「寿命」や「運命」という言葉の捉え方、感じ方はそのひとの死生観にもよりますが、大切なひととどんな形で死別したか、つまりその死因にも影響されると思います。

過酷な闘病生活の末に大切な家族を看取った遺族や自死遺族の方にとっては、「寿命だった」「運命だった」という言葉は受け入れ難いだけでなく、怒りすら感じる場合もあると思います。

然し、心臓発作などの突然死や事故死などの遺族にとっては「寿命だった」「運命だった」という言葉が救いになる場合もあります。

あと3分救急車が早く到着していたら、あの時電車が遅れさえしなければ等々、ほんの数分の違いが生死を分けた場合、「寿命だった」「運命だった」と言い聞かせないとやっていられない、そんな思いもあるからです。


その言葉に怒りを感じるのか救いを感じるのかはさておき、 「運命に規定された寿命」というのは存在するのでしょうか。それは死後の意識と同じく現在の時点では科学的に証明できないので、「自分はどう考えるか」「信じるかどうか」の問題ですが、私は個人的に「人間は寿命を決めて生まれてくる」という説がもっともしっくりくる、という感じがしています。


大切なひとを喪うと、神も仏もいないと思うひとも多いと思います。 私は特定の宗教を信仰しているわけではありませんが、それでも謂わゆる「神」というか、そういった人知を超えた何かは存在すると思っています。逆に、そう思っているので特定の宗教を信仰していません。


そして、生まれてくる時に決めた寿命は余程のことがない限り例え「神」でも変えられないのではないかと思っています。 根拠があるわけではありませんが、なんとなくそう思っています。


私たちは生まれた瞬間から、死に向かって歩いています。 生まれた瞬間に平等に決まっているたったひとつのことが「誰でも必ず死ぬ」ということです。でも「死」はある程度の年齢になるまでは遠い先の話だと思っていますから、大切なひとが亡くなると「死は理不尽に突然やってくる」と思います。


でも本人にとっては理不尽ではないのかもしれません。もちろん、寿命を決めて生まれてきたとしても、意識の上でそれを覚えているはずはないですから、死に直面したとき「死にたくない」「死ぬのが怖い」という感覚は当然あると思います。


それでも、「死」は素粒子のかたまりである人間としてのゴールで、その先の世界ではその素粒子の周りで振動しているエネルギーが「幸せ」に存在しているのかもしれません。 どんな死因であれ、亡くなったひとたちは、今はどこかに、或いはここに「幸せ」に何らかの形で存在している、「無念だ」などと思わず、自分が生まれるときに決めた寿命を全うし、今は限りない自由と愛に溢れた幸せな世界に存在している、そう信じたいと思っています。 そう思わないと、大切なひとの死はあまりにも重すぎます。


「死は理不尽に突然やってくる」というのは事実です。その死が理不尽だと思うのは、大切なひとだからです。 それは他の誰かとの生死と比べてという相対的な理不尽さではなく、絶対的な理不尽さです。ただ、遺された者としては理不尽だと思いながら生き続けるのは苦しすぎます。 私の場合はそういう意味で、現代の科学では答えのでない「寿命」や「運命」という言葉にすがりたい、という気持ちがあります。


それは「諦める」という意味ではなく、寧ろ生きるための糧、そんな気持ちです。正直なところ、「寿命」や「運命」という概念はよくわかりません。 でもそんなことをつらつらと考えてしまうのは、私の脳の中で自分を責める気持ちと自分を許そうという気持ちがせめぎあっているからかもしれません。


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