最多3021試合出場の土台となったもの 野球殿堂入りの谷繁元信氏

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 「谷繁を一人前にしてくれないか」

 1993年、横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)のバッテリーコーチに就任した大矢明彦氏(76)は、球団幹部から受けた「ミッション」を今も覚えている。

 谷繁とは、プロ野球史上最多の3021試合に出場し、18日に野球殿堂入りした谷繁元信氏(53)のことだ。

 島根・江の川高(現石見智翠館高)3年の夏、甲子園で活躍した。88年のドラフト1位で横浜の前身、大洋ホエールズに入団した谷繁氏は、1年目から1軍でマスクをかぶった。強肩の逸材だったが、攻守ともに伸び悩んでいた。

 大矢氏は、技術面よりも深刻な問題に気づいた。

 谷繁はベンチからも、投手陣からも、心から信頼されていないのではないか――。

 捕手は、投手のパートナーである一方、野手全体の動きを把握し、ベンチの意図をプレーに反映させる「扇の要」。現役時代、不断の努力と工夫でチームの信頼を勝ち取った経験がある大矢氏は、まず、高卒5年目の若い捕手に対する「不信」を取り除くことが先決だと考えた。

 簡単にいえば、アピール作戦だ。

 誰よりも早く球場に来て、誰よりも遅く帰宅する。そして、大事なことは、その練習風景を周りに見せること。

 試合前、投手陣がグラウンドに出てきてアップを始めるころ、谷繁氏はワンバウンドの捕球練習で汗まみれ、泥だらけになっていた。わざとその時間を狙った。「絶対に、投球は後ろにそらしませんよ」と。

 当時、「ハマの大魔神」として絶対の抑え投手として君臨していた佐々木主浩氏(55)が最終回に登板するとき、そこまでマスクをかぶってきた谷繁氏が、ほかの捕手に代えられることが多かった。後逸の危険性が高いフォークボールを武器にする佐々木氏は、捕手に対して妥協を許さなかった。

 そんなある日、大矢氏は佐々木氏に聞いた。

 「最後、シゲ(谷繁)でいってくれないか」

 「いいですよ」

 佐々木氏は快諾し、言った。

 「あれだけ練習していたんだから、そりゃあ、うまくなりますよね」

 5年目、初めて、谷繁氏の出場試合数が100を超えた(114試合)。

 アピール作戦は分かりやすく、そして成功した。大矢氏の思惑と谷繁氏の愚直な練習のたまものだった。

 自らのアイデアで、27年間、谷繁氏が現役捕手を続けられる土台を築いたのは、ここからだった。

 まず重視したのは「人間観察」と「状況判断」だ。

 球場内のロッカールームでは無関心を装いながら、チームメートの会話に耳を立てた。それぞれの性格を把握することで、例えば投手なら、ピンチでどんな声をかけるべきなのか、どんな投球を要求すればいいのか参考にした。

 球場への行き帰りも無駄にしない。車を運転しながら、どの道なら信号につかまらずにたどり着けるのか、毎回試した。

 ささいな「勝負」といえるが、これが勘を研ぎ澄ます訓練となった。

 言葉の引き出しを増やすため、さまざまなジャンルの本を読んだ。

 湯船の中で手首を鍛え、あまたのキャッチングやスローイング理論の中から自分に合う方法を考えて実践した。試合の配球すべてを記憶し、投球の組み立てと結果から、次の対戦への対策を立てた。

 横浜が38年ぶりにリーグ優勝、日本一を成し遂げた98年、通算1千試合出場を達成した。ベストナイン、ゴールデングラブ賞にも初めて選ばれた。チーム、個人ともに、一つの頂にたどり着いた瞬間だった。

 2002年、中日ドラゴンズへ移籍してから15年に引退するまでの14年間は、プロ野球選手としての第2章だ。

 落合博満監督のもと、4度のリーグ優勝を果たす「黄金期」の要となった。13年には、史上44人目となる通算2千安打を達成した。

 いつしか、捕手としての存在感は、球界随一となっていた。

 元同僚でもある横浜の選手たちがぼやいたという。

 「谷繁さんが打席の後ろにい…

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この記事を書いた人
山田佳毅
スポーツ部
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スポーツ