国力の限界、すがり続けた精神主義 ツケは前線の兵士に

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編集委員・永井靖二
ドキュメンタリー映像でたどるノモンハン事件
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 極端な精神主義を、敗戦まで奉じ続けた日本軍。その流れをさかのぼると、第1次世界大戦を機に“総力戦体制”を目指しながら、国力の限界に直面した軍幹部らの姿が浮かぶ。日本軍が初めて直面した近代戦だったノモンハン事件は、そのツケを最前線の兵士らに負わせる傾向を助長した。

 「敬愛する日本軍のために、私の確信するところを忌憚(きたん)なく、かつ淡泊に述べてみよう。目下の日本軍と欧州軍との比較は、あたかも、かの明治維新当時の薩長武士と、黒船との差と同様である」

 知日派で知られるフランス陸軍の将軍は、第1次大戦で生じた技術革新後の日本軍をこう評したと、陸軍で兵器局長や技術本部長を歴任した筑紫熊七中将は著書「国民必読 軍縮の第一歩へ」(1923年)に記している(原文を現代の表現に改稿、以下同)。

 1914年7月の開戦から4年以上にわたった第1次大戦では、航空機や戦車、毒ガスなど、近代科学と工業技術を背景にした新兵器が登場。死者は全欧州で1千万人、負傷者は同2千万人に達した。戦禍は前線の将兵だけでなく後方の一般市民にも及んだ。国家の資源や工業力をはじめ、国民全体が組み込まれる総力戦体制時代の到来である。

 国土が狭く、資源に乏しく、工業力も当時は欧米に及ばなかった日本。軍部は日露戦争(1904~5年)の勝利で列強への仲間入りを果たしたと任じる一方、欧州で繰り広げられた総力戦を、江戸末期の黒船到来に匹敵する脅威ととらえたとされる。

 陸海軍は第1次大戦開戦の翌15年秋、臨時軍事調査委員と臨時海軍軍事調査会をそれぞれ組織し、大戦の知見を軍改革につなごうとした。特に陸軍は、戦略や戦術、兵器、補給にとどまらず、教育、建築、経理、外交など幅広い分野を対象とし、専任だけで75人もの委員を任命した。その中に当時大尉だった永田鉄山(てつざん)がいた。

合理主義者の国力観

 陸軍士官学校で、後に首相と…

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この記事を書いた人
永井靖二
大阪社会部|災害担当
専門・関心分野
近現代史、原発、調査報道