「たまご」は決めつけない トランスジェンダーが自身を語れる言葉は
Re:Ron連載「ことばをほどく」(第8回)
6月と言えばプライド月間だ。起源は1969年の6月にさかのぼる。
米ニューヨークにストーンウォール・インという現地でよく知られたゲイバーがあり、それまでにも警察はおとり捜査なども含めた不当と言えるやり方で、たびたびそこを捜査していた。そして6月、とうとう警察のそうした不当な捜査への反発が生じ、大きな反乱へと展開していく。これがLGBTQ+の人々の解放を求める運動へと続く流れのひとつとなり、それを記念する月間となっている。
日本では、プライド月間だからと言ってそれほど大きなイベントが開かれるわけでもないし、企業や政治家、その他の有名人がLGBTQ+の人権課題に関するコミットメントを表明することも多くは見られない。それどころか、いくつかのファッション・ブランドは、本国では大々的にプライド・コレクションを発表し、LGBTQ+支援団体への寄付を公言しているにもかかわらず、日本では「プライド・コレクション」という名前を慎重に伏せ、一部アイテムだけLGBTQ+との関係を隠した説明文とともに「可愛いレインボーカラーアイテム」として販売していたりする。反対にSNSなどで攻撃的な誤情報の拡散に精を出す人々はいつだって熱心にその運動に取り組んでいるし、もはや1年でもっとも「この国にとって自分の存在は否定すべきものなのだろう」と感じる1カ月でもある。
だからこそ、私は積極的にプライドグッズを身につけ、プログレスプライドフラッグをモチーフにしたネイルにして、全身で「ここにいます!」と意思表明をしていたりもする。
そんなわけで、プライド月間にはいろいろな複雑な気持ちを抱かされているのだが、他方でシスジェンダー/ヘテロセクシュアルのひと向けの啓発活動はだんだんと広まっているようにも見える。
以前だと「シスジェンダー」と書くのでは伝わらないから「トランスジェンダーではないひと」のような説明が必要だと言われることが多かったが、最近はそうした指摘をされることも減った。「ヘテロセクシュアル」は「異性愛者」と同義だが、こちらもほぼ必要がなくなっているように思う。トランスジェンダーを「心の性別」と「体の性別」というフレームで語ることの問題も最近は少しずつ意識されるようになり、「出生時に割り当てられた性別とジェンダー・アイデンティティーが食い違うこと」などの説明を見かけるようになっている。プライド月間のあいだも、新聞などでちらほら啓発記事を見るようになった。これは希望を与えてくれる変化だ。
ただ、言語哲学者として気になるのは、言葉の流通である。
「性別移行」はもっと広い
「出生時に割り当てられた性別」のような言い回しは、正確なところはわからないが、私の周囲を見ている限りでは、国内ではトランスジェンダーのコミュニティーでまず使われるようになり、そうしたコミュニティーに接しつつその外で執筆や発言の機会を持つ人々に採用され、次第により広くメディアで流通するようになりつつある、というものに見える。これはわりとスムーズな例だと思うが、他方でなかなか流通しない言葉もあれば、そもそもトランスジェンダーのコミュニティー内でも十分に言葉が醸成されていない事柄もあって、いまだにトランスジェンダーたちの経験を、多くのひとに理解可能で、かつその経験を矮小(わいしょう)化したりゆがめたりしないで済むかたちで語るというのは困難なままだ。
ニューヨーク大学の哲学者ミランダ・フリッカーは、ひとが知識の主体として持つ能力に向けてなされる不正義を「認識的不正義」と呼ぶ。
現在この概念は、女性やその他のマイノリティーが知識の共有や伝達において直面する壁を哲学者たちが記述・分析する際に、広く用いられるようになっている。フリッカーは認識的不正義の一種として、「解釈的不正義」という事象を取り上げている。社会全体で何かを理解しようとするときに、マイノリティー集団に属す人々はその共同的な営みから排除されることがある。それは、そのマイノリティー集団そのものへの理解こそが目指されている場合においても同様だ。こうした排除、ないし周縁化は「解釈的周縁化」と呼ばれるが、マイノリティー集団に属す人々が解釈的周縁化のゆえに自分自身の経験についての理解や伝達が妨げられるとき、解釈的不正義が生じていると言われる。
トランスジェンダーに関連して言うと、多くの場面でトランスジェンダーに関する解説も議論も、トランスジェンダー当事者がほとんど不在となっている状況でなされてきたように見える。これが解釈的周縁化だ。
結果的に、トランスジェンダーの人々自身の経験がどのようなもので、どういった言葉がそれにしっくりとくるかといったことは脇に置かれ、シスジェンダーの人々にとって「わかりやすく」(つまり、シスジェンダーの経験に類比的に理解できそうな)言葉が流通するようになった。「心の性別」「体の性別」のような言葉はそうしたものの一部ではないかと思う。最近、ようやくトランスジェンダーとしての経験を持っているひとが言葉の提案や流通の場に少しずつ関わるようになって状況が変わりつつある、というのが現状なのだろう。
ただ、いまでもやはりトランスジェンダーの経験を語るには使われているのに一般にはなかなか流通していない言葉や、確かに語れるようになるべきことがあるにもかかわらずトランスジェンダーのコミュニティー内でも必ずしも共有されるに至っていない何かといったものはたくさん残っている。今回は、そうしたいくつかの言葉を取り上げて、それを介して私が知っているトランスジェンダーたちの日常の語りに接近してみたい。
ただし、私が日常的に見ているトランスジェンダーのコミュニティーは、主に英語圏のオンラインコミュニティーであるという点は断っておきたい。現在、日本語ではトランスジェンダーに関してまともな情報を得ることも、トランスジェンダーの人々が安心できる会話の場を見つけることも非常に困難になっている。私は幸いに英語を読んだり書いたりするのに比較的抵抗がない方なので、より安心して楽しいおしゃべりができる場所として英語圏コミュニティーへと向かうようになった。
ともあれ、まずは日本語の、しかもちょっと勉強めいた話から。
最近、「トランジション」という言葉が通じなくて、途方に暮れたことがある。インタビューで「トランジション」と語った箇所が、確認のための原稿で「性転換」となっており、注釈で「現在では『性別適合手術』という言葉が使われるが、文脈上こちらが適していると判断した」という趣旨のことが書かれていた。
興味深いのは、私が言わんとしているのが「性別適合手術」という言葉で表される具体的な部位に関する外科的手術のことでないことは、ちゃんと伝わっていたらしいということだ。それでも「トランジション」という言葉が相手の語彙(ごい)になく、かろうじてすでに知っている言葉を再利用したときに出てきたのが「性転換」だったのだと思う。
「トランジション」という言葉は「性別移行」とも訳されるものであり、私の周りでは、特にトランスジェンダー同士のやり取りにおいてかなり頻繁に用いられる。おそらくシスジェンダーのひとのなかには、トランスジェンダーが「性別を移行する」と聞くと、「性別を変える」という話だと理解し、「要するに体を変える」ということなのだと認識するひとがいるのではないかと思う。
しかし、「性別移行」はもっと広範で、かつ長期にわたるプロセスを指す。その中には「新しい名前を使う」「周囲のひとに自分が生きようとする性別を打ち明け、関わりかたを変えてもらう」といった、社会的な移行のプロセスも含まれる。身体的な移行も含まれるが、それも脱毛や筋トレのようなシスジェンダーでも性別を問わずおこないうるようなものもあれば、豊胸や乳房の切除といったより踏み込んだ外科的な処置もあり、ホルモン治療のようなからだの内側へのアプローチもある。内性器や外性器に手を加える性別適合手術は、単にそうした身体的な移行のひとつに過ぎない。
多くのトランスジェンダーは性別移行を求めるし、そうした希望を語り合ったり、それぞれの移行状況を共有しあったりするが、その時に想定されるのはこのプロセスの全体であることがほとんどだ。法的な名前の変更を視野に入れながら少しずつ新しい名前で暮らし出しているといったことも、性別移行をめぐる重要な語りである。
語りにくくなっている
一般的に言って、この社会における性別は、「単に本人が宣言をすればその性別になれる」といったものではない。
周囲の人間や初めて出会う人間、単に街ですれ違う人間など、さまざまなひとがさまざまな文脈のもとでひとの性別を判断していて、トランスジェンダーは何よりも自分自身の側の工夫をするとともに(名前を変える、脱毛や筋トレをする……)、周囲への働きかけをおこない(職場で変更前の名前を使わないようにしてもらう、周囲のひとがこちらの性別を判断するに際して混乱を招きにくい格好を選んであげる……)、少しずつ、少しずつ、自分が生きる性別を変えていく。これは0から1へという話ではなく、「友達といるときは女性として生きているけど、職場では男性としてしか働けなくて……」といった割り切れない状況もときに生じる。
トランスジェンダーやノンバイナリーの人々に対してWHOなどの専門的な機関が推奨する 「ジェンダー肯定医療(gender-affirming care)」も、こうした総合的な性別移行のプロセスとの関係のもとで実践されていて、現在のトランスジェンダーやノンバイナリーの人々への医療的ケアをめぐる標準的な指針でも、社会的移行のサポートが重視されている 。身体的移行については、必要なひとが必要に応じて行うもので、特に未成年者の場合は時間をかけて慎重に判断された上で可逆的な処置が優先され、不可逆な外科的処置については成人年齢に達するまで行われないことになっている。
知識の濃淡はあれど、トランスジェンダーのコミュニティーの中で「性別移行」や「トランジション」といった言葉はこうした背景のもとで用いられており、それは「性転換」や「性別適合手術」とはかなり違う意味合いを持っている。そして、これは私たちの経験を語るうえで大事な言葉でもある。
けれど、トランスジェンダーのコミュニティーの外にはなかなか広まらない。結果として、私たちの経験は非常に語りにくくなってしまっている。
そんなもやもやを抱いたりもする私だが、他方で私自身も「この、これを表す言葉が見つからない」ともだえることがある。そのうちのひとつは「自分の子ども時代をどう語るか」だ。
三木那由他さんが描く、トランスジェンダーの経験を豊かに語る言葉たち。さらに、「たまご(egg)」「ジェンダー・ユーフォリア」と続きます。
いや、もちろん「子どものこ…
- 【視点】
多くの方に読んでいただきたいです。「たまご(egg)」や「ジェンダー・ユーフォリア(gender euphoria)」という言葉を初めて知りました。「たまごが割れる」「たまごだったころ」面白いですね。日本語にはないが英語でぴったりの表現を見
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