……は」
「データ飛んじゃって。連絡先、わかんなくて」
親戚でもなんでもない、一緒に遊んだだけの相手。
それでも、人づてに頼めば、どうにかなったかもしれないけど。
静奈姉に頼めば、どうにかなるかもしれないと思ったけど、
俺が帰ったあとくらいから、あのとき一緒に遊んでいた人たちと連絡をとらなくなったらしかった。
頼もうとしたときも、気乗りしない雰囲気だった。
だから、頼めなかった。
こっちに来てからも、るーや、他の人たちがどうしているのか、静奈姉には聞けなかった。
るーは長い間押し黙っていたが、やがてくすくすと笑い始めた。
「そ、そうだったんですか」
153: 2015/11/23(月) 21:42:09.66 ID:uj/X8DPAo
それだけのことだったのかと、ほっとしたみたいに。
「いや、うん、そんなわけで、こっちに来るときも連絡したかったんだけど、覚えてるかどうか、わかんなかったし」
「……いつ、こっちに来たんですか?」
「去年の春だよ」
「一年前、ですか」
「うん」
「今はどこに住んでるんですか?」
「静奈姉の部屋」
「……静奈さん、元気ですか?」
「うん。たぶん。……どうなんだろう」
やっぱり、るーが静奈姉の近況を知らないってことは、そのあたりの繋がりは途絶えていたんだろう。
車両がやってきて、音を立てて扉を開けた。
乗り込もうとした瞬間、背中から、
「覚えてましたよ」
と、そんな声が聞こえた。
154: 2015/11/23(月) 21:42:37.70 ID:uj/X8DPAo
乗客の数は多いとは言えなかった。おかげで、小声なら話を続けられそうだった。
時間が時間だし、終点に近いから、無理もない。
「いつから俺だって気付いてたの?」
「さあ? いつからでしょう。タクミく……先輩は?」
「べつにいいよ。呼び方そのままで」
「でも、いちおう」
「かえってくすぐったいから」
「……じゃあ、タクミくん」
彼女はまた笑った。
「なんで笑うの」
「このやりとりの方がくすぐったいです」
たしかに。
「それで、タクミくんは?」
「……内緒」
「ということは、けっこう前から気付いてたんですね?」
「……」
相変わらず、ぐいぐいくるなあ。
155: 2015/11/23(月) 21:43:21.34 ID:uj/X8DPAo
「気付いてて、無視してたんですね?」
「……や。まさか本人だとは思わなかったし」
「本当に?」
俺は目を逸らした。
「ほんとうに?」
隣から、るーは顔を覗き込んでくる。
学校の外だからか、さっきから妙に距離が近い。
いや、それとも俺が変に意識してるからそう感じるだけで、彼女にしたら子供の頃の友達だから、当然の距離なのかもしれない。
「まあ、もしかしたらとは、思ってたけど」
「じゃあ、名前名乗った段階で気付けたじゃないですか」
「それは、お互いさまじゃない? 俺も名前言った段階で反応なかったから、てっきり別人か、覚えてないかのどっちかだと思ったし」
「……それは、それは、そうかもしれないです」
たぶん、お互いがお互い、おんなじことを考えて、声を掛けられなかったんだろう。
今になってそう分かった。
そう分かった途端、ばからしくて笑ってしまう。
156: 2015/11/23(月) 21:44:07.78 ID:uj/X8DPAo
駅を出て、るーと一緒に歩く。
こんなふうに歩いていると、不思議な気持ちになる。
前を向いているるーの横顔を歩きながら盗み見ていると、彼女はふっと視線を合わせてきて、「なんですか?」って顔をした。
しかたなく、俺は正直に話すことにした。
「本当は気付いてたんだよ」
「なにがですか?」
「るーだ、って。ポスターのときから」
「……」
「でも、なんとなく、話しかけづらくて」
「なんでですか?」
「ずいぶん長い時間が経ったし、もともとそんなに長期間顔を合わせてたわけでもない。
忘れられてるかもしれないし、覚えてたとしても、今となってはどうでもいい存在なのかもって」
「なんでそういうこと言うんですか?」
るーは、ちょっと戸惑ったみたいだった。
「だいぶ久しぶりだったし」
「それは、そうですけど、でも、そういうの、へんですよ」
「かも」
たしかに。変かもしれない。普通に話しかけて、なつかしいね、で済んだ話なのかもしれない。
157: 2015/11/23(月) 21:44:56.15 ID:uj/X8DPAo
「それに、なんとなく、遠く感じて」
「遠く、って?」
「なんか、綺麗になってたから」
「……は」
るーは一瞬あっけにとられたように口を広げたあと、眉をつりあげて俺の肩をばしっと叩いた。
痛い。
「なんですか急に。タクミくんのくせに」
「いや、俺のくせにってどういうこと」
「お姉さんをからかうの、よくないです」
「……俺の方がお兄さんなんですけどね」
「年上だって、聞いてなかったです」
「俺は知ってたけど」
「てっきり下だと思ってました」
……まあ、当時は身長もるーの方がちょっと高いくらいだったし、仕方ないのかも。
158: 2015/11/23(月) 21:45:35.36 ID:uj/X8DPAo
「……背、伸びましたね」
「そりゃ、まあ。るーだって伸びただろ」
見上げられて、思わず目をそらす。
「男の子みたいです」
「……男の子だよ」
「そういう意味じゃなくて……」
と言ってから、彼女は首を横に振って話すのをやめた。
歩いているうちに、懐かしい道へと近付いていく。
あの頃、何度か通った道。
景色は少しずつ変わっていて、夜だから、前に見たときと印象も違うけど。
そういえば、夏が近いんだ。
159: 2015/11/23(月) 21:47:18.74 ID:uj/X8DPAo
「どうして、こっちに来たんですか?」
俺は、答えに窮した。
窮して、
「るーに会いたかったから」
と、試しに言ってみた。
ばし、ってまた叩かれる。
「タクミくん、変わりました」
ふてくされたみたいに、るーはそっぽを向いた。
「言ってみただけだよ」
「なおさら問題です」
「嘘ってわけでもない。るーに会いたかったのも、本当」
るーは口をもごもごゆがませて、困ったような、怒ったような顔をした。
「……まあ、わたしだって、会えてうれしくないわけじゃないですよ」
「ならよかった」
と、それだけ言って、話をごまかす。
べつに、嘘をついたわけでもないけど、それだけじゃないのも、本当だ。
160: 2015/11/23(月) 21:48:05.12 ID:uj/X8DPAo
「タクミくん、女の子慣れしました?」
「なこと、ないと思うけど」
そりゃ、子供の頃よりは多少は、とも思う。
けどまあ、綺麗とか、会いたかったとか、ちょっと軽々しかったかもしれない。
「蒔絵先輩……」
「ん?」
「……やっぱり、なんでもないです」
「高森がなに?」
「聞こえてるじゃないですか。……なんでもないです」
そう言ったきり、るーは何も言わなくなった。
俺たちはそのまま、彼女の家までの道のりを歩く。
直接訪れたことはなかったけど、何度か家の近くまできたことはあった。
見た目の印象は、何も変わらない。広い庭、大きな家。
「あんまり、夜遅くにひとりで出歩くなよ」
一応、俺はそう言っておいた。
「世の中、良い奴ばっかりじゃないから」
161: 2015/11/23(月) 21:48:45.91 ID:uj/X8DPAo
るーは戸惑ったような顔のまま、しばらく返事をしてくれなかった。
「どうした?」
「あ、いえ。本当に、背、伸びたなあ、って」
「……何の話をしてるんだ」
「声も、変わりましたね」
「そりゃあ……」
そりゃ、そうだ。
喉仏がつきだして、声変わりがあって、体格だって変わる。
そういう変化は、俺だけじゃない。
るーだって、相応の変化が……。
なんてことを考えたらまた意識してしまいそうだから、やめた。
「とりあえず、明日学校で」
「あ……はい」
まだ何か、話し足りないこと、聞き足りないことがあるような気がした。たぶん、お互いにそうなんだろう。
でも、それはまた、思い出したときに話せばいい。
162: 2015/11/23(月) 21:49:24.88 ID:uj/X8DPAo
「とりあえずは、先輩後輩だな」
「タクミくんが先輩って、変な気分です」
俺も変な感じがするが、るーにそれを言われるといろいろと複雑だ。
年上として見られてない、というか、なんなら男としても見られてない感じがする。
たぶん、この子にとって俺は、弟分とか、子分とか、そういう存在だったんだろう。
なんとなくそう思う。
「また明日」
と俺は言った。
「はい。また明日」
るーも、そう言った。
るーが家に入るまで待とうと思ったけど、彼女はこっちを向いたまま動こうとしない。
仕方なく背を向けて振り返ると、彼女はにっこり笑ってひらひら手を振ってくれた。
誰に見られてるわけでもないけど気恥ずかしくて、俺はうなずいて軽く手をあげるだけにしておいた。
歩いても歩いても、足の裏の感触がうまくつかめなくい。
夢でも見ているのかもしれない、とぼんやり思った。
163: 2015/11/23(月) 21:50:56.10 ID:uj/X8DPAo
164: 2015/11/24(火) 10:11:59.70 ID:jLEPKrES0
おつおつ
引用: 屋上に昇って
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