というよりも、潜在的にそれはずっとあるもので、様々な「気晴らし」によって覆い隠されているだけ。
人間社会をありのままに見てしまうと、
どいつもこいつも、あれもこれも…矛盾だらけの茶番劇が繰り広げられているわけで。
多くの人は、適当に茶番劇から目を逸らしつつ、自分にとっての「気晴らし」を支えに生き延びているように見えるけれど、時に茶番劇の渦中に入り夢中になることも「気晴らし」になってたりするものなのでしょう。
心地良い「気晴らし」に集中して生きる少数の人を羨ましく思うことがあり、
とんでもなく迷惑な茶番劇自体が「気晴らし」になっている少数の人を嫌悪することがあります。
私はどちらの少数派にもなったことはなく、ずっと平凡な多数派の立場に居たんだと思います。
でもいつのまに…そこからも外れてしまったのやら?
「気晴らし」だったはずのものが気を晴らしてくれなくなっているのです。
それでも、それを手放してしまえば恐いことになりそうだから、力の入らない手でも放さないようにして日々を生きています。
ささやかな仕事も丁寧さを心掛けて、
ささやかな楽しみも大切にして、
どれもこれも、もはや「ささやか」過ぎて手放してもいいと思っている自分であることを知っているけれど。
鬱々とした気分がずっと胸の辺り?胃の辺り?から完全に消える時がありません。
「そなたとそのものとは、もはや、離れられはせぬ。
それは、そなたの投げる、そなた自身の無知と傲慢の影なのだ。
影に名まえがあったかな?」
いつも重いもの…鬱々とした気分を抱えていると意識するようになって何年になるでしょうか。
もの?気分?
影!シャドウ!だったんだ~。
って、なんで今まで考えようとしなかったんだろう??
…って、すぐわかっちゃった。
手に負えないから、なのでした。
ユング心理学で習った「シャドウ(影)」とは、潜在意識の奥に追いやられた自分で否定・抑圧している自我のこと。
嫌って、遠ざけている自分の側面。
しかし・・・
最後にゲドが「影」と対立するとき、その姿が父親やヒスイやその他のゲドがそれまで会ってきたいろいろな人に見えるところがある。
つまり影は「無意識の全体」と言いたいほどの無限の存在なのだ。
ひえ~!ほんと、手に負えるわけない…
周囲の人の中に嫌いな側面を見ることがある…鏡の法則として、それは自分の影ということか…。
それが「無意識の全体」って、無限です、って~!
?! ?! ?!
なんと…たった今、ちょっとスッキリしました。
胃の辺りのモヤモヤが…凄い!消えて楽になりました。
そうか、「重いもの」「鬱々とした気分」、潜在意識からのメッセージだったんだ・・・って、それ以外ないはずなのに、なんで今まで考えようとしなかったんだろう??
基本、脳は(自我・エゴは)面倒臭がりなのでした。
意識的になれず(なろうとせず)無意識に、それこそ無意識に嫌って対立して(避けて)苦しんでたのか…。
気づいたから症状が消えた。
気づきのエネルギーの働きによって。
劇的だけど、ささやかな福音を得た、そんな気がします。