740: 2016/02/21(日) 16:57:16.45 ID:clH3fxGvo

最初:屋上に昇って【その1】
前回:
屋上に昇って【その7】
◇[Moor]


「不自然なところがいくつかあるよな」

 鷹島スクイは、昼休みの東校舎の屋上で、煙草を吸いながら、そう呟いた。

「高森蒔絵のことが原因かどうかはさておき……話を総合すると、嵯峨野連理が嘉山孝之に暴力を振るうようになったのは五月の終わり頃だ」

 スクイはそこで言葉をくぎって、俺の顔を見た。俺は何か返事をするべきかどうかを考えて、考えるのがばからしくなる。

「部誌の発行は六月の半ばだった。焼却炉での騒動が起こったのは配布の一週間前だ。単純に考えて、六月上旬ってことになる」

 一週間から、長くても二週間。

 嵯峨野連理が暴力を振るうようになり、及川ひよりがそれに気付き、告発文を書き、どちらかがそれを燃やすまでの期間。

「早すぎる。暴力に気付くまではともかく、そんなタイミングで、告発文なんて回りくどい手段を真っ先に採用するか?」

「及川ひよりが、嘘をついてるってこと?」

「どうかな」

「……他の、不自然なところって?」

「今も言ったが、告発文だな。話の内容が内容だ。手段として間違ってるだろ。誰かの目に止まったとしても、悪ふざけにしか見えない」

「……」

「告発したのが、嘉山孝之ではなく及川ひよりだっていうのも、変だ。なぜ及川ひよりがそんなことをする?
 幼馴染だから? 友人だから? でも、嘉山はそれを公にされることを望んでいたのか?」

「……」

 俺は黙りこむ。

ふらいんぐうぃっち(12) (週刊少年マガジンコミックス)
741: 2016/02/21(日) 16:57:43.43 ID:clH3fxGvo

「処分の方法も妙だ。もしその内容が不都合なものだったからという理由で処分したなら、どうして部誌を燃やしたりする?」

「……」

「原稿のデータを消す。印刷された部誌を処分する。だったら持ち帰って捨てちまえばいい。
 誇示するように焼却炉で燃やしたのもおかしいし、問題部分は燃えていたにしても、全部燃やしてしまわない理由も分からない」

「……」

「何か、隠してるのは間違いないだろうな」

 及川ひよりは、嵯峨野先輩の妹のことについて、あっさりと俺たちに話した。
 普通なら、話すのを躊躇しそうなものだ。内容が内容だけに、簡単に誰にでも話すようなことではない。

 すべてを疑うわけではない。
 でも、あそこまで饒舌だったのは、何かを隠すためだったのかもしれない。

「……だったとして」とスクイは続けた。

「それを知ろうとしたところで、何もできやしないけどな」

 たしかに、と俺は頷く。


742: 2016/02/21(日) 16:58:20.24 ID:clH3fxGvo

「難儀な奴だな、おまえも」

 鷹島スクイは、そう言って煙草に火をつける。

「おまえには関係のない話だ。気にしても仕方ない、無関係の出来事だ。
 頭を悩ませて、及川にカマをかけてまで、どうしてそんなことを知ろうとした?
 結果はどうだった? 気分が悪くなるだけだっただろ。及川ひよりのせいでもない。高森蒔絵のせいでもない」

 おまえのせいさ、とスクイは言った。

「おまえが知ろうとしたから、そんなことになったのさ」

 俺は否定できない。

「関係ないのさ、本当は」

 俺たちには、ぜんぜん、ちっとも、これっぽっちも、関係ないんだ。

 俺は溜め息をつく。

743: 2016/02/21(日) 16:59:04.53 ID:clH3fxGvo

「……教えてやるよ」

 煙を吐き出しながら、スクイは言う。

「本当は知ってるんだ、俺は。嵯峨野連理が、嘉山孝之を憎む理由。
 燃やされた部誌の、問題の原稿の内容も。俺は、それを読んだんだ。
 ……燃やした犯人だって、俺は知ってる」

「……え?」

「告発文なんかじゃない。嵯峨野連理の暴力についてなんか、一言も書かれてない。
 及川ひよりの文章は、おそらく、嵯峨野連理と、嘉山孝之にしか伝わらないように書かれていた」

「知りたいか?」と鷹島スクイは言う。

 知ってしまったら、戻れないとしても?



744: 2016/02/21(日) 16:59:53.19 ID:clH3fxGvo




 風が吹く。
 煙に巻かれて、スクイの姿はいつのまにか消えていた。

 いつもそうだ。
 
 いつのまにか現れて、いつのまにかいなくなっている。
 偏在する風みたいに。

 示し合わせたみたいに、鳥の影が落ちる。

 扉の開く音がした。

 嘉山孝之が、そこに立っていた。

 どこか透徹した瞳、何かを諦めたような表情。
 礫岩を思わせた。
 
 削られ、侵食され、角を失っていったような、不思議な印象。
 
 彼は鼻をスンと一度鳴らして顔をしかめると、

「煙草の匂いがする」

 と静かに呟いた。

 それから俺をまっすぐに見据えて、

「はじめまして。浅月拓海」

 笑いもせずに、俺をまっすぐに見据え、そう言った。
 
「はじめまして。嘉山孝之」

 俺もまた、それに答えた。

 嘉山はかすかに笑う。


745: 2016/02/21(日) 17:01:08.65 ID:clH3fxGvo

「俺を知っているんだな」

 嘉山は、そう言った。俺は頷いた。

「視聴覚室?」

「そうだな」

「そっちも俺を知っているみたいだ。視聴覚室ってわけでも、ないんだろ?」

 嘉山もまた、頷いた。

「……不思議な奴だな、おまえは」

 そう声を掛けると、嘉山は鼻で笑う。
 べつに、問い詰めようと思ったわけじゃない。でも、疑問は口から、自然と溢れだしていた。

「嵯峨野連理に本当のことを話さないのは、やさしさのつもりなのか?」

 余裕ぶった表情に、少し違う気配が混ざる。
 含まれているのは驚きと、
 予感が確信に変わったような、不自然な動揺。

「豪雨の日の河川敷で、嵯峨野葉羽とおまえは一緒にいた。嵯峨野葉羽は濁流に呑まれて氏んだ。
 彼女は、氾濫しそうな川辺りに近づいたおまえを止めようとして、流された。それで合ってるか?」


746: 2016/02/21(日) 17:01:37.45 ID:clH3fxGvo

「踏み込んでくるね、浅月くん」

「……及川ひよりと、俺は同意見だな。どうして、嵯峨野を庇う?」

「……」

「おまえが理由もなく川に近付いた。そういうことに、おまえはした。
 でも違うんだろ? 嵯峨野葉羽は探しものをしてたんだ。嵯峨野連理からの贈り物だった腕時計だ。
 なくすことをおそれて、嵯峨野葉羽は落とした腕時計を探していたんだ。そうだろ?」

 嘉山は静かに笑った。礫岩のような笑み。棘も毒もない。

「どうして、自分のせいってことにした? 俺にもまったく、理解できない。
 嵯峨野連理に憎まれてまで、どうしてあいつに本当のことを隠したんだ?」

「……今となっては、俺にだって分からないよ」

 嘉山はまた笑った。

「高森蒔絵の顔を見て、びっくりした。連理兄も動揺したんだろうな。いまさらまた俺を責めはじめた。
 あんまり酷い言い草だったもんだから、ひよりもさすがに、連理兄に本当のことを教えようとした。
 そういう結果が、例の騒動の……半分だ」

 半分、と、嘉山は言う。

「でも、今日話したいのは別のことなんだ」

「……話したい? それは、俺とか?」

「ああ。どうしておまえは――『それ』を知ってるんだ?」

 一瞬答えに窮した俺に、嘉山は言葉を続ける。


747: 2016/02/21(日) 17:02:34.50 ID:clH3fxGvo

「なあ浅月。現第一文芸部の部員に、鷹島スクイという男子生徒がいるのを知ってるか?」

 俺は、
 なぜだろう、少し驚いてから、

「……知ってる」

 と、そう答えた。

「どうして知ってる?」

「どうして、って」

「誰も見たことがないんだ」と嘉山は言った。

「部誌を作る時期になると、いつのまにかそいつの名前で原稿が提出されている。
 でも、普段そんな奴が部室に来たことはないし、名簿を見ても、そんな名前の奴はいない。
 きっと、名前を知られたくない奴が筆名を使ってるんだと、気付いた奴らはそう思ってた」

「……『思ってた』?」

「該当者がいないんだ。部誌を出すごとに、毎回何人か原稿を書かない奴はいるが、
 全部の時期を見てみると、一応全員が、バラバラにではあるけど、提出してるんだ。
 鷹島スクイは去年の春以降、ずっと原稿を提出してる。二本、名義を分けて提出してる可能性もないではない。
 でも、どうしてそんな名前なんて使う?」

「……」

「『鷹島スクイとは、誰か?』」

 なんだ、こいつは。
 どうして俺は、こんな話を今、されているんだ?


748: 2016/02/21(日) 17:03:01.27 ID:clH3fxGvo

「鷹島スクイの小説には、いつも屋上が登場する。屋上と煙草と飛び降り自殺。
 虚無的で厭世的な言葉の羅列。あれは、ほとんど呪詛だ」

「……」

「ずっと気になってたんだよ。そんな文章を書く奴が、いったい誰なのか。
 あんな内容だったら、たしかに本名をさらしたくないのは納得がいく。
 べつにたいした理由があったわけじゃない。誰にも言ってなかったけど、俺はそいつが誰なのか、ずっと調べてた」

 鷹島スクイとは、誰か?
 鷹島スクイは、鷹島スクイだ。

 他の誰かじゃありえない。

「屋上によく出入りしている生徒を調べた。本校舎の方じゃない。スクイの小説に登場する屋上は、あっちじゃない。
 こっちだ。東校舎の屋上が、明らかにモデルになってる」

「……」

「ここで煙草を吸ってる奴がいるって噂、浅月は知ってるか?」

「……聞いたことはあるな」

「部誌の第一稿のデータを消したのは俺だ。ひよりは、葉羽が氏んだ理由を、連理兄に明かそうとした。
 俺はそれを止めたかった。でも、部誌を燃やしたのは俺じゃない。あれは、俺が処分するまえに、部室からなくなってたんだ」

「……」

「焼却炉は以前から使用不可になっていた。火を持ってる奴じゃないと、燃やすなんてことはできない」

「……」

「火なんて誰でも用意できる。ライターだろうがマッチだろうがその辺で売ってるし、誰にでも手に入れられる。
 わざわざ部誌を燃やすために火を用意するっていう不自然さを棚上げするならな」

「……」

「犯人はたぶん、文芸部の関係者だろ。あいつらは基本的に真面目な奴らばかりだから、火も使わないし、煙草も吸わない。
 心当たりがあるとすれば……ひとりだけ。鷹島スクイだけだ」


749: 2016/02/21(日) 17:03:39.91 ID:clH3fxGvo

 嘉山は、また笑った。

「……奇妙な名前だよな。鷹島スクイ。つじつま合わせみたいだ」

「鷹島 スクイ」と、彼はずっと前、俺に名乗った。

 ――変な名前。

 ――俺のせいじゃない。

 ――親のせい?

 ――いや、おまえのせいさ。

「なあ浅月……制服の内ポケット、膨らんでないか?」

「……」

「――煙草じゃないのか、それ?」

 ―― 不安ならページをめくらなければいい。その先に何があるのかなんて誰にも分からないんだから。
 ―― ひょっとしたら、知ってしまったら後悔することになるのかも。何もかも、台無しになってしまうかも。
 ―― それでもどうしても"つづき"が知りたいなら、"その後"を知りたいなら、それなりの覚悟をしなきゃいけないよね。


750: 2016/02/21(日) 17:04:49.95 ID:clH3fxGvo

 俺は、

 右手をあげて、左胸の内ポケットのあたりに触れる。
 かすかに硬い感触。

 覚えは――ない。

 鷹島スクイ。
 タカジマスクイ
 takazimasukui

 ――アナグラムってなんですか?

 ――暗号みたいな奴だよ、文字入れ替えて別の文つくったりする奴。

 ――よくあるんだよな。ある人物の名前を入れ替えると別の言葉になったりするの。あとは別の名前になったり。

 takazimasukui
  a azi s ku
 t k ma u i

 ―― 一作目のテーマはね、"とにかく楽しい"だった。それを実現するために、わたし、どうしたと思う?

 ――"覆い隠した"んだよ。

「――はじめまして、だな。鷹島スクイ。部誌を燃やしたのは、おまえなのか?」


759: 2016/02/28(日) 20:48:47.88 ID:YoF9tIJYo



 ――カメラのシャッター音が聞こえた。

 直前まで居た場所を引き剥がされたあと、奇妙な浮遊感とともに運ばれ、地面に叩きつけられた、ような、錯覚。
 そんな目覚め。

 瞼を、開きたくない、と思った、のに、開いてしまった。
 
 俺は、硬いコンクリートの上に寝そべって、空を仰いで寝そべっていた。
 七月の青空は高く澄んでいて、俺はいろいろなことを忘れてしまいそうになる。

 ――どうして捨てたの?

 いや、違う、逆だ。
 忘れていたことを、思い出しそうになったんだ。

 ――他にどうしようがあった?

「起きました? せんぱい」

 声の方に、目を向ける。動かしたのは、肩かもしれないし、首かもしれないし、目かもしれない。
 小鳥遊こさちが、こっちを見て笑っていた。
 
 真昼の太陽を浴びて、彼女の髪は白い光をまとって透けている。

 空に近い場所なのに、妙に暗い。そう思ってふとあたりを見ると、給水塔の影に入り込んでいた。
 いつのまに、こんな場所に来たのだろう。

「はやく起きてください。こんな機会、なかなかないんですから」

 言われるままに、俺は体を起こす。
 妙な倦怠感、虚脱感。

 給水塔のスペース、梯子を昇った先、屋上の、さらに上。


760: 2016/02/28(日) 20:49:23.60 ID:YoF9tIJYo

 見下ろす屋上には、嘉山孝之と、鷹島スクイが立っていた。

「逆にひとつ、訊ねたいことがあるんだ」

 と、スクイは言う。

「訊ねたいこと?」

 嘉山は、怪訝そうに眉をひそめる。

 ふたりのやりとりを、俺は見下ろしている。

 この、不自然な視座。
 自分の立ち位置に対する違和感。

 現実と結びついていないような浮遊感。
 身体から切り離されたような、欠落感。

「残念ながら、こさちは性格があんまりよろしくないので、分かりやすい解説なんてしてあげないです」

 そう言って、彼女は携帯をポケットにしまう。さっきのシャッター音は、どうやらまたこれだったらしい。

「……どうなってるんだよ。俺、さっきまで嘉山の前に」

「そ、ですね」


761: 2016/02/28(日) 20:50:11.69 ID:YoF9tIJYo

「スクイはいつのまに戻ってきたんだ? どうしてあいつがあそこにいる」

「不思議ですね」

「こさちは、いつからここにいた?」

「こさちは、いつでもせんぱいを見守っているのですよ」

「……」

「なぜならこさちは、せんぱいの守護霊だからです。あ、うそです」

「……せめて信じるか疑うかの反応をうかがってから否定してくれ」

「ちょっとは和みました?」

「うざい」

「あは、案外平気そうですね」

 こさちはからから笑う。


762: 2016/02/28(日) 20:51:32.75 ID:YoF9tIJYo

 そんな俺達の声がまるで聞こえないみたいに――聞こえていないのだろうか――下のふたりは、話を続ける。

「部誌を燃やしたのは、おまえじゃない。だったら、どうして犯人だと名乗り出るような真似をした?」

「本当にわからないのか?」

「ただの確認だよ」

「……タチが悪いな」

「そういう役割なんだ」

「……おまえたちが、部誌が燃やされた理由を、調べようとしたからだ」

 部誌。……そうだ。部誌を燃やしたのは、スクイだったかもしれない。嘉山はそう言っていたんだ。
 どうして忘れていたんだろう。どうしてスクイが、部誌を燃やしたりするんだ?

「ありゃ、やっぱそうなっちゃってましたか」

 こさちが俺の顔を見てそう呟いた。

「なに?」

 首をかしげると、彼女は「なんでもないです」と顔の前で手を振った。


763: 2016/02/28(日) 20:52:23.30 ID:YoF9tIJYo

「ところでせんぱい、こさちがひとつお話をしてあげましょう」

「……なに」

「分離脳って言葉をご存知です? 左右の脳をつなぐ脳梁って奴をズパッと切っちゃうやつです」

「はあ」

「まあ、ちょろっと知ったかぶりしたいだけの知識なんで、詳しくは知らんですけど、てんかんとかの治療に行われたりするらしいですね」

「実際に行われてるの?」

「そんなん知りませんよ。こさちは神様ですか?」

「……」

「あ、神様じゃないですよ。神様じゃないです」

「どうでもいいよ」

「ま、そんなこんなで、脳をまっぷたつにしちゃうわけです。どうなると思いますか?」

「どうなるって……」

「……」

「どうなるの?」

「素直でよろしいですね。分離脳になっちゃうと、たとえば左目で見た絵に描かれているものがなんなのか、答えることができなくなります」

「なんで?」

「めんどくさいんであとでウィキペディア見てください。言葉とかそこらへんを司ってるのが右脳なんじゃないんですか」

「いや、言語はたしか左脳だし……ていうかそもそも左目とか右目じゃなくて、両目の右視野と左視野で分かれてるんじゃ……」

「じゃあそれでいいです! どうでもいいんで水差さないでください!」

 どうでもよくはないと思うし、あんまりな付け焼き刃だとも思う。



764: 2016/02/28(日) 20:53:06.07 ID:YoF9tIJYo

「それで、いいですか。分離脳の人の左目に「立ち上がれ」と書いた紙を見せるとですね……」

「左視野な」

「うるさい人ですね! 本が間違ってたんです! どうなると思います?」

「立ち上がるんだろ」

「そう! それで……」

「『どうして立ち上がったのか』と訊ねても、『紙で命じられたから』とは言わない」

「……知ってたんですか。なかなかに性格悪いですね」

「作話だろ。それらしい理由を、脳は勝手にでっちあげる。本人はそれが真実だと思い込む」

「そうです。なので、気付いたら突然さっきまでと別の場所にいても、人間の脳は合理的な理由をでっちあげるのかもしれないですよね」

「……」

「『夢でも見てたんだな』、みたいな」

「……で?」

「なんでもないですよ。なんでもないです。せんぱいのこと嫌いになってきました」


765: 2016/02/28(日) 20:53:56.66 ID:YoF9tIJYo

「……何が言いたいんだよ」

「認識も記憶も、けっきょくのところ、事後的なつくりものなのかもしれないですよね」

「……」

 何が言いたいのか、さっぱり分からない。

 嘉山とスクイの話は続いている。

「おまえたちが……第二の奴らが、部誌を燃やした犯人を調べ始めた。佐伯と、林田。
 データは処分できたけど、部誌を燃やしたのは俺じゃない。もし燃やした奴が、ひよりの書いた原稿部分を切り取って燃やしてたら……。
 もちろんそんなことをする理由はないけど、何かの拍子で、連理兄の目にもとまるかもしれない。それは避けたかった」

「火消しってわけか」

「まあ、そうだな」

「なるほどね……そのせいで、第一の連中に疎まれるはめになってまで、わざわざ」

「……」

 鷹島スクイは、制服の内ポケットから煙草を取り出して、火をつけた。
 嘲るように笑う。
 
 嘉山は挑発的な態度を取り合わず、質問を繰り返す。

「それで……部誌を燃やしたのは、おまえか?」

 鷹島スクイは、それがまるで、たいしたことではないというふうに、

「そうだよ」

 と肯定した。

 俺は、その言葉に烈しいショックを受けた。
 なぜかは分からない。だってスクイは、関係がないと言っていたのだ。

 俺たちには関係のないことだと、俺にはそう言っていたのだ。


766: 2016/02/28(日) 20:54:25.47 ID:YoF9tIJYo

「……どうして、そんなことをした?」

「どうしてだろうな?」

「……」

「知りたいか?」

 スクイのその言葉を聞いて、俺はまた何かを思い出しそうになる。
 ……逆かもしれない、何かを忘れようとしているのかもしれない。

「せんぱい、ジュリアン・バーンズの『終わりの感覚』は読んだんでしたよね?」

「……また、話題の変化が唐突だな、おまえ」

「おまえじゃないです。こさち、です」

 ふてくされたみたいに、こさちはそっぽを向く。結ばれた後ろ髪が子猫みたいに揺れ跳ねた。

「どんな話だか、覚えてます?」

「……記憶の話だったと思う。それが?」

「でしたね。べつになんでもないです」

「……なんなんだよ、おまえ」

 俺たちの会話なんて存在しないみたいに、ふたりの会話は続いている。
 映画の観客にでもなった気分だった。自分の発言や行為が、まったく現実に影響を与えていないような、感覚。


767: 2016/02/28(日) 20:55:17.68 ID:YoF9tIJYo

「残念だけど、口止めされてるんだよな」

 スクイは、そう呟いた。嘉山は、苛立ったようにスクイに詰め寄る。

「誰に?」

「知ったところで、意味なんてないと思うよ。おまえや及川には、関係のない相手かもしれない。  
 そいつが何の関係もなく、部誌を燃やしたい理由があったのかもしれない。
 なんなら、俺が『ストレス解消に燃やしました』ってことにしてもいい」

「……いいから言えよ」

 嘉山の声は低く震えた。

「関係ないなんてわけ、あるかよ。なんで燃やした。誰が、口止めなんかするんだ?」

 嘉山の腹立たしそうな声を、スクイはあっさり受け流して、

「心当たりがあるから、問い詰めるんだろ?」

 そう言って笑う。

「スクイはホント、性格が悪いですねえ」

「ホントにな」

「他人事みたいに言いますね?」

 こさちは俺の肩をぱしぱし叩いた。


768: 2016/02/28(日) 20:55:50.41 ID:YoF9tIJYo

「……連理兄か?」

 嘉山は、震える声で、スクイに訊ねる。
 スクイは肯定も否定もしない。

「連理兄は、あれを読んだのか?」

「……さあ?」

「答えろよ」

「……何か勘違いしてないか、おまえ。部誌を燃やしたのは、おまえってことになってる。なにせ自白したんだからな。
 いまさら俺がやったなんて言っても、誰も信じない。仮におまえが俺を告発したところで、俺はぜんぜん、困らない。
 おまえは優位者じゃないんだ。おまえの問いに親切に答えてやる義理が、俺にあるか?」

「……」

 嘉山は黙りこむ。

「スクイは悪役が似合いますね」とこさちは言う。

「……悪役」

 その言葉に、ちくりと胸が痛む。
 

769: 2016/02/28(日) 20:56:56.69 ID:YoF9tIJYo

「しいていうなら」とスクイは言う。

「手段は指定されなかった。だから燃やした」

「……『指定』。頼まれて、燃やしたのか」

「オイディプス王がどうして盲いたかを知ってるか?」

「……何?」

「……本当のことなんて知ってどうする? 知ったらろくでもないことなのかもしれないぜ。
 いいんじゃないのか、おまえの行動には理由があって、俺の行動はそれとは関係ない。それでいいだろ」

「いいから答えろ!」

「そんなに心配なら、嵯峨野連理に直接訊けばいい」

「……」

「答えてくれるかもしれない」

 俺はなんとなく、怖くなる。 
 鷹島スクイ。怪物のようだと、ぼんやり思う。這いうねる影のように、ゆっくりと首筋に手を伸ばし、静かに締めていく、そんな。

「嘉山、勘違いするなよ。俺はおまえのことなんて、どうでもいいんだ」

「……」

「俺はおまえのことなんてどうでもいい。だから本当は、教えてやってもいい。
 約束はしているが、知らずにいるのも哀れな気もするし、知ってしまうのも哀れな気もする。
 だからいくつかヒントはやった。あとはおまえ次第だろ。知ろうとするのも、知らずにいるのも勝手だ。
 どうしても気になるなら、心当たりに訊いてみろよ。あたりかはずれか、話してもらえるかどうかは、俺の知ったことじゃない」

 嘉山はしばらく黙りこんだまま俯いて、じっと何かを考えているようだった。

 それから静かに踵を返し、屋上を去っていく。

 扉を出る瞬間、わずかに立ち止まって、

「俺は、おまえが嫌いだ」

 と、そう呟く。俺は不思議と傷ついた。


770: 2016/02/28(日) 20:57:23.88 ID:YoF9tIJYo

「……こさち、前に『あれはあれでいいやつ』って言ってたっけか?」

「今のやりとりを見ると、前言撤回したくなりますね。さすがに好き放題です」

「……敵に回したくはないな」

「でもま、スクイにもいいところはあるんですよ。定期テストを真面目に受けてたときは、ちょっと笑っちゃいましたけど」

「……定期テスト?」

 ほら、と言って、こさちは携帯を俺に差し出してくる。
 画面に映っているのは、教室だ。生徒たちが席について、机にかじりついている。
 問題用紙と答案用紙。いつかの、試験の写真。

「こんなのどうやって撮ったんだよ」

「そんなの、気にしたってしゃーないです。ほら、ここ」

 といって、こさちは画面に映っている生徒の一人を指す。
 それは、俺の姿だった。

「……これが、なに」

「記憶にありますか?」

「……記憶にもなにも」

 ――六月に部誌出すっていったって、もう再来週には定期テストが始まるわけじゃない?

「……」

 ……定期テスト?
 俺は……受けたか?

 いや、思い出せないだけで、受けたんだろう、きっと。どうして覚えていないかはわからないけど。


771: 2016/02/28(日) 20:57:54.41 ID:YoF9tIJYo

 ――浅月、聞いてる?

 ――ついさっきまで話してたでしょ。なんで急にわかんなくなるの?
 ――上の空って感じじゃなかったし……まあ、いいんだけど。

「……」

「とはいえ、そういうことが起きるようになったからこそ、こういう事態になったんでしょうけどね」

「……何を言ってるんだ? もっと分かりやすく言ってくれないか」

「べつに、無理して分かる必要もないと思いますよ? それでもべつに、生きてはいけますし」

「……」

「でも、そうですね。スクイも、悪い奴じゃないってだけで、良い奴じゃないかもです」

 ほら、とこさちは新しい画像を俺に差し出す。

 写っていたのは、コンビニの店内だ。カウンターに立っているのは、俺のように見える。

「そりゃ、そうですよね。年齢確認で身分証の提示を求められたら、学生の身分で煙草なんて買えないです。
 でも、自分が売る側なら、タイミングを見て買うことなんていつだってできますよね。
 たとえば、ほら。誰かひとりが裏で在庫の整理をして、もうひとりがトイレ掃除にでも行ったら、カウンターに残されたひとりは買おうが盗もうが自由です」

「……」

「防犯カメラはありますけど、何かないかぎり頻繁に確認なんてしませんし、買うにしてもお金をレジに入れとけば違算にもならないです。
 盗むにしても、会計を立てなければレジ金のチェックだけじゃ分かりませんからね。棚卸しで同一商品だけがマイナスなら、おかしいと思われるかもしれませんが」

 まあ、ちゃんとお金を払うのがスクイの律儀さですよね、と、こさちは付け加えた。

 画像のなかに客はいない。俺はひとり、手のひらで覆った何かをレジに通している。
 それが何なのかは、俺にはよく思い出せない。


772: 2016/02/28(日) 20:58:28.48 ID:YoF9tIJYo

「こさちは、ときどき考えるんです」

 隣で、彼女はそう呟く。

「さっき、スクイも言っていました。知ってしまうことは、必ずしも幸福ではないかもしれない。
 オイディプス王は、知ってしまったからこそ盲になってしまったんです。
 でも、だからといって、知らずにいて、それで幸せになれたんでしょうか?」

 いつだったか、スクイが言っていた。

"幸福は、感受性の麻痺と想像力の欠如と思考の怠慢がもたらす錯覚だ。"

「知らずにいたところで、オイディプスは幸福にはなれなかったと思う。
 何かを覆い隠して、ごまかして、見ないふりをして手に入れた幸福は、その見ないふりをした何かに、やっぱり食い殺されてしまうんだと思う」

 こさちの言葉は、たぶん俺に何かを伝えようとしているんだろう。
 それは俺にだって分かる。

「テイレシアスの言葉がオイディプスを苦しめたのではないはずなんです。それは、オイディプスの内側に、すでに巣食っていたものなんです」

「……」


773: 2016/02/28(日) 20:58:59.70 ID:YoF9tIJYo

 高森が、"続き"を書くのを嫌がっていたことを思い出す。

 求められるのは反復で、続きじゃないから、と彼女は言った。
 
 人も、景色も、変わっていって、前のままではいられない。

 俺だって、そうだ。
 
 るーに会うのが怖かった。
 昔の自分のことなんて、もうろくに覚えてないけど、
 その自分との違いに、がっかりされたら、うんざりさせたら……。

 今の俺を知ることで、るーががっかりしたら、
 俺は、

 だから、るーに会いたかった。
 るーに会いたくなかった。

 今の自分を知られたら、きっと失望させるだけだから。
 退屈させるだけだから。

 世の中には俺よりまともな奴がたくさんいて、俺より優れた奴も、楽しい奴も、優しい奴も、たくさんいて。
 年を取れば取るほど、誰だって、世界にはたくさんの人がいることがわかってくる。
 
 そんななかで、俺みたいな奴と一緒にいてくれる奴なんて、よっぽどの変わり者だけだ。
 そんな変わり者がそばにいることを期待するほど、俺は無邪気じゃない。

「だから隠した」とこさちは言う。
 俺は分からないふりをする。

「本当にそうなんでしょうか?」とこさちは言う。
 その言葉がどこに掛かっているのか、俺には分からない。


774: 2016/02/28(日) 20:59:29.15 ID:YoF9tIJYo

「隠されたものは、でも、なくならないんです。ずっと奥の方で、機会を待っている。
 堆積して、鬱積して、それが重ければ重いほど、強ければ強いほど、
 見えないところで、勝手に歩き始める。誰かがそれを、影と呼んでいました」

 そう言って彼女は笑う。

「でも、それもおしまいですね」

「なにが、おしまい?」

「聞こえませんか?」と彼女は言う。

 俺は耳を澄ます。

「もうすぐですよ」

「……なにが」

「ほら」

 ――扉が開く音。


775: 2016/02/28(日) 21:00:15.06 ID:YoF9tIJYo



「タクミくん、ここにいたんですね」

 その声が聞こえたとき、俺の隣にこさちはいなかった。
 スクイの姿も消えていた。俺は給水塔のスペースではなく、屋上の中央に立っている。
 変わらない真昼の太陽が、なぜかさっきまでより肌に突き刺さる。

 俺は、
 振り返る。

 るーがそこに立っているのが、分かる。

 指先にも、唇にも、煙草の感触はない。でも、口の中に気持ち悪い味が残っている。

「……」
 
 抜けるような青空。
 日差しはもう、夏のものだ。
 蝉の鳴き声がどこかから聞こえる。

 俺は氏んだような顔をしている。 
 きっと。

「タクミくん?」

 どこか、怯えたような顔を、るーはした。


776: 2016/02/28(日) 21:00:42.28 ID:YoF9tIJYo

 足元に落ちた吸い殻のせいじゃない。
"目"のせいだ。

 俺はそれを知っている。

 鷹島スクイの目。

 彼の目が、他人にどういうふうに見えるのか、俺は知っている。
 だから、前髪で隠していた。見えないように、気付かれないように、嫌われないように。

"続き"なんて、失望させるだけだ。
 めでたしめでたしで物語が終わったのなら、その先なんて知ろうとするべきじゃない。

 るーは、いつもみたいに笑おうとして、失敗していた。ちょっと、驚いて、動揺していた。
 俺はその動揺が分かるのが嫌だった。

「来るなよ」

 と、そう言った。初めてかもしれない。

「それ以上、近付くな」

 るーは、そこで立ち止まった。
 俺は彼女に背を向けて、フェンスの方に近付いていく。

 見下ろす街には、ひとびとが暮らしている。
 何を考えて、何を思っているのかは、ここからじゃ分からない。


777: 2016/02/28(日) 21:01:08.66 ID:YoF9tIJYo

 彼女のことが好きだ。

 会いたかった。会いたくなかった。話したいことがたくさんある。知られたくないこともたくさんある。

 本当のことなんて、隠したままで、本当の気持ちなんて、知られないままで。
 そのままぼんやり、へらへら笑ったって、本当は、それでもいいはずなんだ。

 でも、誰かの目に映っている自分と、自分で思う自分が乖離していって、まるで、
 騙しているような気分になる。

 俺が彼女に求めているものを、彼女はきっと俺には与えてくれない。
 彼女が俺に求めているものを、俺はきっと彼女に与えられない。

 るーは、立ち止まる。
 それでいいんだ。

 適当にごまかして、それらしい言い訳をして、今日みたいな日は隠しきればいい。
 いつか彼女も、俺のことを忘れる。

 それでいい。

 近付くのは怖いから、知られて軽蔑されるのは嫌だから、落胆されるのは嫌だから。
 

778: 2016/02/28(日) 21:02:08.14 ID:YoF9tIJYo

 るー、俺は変な奴なんだよ。

 逃げて、怯えて、隠れてるくせに、それがバレるのが嫌だから、強がって、当たり散らして、見下してるふりをしてるんだ。
 ちっぽけな自分を知られるのが嫌だから、飾り立てて、ごまかして、底上げしたつもりになってる。

 どうしてみんな、笑いながら生きていられるのか、俺にはそれがよくわからないんだ。

 どうしてみんな、あんなふうにすいすい言葉が出てくるんだ?
 どうしてみんな、あんなふうに笑っていられるんだ?

 俺にはそれが、ひどく恐ろしいことのように思えるんだよ。
 真似事を、してきたけど、そこそこ楽しんでもきたけど。

 本当は、根っこの部分じゃ、分からないままなんだ。

 そんなことを知ったらおまえだって俺のことが嫌になるだろう。

 だから、どっかに行けよ。

 そう思った。


779: 2016/02/28(日) 21:02:38.83 ID:YoF9tIJYo

「人に迷惑をかけちゃ駄目だよ」「ちゃんと言うことを聞きなさい」
「聞き分けがないと置いていくよ」「いいから我慢しなさい」「よくできたね」
「おまえには向いていないよ」「どうせ続かないだろう?」「いつもそうなんだから」
「人には向き不向きってものがあるのさ」「あの子とはあまり遊ばない方がいい」
「買ったってどうせすぐ飽きるだろう?」「いいから勉強しなさい」「おまえのことはちゃんと分かっているよ」
「そんなことをやってどうする?」「そんなことを言っていいと思っているのか?」
「そう言って続いたことが一度でもあったか?」「自分の意見というものがないのか?」「ちゃんと返事をしなさい」
「同い年くらいの子は、そんなことは当たり前にできるんだぞ」「その程度で満足するな。出来て当たり前なんだ」
「今度の連休は旅行にでも行くか。どこがいい?」「あれなら捨てておいたよ。どうせ使っていなかっただろう?」
「ああ、いたのか」「そんなに勝手なことばかり言うな。こっちだって仕事で疲れてるんだ」
「成績上位なんだって? 誇らしいよ」「何かしたいこととかないのか?」「つまらない奴だな」
「おまえが何も言わないから、いつも俺が決めてやっていたんじゃないか」「つまらないことばかり言ってないで、勉強しろ」
「それしか取り柄がないんだからな」「いったい誰に似たんだ?」「何か熱中できるものとか、ないのか?」
「おまえはいつもどこか冷めた感じだな」「ときどき心配になるよ」「頭が良いからなんだろうな」
「そんなことを言ったって仕方ないだろう?」「他にどうしようがあった?」「俺だってやりたくなかったさ」
「よし、母さんは出掛けてるし、ふたりで外食でもいくか」「俺は、あんまり好きじゃないな、これ」
「酒を飲むのは、おまえにはまだ早いさ」「あんまり悪いことはするなよ」「遊馬くん、だったか? 騒がしい子たちだったな」
「あんなふうにはなるなよ」「いいか、タクミ」
「人を裏切るようなことだけは、するな」


780: 2016/02/28(日) 21:03:07.99 ID:YoF9tIJYo

 どうせ俺のことなんて、みんな嫌になる。
 楽しいことがわからない。自分がしたいことがわからない。
 何を望んでいるのか、何がしたかったのか、何が楽しいのか、分からない。

 子供の頃は、分かっていたのか? 
 それさえ分からない。

 隠していたもの、見ないふりをしていたものが、頭の奥から噴き出してくる。
 わけもわからずに、叫びだしたくなる。

 よだかのことだって、全部、俺は本当はどうでもよかったのかもしれない。

 父を得られず、母を亡くしたあいつが不幸なら、
 父と母が生きている俺は幸福なのか?

 誰か俺に教えてほしい。みんなどうして生きていくんだ?
 何が支えになってるんだ? 何を拠り所にしてるんだ? 

 俺にはまったくわからないんだ。

 俺なんて、誰にとっても換えのきくどうでもいい存在で。
 いなくなってもかまわないがらんどうで。
 タチの悪いだけのまがいものだ。自分ってものが、まったくどこにもないんだ。

「本当にそうなんでしょうか?」と、こさちは言った。
 
 背中が、
 掴まれた。


781: 2016/02/28(日) 21:03:33.83 ID:YoF9tIJYo

「……俺は、来るなって」

 そう言った、と、言おうとしたけど、心臓がうまく動いている感じがしなくて、続く言葉が出なかった。

「……はい」

 と、すぐうしろから声が聞こえた。

「逆らっちゃいました」

 あんまり、あっけなく言うものだから、言葉を返すつもりにはなれなかった。

「煙草くさいです、タクミくん」

「……うん」

「何か、あったんですか?」

「何もないよ。何もない」

「……」

 俺のことなんて、気にするなよって。
 気にかけてもらえるような人間じゃないんだって。
 
 そう言いたかったけど、そんなことを言ったら逆効果だろうから、言わなかった。


782: 2016/02/28(日) 21:04:36.03 ID:YoF9tIJYo

「……そうですか」

 と、るーはそれきり、黙りこんでしまった。
 こんなことばかりだ。

 本当に不思議なんだ。
 愛想を尽かされてもいい頃なんだ。
 
 なんでいなくならないんだ?

 予鈴が鳴ったのが聞こえた。

 背中に、トン、と何かが当てられる。

 首だけで振り返ると、るーが、俺の背中に額を押し付けていた。

「じゃあ、わたしも、なんでもないです」

「……」

「……話してくれても、いいです」

「……」

「話してくれなくても、べつにいいです。笑ってなくても、いいです」

 この子は、どうして、
 俺のことを嫌がらないんだろう。


783: 2016/02/28(日) 21:06:02.96 ID:YoF9tIJYo

「不思議ですか?」

「……うん」

「教えてあげません。きっと、信じないだろうから」

「……信じないって」

「うん。今のタクミくんは、きっと、信じてくれないだろうから」

 だから言いません、と彼女は言う。

「いつか、そのときが来たら、全部話します」

「……」

「今は、そんなの、いいですから。もうすぐテストで、終わったら夏休みで、夏休み明けには文化祭で」

「……」

「楽しいこと、たくさん、するんですよね?」

 本当に、そうできたら、どれだけいいだろう。
 
 鷹島スクイは、俺だ。
 俺のなかに住んでいる。さっきまで、分からなかった。追い出して、吐き捨てたものが、人の形になって歩き回っていた。
 あれは俺だ。俺のなかの泥濘だ。

 その処置に、俺は迷う。

 この高校を卒業するとなったとき、俺はどこに行けばいいんだろう。
 誰が、俺と居てくれるんだろう。

 そんなことばかりを、俺は考えてしまう。
 

784: 2016/02/28(日) 21:06:45.61 ID:YoF9tIJYo

「タクミくんの、ばか」

 考えごとの最中に、そんな声が聞こえて、

「ばか」

 聞こえて、

「ばーか」

 くすぐるような甘い声が、
 考えごとをやめさせた。

「なんだよ急に」って振り返ったら、るーは「してやったり」って顔で、へへっと笑った。

 猫みたいだと思った。
 
 嘉山のこと。スクイのこと。こさちのこと。嵯峨野連理のこと。
 あまりに未整理で、混沌としている。
 
 よくわからないことの連続。

 どうするべきかは、今は分からない。
 よくわからないことだらけだ。

 それを俺は、どうするべきなんだろう。
 
「……たばこくさい、です」

 るーが、そう呟く。
 そうなんだろうな、と俺は思う。

792: 2016/03/02(水) 00:47:18.07 ID:UrspAWm1o



「あ、そうだ。タクミくんに話があって探してたんですよ、わたし」

 と、さっきまで俺の背中に額を当ててたことなんてなかったみたいな当たり前の顔で、るーは口を開く。
 予鈴がとっくに鳴り響いたあとの廊下を、俺たちはゆっくりと歩いていた。

「話?」

「すず姉に、タクミくんがバンドやるかもって話をしたんです」

「するなよ」

 しねえぞ。

「そしたらすず姉乗り気で、『なんならベース教えるよ』って」

「……はあ」

「ということを話すためにタクミくんを探して教室に向かったところ、ゴロー先輩がいたので先にそっちに話したんです」

 余計なことを。

「と、ゴロー先輩、ノリノリでして」

「だろうね」

 俺は溜め息をついた。
 タチが悪いのは、すず姉やゴローだけじゃなくて、るーもけっこう乗り気だってことだろう。
 じゃなきゃ、そんな話をすず姉にしたりしない。


793: 2016/03/02(水) 00:47:48.66 ID:UrspAWm1o

「まずかったですか?」

「まずいとは言わないけれど」

 うまいとも言えないのが困ったところだ。

「嫌ですか?」

「嫌ってわけじゃ……」

「……」

「……まあ、正直」

「どうして?」

「文化祭は夏休み明けすぐで、俺は初心者、ゴローもほぼ初心者、ドラムはいない」

「はあ」

「無理があるだろう」

「そうですかね?」

 そうだろ。


794: 2016/03/02(水) 00:48:53.91 ID:UrspAWm1o

 階段を降りていくるーについていきながら、俺は話を続ける。

「恥をかくか、真面目にバンドやろうとしてる奴に水を差すだけだよ」

「恥をかくか水を差すかって、語呂いいですね」

「聞けよ」

「タクミくんの言いたいことも分かりますけど……」

 と、るーは俺の顔を見上げながら不満気に続ける。

「試しにちょちょっと触ってみて、悪乗りだけでバンドやったって、別に怒られはしないと思いますよ」

「どうかな。ステージ発表を募集してるっていっても、やりたがる奴の中から選考されるんだろ」

「発表に堪えないレベルならふるい落とされるんですから、なおのことやってみてもいいんじゃないですか?」

「……」

「タクミくんは口を開くとやらない言い訳ばっかりですねー」

 るーは拗ねたみたいに、おどけたみたいに、からかうみたいにそう言った。
 まあ、図星だ。


795: 2016/03/02(水) 00:49:48.99 ID:UrspAWm1o

 るーは階段を降りていく。

「とにかく、すず姉が乗り気だったんです。それで、よかったら今日うちに連れて来てって」

「今日?」

「すず姉、暇してるみたいなので。ゴロー先輩も来たいって言ってました」

「あいつ、調子がいいときはフットワーク軽いよな。でも、俺ベースとギターの違いも弦の数くらいしか知らないし」

「タクミくんは乙女心がわからないひとですね」

 となぜか乙女心を説かれる。

「なんのかんの理由をつけて、すず姉はタクミくんに会いたいんですよ。タクミくんが懐かしいんです」

「……や。なことないと思うけど」

「そうなんです!」

「……ホントにすず姉?」

「なにがですか?」

「なんのかんの理由つけて俺を呼ぼうとしてるの、るーじゃないの?」

「……ど、どーしてそう思うんです?」


796: 2016/03/02(水) 00:50:28.21 ID:UrspAWm1o

「るー、おまえ、すず姉が会いたがってるとかどうとか言って……」

「……」

「俺にバンドやらせたいだけだろ」

「……はい?」

「違うの?」

「……あ、はい。それでいいです」

 微妙な反応だ。

「……まあとにかく、タクミくんに乙女心は分からないということで」

「さっぱり納得のいかない結論だな」

「まあまあ、いいじゃないですか。ちょろっと触ってみるだけでも。すず姉のベースすごいですよ。アンプとかすっごいでっかいですよ」

「言われてもすごさが分からんしな」

「ちなみにアンプとベースを繋ぐ線のことをシールドと呼ぶそうです。コードと言ったらまぎらわしいらしいです」

「ああ、和音をそう呼ぶからだろ?」

「……なんでそんなこと知ってるんです?」

「前に本で」

「タクミくんのそういうところ、ときどきすごいと思いますよ」

 とるーは呆れ口調で笑う。


797: 2016/03/02(水) 00:51:01.65 ID:UrspAWm1o

「……ところで、俺たちはどこに向かってるの?」

「はい?」

「教室、過ぎてるよな」

「え? 体調を崩したわたしのために保健室まで付き添ってくれたから、タクミくんは午後の授業に遅刻したんですよね?」

「……いや、なんだそれ」

「ごほっ、ごほっ」

 わざとらしい咳をし始めた。

「あー、体調悪いなー、誰かが保健室まで付き添ってくれないかな―」

 猿芝居だ。

「……サボるなよ」

「サボりじゃないですよ。ちょっと熱っぽいんです。ホントですよ。無理をしてテスト本番に影響しても困るんです」

 戦略的撤退です、とるーは真顔で言った。
 俺はためしにるーの額に手のひらを当ててみる。


798: 2016/03/02(水) 00:51:28.76 ID:UrspAWm1o

「……熱はなさそうだけど」

「……た、タクミくんの手が熱いのでは?」

「否定はできないけど」

 るーは、バレバレの嘘を叱られると思ったのか、俺と目が合わないように視線を泳がせている。
 ちょっと緊張した素振りが、なんとなく新鮮だ。

「……まあ、本人が体調悪いって言ってんだから仕方ないよな」

 それに、遅刻の理由は俺だ。たぶん。そう言っていいのか、いまいちわからないけど。
 なんだか、俺のせいで遅刻したって思うのは、内心だけでも、なんとなく傲慢な気がする。
 
 思い上がっているという気がする。

「と、とにかく!」

 と、るーは頭を揺すって俺の手を振り払って、怒ったみたいに顔をそむけた。気安く触れられたのが気に入らなかったのかもしれない。

「保健室! です!」

「……あ、うん」

 まったくもう、とどこか困った調子でつぶやきながら、るーは俺の少し前を歩く。
 こんなに元気な病人がいるもんか。俺は少し溜め息をついて、それから内心で感謝した。
 言葉にしたら無碍にしてしまう気がして、言わなかった。

「俺もさ」

 声を掛けると、「なんですか?」とるーが振り返る。
 
「るーのそういうところ、すごいと思うよ。ホントに」

 彼女は一瞬、怯んだように口を「むっ」と結んでから、慌てたみたいに前に向き直る。
 
「なんですか、そういうところって!」と不満気に呟く彼女の困った声がおもしろくて、俺は少しだけ笑ってしまった。


802: 2016/03/04(金) 23:09:47.43 ID:iGqfryU8o



 るーの証言と俺の証言に食い違いを生むわけにはいかなかったから、俺は「体調を崩した後輩に付き添って保健室に行った」と報告した。疑われなかった。
 自分の身体がなんとなくタバコ臭いような気がして気になったけど、周囲は特に反応しなかった。

 俺は自分の制服の内ポケットに触れてみる。そこにはたしかに何かがある。四角い箱と丸みを帯びた楕円柱。煙草とライターだ。確かめなくても分かる。
 テスト前の授業なんて出題範囲についての解説だ。聞いておくに越したことはないけど、まあ今はいいだろう。

 ちょっと考えてみよう。

 俺は記憶を手繰る。嘉山孝之と遭遇した昼休みのこと。そこで俺は鷹島スクイを見た。小鳥遊こさちに会った。
 大丈夫、そこまでは覚えている。記憶がまがい物でないなら。

 鷹島スクイは部誌を燃やしたという。嘉山孝之は俺が鷹島スクイだという。俺の制服には覚えのない煙草が入っている。
 小鳥遊こさちは?
 彼女は何かを言っていた。何かを俺に見せた。……そうだ、写真だ。俺が定期テストを受けている場面、煙草を買っている場面。
 
 燃やした覚えはあるか? ――ない。
 定期テストを受けた覚えは? ――ない。
 煙草を買った覚え。 ――ない。

 にもかかわらず、俺はそれを行っている。

 ……いや。
 でもそれはあくまで、こさちや嘉山の言ったことだ。

 こさちの写真だって、どこまで信用できるかわからない。
 そもそも彼女自体、不自然なところしかないのだ。

 スクイが俺であるという証明は、されていない。 
 しいて言えば、この煙草だけ……。


803: 2016/03/04(金) 23:10:13.89 ID:iGqfryU8o

 でも、そもそも、どうして俺はこれまでこの煙草の存在に気付かなかった?
 誰かが制服に勝手に入れていた? 着替えか何かのタイミングがあれば不可能じゃない。

 それでも再び着替えた段階で気付かないのは、ありえないとは言わないが簡単ではない。

 こさちの写真は加工、煙草はスクイが勝手に入れた、こさちと嘉山とスクイは三人で俺をはめようとしている。
 ……通らない筋じゃないが、大掛かり過ぎる。

『鷹島スクイとは、誰か?』

 煙草、画像、名前。物的証拠も情況証拠も揃っている。
 嘉山の言うことを信じるなら、俺だ、と考えるのが、他人から見れば正解だろう。

 問題は……。

 鷹島スクイが俺だとして、『鷹島スクイがとったとされる行動』のほとんどすべての記憶が、俺には存在しない、という部分だ。

 ……解離性同一性障害。
 多重人格?

 まさか。

 そんな症状を起こすような心当たりなんてない。

 ……ない。


804: 2016/03/04(金) 23:10:46.61 ID:iGqfryU8o

 ない、が……。
 
 離人感、記憶の虫食い……。

 そもそも、「心当たりがない」というのは、こういう場合はあんまり参考にはならないか。

「……」

 でも、どうして煙草に気付かなかったんだ?
 気付かないふり、知らないふり、『認識』……。

 気付いたとしても意識から追いやられていた。これもまあ、ない話じゃなさそうだ。

「……」

 ――良い子だからだよ。
 ――おまえは自分の声を聞き流しすぎたのさ。
 
 ……さすがに、ないと思うんだけど。

 手持ちの知識だけだと、心当たりがある部分が多すぎる。


805: 2016/03/04(金) 23:11:12.08 ID:iGqfryU8o

 ……いや。

 情況証拠だけ見れば、たしかに疑わしいかもしれないが、俺は鷹島スクイと顔を合わせて、対話したことがある。
 あいつはたしかに存在する人間、のはずだ。

 ……でも、どうだろう?

 俺は、俺以外の前にスクイが姿を現すところを見たことがあっただろうか。
 誰かが来た途端姿を消したり、していなかっただろうか。

 かといって、あんなふうに他の人格をはっきりと人間のように感じられたりするものなのか?

 それに関しては……まあ、なってみないと分からなそうだけど。

 通常は、存在に気付かないものではなかっただろうか。

 とはいえ、まあ、似たような存在なら聞いたことはある。
 イマジナリーフレンド……。

 こさちは、そういえばなんて言っていた?
 
“影”と、そう言っていた。

 思いつくのは、ユングの元型。

 でも、それを言ったのはこさちだ。

 こさちは、何なんだ?

 ……アニマ?
 でも、元型論ってそもそも夢の話だったような……。

 ……駄目だな。
 妙な知識ばっかり集めたせいで、変な方向にばっかり頭が冴える。

 今俺が考えなくちゃいけないのは、俺の身体に別の人格がいて、そいつが俺の身体を勝手に動かしてるなんていうのは、“気持ち悪いし考えにくい”ってことだ。
 スクイとこさちが協力して俺を担ごうとしてるだけかもしれない。
 
 嘉山が俺をスクイと呼んだあとの記憶は、俺にはない。
 そのあいだに、俺の知らない何かがあって、こさちは俺をからかっただけなのかもしれない。

 いずれにしても……気になることは気になるけど……気にしても仕方ない。

 俺が今考えなきゃいけないのは目前のテストのこと。
 それから……なんだっけ?


806: 2016/03/04(金) 23:11:48.47 ID:iGqfryU8o



「そういうわけで、わたしの家に行きましょう」

 と、放課後になると同時にるーとゴローが俺の教室にやってきた。

「テスト期間だけど」

「ご心配なく。わたしは勉強しますから」

「いやそうではなくてね」

「タクミ、おまえ冷静になれよ」

「……何がだ」

 呆れ風味の溜め息をついて、ゴローはやれやれと肩をすくめた。こいつの妙に芝居がかった仕草を誰かにどうにかしてほしい。

「文化祭まで、夏休みがあるっていってもそう期間はないんだぜ。事態は一刻一秒を争うんだ」

「誰もやるって言ってねえよ」

「ま、ま。とりあえずすず姉に会うと思って」

「……それに関しては、異論はないんだけどな」

 うまいこと丸め込まれる自分が目に見えるようで、なんとなく嫌だ。


807: 2016/03/04(金) 23:12:16.14 ID:iGqfryU8o

 なんてことを話しているうちに、廊下から軽い足音が聞こえてきて、教室の入り口ががたっと揺れた。

「たっくん! ゴロちゃんから招集メッセージだよ! たぶん例のアレだよ! 早く逃げよ!」

 高森だった。こっちを見た瞬間、「うっ」となってる。
 自分に届いたメッセージの内容を見れば、俺にも届くって分かりそうなものだ。 
 わざわざ教えに来ずに素直に逃げればいいものを。

「飛んで火に入る夏の虫だな」

「ゴロー、おまえ火でいいのか」

「誰が虫か!」

「……テスト期間なのに、先輩がたはみんなげんきですね」

 るーの呆れた溜め息が、なんとなく納得いかなかった。


810: 2016/03/08(火) 00:09:11.13 ID:In4DJ8ILo



「それじゃ、わたしの家に行きましょう!」

 と、そんなわけで、ノリノリとるーとゴローに連行されて、俺と高森は彼女の家へと向かうことになった。
 さすがに俺だってテスト前ともなれば勉強がしたかったけど(内容どうこうではなく、静奈姉が心配するから)、そこはそれ、でもある。

 俺だって勉強なんかするよりみんなと遊んでいる方が楽しい。
(そうなんだよな)

 相変わらずの懐かしい道は、それでもどこか遠い感じがした。
 いつもよりどこか。視界に膜が張ったみたいに。

 それが何のせいなのか、誰のせいなのか、俺にはよく分からない。 
 きっと俺自身のせいだ。

「バンドやるのはいいけどさ」と高森が言う。いいのか。

「ドラムはどうするの?」

「心当たりは一応あるんだ」

 ゴローはそう答えながら、ポケットからブラックガムを一枚出して噛み始めた。

「いる?」

「いらない」

「わたしもいらないよ」

 高森の言葉に、「おまえには最初からやらん」とゴローは拒否の姿勢を示す。

「うん、いらない」と高森ははっきりと頷く。


811: 2016/03/08(火) 00:09:43.95 ID:In4DJ8ILo

「いい天気ですね」って、ぐーんと伸びをしながらるーが言う。
 彼女は楽しげに、ステップでも踏むみたいに路上を歩いていく。

 どうしてだろう?

 見惚れる。
 それはたぶん、似たような景色を見たことがあるからだ。

 目が離せない。

 俺が見ていることに気付いて振り向くと、るーはちょっと恥ずかしそうにむっとした顔をつくって、なんですか、と呟く。

 なんでもないよ、と俺は目をそらす。

 いつもそうだ。俺は大事なことから目を逸らしている。
 自分でも分かってる。
 
 本当に俺がすべきなのはきっと、

 ――にゃー。

 と、猫の声がした。

「……」

 振り返ると、一匹の白い猫が向こうの角で立ち止まっている。


812: 2016/03/08(火) 00:10:11.10 ID:In4DJ8ILo

「タクミくん、どうしたんですか?」

「猫だ」

「どこですか?」

 るーが俺の視線の先を追う。

「もういっちゃいました?」

「……ああ」

 猫はもういなかった。

「ざんねん」とるーは言う。

「いたら、どうするつもりだったの?」

「べつに、どうもしませんよ。好きなんです。猫」

「そう」

「タクミくんは、犬派ですか? 猫派ですか?」

「……どうかな」

「俺は断然猫派だ」

 とゴローが言う。

「なにせ飼ってるからな」

「……」

 猫。猫。猫のことばかり考えてしまう。忘れるなって言ってるみたいだ。
 

813: 2016/03/08(火) 00:10:38.05 ID:In4DJ8ILo

 俺はそんなことを考えるのをやめてしまうべきなんだろうか。
 ただ楽しそうに笑っていれば、それを幸福と呼べば、それだけでいいんだろうか。

 ふと、思い出して、俺は携帯を開く。
 
 よだかから、連絡はない。

 俺は彼女に電話を掛けてみる。

 数コール待つと、彼女は出た。

「なに?」

 俺は、自分がどうしてよだかに連絡しようと思ったのか、それがわからなかった。

「いまから、るーの家に行くんだ」

「そうなの?」

「うん。……来るか?」

「でも、今日帰るし、わたしが行っても仕方ないでしょ?」

「うん。俺もそう思う」

「それに、他の人たちもいるんでしょう?」

「うん。そうだよな」

「……どうしたの、たくみ?」

「分からない」

「……わからないって」

「ずっとそのことを考えてたんだ」

 よだかは電話の向こうで押し黙る。


814: 2016/03/08(火) 00:11:08.61 ID:In4DJ8ILo

「……行かない」

 とよだかは言う。

「ね、たくみ。わたしのことは、もう気にしなくて大丈夫だよ」

「……」

「……ありがとう。助かった」

「よだか、俺は」

「たくみがいてくれて助かった。たくみには感謝してる。たくみのことが好きだよ。
 でも、ごめんね。たくみ、わたし、“かわいそうな子”の役は、いやだよ」

「――」

「わたしはもう、わたしをかわいそうとは思わない。たくみが、そう思わせてくれたんだよ。
 だからもう、たくみもそれをやめていいんだよ」

 電話が切れて、
 俺は七月の路上に放り出される自分を見つける。

 見限られた、と思った。

 音が遠くなる。
 血の気が引くのを、本当に感じた。

 何かがさっと切り替わって、意識が急に身体を取り戻す。

 心臓がバクバクと動くのが分かる。

 よだかの言葉は、俺の何かを言い当てた。
 たぶん、俺のいちばん醜い部分を、彼女は言い当てた。


815: 2016/03/08(火) 00:11:36.41 ID:In4DJ8ILo

「……タクミくん?」

 るーが、立ち止まったままの俺を振り返る。

 気付かれてしまった。
 慌てて電話をかけ直しても、よだかは出てくれない。

 動悸にとらわれて、頭がうまく働かない。
 どうしてそうなったのかすら分からない。

“かわいそうな子”。

“かわいそうな子”としての、よだか。

 俺はそれを、

「――なあタクミ、おまえ、ベースだよ」

「……え?」

 見ると、前方で立ち止まっていたゴローが、こっちを見ていた。

「おまえはベースで、俺がギターで、高森がボーカルだよ」

「……いや、だからそれは」

 何かを言おうとして、何を言おうとしたのか忘れてしまった。

「もうさ、面倒なのはやめにしようぜ。おまえが何かに囚われてることなんてみんな分かってる。
 藤宮だって、高森だって、佐伯だって、たぶん部長だって、みんなみんな気付いてる。おまえ、ちょっと変だから」

「……変、って」


816: 2016/03/08(火) 00:12:30.79 ID:In4DJ8ILo

「だからさ、おまえベースやれよ」

「……話の繋がりが」
 
 まったくわかんねえよ、と、言ったら声が震えていて、自分でもびっくりした。

「忘れろとか、今を楽しめとか、そういう都合のいいだけのことなんて言わねえよ。
 だから、言いたいことがあるなら、思いっきりベースを鳴らせよ」

「……」

「誰にも、おまえの気持ちなんてわかんねえよ。だから口ごもるのも言いかけてやめるのも、終わりにしろよ。
 抱えてるものを忘れることも捨てることもできないなら、抱えたまんまで騒いで踊ろうぜ」

「……」

「それが、ロックンロール、なんだぜ?」

 ゴローはくいっと眼鏡の位置を直す。

 俺は、こらえようとしたけど、

「……意味がわかんねえよ!」

 気付いたら怒鳴り声をあげていた。


817: 2016/03/08(火) 00:12:57.40 ID:In4DJ8ILo

「意味がわかんねえ! なんで俺がそんなことしなきゃいけねえんだよ! 誰もそんなこと頼んでねえ!」

「たっくん、」

 高森が何かを言いかけたのがわかってるのに、

「知るかよそんなの! けっきょくおまえの都合じゃねえかよ! ベースなんて他に探せよ!」

 言葉がとまらなくて、

「わけわかんねえんだよ全部! 意味がわかんねえ! なんでこんなことになったんだ?」

 俺のせいじゃない……。
 俺のせいじゃない!

 そう思い切り怒鳴ったとき、るーの、心配なのか不安なのか、よくわからない悲しげな表情が見えて、
 余計に抑えがきかなくなった。

「わけがわかんねえんだよ! なんでこうなんだよ! 何がどうなってこうなったんだよ!
 嫌なんだよ全部! どうしてみんな楽しそうなんだよ! なんでみんな、平気そうなんだよ!」

“かわいそうな子”が、
 どこかで悲しんでいるのに、
 どうして平気で笑っていられるんだ、と。

 そう思ったときに、気付いてしまった。
 俺はどこかで、“かわいそうな子”としてのよだかを、必要としていた。

 憐れむために。
 その子のために何かをするために。
 氏んでしまった猫を必要としていた。


818: 2016/03/08(火) 00:13:24.76 ID:In4DJ8ILo


「“それ”だよ」とゴローは言った。

「おまえに足りねえのはそれだよタクミ。いいあぐねて口ごもって言葉に詰まって言いたいことを言わない。
 どうせ分かってもらえねえって思ってるんだろ? その通りだよ。拗ねた子供かよおまえは。
 おまえの考えてることなんて、口酸っぱく説明されたって誰にもわかりゃしねえんだよ」
 
 拗ねた子供、と、
 俺はそれを否定できなかった。

「おまえのせいじゃねえよ」とゴローは続けた。
 俺は何かを言いたくなったけど、途中でやめてしまった。

「おまえのせいでもないし、他の誰かのせいでもない。世の中の大半のことなんてだいたいそうだ。
 責任なんて言葉は、本当はどこにもふさわしい場所なんてねえんだよ。
 生まれる前に、“こんなふうになりますけど、いいですか?”って誰かに訊かれて、“いいですよ”って答えたわけでもない。
 自分が自分であることは、今がこんなふうであることは、基本的に不条理と理不尽でできてるんだよ。誰のせいにもできない」

 だから、とゴローは言った。

「文句をつけろよ」

「……なんだ、それ」

「どうせ分かってもらえない。誰のせいでもない。みんな平気な顔で、それでも受け入れて生きてる。
 消化するのがうまいんだよ、みんな。でも、おまえはそうじゃないんだろ?」

「……」



819: 2016/03/08(火) 00:13:54.26 ID:In4DJ8ILo

「だったら騒げよ」

 俺は納得がいかないんだって、俺のせいでもないし、誰のせいでもないけど、黙って受け入れるのは嫌だって、騒げよ。
 ゴローはそう言った。

「重ねて言うが……それがロックンロール、なんだぜ?」

 さっき直したばかりの眼鏡の位置を、ゴローはまた直した。
 俺は急に恥ずかしくなって、俯いた。

「……ごめん」

「そうさ。あんまり騒ぐなよタクミ。赤ん坊が昼寝をしてるかもしれないんだぜ」

「……」

 そのとおりだな、と一瞬うなずきかけて、

「いや、おまえ今騒げって言ったじゃねえか」

 思わずツッコミを入れると、ゴローは平気そうにからから笑って、

「比喩だよ、比喩」

 と言った。


820: 2016/03/08(火) 00:14:23.19 ID:In4DJ8ILo



 触れたこともないベースにちょっと触る気になったのは、たぶんゴローの言葉のおかげなんだと思う。
 よだかのこと、嘉山のこと、氏んでしまった猫のこと。
 
“それはもういいのだ”と、俺は言いたくなかった。

“そんなことよりも”とか、“考えても仕方ないから”とか、思いたくなかった。

 ゴローも、よだかも、まるで見えてるみたいに、簡単そうに俺の心のありようを言い当てる。
 それが少し恥ずかしい。

 でも、そんなことこそ、それこそ、仕方ないことだ。

 るーの家は以前みた通りの大きな建物だった。

「どうぞ」と通されてリビングらしき部屋に入ると、すず姉が麦茶を飲んでいた。

「来たね」

 ソファにもたれて足を組んだまま、グラスの中の氷をくるくる揺らしながら、すず姉は麦茶を飲んでいた。

「バンドやるんだって?」

「……どうも」

 とりあえず頭をさげると、すず姉はちょっとさびしそうに微笑んだ。


821: 2016/03/08(火) 00:15:00.81 ID:In4DJ8ILo

「そうなんです」とゴローは言った。

「文化祭でやるの?」

「はい」

「へえ。何やるの?」

「考えてません!」

「……文化祭、いつだっけ?」

「九月ですかね」

「……あ、みんな楽器そこそこできるとか?」

「素人です」

「……」

 すず姉はちょっと戸惑ったみたいだった。

「……え、ホントに?」

「はい」

「……きみたちは、あほか」

 と、すず姉の呆れたような笑いをあえて無視するみたいに、

「どうせならオリジナル曲とかやりたいっすね!」

 とゴローは強気だった。
 そこで奥の扉が開いた。


822: 2016/03/08(火) 00:15:49.48 ID:In4DJ8ILo

 美人が奥から出てきた。

 すらっとした身体が薄手のシャツとスウェットで包まれている。 
 眠たげにあくびをしてから、台所へ向かって、水道の水をグラスに汲んでから一気に飲み干した。

 長い睫毛、細い指先。線の細い印象があるのに、張り詰めたような強い存在感がある。

「ちい姉、お客さん」

 とすず姉は言った。

 ああ、ちい姉だ、と俺は思う。

「……ん」

 と頷いて、彼女は俺たちを見た。

「ちい姉、寝てたの? ていうか、いたの?」

「うん」

 見た目とはあんまりそぐわない、眠たげで甘ったるい声が、ゆったりとした話口調が、なんとなく意外に思える。
 あの頃、遊馬兄や静奈姉と話していたときは、もっと緊張感のある話し方だった気がする。どこか切羽詰まったみたいな。

 家族に見せる顔は、また別だということだろうか。
 それとも、彼女も変わったのか。


823: 2016/03/08(火) 00:16:28.82 ID:In4DJ8ILo

「今日、デートって言ってなかった?」

「明日。今日は午後までバイトなんだって。そのあと、市内のコンビニめぐってディズニーの一番くじ見てくるって言ってた」

「……なんで?」

「ティーポッドがほしいんだって」

「……なんでまた」

「いま、ほしいものランク一位なんだって、ティーポッド。B賞」

「あいかわらず先輩は意味わかんないなあ……」

「美咲ちゃんがほしがってたみたい」

「あいかわらず先輩はシスコンだなあ……」

「ほら、もうちょっとで誕生日だから」

「なるほど」


824: 2016/03/08(火) 00:16:56.81 ID:In4DJ8ILo

 ちい姉のことは、なぜだろう、よく覚えていない。
 あんまり話さない人だった、という印象がある。
 
 口数が少なくて、表情もあんまり動かなくて、正直、少し怖かったような気がする。
 帰る頃には、多少話すようになって、細やかな気遣いとか、気づきにくい優しさとか、そういうものが分かるようにはなったけど。

 そんなに話をしなかったから、どんな人なのか、今でも分からない。
 つかめない。

「ね、ちい姉。気付かない?」

「ん」

 何が、という顔で、あたりをちい姉は見渡す。
 俺達がいると分かったあとも、ずいぶん自然体だ。

「いらっしゃい」、と、落ち着いた声で俺とゴローの顔を見たあと、こっちに再び視線を寄せて、

「あ」

 と声をあげた。


825: 2016/03/08(火) 00:17:23.84 ID:In4DJ8ILo

「……タクミ、くん?」

「……あ。おひさしぶりです」

 声を掛けると、ちい姉は急に顔を赤くして、ばたばたと扉を出て行った。

「着替えてくる!」

「いってらっしゃい」

 すず姉がくすくす笑う。

「……なんで急に」

 戸惑いながらつぶやくと、すず姉が説明してくれた。

「知ってる人だと思ったら、気の抜けた格好が恥ずかしくなったんじゃない?」

「……そういうもんですか?」

「わかんない。ちい姉、ちょっと特殊だから」

 るーの方を見ると、彼女は困ったみたいに、呆れたみたいに笑った。
 そんな顔を、あの頃のるーは、ちい姉にはしなかった。
 いつもちい姉に気を使ってるみたいに見えた。

「それにしても」、とるーは言った。

「ちい姉、タクミくんのこと、すぐにわかっちゃいましたね」

「……」

 俺も、それがいちばん意外だった。
 すず姉だって名前を言うまで気づかなかったし、るーに至っては何日も経ったあとにようやく確認したのに。

「そういう人だからね」

 というすず姉の言葉に、るーはちょっと複雑そうな顔をしていた。


831: 2016/03/11(金) 23:27:47.89 ID:pZZx+2x0o



「さて、じゃあとりあえず特訓しよっか」

 と、すず姉は立ち上がった。

「特訓?」

「ベースの」

「……いや、すず姉、あの」

「なに?」

「俺、やるなんて一言も……」

「ここまで来てガタガタ言わない! 男の子でしょ! 楽器のひとつくらい弾けなくてどうする!」

 こんな強引な人だっただろうか。

「……ていうか、さっきの会話に気になるところがあったんだけど」

「そっちのふたりも来て。ギターもちょっとなら教えられるから」

「了解っす。お願いします」

 俺と高森は目を合わせて「どうしよう」という顔をしあった。

「るー、飲み物」

「どこでやるんですか?」

「離れ」


832: 2016/03/11(金) 23:28:20.05 ID:pZZx+2x0o

 そんなわけですず姉はちい姉が戻ってくるよりも先にパタパタと歩き始めた。
 宣言通り離れ座敷に連れ込まれた俺達は、その部屋の様子にまず唖然とした。

「うわ、なんすかこれ」

「アンプ」

「このちっこいのは……」

「エフェクター」

「この機械は?」

「マルチエフェクター」

「こっちは」

「そっちはギター用のアンプ」

「このちっこいのは」

「それもアンプ」

「これは……ギターですか?」

「ベース」

「こっちは」

「弦四本がベース、弦六本がギター。ベースの方が一回り大きい」

「おお……」

 ゴローとすず姉の会話を横目に、俺と高森は黙りこむ。
 テスト期間なんだけど、とか、よだかが帰るところなんだけど、とか。
 そういうことを考えていた。


833: 2016/03/11(金) 23:29:00.01 ID:pZZx+2x0o


 部屋にあふれる機材、キーボードにパソコン、ところどころに熊のぬいぐるみが置かれていた。

「タクミ」

「はい」

「とりあえずベース教えるけど……」

 と、彼女は二本並べられたエレキベースのうちの一本をスタンドから持ち上げた。

「はい、これ」

 俺はひとまずそれを受け取る。片手で受け取ると、ずしりと重い。

「ぶつけないように気をつけてね。まあ、安い奴だからいいけどさ」

 それでも平気で万を超えるのだろう。

「とりあえずストラップついてるから、首にかけて」

「ストラップ?」

「それ」

 言われた通り、俺は楽器につけられているベルトみたいなものを首から下げてみた。
 やっぱり重い。

「ちょっと長いかな。立って演奏するんだろうし、最初から立って弾く練習した方いいね」

「はあ」

「これピック」

 と、小さなツメみたいなものを渡される。

「好みはあるけど……まあスタンダードに。指弾きって手もあるけど、うーん……まあ、やってみてかな」

 すげえ。何言ってるのかわかんねえ。


834: 2016/03/11(金) 23:29:26.19 ID:pZZx+2x0o

「ひとまずピックで弦弾いてみて」

「弾くって……」

「手首ではじくイメージ」

 言われた通り、俺は弦を弾いてみる。……鳴らない。
 何度かためしてみると、ボーンという低い音が響くのが分かった。

「意外と音小さいね」

「そのままだとね」

 と言って、すず姉は機器同士をつなぐコードみたいなものを引っ張り出してきた。

「これシールド。で、とりあえずアンプにつなぐね」

「はあ」

 彼女は言葉の通り、俺からぶら下がったベースの下方の穴にシールドの端子を差し込んだ。
 そのもう一方を、さっきアンプと呼んでいたスピーカーみたいなものに繋いでいく。

「電源入れるよ」

 と、言うと同時、アンプの電源を示す赤色の光が灯った。

「鳴らしてみて」

「……」
 
 さっきと変わらない。

「だよね。ちょっといじるよ」

 彼女は楽器についているツマミのひとつをひねった。
 それからアンプも同様に。

「鳴らしてみて」

 俺はピックで弦を弾いた。


835: 2016/03/11(金) 23:29:52.13 ID:pZZx+2x0o

 低い音が響く。

「……おお?」

「たっくん、うるさい」

「俺のせいじゃない……」

「ま、ベースもギターも、こういうふうにアンプに繋いで音をおっきくするわけ。大雑把に言うと」

「はあ……」

 俺はひとまず、テレビや写真で誰かがしていたように弦を抑えながら、弾こうとしてみる。

「……指、痛いんだけど」

 しかも音が鳴らない。

「うん。そういうもんだから。ちょっと貸して」

 と言って、すず姉は俺に向けて手を差し出す。
 
 俺はストラップを首から外して、ベースをすず姉に手渡す。


836: 2016/03/11(金) 23:30:26.23 ID:pZZx+2x0o

 すず姉はストラップを首にかけてすぐ、ピックももたずに弦を押さえた。
 右手の指が弦の上を滑るように弾くのと同時に、音がうねりはじめた。

 波濤の壁が部屋を押し広げた。
 右手の指がさらりさらりと簡単そうに動くのとほとんど同時に、左手の指はうねうねと指板の上を這いうねる。

 そのたびにアンプは音を伝える。

 すげえ。
 すごすぎて何をやってるのかも分からないし、そもそも本当にすごいのかどうかも分からねえ。

「……と、とりあえずこんな感じで」

「……はあ」

 俺たちは言葉を奪われた。

「で、タクミにはこのくらいできるようになってもらうから」

「……え? いや……」

「ちなみにベースはあんまり存在感がないわりにミスるとすぐにバレるパートだから」

「え、なにそれ……」

「ま、特訓ね」

 そして俺の頭は無駄な思考を働かせる余地を奪われた。


837: 2016/03/11(金) 23:30:51.88 ID:pZZx+2x0o



 次に窓の外を見た時には日が沈みかけていた。

「……指痛い」

「練習!」

 すず姉のやる気のボルテージはまったく衰えなかった。
 ゴローはゴローで高森にギターを教えていて、すず姉はそっちの様子を見ながら俺にベースを教えてくれたけど、成長できたとは言いがたい。

「まあでも、初日にしては弾けるようになったよ」

 と彼女は慰めてくれた。

「簡単な曲なら、がっつり練習すれば一、二週間で弾けるようになると思う。簡単な曲ならね」
 
 ホントかよ、と思った。
 ようやく弦を押さえながらピックを動かすのにも慣れてきたけど、押さえる場所が変わるときにいちいち動きが止まってしまう。
 とてもじゃないけど、まともに弾けるようになる気になんてならない。

 左手の指が赤くなっている。
 
 なんで俺はこんなことをやってるんだろうなあ、という気分になる。
 

838: 2016/03/11(金) 23:31:18.54 ID:pZZx+2x0o

 ずっと横で様子を見ていたるーが、ここに来てようやく口を開いた。

「そういえば、タクミくん、さっき何か言ってませんでした?」

「……なにか?」

「はい。気になることがどうとか……」

「気になること……」

 ああ、そうだ。言われるまで忘れていた。

「さっき、ちい姉がデートするとかなんとかって……」

「ちい姉だって年頃の女の人なんだから、彼氏くらいいるよ」
 
 すず姉はスポーツドリンクで喉を潤しながらそう言った。

「すず姉は?」

「わたしはいいの」

 いいのか。

「いや、気になるのはそこじゃなくて、さっき、美咲って名前が」

「覚えてない? 美咲ちゃん」

「……美咲姉のことなの、やっぱり」

「うん」

 と、いうことは。


839: 2016/03/11(金) 23:32:07.93 ID:pZZx+2x0o

「ちい姉の彼氏って、ひょっとして……」

「はい」とるーは頷いた。

「お兄さん……遊馬さんですよ」

「あ、タクミは知らなかったんだ」

 すず姉は平気そうな顔をしている。
 ちょっと待て。
 
「いや、でもすず姉」

「なに?」

「すず姉って……」

「タクミ」

 すず姉は、ゆっくりとペットボトルの蓋を締め直したあと、口の前に人差し指を立てて笑った。

「まあ、生きてればいろいろあるもんだよね。歳を取るってこういうことなんだなあ」

 そう言ってすず姉は、部屋の隅のテーブルの上においてあった一対の熊のぬいぐるみを見つめた。
 その意味は俺にはよくつかめない。

「……遊馬兄とちい姉が」

 じゃあ、静奈姉は……。

 ……ちい姉?
 よりにもよって、と言ったら、ちい姉に失礼なのかもしれない。
 
 でも、俺には……その選択がよくわからないものに思えた。


840: 2016/03/11(金) 23:32:46.98 ID:pZZx+2x0o

「さて、じゃあタクミ、ベースとアンプと教本は貸してあげるから、家に帰っても練習すること。夜はあんまり音出しちゃ駄目だよ。ヘットホンつけてね」

「……あ、うん」

 と、練習することに、なぜか同意してしまった。

「よろしい。蒔絵ちゃんの方も、ギターは貸してあげる。ゴローくんは、思ってたよりできるから大丈夫」

「ありがとう……ございました?」

 なし崩し的に参加を余儀なくされていた高森と俺は疲れきっていた。
 ゴローはひとり元気で、「あとはドラムを揃えれば完璧だな!」とか言ってる。

「そういえばゴロー、ドラムの心当たりって誰のことだ?」

「あ、うん。声かけてみてから紹介する。おまえも知ってるやつだよ」

 知ってる奴……。

「とりあえず荷物も多いだろうし、今日はわたしがみんな車で送ってってあげる」

 すず姉はそう言って立ち上がる。
 俺達も疲れていたから、遠慮もせずに申し出を受け入れることにした。

「るーは乗れないから、お留守番」

 すず姉の言葉に、「えー」とるーは子供みたいな声をあげた。
 それでもしぶしぶ頷いて、玄関まで不服そうな顔で見送ってくれた。


841: 2016/03/11(金) 23:33:22.97 ID:pZZx+2x0o

「誰の家が一番近い?」

「俺の家かな」とゴローは言う。

「わたしの家が一番遠いと思います」と高森。

「そっか。じゃあ、ゴローくんおろして、高森さんち」

「……俺んち、中間地点だよ」

「タクミは最後。今、静奈先輩のところにいるんでしょ?」

「……あ、うん。聞いてたの?」

「るーから、ちょっとね。わたしも静奈先輩と久しぶりに会いたいし」

「……うん」

 何を考えればいいのかわからなくなってしまって、俺は助手席に乗せられてから、ずっと窓の外を眺めていた。
 高森やゴローは、練習をしている間に思いの外すず姉になついたらしくて、今となっては俺よりも彼女に馴染んだ口調で話しかけていた。

 すず姉の受け答えは「こども」に対する「おとな」の口ぶりで、それはあの頃、俺に接していたものよりもずっと遠く感じた。


842: 2016/03/11(金) 23:33:52.12 ID:pZZx+2x0o

 宣言通り高森とゴローを送り静奈姉の部屋に向かう頃には、あたりは暗くなりだしていた。

「学校で、るーはどう?」

 すず姉はふたりきりになった途端、そんな話を振ってきた。ずっと訊きたかったのかもしれない。

「どうって?」

「友達とか?」

「さあ。学年違うから」

「ま、そりゃそうか」

 そこで一度話が終わって、すぐに話題が変わった。

「ねえ、タクミ、あんたはどうしてこっちに来たの?」
 
 そんなことを訊かれると思わなくて、俺は言葉に詰まってしまった。
 夏の日暮れはほのかに明るくて、街の影は長い。あの頃みたいに、夕焼けはオレンジ色だ。
 昔はそれを赤一色に感じたものだったけど、今の俺は、そこに混じっている紫や濃紺の色合いを見つけられる。

 歳を取るってこういうことなんだなあ、というすず姉の言葉が、不意に耳に蘇った。

「あ、答えたくないことなら、いいよ。もっと単純な理由かと思ってたけど、思ったより複雑みたいだね、その顔を見るに」

 俺はちょっと笑った。

「どんな理由だと思ってたの?」



843: 2016/03/11(金) 23:34:22.55 ID:pZZx+2x0o

「ほら、るーとの約束があったからかなって」

 ……約束?

「あのとき、別れ際に、言ってたんでしょう? わたしたちは知らなかったけど。
 るーが嬉しそうに言ってたよ。タクミくんはまた来るって言ってた。そして本当に来てくれた、って」

「……」

 そういえば、言ったような気もするけど、そんなこと、彼女は忘れているものだと思ってた。

「……あれ、ひょっとして、わたし今、言わなくていいこと言った?」

「いえ……」

 だとしたら、会ってすぐ声をかけようとしなかった俺に、るーが怒ったのも無理はないのかもしれない。

「覚えているものなんですね。忘れられてると思ってた」

「……それは、約束のこと?」

「他の、いろんな人も。すず姉も、ちい姉も、俺のことなんて覚えてないと思ってた」

「あのね、わたしたちがそんなに薄情な人間に見えた?」

「……そういうわけじゃないけど、でも」

 俺にとって大事なことが、他の人にとってどうかはわからない。
 俺にとって重大なことは、他の人にとってはたいしたことではないかもしれない。

 そんな不安……それともそれは、傷つかないための予防線だったのだろうか。

 考えごとをしながら、帰り際にすず姉に手渡された缶コーラに口をつける。


844: 2016/03/11(金) 23:34:48.45 ID:pZZx+2x0o

「ね、タクミ、訊いていい?」

「なんですか?」

「るーのこと、好き?」

 俺はむせた。

「あは、いい反応」

 すず姉はあくまでクールだった。

「あの。好きとか、いや、好きっていえば好きですけど」

「……ふうん?」

「……好きですよ、たぶん」

「ほー」

 楽しげに、すず姉は頷いた。

「いいね、若いって」

「……」

 あんたも十分若いだろう、と言いたいのを飲み込んだ。


845: 2016/03/11(金) 23:35:17.78 ID:pZZx+2x0o

「……好きですよ。でも、なんだか申し訳なくて」

「申し訳ない? って?」

「なんだか、うまくいえないんですけど……」

「小難しいこと、考えてるわけだ」

「……」

「先輩も、そうだったんだろうなあ、たぶん」

 ……。

「……遊馬兄のことですか?」

「うん。あのひともきっと、そうだったんだろうね」

「どういう……」

「全部想像だし、無責任なことは言えないけど。でも、とても臆病な人だったんだろうなって思う」

「……すず姉は」

「なに?」

「すず姉は、遊馬兄のことが好きだったんじゃないの?」


846: 2016/03/11(金) 23:36:00.13 ID:pZZx+2x0o

 彼女はハンドルを握ったまま、少し黙った。

「それが難しいところなんだよね」とすず姉は言った。

 難しいところなんだよ、と彼女は繰り返す。

「ちい姉はさ、小さい頃、わたしたちとは別の街で暮らしてたんだよ」

「……そう、なの?」

「うん。聞いてなかった?」

「なにも」

「そっか。でも、わたしたちとるーの血が半分しかつながってないのは知ってるでしょ?」

「……なんとなく、そうなのかなって」

「うん。異母姉妹なんだよ、わたしたち」

「……」

「お父さんが前結婚してた人が、わたしたちの母親で、再婚相手が、るーの母親。今のお母さん。
 小さい頃のことだから、わたしも自分のお母さんの顔はよく覚えてない。ちい姉は、覚えてるかもしれないけど。
 お母さん、おばあちゃんとの折り合いが悪かったらしくてね。お父さん、気の弱い人だったから、いろいろ大変だったみたい」

 ……。


847: 2016/03/11(金) 23:36:40.29 ID:pZZx+2x0o

「よっぽど、嫌いだったみたいで。おばあちゃんがほとんど追い出すみたいに……って言っても、喧嘩別れだったみたいだけど、
 お母さんとお父さんが別れちゃって。それで、おばあちゃん、お母さんがいなくなったあと、ちい姉に手をあげるようになったんだって。
 お父さんは弱い人だから……おばあちゃんには逆らえなくて、家を出ることも、できなかったみたい。見た目通り、ちょっと厳格な家だから」

「……」

「それで、仕方なく、遠くの親戚の家に、ちい姉を預けることになったんだ」

「……どうして、ちい姉だけ?」

「……不思議だよね? わたしは、おばあちゃんには嫌われてなかった。むしろ大事にしてもらった記憶だってある。
 小さい頃から別の家で暮らしていたちい姉を、遠い親戚のお姉さんみたいに感じることはあったけど、おばあちゃんはわたしにとっておばあちゃんだった」

「……」

「顔が、似てたんだって」

「……顔?」

「うん。お母さんに、ちい姉はそっくりだったんだって。それにきっと、ちい姉はお母さんのこと覚えてたから、お母さんを泣かせてたおばあちゃんが嫌いだったのかもしれない。
 だからおばあちゃんは、ちい姉につらくあたってたんだって。わたしはそんなこと、なにひとつ知らずに生活してた」

「……どうしてそんな話、俺にするの」

「わかんない」

 俺は少しだけ、今聞いた話の意味について考えようとして……やめた。

「お父さんは、ちい姉を親戚の家に預けたあと、すぐ再婚しちゃった。あのひともあのひとで、傷ついてたんだろうけど……。
 それで、すぐにるーが生まれて……」

「……」

「ごめん、なんか余計な話してるよね」

「……うん。たぶん」

「ごめんね」

「いいよ」


848: 2016/03/11(金) 23:37:32.71 ID:pZZx+2x0o

 よだかは、ちい姉に似ている。
 そう言っていたのは、るーだった。

 るーはきっと、両親の祝福を受けて、暮らしていた。
 ちい姉は、それを得られずに暮らしていた。

 その形は、たしかに、重なっているような気がした。
 勝手な思い込みかもしれない。それはすこし、俺とよだかの境遇に、似ているような気がした。

「……でも、るーは、楽しそうですよ」

 すず姉は、きょとんとした顔で俺を見た。

「きっと、すず姉のこともちい姉のことも大好きなんだと思う」

 どうしてなんだろう、と俺は思った。
 彼女は本当に楽しそうに笑うのだ。

 笑えずにいる自分が恥ずかしくなるくらいに。

「すごいでしょ?」

「……うん」

「なにせ、自慢の妹だからね」

 すず姉はにっこり笑った。


849: 2016/03/11(金) 23:38:13.97 ID:pZZx+2x0o

850: 2016/03/12(土) 00:28:21.40 ID:g9ePJzD0o
乙です

引用: 屋上に昇って