過去記事にも何度か同じことを書きましたが、私は「運命の相手」というのは確実に誰にでも存在すると思っています。

それは前世がどうの、というスピリチュアル系の話ではありません。

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伴侶、親、子ども、友人、同僚など関係性を問わず、「自分の最も良い部分を引き出してくれる相手」が「運命の相手」なのだと思います。


別の言い方をすると「そのひとといる時の自分が好き」というのが「運命の相手」かどうかの判断基準になると思います。

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そして、その「相手」は人間ではなく動物の場合もあります。

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2021年、ホームレス発言で炎上したメンタリストのDaiGo氏は猫好きで知られています。猫といる時の彼はその過激な発言とは程遠い優しい好青年に見えます。


そう考えると彼が何故「ホームレスの命よりも猫のほうが大事」と言ったのかその心の内が見えるような気がします。もちろん発言自体は批判を受けて当然のものではあり、擁護はできませんが。


彼は常々「自分は共感能力が低いので、それを本から得た知識で補っている」と言っていました。そんな彼にとって、飼っている愛猫は勿論、「猫」という存在自体が「知識」で補うことなく自然に共感能力を発揮できる存在なのではないかと思います。


彼は猫が好きであると同時に、猫といる時の自分が好き、猫といる時が自分が「ベストな自分」であると本能的にわかっていたのではないかと思います。


普通のひとよりもかなり多くの論文や本を読んでいる彼が、共感能力の欠如を知識で補おうとすること自体に無理があるということを理解していなかったとは思えません。


ホームレス発言では大炎上し日本中の多くのひとから批判された彼ですが、愛猫と戯れている動画は特に論文の解説などをしているわけでもないのに、好感度も高く好意的なコメントや好評価が多くつけられていました。


そういう意味で、もちろん猫だけではなく弟さんたちや亡くなったお母様も「運命の相手」だと思いますが、猫も彼にとっては「運命の相手」なのだと思います。

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私にとっては亡くなった伴侶が、「運命の相手」であり私自身の最も良い部分を引き出してくれる相手でした。



「運命の相手」との死別というのは、相手を「喪った」瞬間に自分自身を「失う」ことなのだと思います。


大切な存在を「喪い」、その死と向き合うべき自分自身をも「失う」というのが「死別」という闇の中で光を見出すのが難しい一番の理由だと思います。



亡くなったひとが生きて戻ってくることはありません。国によって医学的な死の判断基準は異なりますので、死亡時刻に差が出ることはありますし、奇跡的に回復ということは無くはないですが、全ての臓器が機能を停止し体が冷たくなった後に人間が蘇生するということは現代の科学ではまだありえません。


ただ「喪った」ひとは戻ってこなくても、遺されて自分自身を「失った」者が自分自身を再生することは決して不可能なことではありません。


どんな形であれ、喪った大切なひとを自分自身の中で生かし続ければ必ず少しずつではあっても自分自身を再生することは可能だと思います。



個人的には絵やイラストを描けるひとが羨ましいなと思います。写真として残っていない、記憶の中だけにある表情を描くことができたら、その時の幸せな空気を反芻しながら、もう一度幸せな自分を生き返らせることができるのではないだろうかと、そんなことを考えることがあります。


この記事を読んでくださっている皆さんは、「運命の相手」がまだこの世に生きて目の前で存在していた時にきっとご自身でも信じられないくらい最高の笑顔を見せて笑っていることがあったはずです。


写真でも残っていない限りその瞬間を見ることはできません。それでも、飾らずに最高の笑顔を見せることのできた相手と巡り会えたことはある意味奇跡です。


そしてそんな相手を喪ってしまったら、自分自身が生きている感覚を失ってしまっても仕方がありません。


自分が生きているという実感をどの程度の期間で取り戻せるかはひとそれぞれです。


その期間がそれぞれであるが故に、死別をして数年が経つと同じように死別を経験したひとに傷つけられるケースもありえると思います。



それでも、たとえどんな境遇にあっても、どんな環境に置かれても、弱音を吐きながらでも、必ず絶望を希望に変えるという決意が運命の相手を供養するということなのかもしれない、と思うことがあります。


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