4: 歴ネタななしさん
当時の人は色々おかしい蛮族だからな。
甲冑付けて数十キロ歩いた後、城の石垣登ったり、やってることが超人なんだよ。
甲冑付けて数十キロ歩いた後、城の石垣登ったり、やってることが超人なんだよ。
8: 歴ネタななしさん
足利氏の威光もたいしたもんだ
10: 歴ネタななしさん
最期鎌倉幕府に残ってた人700人位自決したんだっけ もう人民寺院レベルやな
13: 歴ネタななしさん
>>10
何だかんだで忠誠心あったやつも多いんだよな
何だかんだで忠誠心あったやつも多いんだよな
15: 歴ネタななしさん
>>13
北条に引き立てられた奴は多いからな
北条に引き立てられた奴は多いからな
18: 歴ネタななしさん
>>13
関東で北条の名は超名門になったからな、100年で。
後の伊勢氏も北条の名を使って関東を平定するし。
関東で北条の名は超名門になったからな、100年で。
後の伊勢氏も北条の名を使って関東を平定するし。
125: 歴ネタななしさん
>>18
そっちは新九郎、奔るの方だな
ちょいちょいコミック化されていくな
そっちは新九郎、奔るの方だな
ちょいちょいコミック化されていくな
27: 歴ネタななしさん
>>10
700人いれば脱出もできたんでねえかと思うんだが、妙に諦めが良すぎるなーと常々思ってる。
700人いれば脱出もできたんでねえかと思うんだが、妙に諦めが良すぎるなーと常々思ってる。
103: 歴ネタななしさん
>>27
その脱出出来た奴が時行とか泰家なんだよ
その脱出出来た奴が時行とか泰家なんだよ
32: 歴ネタななしさん
>>27
あの時点で北条方の残党はかなりいた、しかも全国に。
まとめる人物がいれば即鎌倉を取りかえせたが、いなかった。
あの時点で北条方の残党はかなりいた、しかも全国に。
まとめる人物がいれば即鎌倉を取りかえせたが、いなかった。
106: 歴ネタななしさん
>>32
得宗に力を集めすぎたんやなきっと
得宗に力を集めすぎたんやなきっと
104: 歴ネタななしさん
北条時行「助太刀にまいった」
北畠顕家「…ありがとう(は?死ねよ)」
北畠顕家「…ありがとう(は?死ねよ)」
16: 歴ネタななしさん
摂家将軍も宮将軍も源義朝の女系子孫で、
鎌倉幕府は源氏の政権だった
北条はあくまでも御家人の筆頭で、鎌倉幕府の君主ではなかった
だから源氏の足利と新田に離反されたら
鎌倉幕府は存在意義を失って瓦解した
江戸幕府で言うところの、西郷隆盛が錦の御旗を掲げて
尾張徳川家が帰順を表明したら
全国の大名がバタバタと新政府に帰順したようなもの
鎌倉幕府は源氏の政権だった
北条はあくまでも御家人の筆頭で、鎌倉幕府の君主ではなかった
だから源氏の足利と新田に離反されたら
鎌倉幕府は存在意義を失って瓦解した
江戸幕府で言うところの、西郷隆盛が錦の御旗を掲げて
尾張徳川家が帰順を表明したら
全国の大名がバタバタと新政府に帰順したようなもの
22: 歴ネタななしさん
義貞「高時は闘犬狂いのアフォで雑魚過ぎw」
40: 歴ネタななしさん
>>22
平頼綱や長崎円喜といった内管領の権力が強くて
北条高時は既に実権がなかった
平頼綱や長崎円喜といった内管領の権力が強くて
北条高時は既に実権がなかった
23: 歴ネタななしさん
と言うか最後の鎌倉将軍のこと
倒幕軍も北条軍も
みんな忘れ過ぎやろ
倒幕軍も北条軍も
みんな忘れ過ぎやろ
24: 歴ネタななしさん
鎌倉幕府滅亡から10年前、道ゆく人々に「もしも敵の軍勢が稲村ヶ崎を突破したら鎌倉は危ない」と予言して回る武士がいた
誰一人として「稲村ヶ崎は断崖絶壁で軍勢が通れる道などない」と耳を傾けず、幕府も稲村ヶ崎は大丈夫だろうと放置していた
果たして、武士が予言してから10年後、新田義貞の軍勢が稲村ヶ崎が手薄なのに目をつけて突破して鎌倉に雪崩れ込み、幕府は滅亡したのであった
鎌倉幕府の滅亡にまつわる不思議な話
誰一人として「稲村ヶ崎は断崖絶壁で軍勢が通れる道などない」と耳を傾けず、幕府も稲村ヶ崎は大丈夫だろうと放置していた
果たして、武士が予言してから10年後、新田義貞の軍勢が稲村ヶ崎が手薄なのに目をつけて突破して鎌倉に雪崩れ込み、幕府は滅亡したのであった
鎌倉幕府の滅亡にまつわる不思議な話
134: 歴ネタななしさん
>>24
稲村ヶ崎は頼朝の時代は海が深くて渡れなかったが
鎌倉末期は寒冷化により海岸線が後退し干潮時は渡れるようになってたらしい
稲村ヶ崎は頼朝の時代は海が深くて渡れなかったが
鎌倉末期は寒冷化により海岸線が後退し干潮時は渡れるようになってたらしい
25: 歴ネタななしさん
小勢の千早城が落とせず幕府方には弱兵しかいないって印象が広まったことと
正成討伐資金のために富裕層に税をふっかけたことで新田の討幕軍が膨れ上がったんだっけ
正成討伐資金のために富裕層に税をふっかけたことで新田の討幕軍が膨れ上がったんだっけ
29: 歴ネタななしさん
>>25
ゲリラ親父大楠公やはり偉大。
援軍の当てなく立てこもって戦うとか正気の沙汰ではなかったんだろな
ゲリラ親父大楠公やはり偉大。
援軍の当てなく立てこもって戦うとか正気の沙汰ではなかったんだろな
46: 歴ネタななしさん
>>25
楠木正成は皇国史観の反動で過小評価されている
当時の武士の規模として楠木正成は小勢ではない
みんな南北朝時代や戦国時代を通じて領地を拡大したので
戦国時代の終わりでも近畿地方の大名(高山右近やら荒木村重やら筒井順慶やら)はみな領地が狭い
重要なのは、鎌倉幕府に属さない武士(悪党)がたくさんいて
鎌倉幕府の支配の及ぶ範囲は限られていたということ
楠木正成は皇国史観の反動で過小評価されている
当時の武士の規模として楠木正成は小勢ではない
みんな南北朝時代や戦国時代を通じて領地を拡大したので
戦国時代の終わりでも近畿地方の大名(高山右近やら荒木村重やら筒井順慶やら)はみな領地が狭い
重要なのは、鎌倉幕府に属さない武士(悪党)がたくさんいて
鎌倉幕府の支配の及ぶ範囲は限られていたということ
26: 歴ネタななしさん
新田は足利の家来として参加しただけ。家系が良かっただけ
30: 歴ネタななしさん
>>26
家来ではない。分家。
ある時に兄が新田を立ち上げ、弟が足利を継いだ
新田家が長く地位が低かったのは確か。
将軍のための幕府
↓
御家人のための幕府
↓
御内人のための幕府
ここで御家人たちに鎌倉幕府が倒された
家来ではない。分家。
ある時に兄が新田を立ち上げ、弟が足利を継いだ
新田家が長く地位が低かったのは確か。
将軍のための幕府
↓
御家人のための幕府
↓
御内人のための幕府
ここで御家人たちに鎌倉幕府が倒された
108: 歴ネタななしさん
>>30
新田も足利も、八幡太郎義家の子、義国の息子が興した家。新田が兄で足利が弟。
新田は別に足利の分家でも家来でもなかったのだが、源頼朝が挙兵した時、足利は積極的に協力したが、新田はプライドが高く頼朝の元に参じるのが遅かったため、鎌倉幕府で足利は重用され、新田は没落して足利家預かりみたいな身分に落ちてしまった、というのが真相。
新田も足利も、八幡太郎義家の子、義国の息子が興した家。新田が兄で足利が弟。
新田は別に足利の分家でも家来でもなかったのだが、源頼朝が挙兵した時、足利は積極的に協力したが、新田はプライドが高く頼朝の元に参じるのが遅かったため、鎌倉幕府で足利は重用され、新田は没落して足利家預かりみたいな身分に落ちてしまった、というのが真相。
28: 歴ネタななしさん
税金払えないのでヤケクソで挙兵したら源氏の名門が挙兵したと聞いて各地の武士が馳せ参じて大軍になって鎌倉陥落
33: 歴ネタななしさん
群馬県太田・新田の荘と世良田の東照宮のさびれ具合が良い感じなんだよな
いかにも三番手か四番手の義貞らしい扱いで
いかにも三番手か四番手の義貞らしい扱いで
36: 歴ネタななしさん
>>33
新田乃庄も寂れたな
新田乃庄も寂れたな
55: 歴ネタななしさん
>>33
太田市じゃなくて新田市にすればよかったのに
なんだかんだ言って鎌倉幕府を滅ぼした英雄なのに
太田市じゃなくて新田市にすればよかったのに
なんだかんだ言って鎌倉幕府を滅ぼした英雄なのに
64: 歴ネタななしさん
>>55
新田郡太田町が太田市になったんだよ
新田郡太田町が太田市になったんだよ
91: 歴ネタななしさん
>>33
その辺に徳川もあるんだよな
その辺に徳川もあるんだよな
96: 歴ネタななしさん
>>91
家康の得川末裔はデタラメで先祖は武士ですらない可能性が高い
たまたま三河松平を助けた事で養子入りして守護一色義貫が公方足利義教に誅殺されたのを契機に三河の乱を鎮圧し祖父清康の代で三河の戦国大名になった。
新田源氏とは縁もゆかりも無い
家康の得川末裔はデタラメで先祖は武士ですらない可能性が高い
たまたま三河松平を助けた事で養子入りして守護一色義貫が公方足利義教に誅殺されたのを契機に三河の乱を鎮圧し祖父清康の代で三河の戦国大名になった。
新田源氏とは縁もゆかりも無い
97: 歴ネタななしさん
>>96
源平交代論に乗っかっただけだな
かと言って織田信長は藤原北家の末で、平氏じゃなかったけど
源平交代論に乗っかっただけだな
かと言って織田信長は藤原北家の末で、平氏じゃなかったけど
35: 歴ネタななしさん
つか足利尊氏の人望が凄過ぎて鎌倉までの道中どんどん兵力が膨らんで行った
85: 歴ネタななしさん
>>35
清和源氏総本家が断絶してから足利家が清和源氏筆頭分家として実質清和源氏代表だったしな
北条氏がダメだとなると自然と当主の足利尊氏に期待が集まる
北条氏も実質清和源氏代表の足利家にはずっと気を使ってた
清和源氏総本家が断絶してから足利家が清和源氏筆頭分家として実質清和源氏代表だったしな
北条氏がダメだとなると自然と当主の足利尊氏に期待が集まる
北条氏も実質清和源氏代表の足利家にはずっと気を使ってた
107: 歴ネタななしさん
>>35
日本中にデカい大名いくつも作るほど気前の良い人だったからなあ
日本中にデカい大名いくつも作るほど気前の良い人だったからなあ
43: 歴ネタななしさん
日本の歴史って基本的に西日本が中心なのに何で鎌倉幕府は関東だったの?埼玉のおかげ?
44: 歴ネタななしさん
>>43
頼朝を助けたのが関東の武士団だったから
頼朝を助けたのが関東の武士団だったから
75: 歴ネタななしさん
>>43
埼玉ではなく千葉(と茨城)だろう
平家をぶっ潰すには、桓武平氏(千葉常胤と平広常)の力を借りるしかなかった
埼玉ではなく千葉(と茨城)だろう
平家をぶっ潰すには、桓武平氏(千葉常胤と平広常)の力を借りるしかなかった
51: 歴ネタななしさん
鎌倉炎上は大河屈指の神回。
53: 歴ネタななしさん
>>51
防衛戦からの高時以下北条家臣団の自決シーンは見事だった
防衛戦からの高時以下北条家臣団の自決シーンは見事だった
67: 歴ネタななしさん
でも義詮担がなきゃいけなかった時点で
74: 歴ネタななしさん
尊氏は西国で決起していて鎌倉幕府を直接滅ぼしたのは新田義貞の功績だが
尊氏のクソガキが総大将だったのでフラストレーションが溜まっていた
尊氏のクソガキが総大将だったのでフラストレーションが溜まっていた
86: 歴ネタななしさん
>>74
尊氏のクソガキを総大将に担がないと武士たちが集まってこないから仕方なかったな
新田義貞としてはそりゃフラストレーション溜まるわな。それを鎌倉幕府にぶつけたわけだ
尊氏のクソガキを総大将に担がないと武士たちが集まってこないから仕方なかったな
新田義貞としてはそりゃフラストレーション溜まるわな。それを鎌倉幕府にぶつけたわけだ
77: 歴ネタななしさん
親兄弟同族で殺し合うのが源氏で一族郎党結束するのが平家
北条はその平家の悪いところが出て一族郎党で利権がめつく独占しすぎたから恨み勝って滅ぼされた
鎌倉時代後期は守護の三分の二が北条一門だったからな
北条はその平家の悪いところが出て一族郎党で利権がめつく独占しすぎたから恨み勝って滅ぼされた
鎌倉時代後期は守護の三分の二が北条一門だったからな
78: 歴ネタななしさん
北条以外の連中から見たら
「乗るしかないこのビッグウェーブに!」
ってな感じだったんだろうな。
100年に1度あるかどうかの大波だぞw
「乗るしかないこのビッグウェーブに!」
ってな感じだったんだろうな。
100年に1度あるかどうかの大波だぞw
79: 歴ネタななしさん
伊勢氏「せや!知名度のある北条の名前パクったろ(^^)」
110: 歴ネタななしさん
>>79
伊勢氏「同じ平氏で大きく見れば同じ一族だから別にいいよね(^^)」
伊勢氏「同じ平氏で大きく見れば同じ一族だから別にいいよね(^^)」
83: 歴ネタななしさん
最後は
田んぼでスタックして
弓矢が頭部に突き刺さって絶命。
なんじゃこれ(´・ω・`)
田んぼでスタックして
弓矢が頭部に突き刺さって絶命。
なんじゃこれ(´・ω・`)
94: 歴ネタななしさん
>>83
義仲の最期と重なる
義仲の最期と重なる
126: 歴ネタななしさん
よく知らんけども2週間でやっつけられると思ったから
挙兵したんじゃないの
挙兵したんじゃないの
130: 歴ネタななしさん
>>126
全然違う
新田義貞の挙兵は今で言ったら破れかぶれ、という表現が正しい
戦略あってのものではないということ
時期が絶妙に味方をして鎌倉陥落までもっていけた
挙兵した日は京の六波羅探題が陥落した翌日
当然すぐにその報は関東に来ない
上野国境に来た時に味方が増えて数千、
利根川を越えるあたりで足利義詮(千寿丸)を庇護、合流して、
どんどん味方が増えていった
この間わずか1週間たらず
小手指原で勝つも分倍河原の緒戦は壊滅しかけた
ちょうどこの頃足利高氏による六波羅探題攻略の報が伝わり、
完全に形勢逆転
全然違う
新田義貞の挙兵は今で言ったら破れかぶれ、という表現が正しい
戦略あってのものではないということ
時期が絶妙に味方をして鎌倉陥落までもっていけた
挙兵した日は京の六波羅探題が陥落した翌日
当然すぐにその報は関東に来ない
上野国境に来た時に味方が増えて数千、
利根川を越えるあたりで足利義詮(千寿丸)を庇護、合流して、
どんどん味方が増えていった
この間わずか1週間たらず
小手指原で勝つも分倍河原の緒戦は壊滅しかけた
ちょうどこの頃足利高氏による六波羅探題攻略の報が伝わり、
完全に形勢逆転
132: 歴ネタななしさん
>>130
■倒幕の挙兵
1333年、後醍醐天皇の打倒鎌倉の綸旨(りんじ・・・天皇が発する命令書)を受け取った新田義貞は鎌倉を、足利尊氏は六波羅探題をそれぞれ攻め落とし、ここに鎌倉幕府は滅びました。
太平記によれば鎌倉幕府は相次ぐ反乱に備えるため、坂東六か国から軍勢、兵糧を徴収することにした。新田義貞には軍勢より6000貫の兵糧が割り当てられたため、その無理難題に怒った義貞はちょうど綸旨を受け取ったところでもあるので、挙兵に踏み切った、と記されています。
鎌倉幕府は新田・足利両氏の攻撃で滅びました。
■倒幕の挙兵
1333年、後醍醐天皇の打倒鎌倉の綸旨(りんじ・・・天皇が発する命令書)を受け取った新田義貞は鎌倉を、足利尊氏は六波羅探題をそれぞれ攻め落とし、ここに鎌倉幕府は滅びました。
太平記によれば鎌倉幕府は相次ぐ反乱に備えるため、坂東六か国から軍勢、兵糧を徴収することにした。新田義貞には軍勢より6000貫の兵糧が割り当てられたため、その無理難題に怒った義貞はちょうど綸旨を受け取ったところでもあるので、挙兵に踏み切った、と記されています。
鎌倉幕府は新田・足利両氏の攻撃で滅びました。
127: 歴ネタななしさん
新田義貞の新田氏は清和源氏分家第2位であって筆頭ではない
だから足利尊氏の息子を担いで戦力を集めて戦う羽目になった
蓮舫「2位じゃダメなんですか」
新田義貞「2位じゃダメだったよ…」
徳川家康は天下を取って、徳川家が足利家の次の幕府を開く決定的な正統性として新田義貞の子孫を名乗った
清和源氏分家筆頭の足利家がダメになったら次は分家2位の新田氏の出番という理屈だったのだろう
だから足利尊氏の息子を担いで戦力を集めて戦う羽目になった
蓮舫「2位じゃダメなんですか」
新田義貞「2位じゃダメだったよ…」
徳川家康は天下を取って、徳川家が足利家の次の幕府を開く決定的な正統性として新田義貞の子孫を名乗った
清和源氏分家筆頭の足利家がダメになったら次は分家2位の新田氏の出番という理屈だったのだろう
ネタ元: ・新田義貞か自身の氏神神社で挙兵してから鎌倉滅びるまで2週間かかっていないって早すぎだろ? [194767121]
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山﨑の戦い直前に似たような状況に置かれた秀吉は、そんな下手は打たなかった。
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