更地に茂る高い草 「公費解体1件」の背景にある、めまいのする重み
必ず通ることにしている道がある。
その前を通ると、心臓がぎゅっと締め付けられるような気がする。
それでも、能登の被災地を取材する以上、ちゃんと見続けたい、と思う。
石川県穴水町。奥能登の玄関口でもあるこの町の目抜き通りにある、穴水商店街。その一角で、そこは、いまは更地になっている。
最初に通ったのは、4月。
震災から3カ月以上たっても「発災直後から風景が変わらない」と言われるのは、被災した建物を自治体が取り壊す「公費解体」が進んでいないからではないか。だとしたら、どんな原因があるのか――。そんな問題意識から、同僚たちと手分けして取材を始めた。
まずは現場を見ようと、すでに公費解体が始まっていた穴水町を歩いてみた。中心市街地の数カ所で、建物が取り壊されていた。
そのうちの1軒が、その場所だ。
2階建ての建物をショベルカーが崩していく様子を、高齢の女性とその娘が、じっと見つめていた。
4月とはいえ、日差しはもう強くなり始めていた。
解体で土ぼこりが舞わないように、解体業者の作業員がホースで水をかける。黒い瓦屋根にショベルカーがゆっくりとアームをのばし、崩す。瓦が落ち、家の形が崩れ、木片になっていく。
作業が一段落すると、ショベルカーを操っていた作業員の男性が、作業を見守っていた女性たちに近づき、解体中に見つけて大切に保管していた10個ほどのビニール包みの袋を、「今日は、これ」と慣れた手つきで渡した。
袋は、一つ一つパッケージされた新品の男性下着。「VALこばやし」と書かれたシールが貼られている。
女性(80)は私に、「お父さんが亡くなってるから、助けられるもんは助けたくてね。みなさんに支えられて、こんだけもってきたお店やから」と教えてくれた。
元日、集合の1時間前に
この場所は「バル・こばやし」という衣料品店だった。明治23(1890)年、呉服屋として創業した。
女性の夫、4代目店主の小林洋一さんは、あの元日、すぐそばの自宅の倒壊に巻き込まれ、亡くなった。82歳だった。
女性も娘も同じ家にいたが、間一髪で助かった。1時間後には、ほかの家族も孫たちもみんながその家に集まって、一緒にお正月の食事を囲むはずだった。「お父さんが全部抱えてくれて、助かった」。そう思うようにした。
女性が少しずつ話してくれるのを聞いて、どんな言葉を返せばいいのかわからなかった。しばらく一緒に、解体作業を眺めた。
次の取材予定の時間が迫って立ち去るときも、「暑いから日陰にいてくださいね」と、まぬけなことしか言えなかった。
帰りの車を運転しながら思った。「公費解体がまだ○○件しか進んでいない」「1軒の解体になぜ1週間も10日もかかるのか」というのは簡単だ。でも、崩されていく建物の中から救い出すあの一つ一つの新品のグンゼの下着に、この1軒1軒に、ほんの数時間見ていただけでも想像しきれず、目眩(めまい)がするような背景がある。
解体作業員の話では、翌日か翌々日にはあの建物はすっかりなくなり、1週間もすれば基礎も含めて解体作業は終わり、更地になるということだった。
2週間余りたった5月、自分なりの勇気をふりしぼって、あの場所に向かった。
建物は跡形もなくなり、きれいな更地になっていた。掘り返されたような湿った土の色が新鮮で、草も生えていなかった。
その日の日記をめくると、「心臓の裏からぐわっと何かこみあげてくるような、ぐらぐらする感覚」「単なる数字ではない」と殴り書きしている。
「にぎわいテント市」のチラシに
8月。あの更地には、草が生えていた。ひざより上くらいの背の高い草が方々に生えていることに、あれから3カ月という時間の経過を感じた。
ちょうどそのころ、穴水町商…
- 上田真由美
- 金沢総局|能登駐在
- 専門・関心分野
- 民主主義、人口減少、日記など市井の記録を残す営み