伴侶やパートナーを亡くすのは死因が何であれ、同じように辛いものですが、その亡くなり方によっては周りがどう慰めていいかわからなくなるような、何ともいえない気持ちにさせられる亡くなり方もあります。


昭和天皇の第三皇女である鷹司和子さんのケースは本当にお気の毒だったと思います。

鷹司和子さんは旧名を孝宮和子内親王といい、現在の上皇陛下の姉にあたります。

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もともとは、母(香淳皇后)方の従兄弟でもある浄土真宗東本願寺派第25世法主大谷光紹氏に嫁ぐはずでしたが、破談になっています。


そして、旧五摂家のひとつである鷹司家に嫁ぎますが、お子さんは死産でした。

この結婚は祖母である貞明皇后が占いで決めた、と言われています。


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(画像はwikipediaより引用)

ご主人は1966年、和子さんがまだ30代半ばの時に亡くなりますが、普通の亡くなり方ではありません。


行きつけの銀座のバーのママ、前田美智子さんの自宅で、ふたりともバスローブを着た状態で一酸化炭素中毒で亡くなります。


主要新聞は立場に配慮して、"知人宅での"「事故死」「変死」と報じますが、当然、状況は日本中に知れ渡ります。



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プリンセスとして生まれて、若い日々は戦争のさなかで不自由な生活を余儀なくされ、父親である昭和天皇は戦後、米国の占領下で戦争犯罪を問われるかもしれない、という状況にあり、皇室制度の存続が決まり、新しい時代が始まって、皇女の初めての民間降嫁として話題を集めた方です。


まさか、自分の夫が他の女性の自宅で、バスローブ姿で亡くなるなど、想像もしなかったでしょう。


この5年前の1961年には長姉であり、良き相談相手でもあった東久邇宮家(戦後、皇籍から離脱)に嫁いだ東久邇成子さん (昭和天皇の第一皇女)が若くして亡くなっています。


和子さんは、ご主人の死後、自宅に強盗が押し入り、傷を負うなどの不幸にも見舞われます。


昭和天皇はそんな実の娘の身を案じ、赤坂御用地内に和子さんを住まわせます。


既に民間人となっていましたので、これについては批判もあったようですが父親としては放っておけなかったでしょう。


国民に批判されてでも、娘を守りたかった、という父親の愛情でしょう。



弟である当時の皇太子夫妻(令和の上皇、上皇后両陛下)は姉である和子さんを気遣って、ご静養などに誘い、お子さんたちと一緒に過ごします。


私は、伴侶が亡くなるまでこれを純粋に美談だと思っていましたが、死別後は、その「お気遣い」はもしかしたら、和子さんにとっては逆に辛かったかもしれない、と思うようになりました。


もちろん、弟夫妻が気遣ってくれる、というのは純粋に嬉しいと思いますが、自分の子どもは死産、目の前には仲睦まじい弟夫妻とその子供たち…


しかも、弟のお嫁さんである皇太子妃(当時)の名前は、夫と一緒に亡くなっていたバーのママと同じ「美智子さん」…


和子さんの胸の内はわかりませんが、気遣いはとても嬉しいけれど…辛い…そんな気持ちだったかもしれません。


鷹司和子さんは、父である昭和天皇が崩御し、時代が平成になった年に後を追うかのように、59歳で亡くなりました。


昭和天皇は、自分が亡くなって後ろ盾を失ってしまう娘を不憫に思い、敢えて天国に呼び寄せたのかもしれない、そんな風にも思えます。




悲劇の皇女、といわれるひとは歴史上たくさんいますが、この方もそのひとりかもしれません。
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