「ここが自宅です」 避難所から生まれた復興ツアー、躊躇の先の決意

有料記事with NOTO 能登の記者ノート

上田真由美
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 能登の被災地を歩いていると、地元の方たちから「いまのこの風景をちゃんと見て知ってほしい」と言われることがある。

 一方、東京にいる同僚や友人たちからは「きちんと見て知りたいけれど、いま行ったら迷惑になりそう」とも言われる。

 来て見てほしい、と即答するのは、ためらってしまう。

 道路はなんとか片側1車線というところがまだ多い。地震でできた段差もあちこちに残る。人がたくさん来たら一気に渋滞し、復旧作業の妨げになるのではないかと心配になる。

 それに、被災した方たちを自分自身に置き換えて想像すれば、生まれ育った家やふるさとが無残に壊されてしまったとき、その風景を「教訓」として見学されることを、受け入れることなんてできるだろうか。

 答えが出ない問いとわかりながらも、何かヒントがほしい。

 石川県珠洲市で被災者自らが企画した「復興支援ガイドツアー」が始まったと知り、参加を申し込んだ。

 7月下旬の午後1時半。

 集合場所は、珠洲市宝立町の海に面した公園の駐車場。

 着いたときには、照りつける日差しで気温が32度を超えていた。

 この日の客は、私1人。

 軽自動車からにこやかに降りてきた宮口智美さん(38)は、まず目の前の見附島(みつけじま)の説明をしてくれた。

 震災前、広い空と海の間に、先端がとがった白い島がすっと立つ姿は、奥能登の絶景を象徴し、珠洲市のシンボルのような存在でもあった。

 「横から見ると軍艦のような形で、『軍艦島』とも呼ばれていました。いまは、くずれたおにぎりのような形です」

 宮口さんは、地震前の見附島の姿をスマートフォンで示しながら、説明してくれる。

 「能登の珪藻土(けいそうど)は七輪で有名ですが、見附島も珪藻土。元々、もろかったんです」

 宮口さんが子どもの頃は砂浜で海水浴を楽しめたが、地震で海底が隆起して岩壁ができてしまったこと。目の前の旅館「のとじ荘」はガラス張りのオーシャンビューが売りだったが、そのガラスを津波が突き破って1階に入り込み、いまは2階が復旧にあたる作業員たちの宿になっていること。

 一つ一つ現場を指し示しながら話す宮口さんの言葉は、とても等身大だ。

 津波の被害を受けたあたりを一緒に歩く。

 「個人を特定できるところは撮影していただかない方がいいですが、がれきを撮って伝えていただくのも復興につながると思っています」と、宮口さんは言う。

 地面を突き破り、大人の背丈ほどの高さになったマンホール。

 建物が壊れ、続けられなくなってしまった民宿。

 骨組みだけになった倉庫には、海藻がひっかかっている。この倉庫には、地域の宝でもある、お祭りで担ぐ巨大な灯籠(とうろう)「キリコ」が収められていた。5基のキリコすべてが津波にさらわれ、いまも見つかっていない。

 噴き出す汗を拭いながら、一緒に歩き、一つ一つ、説明を聞いていく。

 「ここが、自宅です」

 宮口さんがちょっと照れくさ…

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この記事を書いた人
上田真由美
金沢総局|能登駐在
専門・関心分野
民主主義、人口減少、日記など市井の記録を残す営み
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