195: 2012/07/24(火) 08:47:54.80 ID:COvsRb4l0

前回:勇者「王様が魔王との戦争の準備をしている?」【1】

 誰かの悲鳴が大空洞内を満たす。誰かのではなく、彼らの、であるかもしれない。

 勇者の鳩尾に深々と短刀が突き刺さっていた。
 虫ピンで昆虫を磔にするように、刃が勇者を貫き、庇われた少女ごと壁に縫い付けている。少女は勇者が突き飛ばしたおかげで軽傷のようだが、それでも肋骨の付近を刃が通った状況だ。布の服が鮮血を吸って徐々に色を変化させていく。

 勇者に重なる形で壁と挟まれた少女はすぐさま状況を理解する。動こうと意思を見せただけで全身を激痛が苛むものの、激痛程度で止まってはいられないのだ。
 こんなところで氏んでいられないのだ。
 彼女の償いはまだ終わっていないのだから。

狩人「勇者っ!?」

老婆「そいつは捨て置け! それよりも今は敵じゃ、わけがわからん!」

 二人の声をBGMに少女が鎚を持って駆け出す。一歩踏み出すごとに染み出す血液が、激痛が、まだ生きていることを教えてくれる。

 老婆は詠唱を終えた。十からの火球が空中に生まれ、推進力を得て鬼神に叩き込まれる。
 赤を通り越して青白く燃える超高熱の炎は、燃やすという概念からは程遠い。正鵠を得た表現をするならば蒸発である。
 だが、結局はそれも命中せねば意味がない。
葬送のフリーレン(1) (少年サンデーコミックス)

196: 2012/07/24(火) 08:50:28.20 ID:COvsRb4l0
鬼神「――――!」

 実に耳障りな、ぬかるみの底のような雄叫びを挙げ、鬼神はおおよそ有り得ない動きで回避した。筋肉で動いているのではなく、重力に操られているかのような動きであった。
 制動が聞かずに鬼神はそのままの速度で壁に激突する。かなりの衝撃だろうに、鬼神は相も変わらず無表情でけたたましい声を上げているばかりだ。

 衝突の隙を狩人が狙い、矢を放つ。同時に兵士Aが魔法剣を精製、狩人の動線からずれながら、抜刀。
 鬼神は今度は攻撃を回避しなかった。魔法剣の刃が深々胸部に傷をつける。
 必中だと思われていた鏃はすんでのところで復活した右手に掴み取られるが、さらにその手を狙って追加された矢の雨は、防御する一瞬も与えない。突き刺さるくぐもった音が連続して大空洞に響く。

 兵士Aの腰につけている魔法受信機から、他の隊からの連絡が入る。別働隊両隊が鬼神の討伐に成功したという連絡である。
 そちらは、少なくとも氏んだはずの鬼神が動き出したりはしていない。

少女「なんなの、これ。なんなのよっ!」

 少女が叫ぶ。あわせて隊長が刀を抜き、首を狙う。
 さらに少女が鎚を振るう波状攻撃。

鬼神「――――!」

 二人の気迫にたじろいだ鬼神は、またおおよそ生物らしくない動作で後ろへと逃げる。

197: 2012/07/24(火) 08:54:50.20 ID:COvsRb4l0
少女「逃がすか!」

隊長「あ、おい、待てよ!」

 隊長も少女を追い、さらに兵士A、狩人、老婆と続く。
 鬼神を追って大空洞内を進んでいくと、唐突に広い空間に出た。しかも、地下だというのに明るいのだ。

狩人「これは……?」

 光源は壁そのものであった。大空洞内の壁が仄かに発光しているのだ。

 そして開けた空間の中心には、広く透き通った地底湖が鎮座ましましている。向こう岸があるのかないのか、見えない程度には大きな直径だ。
 老婆の言ったとおりだ、と隊長が呟いた。

老婆「この光……魔法的なものじゃな」

隊長「敵がここを基地化したってことか」

老婆「恐らくその理解で――」

少女「いた!」

 少女が指差した先には四つん這いになった鬼神が、気の違えた笑みを浮かべて壁に張り付いている。いや、左腕が失われているので三つん這いか。

鬼神「よくここまでやってきた、ご苦労だ諸君!」

 鬼神が唐突に喋り出す。流石にこの事態は誰も予想だにしていないようで、度肝を抜かれた五人は、まるきり口調の変わった鬼神を呆然と見つめている。
 問題は、鬼神の様子は依然として生命的でないということだ。瞳は濁り、血まみれで、焦点はあっていない。まともな精神状態を期待するほうがおかしいだろう。

198: 2012/07/24(火) 08:56:35.21 ID:COvsRb4l0
鬼神?「そんなに驚いた顔をしないでいただきたい。別にサプライズのつもりはないのだ」

 忘我から脱した五人は、それぞれの得物を抜いて鬼神に向ける。実に洗練された動きである。

鬼神?「いい動きだ。それでこそ誘き寄せたという甲斐もある」

隊長「誰だ、てめぇ」

 凄む隊長。刀の切っ先を鬼神に向け、どのような動きにも対応できるようにしている。

鬼神?「ふむ。下賤の者に名乗る名は持ち合わせておらんのでな、すまんが通称で勘弁してもらおう」

鬼神?「否。寧ろ貴様らにはこちらのほうが通りがいいかもしれんな」

鬼神?「我が名は九尾。傾国の妖狐、魔王軍四天王、九尾の狐だ」

全員「っ!?」

 驚愕の表情。それはそうだろう、いきなり敵の幹部が、声だけとはいえ姿を――表現として正しいかどうかは定かではないが――現したのだ。
 一歩前に歩み出たのは老婆である。膨大な層の魔力のヴェールを身に纏い、合図さえあればすぐにでも魔力の奔流を叩きつけられる準備を備えている。見るものが見れば、それだけで魔力に卒倒してしまいそうなほどだ。
 老婆はいつもの飄々とした様子の一切を消して、急速に殺意を膨らませていく。

老婆「お前が九尾の狐であるかはこの際どうでもいい。何が目的じゃ」

九尾?「その鬼神から聞いていないか。今回の任務は九尾から直々の命令だ。不本意ながら、部下の失態は上司の責任だと聞き及んでいる」

老婆「何が目的じゃと聞いておるっ!」

199: 2012/07/24(火) 09:00:36.97 ID:COvsRb4l0
九尾?「……別に答える義務はないんだが、そうだな……」

九尾?「この世界の安定のために」

九尾?「と、いうところか?」

少女「何言ってんのよ、ばっかじゃないのっ!?」

兵士A「……」

 すかさず少女の苛立ちが飛んだ。血の気が多い彼女は今にでも飛び出していきたそうだったが、老婆と狩人が前にいるため、なんとか踏みとどまっているようであった。
 彼らはここまでお茶を飲みにきたわけでも、それこそ地底湖探検ツアーに来たわけでもない。鬼神を頃し、洞穴を魔物の手から解放するために来たのだ。気が逸るのは仕方のないことでもある。

 しかし、九尾は慌てない。そもそも体はここにはないのだ。最早ボロも同然の鬼神がどうなろうと、関係はない。

九尾?「いずれわかる……。しかし、ここ以外の二か所でも、鬼神がやられてしまった。思ったより人間という種は手ごわいものだな」

九尾?「いや、手ごわいからこそ、か」

老婆「何を言っているのじゃ、さっきから」

 老婆のヴェールが急速に収束していく。光は渦を成し、杖の先端で大きな珠となる。

老婆「大体お主な、わしとキャラが微妙にかぶっとるんじゃよ」

200: 2012/07/24(火) 09:01:33.20 ID:COvsRb4l0
 数条の光が先端から迸り、そのまま鬼神を貫いた。
 鬼神の体に十ほどの大小の穴が空く。一瞬で炭化したためか、血液すらこぼれてこない。ただぱらぱらと炭が落ち、次いでバランスを崩した鬼神が壁から地面に落下する。
 頭から先が潰れていた。それ以外にも様々な部分が消し炭になっている。

九尾?「おお怖い怖い。なんとも暴力的な婆だ」

 一体どこから見て、どこから声を出しているのか、五人にはわからないが、声は止まらない。地底湖内に不気味に反響する。

九尾?「このまま人間にやられっぱなしというのもアレだから、九尾も一応最後っ屁くらいは残していこうかな?」

九尾?「ま、所謂『お約束』というやつだ」

 そう言った途端、鬼神の体がおもむろに膨張しだす。膨らむのではない。中から何かが蠢き、胎動し、外に出ようと皮膚を盛り上げているのだ。
 筋肉と皮膚の裂ける音が聞こえる。中にいる「何か」はもがき、そしてついにその片鱗を見せる。

 その生物は。
 白い体毛を持っていた。
 白い鬣を持っていた。
 巨大な牙をもっていた。
 巨大な角を持っていた。
 手足は合計四つ。
 瞳は合計六つ。
 力強さの中に聖なる気配すらも感じる獣。

九尾?「白沢」

九尾?「適当にそいつらと遊んでやっといてくれ」

201: 2012/07/24(火) 09:02:28.42 ID:COvsRb4l0
兵士A「九尾ィッ!」

 今までほとんど沈黙を守ってきた兵士Aが、この段になってようやく口を開く。

兵士A「こんな、こんなものを持ち出して、お前はっ……くっ!」

 兵士Aの激昂する姿を見て、声に思わず快楽の色が混じる。
 心底、心底楽しそうな声である。

九尾?「そいつは強いぞ。何せ九尾自信で招いた聖獣だ。逃げたかったら逃げてもいいが……」

九尾?「さて、近隣の町はどうなるか、見ものだな」

 それを最後に声が消える。それでも兵士Aはずっと虚空を睨みつけていた。

隊長「A、白沢ってのはなんだ」

兵士A「化け物です。聖獣と称される……強さは折り紙つきです」

 鬼神の氏体がぼろきれのように引き裂かれ、中からついに白沢が姿を現す。
 白沢は四肢でしっかりと地面を踏みしめ、うぉおおおおん、と嘶いた。

 空気が振動となって鼓膜を揺らす。思わず目を閉じてしまう衝撃に、彼らは一歩踏みとどまる。
 空恐ろしいほどの存在感であった。鬼神も強かったが、それとは格が違う。決して歩み寄れない隔たりがそこには存在した。

 一般人なら思わず失禁するか、失神していたことだろう。老練の兵士であったとしても、尻尾を巻いて逃げだしていたかもしれない。
 彼らがそうしなかったのは、ひとえに使命を帯びていたからである。なまじ白沢の強さを肌で感じたからこそ、彼らは「ここで食い止めなければならない」という思いを強く抱くこととなった。

202: 2012/07/24(火) 09:03:49.00 ID:COvsRb4l0
 白い獣が動いた。

 一瞬で姿が消え、背後をとられる。全員が事実に気が付いた時には、既に五人は高く宙を舞っていた。
 地面に叩きつけられる。地面は土ではなく岩盤で、固い。かなりの激痛だ。

 白沢の角に光が溜まっていく。超高密度の力場がそこに収斂する。
 危険度が高いことは誰しもが見て取れた。しかし、叩きつけられた衝撃で、動くことなどできない。

老婆「大木!」

 紫電が五人に向けられて発射されるすんでのところで、老婆が大木を壁に召喚するのが勝った。あまりの衝撃に大木は中途から根こそぎ消滅するが、威力そのものを食らうと考えれば背筋が凍る。

 しかし事態は何一つ好転していない。隊長が立ち上がって刀を向けるが、そもそも触れられるかどうか。
 殺気を察知したのか、聖獣が地を蹴る。残像が残りかねないほどの急加速に、なんとか隊長は反応する。

 真っ直ぐに突っ込んでくる白沢に刃を振るが、その間にすでに白沢の姿は消えていた。

少女「横!」

 同時に白沢が横から突進してくる。なんとか角だけは回避し、頭部が隊長の脇の部分にめり込む。
 肋骨の折れる鈍い音。勢いによって隊長は強く壁に叩きつけられる。

少女「くっそぉおおおおおおお!」

 少女が叫んだ。がっしりと白沢の体を掴み、動かないように踏ん張る。
 白沢も最初は地面を蹴っていたが、どうやら拮抗して埒が明かないと踏んだのか、角に力場を収斂させ始める。
 老婆が放った火球は、しかし白沢に届く前に撃ち落とされる。
 角に充填された光が限界を迎えた。

 落雷。
 少女は体をぴんと硬直させ、声にならない声を挙げながら地面に大きく倒れる。意識がすでにないのか受け身すらできず、頭から。

203: 2012/07/24(火) 09:07:58.22 ID:COvsRb4l0
老婆「く! 大空におわす我らが天の神よ、いまこそ――」

 詠唱よりも白沢の縮地のほうが早い。老婆も隊長と同様に壁に吹き飛ばされた。
 と同時に、数ある目の一つに鏃が叩き込まれる。白沢は一瞬だけ声を発するが、それ以降には殺意が爆発的に膨らむばかりで、有効打を与えられたとは言い難い。
 白沢が地を蹴り、姿を消す。

勇者「させねぇよっ!」

 落雷が地底湖全土を襲う。縦横無尽に打ち出される電撃に、さしもの白沢も回避はならなかったのか、衝撃で弾き飛ばされた。
 地面に爪痕を残しながら白沢はバランスをとる。獲物を狩る邪魔をされたためか、瞳が怒りに細められる。

狩人「勇者!」

隊長「お、お前……氏んで、なかったのか」

狩人「早いね」

勇者「あぁ。異常な早さだ。女神の加護も水ものだな」

 自らにまつわることを、勇者は異常と切って捨てた。

 白沢は新たな敵の登場に警戒しているのか、前足で地面を擦り続けている。

204: 2012/07/24(火) 09:09:15.79 ID:COvsRb4l0
勇者「ありゃ、なんだ」

老婆「あ、あれは……白沢、じゃ」

少女「……あんた、来るのが遅いのよ……」

 鬼神を圧倒できていた五人がここまでやられるということは、勇者にとって驚愕の事態であった。白沢がそれほどの強さを持っていることは、実際に垣間見ればすぐにわかることでもある。

 そこで兵士Aが前に出た。

隊長「……どうした」

兵士A「さすがに、もう無理、か」

兵士A「ごめんね?」

 一体何に謝っているのか全員が首を傾げた時、ついに白沢が突っ込んでくる。巨大な角は槍以上の鋭さで体を貫きに来るだろう。そして高速の一撃を回避できる余力は、彼らにはもう残されていなかった。

 だから、兵士Aは、片手で白沢を吹き飛ばすしかなかった。

 ちょうどいい強さの抑えなど、白沢相手にできる気が知れなかったから。

205: 2012/07/24(火) 09:11:24.47 ID:COvsRb4l0
 五人は何が起こったのか理解できなかった。目に見えない速度を誇る獣を、抑えても抑えきれない力を誇る獣を、片手で弾き飛ばすなど――それこそ人間業ではない。

九尾「おお!」

 喜色がこれまで以上に交じる。まるで子供のように無邪気な声が、笑いとなって自然とこぼれ出す。

九尾?「ついにお前も諦めたか! 諦めてくれたか! 長かった、長かったぞ、なぁ――」

九尾?「ウェパルよ!」

 兵士Aはあくまで何も言わず、白沢のほうを向いた。今はそれに集中したいとでも言うように。
 白沢は唸りを挙げ、口の端から涎を垂らし、角に光を溜める。

白沢「おおおおおおおおおお!」

 激しい雄叫びとともに、雷を乱射しながら白沢が突進してくる。
 その速度は神速。人間には目にもとらえられない速度。

 けれど兵士Aには、それに対応するなど造作もない。

 地底湖の水が渦を巻き、次の瞬間には鉄砲水となって白沢を押し流す。地面に勢いよく叩きつけられた白沢の前足はあらぬ方向に折れている。

兵士A?「……」

 彼女が軽く手を振ると、地底湖の上に船が現れた。無論そんなものが存在するはずはない。青く、薄く透けるそれは、魔力で編まれた武装船団である。
 大量の剣と砲弾が放たれる。

 戦いはそれだけで決した。

206: 2012/07/24(火) 09:12:23.08 ID:COvsRb4l0
 数多の砲弾が撃ち込まれ、数多の剣が突き刺された白沢は、最早立ち上がることすら叶わない。時折呼吸で体が上下するだけだった。

兵士A?「……」

 近づいていく。不用心だと指摘する者はどこにもいない。

九尾?「流石じゃウェパル! さぁ、見せてくれ、お前の深奥を!」

 兵士Aの姿をした彼女は、唇をきゅっと噛みしめた。しかし何も言わず、白沢のそばまで寄り、手をかざす。
 傷口から白い何かが湧き出る。それを見ている者には、それが最初、膿か何かであると思った。もしくは体液の一種なのでは、と。
 当たらずとも遠からず。それは蛆である。

 マゴットセラピィというものがあるという。蛆療法と訳されるそれは、壊氏した患部を蛆に食わせることにより、術後の回復が良くなるという療法である。
 しかしこの時ばかりは事情が別だ。蛆たちは壊氏の有無にかかわらず、体組織が体組織であるという理由だけで食らいつく。何万から何億という爆発的増殖を繰り返し、蛆は白沢を瞬く間に覆い尽くした。

 覆い尽くした次は食らいつくすだけである。蛆に覆われた白沢のシルエットが段々とやせ細り、小さくなり、後には骨しか残らない。

兵士A?「……」

 そこでようやく、彼女が五人を振り返る。
 その瞳は暗く、暗く、どこまでも暗く、深い悲しみに覆われているように思われた。

207: 2012/07/24(火) 09:13:36.56 ID:COvsRb4l0
 隊長が無言で刀を向ける。白沢を瞬殺できる実力を見てなお、己の傷を理解してなお、魔物は敵だというように。

兵士A?「騙すつもりはなかったんだ。こればっかりは信じてほしい。難しいと思うけど」

 その発言は、彼女についての九尾の発言が全て事実であることを、半ば肯定したようなものだった。
 いや、目の前であのような規格外の出来事を見せられては、今の発言は駄目押しにしかならない。
 五人は理解していた。彼女は確かに人間ではないのだと。

兵士A?「ボクはウェパル。海の災厄、ウェパル。魔王軍の四天王」

隊長「何が目的だ。王城の中に紛れ込んで、何をしようとしていた」

ウェパル「……」

隊長「答えろっ!」

ウェパル「ボクが言ったことを君たちは信じてくれるのかい?」

 兵士Aは――ウェパルは、あくまで柔和に言った。きみたちと刃を交えるつもりはないと言外に伝えている。
 兵士Aの中身が変容したわけではない。彼女は今まで兵士Aであり、かつウェパルでもあった。事実を知ったからと言って人が変わったように思えるのは、人間の傲慢というものだ。

 兜に隠れた短髪。くりくりとした瞳。どこか憂いを帯びた表情。
 彼女は常に彼女である。

208: 2012/07/24(火) 09:14:40.82 ID:COvsRb4l0
隊長「……」

 隊長は口を噤んだ。無論、彼とて長年の部下を一刀のもとに切り捨てたくなどない。そもそも物理的にそれが可能であるかどうか。
 それでも彼は王国の兵士であった。騎士の名を賜るほど豊かな精神を持っているわけではないが、火種を放置していくわけにはいかない。

ウェパル「隊長はわかりやすいねぇ。ボクを信じたいけど、信じるのも職務的に、ねぇ?」

隊長「……魔物ってのは、心も読めるのか」

ウェパル「そんなわけないよ。ちょっと想像しただけ。心を読めるのは、それこそ九尾くらいのもんかな」

隊長「……」

ウェパル「説明するよ」

――そうしてウェパルは、自らの身に起こったこと、自らの心に起こったことを話し始めた。

 『人魚姫』という書物がある。一般的な童話だ。国の人間だけでなく、隣国の人間だって知っている、誰しも一度は読んだことがあるフェアリィテイル。
 物語では、陸に住む王子に恋をした人魚が人間として足をもらい、生活しに陸へと上がる。
 ウェパルもそうであった。

ウェパル「今でこそこんな姿だけど、ボクの本当の姿は人魚みたいなものなんだ」

 そう言って彼女は地底湖へと飛び込んだ。

隊長「おい!」

 逃げるのか――そう言いかけて、あるわけないと思いなおす。逃げるくらいなら皆頃しにしたほうが早い。それだけの魔力を彼女は有している。

209: 2012/07/24(火) 09:15:35.45 ID:COvsRb4l0
 兵士Aの姿は湖面に消え、一拍置いて浮上する。いつの間にか鎧や兜は消え失せ、代わりに現れたのは一匹の――もしくは一人の――見目麗しい人魚の姿。
 木綿のシャツは体液で次第に腐食していく。臍の下から足の先までが緑青の鱗に覆われており、上半身の一部にもところどころ鱗がある。
 両の足は接合して一つの尾鰭を形成し、どこから見ても魚類のものだ。

 何より異質なのはその左腕。右腕はヒトの腕だったが、左腕は違う。刺胞生物のような、具体的に例えるならばヒドラのような、数多のうねる触手が枝分かれを繰り返している器官が付随していた。
 
 顔のつくりや髪の色、長さだけが、兵士Aのままである。
 ただ、僅かに瞳が黒く濁っているか……?

 いや、異なる部分が一つだけあった。胸から首、そして首から左の顔半分にかけて、赤紫色の大きな紋様が浮き出ているのだ。
 痣とも違う、完全に人為的な幾何学模様である。

ウェパル「ボクが海で生きる限り、この姿とこの紋様からは逃げられない。ボクは好きな人のそばにいたかっただけなんだ」

 だから、自らの魔法で足を生み出し、陸で生きようと決めた。もう二度と水辺には帰るまいと、そう思っていたはずなのに。
 童話のように泡になって消えたりはしない。また姿を人間に戻すことだってできる。けれど、情勢が情勢だ、もう二度と愛する人に近づくことはできないだろう。

 なぜなら、彼は王城で兵士に就いており、比較的高い地位にいたから。
 なにより、彼は職務に忠実だから。
 愛する妻と子供のために戦っているから。

210: 2012/07/24(火) 09:16:21.76 ID:COvsRb4l0
 まさか九尾が白沢まで持ち出してくるとは思わなかった。本気を出せば瞬殺できるとはいえ、人外の力を見せることなどできない。そうすれば正体が知れてしまう。彼のそばにいられなくなってしまう。
 しかし白沢を殺さねば、それこそ彼が殺されてしまう。
 天秤にかけるまでもないのに、心は苦しい。大きな不幸か小さな不幸か。不幸とわかっている未来の紐を引くのは、決して笑顔ではできない。

 それでも自分は紐を引いた。引くことができたのだ。
 それについて、誇ることすらあっても後悔はない。

 理由がどうであれ、正体がばれてしまえば、愛する人は自分に刃を向けるだろう。魔物と人間が手を取り合う世界はとうに終わりを迎えている。初めから実らぬ恋だったのだ。

 そんな風に諦めればどんなに楽だったろうか!

 心は不思議だ。押し込めた分だけ反発して、蓋を激しく叩きつづける。ここから出してくれと。自分を解き放ってくれと。
 だからこそここまで饒舌に話すことができるのだ。積りに積もった思い、積年の情は土石流のように流れ出す。堰はどこにも見当たらない。あまりの水流にどこかへ流されていったのだろう。

 だから、ねぇ、隊長。

 ウェパルはそこまで訥々と語って、顔を抑えた。

 ウェパルはぼろぼろと真珠の涙を零す。顔を抑えても指の隙間から溢れ出てしまう液体は、生命が生まれた原初の海の味である。

ウェパル「早く、逃げてください」

ウェパル「ボクは――所詮、魔物なんです」

ウェパル「醜い腕と、恥さらしな呪印を押し付けられて」

ウェパル「魔族も、海も、全部捨てて陸に上がったっていうのに、結局ボクは幸せには成れなかった」

211: 2012/07/24(火) 09:17:02.62 ID:COvsRb4l0
 ウェパルの口の端が次第に引き攣っていく。
 ひ、ひ、とウェパルは何とか笑いを堪えていた。鋭い牙をなんとか隠しながら、全身の筋肉を働かせ、謀反を押しとどめる。

 魔物の体は心すらも魔物にする。

 著名な作家は、その著書の中でフランケン・シュタインの怪物についてこのように論じた。「怪物は生まれたときから怪物の心を持っているのではなく、周囲が彼を怪物として扱うことによって、はじめて怪物になるのである」と。
 作家は「顔」にのみ注目していたが、要するに同じことである。真実は存在しない。ただ解釈だけが心を形作るのだ。

 ぞわり、ぞわりとした感覚が、勇者たちを包む。

 ウェパルから染み出しつつある膨大な魔力が、地底湖に徐々に武装船団を顕現させる。海の災厄と名のつく通り、彼女は水を操り、嵐を起こし、武装船団を召喚させ、傷を操作する能力を持っている。

ウェパル「だから、ねぇ、早く、早くっ!」

 武装船団は帆の天辺まで現れた。陸であった頃は剣の一本しか形作れなかった具現化能力。水の中に潜ってしまえば、武装船団など造作もない。
 二十の砲台と五の帆を備えた巨大船。砲台を先端に備えた小型船。大量の剣と矢と鉾。
 あるものは水に浮かび、またあるものは宙に浮き、圧倒的物量が狙いを定めている。

「早く逃げてぇっ!」

 手に入らないなら奪えばいい。
 心が手に入らないなら、体だけでも奪ってしまえ。

 水中に沈んだものは全て自分のものなのだから。

212: 2012/07/24(火) 09:17:44.27 ID:COvsRb4l0
 怪物という毒がウェパルの心を侵食していく。

ウェパル「このままじゃ、あなたたちを頃して、頃しちゃう、頃す、こ、ころ、頃し、」

ウェパル「頃したいよぉおおおおおおぉっ!」

 大仰な音を立てて、全砲門が一斉に五人を捉える。
 勇者は咄嗟に道具袋から、洞穴に入る前に支給されたものを取り出す。
 キマイラの翼。老婆が特注した、移動用道具。

勇者「飛べ!」

 魔力で形づくられた砲弾が、武器が、十と言わず五十と言わず、それこそ二桁違いの千の数、一斉に放たれた。

 洞窟全体を震わす爆発音。一部ではそれこそ崩落した音すらも聞こえる。

 煙の晴れた後には、五人の姿はない。

 跡形も残らないほど粉々になったのか――否。タッチの差で逃げられてしまったようだ。
 それを果たして「残念だった」というべきかどうかは定かではない。

九尾?「ご苦労様」

ウェパル「もとはと言えば、九尾が原因でしょ。頃すよ」

 虚空に対して大砲の口が向けられる。ウェパルは本気だ。

九尾?「命などいくらでも持って行け。ただ、全てが終わったらだ。それまで九尾は誰にも殺されるつもりはない」

九尾「九尾にはまだやることがある」

ウェパル「……お前は、何を考えている? ……ボクにはわからない」

 返事を聞こうともせずに、ウェパルは武装船団を消失させた。そうして地底湖に潜って消える。

―――――――――――――

218: 2012/08/01(水) 08:10:46.03 ID:HjpWLE040
―――――――――――――
 兵士Aは戦氏した、という報告がなされた。

 王都、王城にある一室。兵士たちは鬼神討伐の功労を称えられ、いい酒、いい食事を前にした宴会が行われている。
 様子ははっきり言ってしまえば有頂天だ。強者たちは鬼神に苦戦しながらも、なんとか一人も欠けることなく倒し、帰ってきた。それでも激戦だったことには違いないようで、欠席者こそいないものの、いまだに包帯でぐるぐる巻きになっている者もいる。
 氏線を潜り抜けたものの顔は晴れやかだ。どんなものが相手でも、もう二目見ることができないのだと思ってからでは、感動はひとしおである。

 なぜ、立地的にも戦略上の要衝となりえないあの洞穴に鬼神が住みついたのか。老婆含む上層部はその点について議論していたが、今ばかりは羽目を外している。
 話を聞く限り、明日の朝一でまた洞穴へと戻るらしい。魔術的な痕跡から敵の目論見がわからないか、と老婆は勇者に言っていたが、話の内容があまりにも術式的に高度で理解がおっつかないというのが正直なところだった。

 勇者は葡萄酒をちびちびとやりながら、ライ麦のパンを千切って口に運んだ。
 やはり王城の食べ物はうまい。もう一口、もう一口と食べ進める間に、パンは半分ほどになってしまう。
 まぁ誰に迷惑をかけるわけでもなし、勇者はさらにパンを千切る。

狩人「あーん」

勇者「……」

狩人「勇者?」

 狩人が口を開けていた。
 表情は普段と変わらないが、顔がかなり赤い。

219: 2012/08/01(水) 08:12:35.24 ID:HjpWLE040

狩人「あーん」

勇者「あ、あーん」

勇者(なんだこれ、めちゃくちゃ恥ずかしい)

 勇者の気持ちなどどこ吹く風、狩人はパンの欠片を咀嚼し、にこりと笑う。

狩人「勇者、勇者」

狩人「好き」

 しなだれかかってくる狩人。眠っているのかと思えばそういうわけでもないらしい。表情を蕩けさせて、うへへ、と笑っている。
 勇者は辺りを見回した。なんだか周囲の、面識もない兵士たちが、こちらを見てにやにや笑っているように思えたためだ。

 所詮酔っ払いの嬌態だと、勇者は努めて冷静になるよう心掛ける。彼自身酒は回っているが、さすがにここまではならない。

狩人「ね、お酒飲も、お酒」

勇者「そろそろいい加減にしておけよ」

狩人「だって最近ずっと戦いっぱなしで、息抜きもできてないから」

勇者「だからってさ」

狩人「このままだと心病んじゃうよ?」

 はっとした。狩人はどこまで自分のことを見ているのだと彼は思った。

狩人「世界を平和にしてもさ、自分を犠牲にしちゃ意味ないじゃん」

220: 2012/08/01(水) 08:14:07.75 ID:HjpWLE040
勇者「狩人」

 返事はない。

勇者「……狩人?」

狩人「んー……勇者……好き……」

勇者(寝たのか)

 段々と彼女の顔が落ちてくるものだから、勇者は観念して自分の太腿に頭を誘導してやる。すやすや眠る彼女の顔は、いい夢でも見ているのだろうか、幸せそうだ。
 一年半前、彼女と旅を始めたころは、彼女に笑顔が戻るときが来るとは思っていなかった。あのころは……そうだ、賢者と盗賊を連れていたのだ。

 ゆっくりと頭を撫でてやる。狩人の髪質は細く、柔らかい。まるで子供のそれだ。
 指に絡みつき、持ち上げればするりと溶けていく感覚が、勇者は当然嫌いではなかった。彼女が覚醒しているときにやるといろいろ面倒なので自重しているだけだ。
 面倒というのは、主に理性とか、自制とかが。

勇者「?」

 部屋の隅が何やら騒がしかった。目を凝らせば老婆をはじめとする一団が随分と盛り上がっている様子である。年寄りの冷や水は寿命を短くするというのに大丈夫なのだろうか。

 勇者が葡萄酒を呷ると、ジョッキは空になった。葡萄酒だけではなく、蒸留酒も麦酒も控えている。どうせ自分らの金ではないのだから、飲めるだけ飲んでも罰は当たるまい。
 太腿に頭を乗せている狩人を起こさないように、そっと立ち上がる。
 足がふらついた。

勇者(おっと……久しく飲んでないから、弱くなったかな)

 一応麦酒を注ぐだけ注いで、廊下に出る。涼しい風が頬にあたった。

勇者(窓が開いているのか)

 夜風にあたろうとバルコニーへ向かう。記憶が正しければ今夜は下弦の月だ。

221: 2012/08/01(水) 08:15:47.37 ID:HjpWLE040
少女「よ」

 先客がいた。脇腹に包帯を巻いて、上から軽く着物をひっかけている。
 流石に飲み物は酒ではないらしい。普通の茶だろう。

勇者「風邪ひくぞ」

少女「そん時ゃそん時でしょ」

 少女は快活に笑って言った。

少女「今は夜風に当たりたい気分なのよ」

 奇遇だな俺もだ、とは言わなかった。勇者は無言で少女の隣に立ち、手すりに体を預ける。

少女「ありがとね、庇ってくれて」

勇者「あぁ。傷、大丈夫か?」

少女「掠っただけよ、大ごとじゃないわ。あんたのお蔭。……業腹だけど」

勇者「そりゃすまんね。ま、でも、盾になるのは俺が適任だ」

少女「そう。そうよね。うん」

少女「氏ぬのは怖くないの?」

勇者「最初は怖かったけどな。今はもう慣れた。慣れは、つまり麻痺ってことだ。感覚を鈍化させる」

222: 2012/08/01(水) 08:20:31.63 ID:HjpWLE040
少女「でもさ、さっき生き返ったから、次も生き返るなんて保証はどこにもないわけじゃない。もしかしたら最後の一回だったかもしれない。回数制限があるのかもしれない」

少女「大体、あんたに能力を授けてくれた女神様? そいつだってそれ以降は全然姿を見せないんでしょ?」

少女「なんで不確定なものを信じられるの? 怖くないの?」

 質問攻めである。勇者は苦笑して月を見た。
 やはり、下弦の月だ。大分痩せている。

少女「アタシは、あんたのことがわからない」

勇者「知りたいのか」

少女「……狩人さんだって知ってるんでしょ。おばあちゃんも、なんとなくはわかってるみたいだし。癪なの、そういうの」

少女「アタシはあんたに氏んでほしくない。例え生き返るんだとしても」

勇者「……」

少女「なによっ、悪いっ!?」

勇者「いや」

少女「もう! いいからあんたの話をしなさいよっ!」

勇者「……笑うなよ」

少女「笑わないよ」

 勇者は自分が何を言っているのかわからなかった。プライベートな、しかも心の内を吐露するなど、考えられなかったことだ。
 アルコールによる酩酊が悪さをしているのだろう。そう思うことにする。

223: 2012/08/01(水) 08:21:32.59 ID:HjpWLE040
勇者「……俺は、お前らがうらやましい」

少女「は?」

勇者「最後まで聞け。……お前らは強い。俺はお前らみたいな強さが欲しい」

勇者「目の前でどんどん人が氏んでいくんだ。魔物を相手にしてれば当然だけどな。でも、五人、十人が氏んで、俺はたまに思うんだ。俺は疫病神なんじゃないかって」

勇者「少なくとも、俺が強ければ仲間は氏なないだろう。その程度の強さくらいは欲しいもんだ、そう思うもんだ」

勇者「誰かが目の前で氏ぬのは見たくない。それが嫌だからって引きこもってても、俺はたぶん、世界のだれかがどこかで苦しんでいる事実に耐えられない」

勇者「みんなを救うなんてできるはずもないのにな」

勇者「だからせめて、俺の手の届く範囲のやつは救いたいんだけど、な。狩人とか、ばあさんとか……お前とか」

勇者「でも、お前らのほうが強いわけだ。なんていうか、大変だよ」

少女「ガキっぽいよね」

勇者「自覚はあるんだ」

少女「自覚はあるんだ?」

勇者「なきゃ、こんなに苦労はしないな」

少女「ま、そうか」

224: 2012/08/01(水) 08:22:39.74 ID:HjpWLE040
少女「でもね、勇者。誰かを救うってことは、助けるってことは、強くたって難しいよ」

少女「アタシは……過去に人を頃したことがある」

勇者「……」

少女「もうね、最悪。何度も夢に見た。フラッシュバックも終わらない」

少女「最初会ったとき、あんたにも苦しめられたし」

勇者「……悪い」

少女「もういいよ。よくないけど」

少女「人を頃したことが仕方ないとは思えない。思いたくない。もしかしたらもっと他にいい方法があったのかもしれない。でも、アタシが人を頃すことによって、結果として頃した数より多くを救えたのは事実。そしてそれがアタシの誇りなの」

少女「アタシはその誇りを杖に、今まで生きてきた」

少女「個人の絶対的価値は存在しないんだよ。事実はこの世にはない。ただ解釈があるだけ」

少女「何人救えなかったかじゃなくて、何人救えたかの物差しで測ればいいじゃん」

少女「少なくとも、狩人さんは救われてるんでしょ、アンタと出会って」

少女「アタシだって救われたわ」

少女「あんまりバカ言ってると、ぶっとばすよ」

勇者「……」

225: 2012/08/01(水) 08:24:14.55 ID:HjpWLE040

 勇者は少女の顔が直視できなかった。だから、彼女がどんな顔をしているのか、彼にはわからない。
 笑っているのか、悲しんでいるのか、真顔なのか。
 そのどれもが当てはまるような気がした。

少女「……ちょっと寒くなってきたね。アタシは部屋に戻るかな。お酒はどうにも飲めないし。アンタは?」

勇者「もう少し、いるよ」

少女「そ。……最後に、一つだけ」

少女「世界の裏側にいる人を助けたいって気持ちは立派だけど、どんな氏もどんな苦しみも、たった一つのものだよ」

少女「世界の裏側のそれに気をとられて、すぐ隣のそれを蔑ろにするのは、どうなのかなって思う」

少女「不幸な氏が悲しいんじゃない」

少女「氏は普遍的に悲しいもんでしょ」

少女「地震や津波で氏んだ人が、家族に看取られて氏んだ人に比べて悲しむ必要があるっていうのは、やっぱり欺瞞だよ」

少女「わかってるとは思うけど、一応ね」

少女「それじゃ、おやすみ」

勇者「おやすみ」

 少女が廊下の向こうに消えていく。
 彼女の片鱗はたった一枚でも重厚だ。だが、重厚な片鱗を持たない存在が、果たしてこの世に存在するだろうか。

226: 2012/08/01(水) 08:25:24.79 ID:HjpWLE040
 目頭が熱くなって思わず勇者は空を仰ぐ。墨を垂らした宵闇に、尖ったもので引っ掻いたような傷跡として、月と星が点々と輝いている。

 彼は信念の虜囚だ。
 信念という目に見えないほど細く、そして頑丈な糸が、彼を縛り付けている。
 自縄自縛。もがけばもがくほど糸は絡まり出られない。

勇者「……寒いな」

 呟いて、引き返す。まだ先ほどの部屋ではどんちゃん騒ぎが繰り返されていた。
 酔いも覚めている。最後に一杯ひっかけてから帰ろうと、部屋に入って麦酒とビスケットをつまんだ。

 喉が鳴る。酒はいいものだ。憂き世の辛さを忘れさせてくれる。

 ジョッキから口を離し、辺りをぼんやり見まわせば、なんとまだ狩人が潰れて寝ていた。空いた樽に抱き着いている。

勇者「しょうがねぇやつだ」

勇者「おい、狩人。寝るなら寝るで、部屋で寝ろ」

狩人「んー……」

 一向に起きる気配を見せない狩人であった。顔は依然上気し、気持ちよさそうだ。全く緊張感のない。
 ぺちぺちと頬を叩くが、それも効果はない。

 勇者はため息を一つついて、なんとか上手に狩人を背負う。風邪でも引かれたら厄介だし、他の男に寝姿を曝させるのも、その、なんというか……心がざわつく。

狩人「ん……やめて……」

 背負われるのが嫌なのかと思ったが、どうやら夢のようだ。悲痛な、切迫した声。そういう夢を見ているのだろう。

227: 2012/08/01(水) 08:26:30.81 ID:HjpWLE040
 背負われるのが嫌なのかと思ったが、どうやら夢のようだ。悲痛な、切迫した声。そういう夢を見ているのだろう。

 大陸の中央に大きく聳える大森林、そこで狩人の一族は住んでいた。狩猟採集を主として生活する彼らは、文明とは縁遠い生活を送る、いわば未開人だ。その分食物加工技術や手工芸品の腕には優れ、周辺地域の人々の生活とは密接にかかわっていた。
 驚くべき弓の腕前も生活の中で培われたものだ。

 ある日、彼女の集落が襲われた。近隣の砦から魔物が群を成してやってきたのである。その進行の速度は迅雷で、波が砂の城を浚っていくように集落を飲み込んだ。
 
 彼女はそこであったことを勇者に伝えていない。よって彼が知ることは断片的である。

 必氏に彼らは抵抗したが、鏃や短剣だけでは、抗うことはできても対峙することは難しいかったこと。
 ひとり、またひとりと狩人の親族や仲間が倒れていったこと。
 ついには敗走へと至ったこと。

 そして、勇者らがやってきたときには、唯一狩人が生き残りとして追い詰められている最中であった。

 勇者はそれを運命であるとは思っていない。結局は偶然で、狩人は運がよかっただけということになる。
 傷物にされて殺された女性がいる中、狩人がなんとか毒牙にかけられなかったというのもそうだろう。ほんのタッチの差で、恐らく狩人は氏んでいたはずだ。

 勇者の服が強く掴まれる。
 夢は誰にだって苛烈だ。狩人にも、勇者にも、少女にも。それはある意味平等で、公平で、分け隔てなく優しい。

228: 2012/08/01(水) 08:27:25.12 ID:HjpWLE040
 部屋の前についた。鍵はかかっていない。
 一般兵は二人部屋で、狩人の場合は少女と同室だった。部屋に入って扉を閉めると、暗闇の中で少女と狩人の二人分の寝息が聞こえてくる。

勇者「ほら、狩人。ベッドで寝ろ。部屋だ」

狩人「……」

 狩人は深い眠りに入っているのか、呼んでも揺さぶっても一向に起きる気配を見せない。それでも夢に魘されるよりはいいのだろうが、おぶっている勇者としては複雑である。
 ベッドに腰掛け、手を離した。首に回されている狩人の手をそろりそろりと外し、なんとかベッドに寝かせることに成功する。

勇者(子供かこいつ……ん?)

 立ち上がろうとして、立ち上がれない。心霊現象の類ではない。単に狩人が服の袖を掴んでいるだけだ。
 寧ろ心霊現象よりもたちが悪い。

勇者(いやいや、離してくださいよ狩人さん)

 きつく服が握りしめられている。
 勇者はなんだか頭が混乱してきた。自分の身に起きた事態を理解できない。

 なぜなら、恐らく狩人は起きているから。

 寝ながらこんな握力を誇るはずがない。大体彼の背中から降りようとしなかったこと自体がおかしいのだ。
 それが指し示す事実は一つだけ。

 しかし、彼女が起きているのはわかっても、対処法がわからなかった。なまじっか狩人の気持ちと真意を理解しているだけに、無下にもできない。

勇者「……ばれてるから」

229: 2012/08/01(水) 08:28:28.11 ID:HjpWLE040
 少しの間をおいて、狩人はむくりと起き上がった。

狩人「ばれてた」

勇者「ばればれだよ」

狩人「二人の仲だし」

勇者「お前、まだ酒に酔ってるだろ」

狩人「うん。だって、えへへ、こんな楽しいのは久しぶりなんだもん」

狩人「勇者が無事で、一緒にいられてうれしい。えへ」

 いつの間にか狩人の手が勇者の手と重なっていた。
 溶け合っているかの如く感覚が定まらない。輪郭も定まらない。
 肌と肌の境界線が曖昧だ。酒と空気の相乗効果は、ここに至って恐ろしい。

 手を跳ね除けようと思えばできるだろう。そして狩人はすぐに引き下がるだろう。わかっているのだそんなことは。
 けれど、彼だってそんなことはしたくないのだ。

 二人の顔が近づく。
 艶っぽい、熱を持った唇。うっすらと濡れた瞳と睫毛。
 微かにアルコール臭のする吐息が勇者の鼻先をくすぐる。

狩人「ね、勇者。お願いがあるの」

勇者「……」

 緊張ゆえの無言を狩人は肯定と受け取ったようで、女の笑顔でこう言った。

狩人「わたしがピンチになったら、絶対助けに来てね」

勇者「!」

230: 2012/08/01(水) 08:31:42.14 ID:HjpWLE040
 理性など最早無力だった。唇と唇が触れ合うほどの、限りなく零に近い二人の間の距離を零に至らしめたのは、勇者であった。
 貪るような口づけ。狩人から勇者に対してしたことは幾度かあれど、彼から積極的にしたことは、今までない。狩人の瞳が驚きに見開かれ、すぐに蕩けた顔になる。

狩人「積極的」

勇者「俺が悪いんじゃない」

狩人「そう、わたしが悪い。悪女。罪作りな女……ふふ」

 勝手に笑い始める狩人の肩を掴んで、正面から顔を見た。
 ただならぬ雰囲気を察して、狩人も真面目に勇者の瞳を覗き込む。

勇者「俺は、強く在ろうと思う」

狩人「……よかった」

 会話はそれだけでよかった。

234: 2012/08/07(火) 17:50:44.97 ID:vSRjzYLw0
 強く在ることは強くなることとは一線を画す。後者は未来に希望を託すことだが、前者は生き方を変えることだ。
 打ちのめされても折れない、強靭な生き方を彼は目指したかった。

 もう一度口づけを交わす。口唇だけではなく、舌も絡めて全てを舐め、吸い尽くす。唾液はやはりアルコールの香りで、しかしそれだけではない。狩人のにおいと混じって寧ろ官能的ですらあった。

 髪の毛をくしゃりと握りつぶす形で抱く。先ほども触った柔らかな、絹のような髪の毛。何日も満足に風呂に入れない時もあるというのに、ここまでの髪質を保てるのが不思議だ。
 次第に狩人の顔が下がってくる。唇から顎、顎から首、首から鎖骨。舌といわず唇といわず、形容できない感触が皮膚の上を這って行く。
 背筋を突き抜ける快感。勇者も負けじと首筋へ舌を這わせる。

狩人「ふ、やぁ……あっ! だめっ……」

勇者「今更何言ってんだ……」

狩人「だって、こ、こんなの、んっ、ぁう……こんなの、知らない……」

 髪の毛を撫でていた手がふと耳にあたる。小ぶりな耳は、当然のごとく耳たぶも小ぶりだ。勇者は思わず耳に舌をやった。

狩人「あぅっ!」

 一際大きい声が漏れた。

240: 2012/08/07(火) 18:15:34.34 ID:/JlUVHnk0
――――――――――――――
 翌朝。
 朝食は複数グループで順番にとっていくことになっていた。
 あくびをしながら廊下へ出た勇者は、ちょうど部屋から出てきた狩人と少女に出会う。
 三人は全員目の下にくまができていた。

勇者(腰が……)
狩人(痛い……)
少女(眠い……)

 ひょこひょこ歩く狩人を横目に、少女は苛立ちを誰にぶつければいいのか、困ったように憤慨している。
 結局太陽が空を照らし出すまで彼女は寝られなかったのだった。

少女「送り狼……」ボソ

勇者「?」

 食堂につく。長いテーブルに粗末な椅子。厨房に一声かければ、木製のプレートに乗った朝食が手渡される。
 今日の朝食はパンに野菜のスープ、ふかした芋だった。粗末と言えば粗末だが、野生動物を捕まえ焚火で炙って食べる生活と比べれば、どちらがより文明らしいかは一目瞭然だ。

 食堂にはおおよそ三十人が入る。三人が入った時点でそれなりに人の波は少なく、容易く席をとることができた。

少女「空いててラッキーだね」

勇者「そうだな、珍しいな。昨日の酒が残ってるやつもいるのかもしれん」

 いつもならば、満席とは言わないまでも、三人が揃って食事をとれるのは珍しいほどの混雑度を誇っているのだ。国王が義勇兵を募集したあの日以来兵士の数は徐々に膨れ上がり、誰かしら門を叩かない日はないという。それが一因でもあるのだろう。

241: 2012/08/07(火) 18:17:29.77 ID:/JlUVHnk0
 パンをかじる。ごく普通のライ麦パンだ。市販されているパンよりは酵母の風味が少なく、反対に麦の香りが強い。焼き立てでないのが残念だが、それは望みすぎというものだろう。
 冷めているとはいえ、噛めば噛むほど芳醇な香りが口に広がる。素朴な、田舎の風景が思い出される味だ。なんだかんだ言いつつも勇者はこの味が嫌いではなかった。

 ふかし芋もこれまたごく普通のふかし芋である。丸く、大きめで、でんぷん質の多い種類だ。芋と麦は合わせてこのあたりに一大農場群を形成している、立派なこの国の主要作物である。
 南下した国の外れでは稲も作っているようだが、勇者は今まで白米というものを食べたことがなかった。まだそれはこの国では奢侈品の類だ。

 ふかし芋をフォークで割ると、これはまだ熱が残っているのか、湯気が上った。きれいに四等分して口の中に放り込む。
 野性味の強い、だが僅かに甘みもある。二口目は塩を振って食べた。より甘みの引き立つ食べ方だ。

 芋の感触が残っていたので野菜スープで洗い落とす。滋味である。栄養が溶けだした琥珀色のスープは、体を心から健康にしてくれる気がした。
 中に入っている野菜の細切れは、大根、人参、セ口リ、キャベツと言った具合。勇者はキュウリが食べられない。スープに入るような代物ではないのが救いだった。

 狩人と少女も、それぞれおいしそうに食べている。一汁一菜がほとんどの質素な食事ではあるが、しっかりと三食とれるのは大きい。
 三人揃ってごちそうさま。食器を配膳台に戻し、勇者は大きく伸びをした。

242: 2012/08/07(火) 21:27:48.84 ID:LbZ1XUOu0
勇者「今日はどんな感じ?」

少女「このあと朝の訓練があるわね。そのあと昼食、訓練、で作戦会議」

 鬼神討伐の功によって勇者たちは上位兵と同様の立場についていた。そのため、勇者や狩人、少女は訓練内容や一日の予定に差がない状態だった。

勇者「作戦会議?」

少女「あんた御触れ見てないの? 鬼神があんなところに出張るのはおかしいってんで、遠征早まったんでしょうが」

 そう、老婆たち上層部が会議を行った結果、三体の鬼神はいかにも怪しいという結論に至ったのである。魔王軍の目的はわからないが、水面下で黙々と侵攻されるくらいならばいっそこちらから、ということだ。
 無論いきなり全軍を引き連れて「さぁ魔王城へ!」とはいかない。四天王の件もあり、その他幹部が陣取る砦もある。ある程度は腰を落ち着けてじっくりと侵略してかなければ。

狩人「……」

 狩人は険しい顔をして立ち止まった。

勇者「どうした?」

狩人「静かすぎる」

 鋭い狩人の言葉。勇者も耳を澄ませば、確かに静かだ。静かすぎると言っていいくらいに。
 朝食後のこの時間は、本来ならば他部隊では点呼があり、もしくは訓練を注げる点鐘があり、そうでなければ兵士たちの雑談が聞こえてくるはずである。
 本を運ぶ儀仗兵の姿も、シーツを取り換えてあたふたする従者の姿もいない。
 明らかに異常事態だった。

 と、曲がり角から兵士がゆっくりとした足取りでやってきた。
 ぞろぞろと。

勇者「!?」

244: 2012/08/07(火) 21:53:03.92 ID:NP2bXgEL0
 どのみち一国の危機であることには違いない。指揮系統は完全に麻痺し、軍備が己に牙をも向きかねないのだ。今は三人だけを狙っているが、それもいつまで続くだろうか。

 三人はひとまず場内を走り続ける。無駄に広いことに悪態をつく毎日だったが、このたびばかりはそれに救われた。なんとか出会うたびに回避を続け、逃げ惑う。
 しかしそれにも限界があった。追い込まれてしまったのだ。

 背中にはひんやりとした壁。周囲には樽や木箱が積まれている。恐らくは食料の備蓄場所なのだ。

少女「追い込まれちゃったじゃないっ!」

狩人「鏃ならある」

勇者「……俺たちも応戦するぞ」

少女「頃すの!? いやだってば!」

勇者「そうしないと襲われるんだぞ!」

少女「って言っても、どうせ剣もミョルニルもないんだよっ、どうやって対応するのさ!」

 そうなのだ。ここは城内で、しかも食後である。朝食に剣や鎚を担いでいく必要はないため、二人は今手ぶらなのだった。
 武器と呼べる武器は、辛うじて狩人の鏃程度。それも数に限りがあるため、戦い続けるのは現実的でない。

 勇者は舌打ちをして、早口で詠唱を行う。文言を唱え終わると放電現象が起こり、勇者の両手が淡く光る。

勇者「しょうがない、俺は魔法でいく。少女は……ま、腕力で何とかなるだろ」

245: 2012/08/07(火) 21:53:32.82 ID:NP2bXgEL0
狩人「でも、ここから逃げてどうするの?」

 それは城下町もこのような状態の住民で埋め尽くされている、ということを指しているのではない。狩人の心配は、単純に逃走が事態の解決にならない事実を指摘している。
 どのような原理で人々が操られているのかはわからない。が、少なくとも術者を倒さない限り、この状況に終わりは見いだせないだろう。逃げるよりもまず術者を探し出す、炙り出すところから始めなければ。
 狩人は兵士の軍勢へ目をやりながらそのようなことを言った。

 そばまで寄ってきた兵士を、勇者が雷魔法で吹き飛ばす。兵士は後続の兵士を巻き込んで倒れるが、立ち上がり、何事もなかったかのようにこちらへ向かってくる。

勇者「確かに、埒があかないな」

少女「もう!」

 少女は力に任せて壁を叩いた。大きな音がして、壁に大穴が空く。

少女「非常事態だから許してもらうもんっ! 行くよ! 逃げながら今後の方針を考えないと!」

 穴に飛び込んでいく少女。隣は穀物蔵になっているようで、小麦やライ麦の入った袋が所狭しと並んでいた。
 扉には目をくれず、少女はさらに反対側の扉も叩き壊してずんずん進んでいく。
 廊下に出ないのは、出ればいつ傀儡と鉢合わせになるかわからないためだ。道なき道を進んでいけば出会うこともない。

 倉庫の並びを貫いていくと、部屋の趣が変わる。客間だ。
 客間は王城の中心から見て北西にある。食堂があるのは南西なので、北上していたらしい。

246: 2012/08/07(火) 21:54:15.58 ID:NP2bXgEL0
 壁に空けた穴から勇者と狩人が姿を現した。後ろを覗き込むが、兵士の姿は見えない。足音も聞こえない。狩人にはもしかすると聞こえているのかもしれなかったが。

少女「とりあえず、一安心かな?」

勇者「しかし、術者を叩くったって、範囲が広くちゃ話にならないぞ」

 城内にいるのか、それとも都市内にいるのか、それとももっと離れたところでほくそえんでいるのか。もし遠く離れたところにいるならば手の打ちようがない。お手上げだ。

 ベッドに腰を下ろしても、勇者は落ち着けなかった。追手が大した脅威ではないとはいえ、追われているという事実そのものが重圧だ。
 狩人と少女は考え込んでいるようだった。どうしたらよいか。目的を見つけなければ対処はできない。

狩人「ちょっと見てくる」

 狩人は壁に空いた穴に歩み寄る。彼女の耳に届く足音は次第に近づいてこそいるけれど、すぐさまの脅威であるとは言えないほど遠い。あと二、三分は体を休められるだろう。

狩人「……?」

 違和感があった。しかしその正体がわからない。
 そろそろ行こう、と彼女が二人に声をかけようと振り向くと、部屋には誰もいなかった。

――――――――――――――

251: 2012/08/09(木) 23:30:34.27 ID:s+mPglMj0
――――――――――――――

??「勇! いさむーっ! アンタいつまで寝てんのよ、起きなさいってば!」

 俺を呼ぶ声が聞こえる。きんきんと頭に響く金切声だ。正直勘弁してほしい。
 がしかし、なんだかんだ言っても幼馴染。邪険に扱うことはできない。起こしに来るのだって十割の善意からなのだし。

 俺の両親は現在地方巡業で家を空けている。二人そろって舞台人なのだ。

??「田中勇ッ! 早く起きなさい!」

 布団がはぎとられ、カーテンが開かれる。朝日が直接俺の顔にあたっている。たまらず目を覚ました。

勇「女川、少し静かにしてくれ」

 ツインテールで小柄な少女が、セーラー服を身に纏って眉根を寄せていた。
 女川祥子。俺の幼馴染兼、両親の不在の間の我が家を任された存在でもある。両親はこいつに「息子をよろしくね」と言いやがり、挙句の果てには丁寧に合鍵すらも渡して旅立った。まったくいい迷惑だ。

勇「あと五分だけ……」

 とりあえずテンプレから入る。するとこれもまたテンプレ通りに、女川のぶん投げたスクールバッグが俺の顔面へ飛んでくる。
 慣れた状況である。俺は枕でそれを受け止めた。

女川「アタシまであんたの遅刻に巻き込まないでほしいのっ」

勇「先に行け、先に」

女川「そんなことしたらご両親に顔向けできないでしょっ! ご飯はおにぎりだから、食べながら行くよっ!」

252: 2012/08/09(木) 23:31:34.79 ID:s+mPglMj0
 胸ぐらを掴んで一気に引き寄せてくる女川。準備をしていなかったものだから、勢い余って顔が近づきすぎてしまう。

女川「――っ!」

 顔を赤くして女川は飛び上がった。全く不思議な奴だ。騒ぐだけ騒いで勝手に静かになるだなんて。
 俺はのそのそと起き上がり、寝間着代わりのジャージを脱いだ。パンツ一丁になったのでまた女川がぎゃーぎゃー喚くが、なんのことはなかった。
 スラックスに足を通し、シャツに腕を通す。季節は夏なので学ランは羽織らず、そのまま居間へと歩いていく。

 なるほど、確かにおにぎりが小皿の上に置いてあった。二つ。恐らく中身は梅干しとチーズおかかだろう。なんだかんだで女川は俺の好みをわかってくれている。こいつの作る弁当には、俺の嫌いなものなど一つも入っていない。

 それを口に運び、一度部屋に戻った。かばんを忘れていたのだ。
 今度こそ準備を万端にして学校へと向かう。起きてからここまで五分である。

 顔は最悪学校で洗ったって怒られやしない。学校で寝ては怒られるから家で寝るのだ。これぞ合理的というものだろう。

 女川と話をしながら歩く。話と言ってもたわいもないものばかりだ。やれ天気がどうした、やれ昨日のアイドルがどうした、やれ授業がわからない、等々。学生の身分にとっては中身よりもコミュニケーションという手段が重要で、目的だ。
 手段の目的化が悪いことであるとは一概に言えない。悪いものは、初めから性悪な手段を用いているから性悪なのだ。

254: 2012/08/09(木) 23:44:01.34 ID:mWpCjEH10
??「あ、勇くーん」

女川「げっ」

 合流する信号で手を振っているのは上春瑛先輩であった。俺と女川の一つ上で、俺の所属する冒険部の先輩でもある。一人称が「ボク」という、いまどき珍しい部類の女子である。

上春「や。おはようだね。ボクは眠くてたまんないよ」

勇「実は俺もなんですよ」

女川「上春先輩、早く行ったほうがいいですよ、遅刻しちゃいますから」イライラ

 馬鹿丁寧に女川が言う。
 俺は時計を見た。八時半……学校の正門は八時四十分に閉まる。ぎりぎり間に合わなさそうな時間だ。とは言っても少し気合を入れて走れば十分間に合う時間と距離だろう。

勇「速度と距離と時間を求める公式ってどうやって覚えたっけ」

女川「『はじき』でしょ。ってそんなことはどうでもよくてっ」

勇「避難訓練のは」

女川「『おかし』でしょ! もう!」

上春「ボクのところは『おさない・はしらない・しゃべらない』で『おはし』だったけどね」

女川「そんなことはもうどうだっていいんですよっ!」

 乗った癖に文句を言うのは理不尽ではないだろうか。

255: 2012/08/09(木) 23:57:02.19 ID:mWpCjEH10
 と、その時である。
 キーンコーンカーンコーン。前方で鐘が鳴った。登校時刻を過ぎた合図だ。これ以降は正門が閉まり、教師にねちねち言われながらの裏口登校となる。
 ……そこはかとなく犯罪くささを感じるのは気のせいだろうか。

上春「あはは。二人の漫才は面白いなぁ」

 冗談でも茶化しでもなく、単純に笑って上春先輩は言った。

二人「「漫才じゃありません」」

 上春先輩はそれを受けて、今度こそ大きな声で笑った。
 先輩の声は快活だ。聞くだけで元気になる類のエネルギーを持っている。声がでかいのは女川も同じだが……おっと、睨まれたのでくわばらくわばらと九字を切っておこう。

 学校へとついたが、当然のように正門は締まっている。生徒指導部の教師が適当に「おらー、遅刻したなら裏口だー」と生徒の移動を促す。無論俺たちもそれに従って歩くしかない。
 どうやら遅刻者は俺たち三人だけのようで、裏口は人の気配がしなかった。こっそりと上がり、正面玄関へと移動し、上履きを履いて教室を目指す。

 二年B組が俺と女川のクラスである。目立たないように教室の後ろから入るも、HR中だったようで、注目はやはり避けられなかった。女川が八つ当たり気味に俺を小突いてくるのを耐え、着席。

勇「ん?」

 おかしなものがあった。今まではなかったところに空席ができているのだ。
 これは、もしや。

勇「転校生?」

256: 2012/08/09(木) 23:58:55.00 ID:mWpCjEH10
??「らしいぞ」

 呟きに返したのは長部だった。おっさん臭い顔をしている、俺の隣席の気さくなやつだ。
 刀剣が趣味という変なところはあるが、それを補って余りある以上の真人間である。

長部「ほら、来た」

 長部が指で示した先には、教壇に今昇ろうとしている一人の少女がいた。そういえば先ほど廊下にいたような……。
 どよめきが上がる。それもやむなしと俺は思った。壇上の女子は、なるほど確かに魅力的だったからだ。

 異国の血が混じっているのか、それとも活発なだけか、割と浅黒い肌。大きな瞳は多少三白眼がちで、アンニュイなイメージをもたらす。
 体はすらりとしており、長身でこそないものの、とてもスタイルが良い。実に均整のとれた、端整な異性だった。
 俺は思わず面喰いながらも、それが周囲にばれないように気を巡らせる。

??「狩野真弓。よろしく」

 ぶっきらぼうに転校生は言った。気持ち低めのトーン。顔立ちとのギャップが著しい。新たな生活集団に馴染む気がないのか、それともなるようになるだろうと構えているのか。

教師「えー、狩野さんはお仕事の都合で、こんな時期だが転校してくることになった。みんな仲良く頼む。席はあの空いてるところだな」

 促されるままに彼女――狩野は席に着いた。
 俺の席の隣を通った時、仄かに甘い香りが漂ってくる。コロンや香水ではない。女子特有の香りだ。
 俺はどこかでこの香りを嗅いだことがあるような気がした。だが、それがいつ、どこでであったかはわからない。
 なんだかもやもやしていると、前の席に座っていた夢野がにんまりと笑って振り返った。

夢野「勇ちゃん、かわいー娘だねぇ」

257: 2012/08/09(木) 23:59:25.13 ID:mWpCjEH10
勇「そうだな。ってか、ちゃんづけはやめろよ」

夢野「転校生が来るかもとは聞いてたけど、あんなかわいー娘だとは思わなかったわぁ」

 聞いちゃいなかった。夢野はにやにや笑いのまま、視界の端で狩野を捉えている。
 燃えるような長髪にグラマラスなスタイル。夢野だって十二分に美形だと思うが、そんな意見は実際はクラスの誰からも上がってこない。飄々とした、人を喰ったような性格が一因だろう。

女川「どこにも美人はいるものなんだね」

夢野「あら、女川っち」

夢野「朝から勇ちゃんと一緒に遅刻とは、熟年の夫婦カポーですな」

 夫婦とカップルは同時に存在しないのじゃないか? カップルは所詮「つがい」という意味だから、別にかまわないのか?
 俺の疑問をよそに、女川は慌ててそれを否定にかかる。両手を胸の前でぶんぶんと振りながら、

女川「な! 夢野、あんた朝から頭に蛆がわいたこと言わないでよっ!」

 お前も、女の子が「頭に蛆がわいた」なんて言っちゃだめだと思うが。
 あ、夢野の背中が叩かれてる。それでも動じずに女川をからかい続ける夢野は、遊びに命を燃やしているというか、真面目に不真面目を貫いているというか。見上げた根性だ。

 遊びのために自らを貫ける人間は強いと思う。そこにはある種の恐ろしさもある。
 大抵人間の動機なんて経済的か宗教的か大別できる。そのどちらにも当てはまらない時、それは第三者から観測しえない事柄となり、それが恐ろしさを呼ぶのである。

258: 2012/08/10(金) 00:00:53.62 ID:FbrR8VTh0
 閑話休題。女川はぷんすかと長部に八つ当たりをし、夢野は転校生へ手を振っていた。
 転校生の席の周りには人の壁が出来上がっている。構成員は全員女子だ。あいつらはすぐに新しい人間をコミュニティに取り入れたがるが、俺にはそれがいまいち理解できない。友達すらもファッション感覚なのだろうか。
 男子はそんなことはしない。というか、男子という生き物は根性なしが大半を占めているので――特に美人には――畏れ多くて声などかけられないチキンなのだ。
 それゆえに、クラスの男子らは颯爽と登場した可愛い級友に視線と興味を向けることこそすれ、積極的に声をかけたりはしないのである。

 人と人の隙間から見える転校生は、どうにも興味がなさそうに見えた。応えはもちろん返しているのだろうが、鞄や机や教科書を確認するふりをして、あえて視線を合わそうとはしない感じが見て取れる。

夢野「気難しい感じなのかなぁ?」

女川「緊張ってのもあると思うけど。でも、ま、あんまり人付き合いの好きそうな自己紹介でもなかったしね」

 嫌がる猫を無理やり触れば嫌われるだけだ。そういう時は遠巻きに見ているしかできないし、それが一番利口なのだ。急がば回れとも言う。

 結局、狩野は授業の合間合間にも囲まれたが、一体どんな受け答えをしているのだろうか、一日のうちに次第に人は減っていった。昼休みには、それこそ根気強い、もしくはそっけなく扱われることの気に食わない女子のリーダー格が「わたしのグループに入れてあげる」的に近づいて行ったが、それも大した成果はあげなかったようである。
 となると、クラスの男子も危機察知能力を働かせる。狩野は可愛いが、手綱を握るのは難しそうだぞ、と。またクラスの女子を敵に回すことになりかねないぞ、と。

 俺はここにきて逆に狩野という転校生に俄然興味がわく。自分の初志を貫くことは難しく、彼女はそれができている。純然たる尊敬と、僅かに見世物小屋の興奮を覚えたのだ。
 とはいえ、俺も人並みの危機察知能力はある。気安く彼女に声をかけては誰からもいい印象を受けないだろう。ほとぼりが冷めるまで、数日、もしくは一週間程度待つ必要があった。

 そのはずだった。

259: 2012/08/10(金) 00:02:55.62 ID:FbrR8VTh0
 が、しかし。

 狩野が席を立つ。
 とことこと歩いて、やってくる。
 なぜか、俺のところへ。

 教室中の視線が俺に向けられているのがわかる。それは錯覚ではない。
 俺は唾を飲み込んで、ひたすら机の上に置かれた自分の手を見ていた。

狩野「田中勇くん、だよね」

 やはり、俺であった。ここまで来たら無視するほうが労力を使う。ここでようやく視線を挙げる。

勇「……なんだ」

 務めて無愛想に受け応えた。

狩野「学校を案内してもらいたくて」

 なんで俺が。なんで俺が。なんで俺が。

勇「……なんで俺が?」

狩野「その辺に理由はいる?」

勇「いるだろ」

 あってくれなければ困るのだ。いや、ないはずがない。こいつは今の状況を楽しんでこそいないが、義務感の雰囲気が漂う。彼女にとってこれは「なくてはならない」行動なのだ。
 けれど、その義務はどこまでも彼女の世界の内側にあるものだ。俺の世界に内側にまで侵入しては来ない。

 狩野は一瞬、本当に一瞬だけ、その瞳の奥が揺らぐ。そして俺はその一瞬を見逃さなかった。

勇「……」

狩野「なんていうか……まぁ、いろいろ。こっちにも色々事情があって」

 罰ゲームの類なのではないかと思える返答だった。そんなわけはありえないので、余計に頭を悩ませられる。
 有体に言えば、困った。

260: 2012/08/10(金) 00:04:48.38 ID:FbrR8VTh0
勇「今?」

 言ってから、しまったと思った。これでは校内の案内を前向きにとらえていると思われても仕方がないではないか。
 狩野は頷いた。コミュニケーションの成立。もう待ったはかけられない。
 ここまで来てしまえば理由をつけて断るほうが不興を買う原因となる。「周囲を気にしています」アピールは、周囲にアピールしていることを悟られてはいけないのだ。

 俺はあくまで平静を装って立ち上がった。学級内ヒエラルキー、もしくはスクールカーストは、今日この時を持って大幅な変動を果たした。主に悪い方向で。
 仕方がない。最早狩野真弓という存在を俺は被弾した。箇所は治療でどうにかなる部分で、銃創も大きくない。追撃さえきっちりと避けられれば、俺の楽しい生活をエンジョイする道は、まだ残されている。
 そしてそのための逆転の方法が俺には残されている。

勇「今からじゃ、悪いけど案内できないなぁ。部活なんだ」

 そう、部活である。本当は部活などはない。いや、ないというか、適当に部室に集まって適当に駄弁っているだけなので、あるなしの問題でもないのだ。
 が、狩野がそれを知ることはできない。理由としては完璧だ。

 歯医者、アルバイトと並んで、部活は学生の言い訳ベスト3であると個人的には思っている。許されないことでもなんとなく許されてしまう魔の言い訳。伝家の宝刀をまさかここで抜くことになろうとは。

狩野「わたしも行く」

 ……え?

狩野「冒険部でしょ。わたしも気になる」

261: 2012/08/10(金) 00:06:50.80 ID:FbrR8VTh0
 追撃を被弾した。しかもこれは、予想していなかった。腹に大穴が空いている。ホローポイント弾なんじゃないか?
 こいつ、どこまでついてくる気だ?

 可能性は二つある。まず一つ目は、そもそも冒険部に入りたくて俺に声をかけてきた場合。これは理由としては正当だ。そして俺も周囲に言い訳が聞くというものである。
 どこからその情報を仕入れたかは定かでないが、経路などいくらでもある。級友からでもいいし教師からだって教えてもらえるだろう。ただ冒険部に入りたいことを伝えれば、周りが教えてくれるのだから。
 二つ目は、これが厄介だ。狩野はなんとしても俺にまとわりつきたい、という可能性。自意識過剰と言われるのを恐れずに言えば、どうも裏があるようでならない。

 とはいえ、結局は周囲に言い訳が立てばどうだっていいのだ。俺は積極的に前者を支持する。

勇「お、そうなのか。ならついてこいよ、紹介するから」

 心にもない笑顔を塗布し、俺は教室を後にした。スクールバッグを持った狩野も小さい歩幅で後を追ってくる。
 てくてくと、とことこと。
 狩野が僅かに足を速める気配があれば、俺もそれだけ足を速め、決して一定以上の間隔が狭まらないように努める。数字にしておおよそ一メートル。それは心の距離に他ならない。

 結局のところ、俺は狩野真弓という人物がいまだ掴めていないのだ。何が目的で俺に近づいているのか。本当に他意はないのか、等。この距離を詰めるのか、それともさらに広げるのかは、今後の展開次第。

 旧校舎への渡り廊下は二階にある。二年生の教室は三階にある。そして部室は三階にあるため、三階、二階、三階という手間を踏まなければいけないのが面倒だった。

勇「……」
狩野「……」

 無言のまま扉を横にスライドさせた。

262: 2012/08/10(金) 00:07:42.10 ID:FbrR8VTh0
勇「おはようござーす……え?」

 上原先輩はともかくとして、夢野がいた。

夢野「遅かったねー」

 ひらひらと手を振る夢野。なんでこいつがここにいるのかわからないが、いるものはいるのだから仕方がない。
 俺の背後で狩野がごくりとつばを飲み込む音がした。鉄面皮を絵に描いたような女だが、緊張もするのか。

 冒険部は冒険とは名ばかりの弱小部であり、そのため部室を与えられるだけでも恩の字だろうと、僻地にある元物置をあてがわれている。長机と椅子の数個でいっぱいいっぱいの部屋に、三人以上がいるのを見るのは初めてだった。
 なんとか机と壁の隙間に体を押し込み、椅子に座る。

上春「今日はお客さんがたくさんくるね。いいことだ」

上春「で。勇くん、そっちの女の子は誰かな?」

勇「あー。今日来た転校生で」

狩野「狩野真弓です。冒険部に興味があったので」

 流石に自己紹介くらいはできるようだ。恭しく頭を下げた狩野は、けれど雰囲気を決して変えることがない。まるで自らのアイデンティティのように。

 俺、上春先輩、狩野、夢野。四人で、どうでもいい話を始めた。

 冒険部の活動の趣旨は、本来は冒険をすることである。どうやら話に聞く限り、かつての先輩方はそうしていたらしい。たとえば山に登るとか、たとえば森に行くとか、様々だ。
 しかし時代の流れは残酷である。教師たちも生徒を放任していては、保護者や教育委員会からの突き上げがある。自らの目の届いていないところで生徒に怪我や問題が起こっては、火の粉は全て彼らにかかる。
 それを恐れた結果が、冒険部の暗黙的な活動の自粛だ。校外活動許可証は、こと我が部に限っては、十割受理されないといってよい。

263: 2012/08/10(金) 00:09:12.65 ID:FbrR8VTh0
狩野「大変なんですね」

上春「ん。まぁでも、ボクたちは話してるだけで十分楽しいからねぇ。ね、勇くん」

勇「そうですねぇ」

上春「狩野さんは冒険に興味があるんだって?」

狩野「はい。いろいろ、ありまして」

 「いろいろ」を強調して狩野が言った。
 ……なぜ俺を見てくる? そしてなぜ夢野はくつくつと笑う?

 よくわからないひと時は、のんびりと流れていく。

* * *

272: 2012/08/11(土) 14:01:34.33 ID:WuXosgBm0
* * *

 空は朱色に染まっている。
 ビルの向こうに隠れて夕日は見えないけれど、その存在は確かに確信できる。他者の心というものも、恐らくはそんな類のものなのだろう。

 何やら自分でもくさすぎると自嘲。まったく、キャラではない。

 帰りには大抵書店に寄ることにしていた。めぼしいものがあるわけではない。ただ、なんとなくで帰路につくのはもったいないような気がしたのだ。
 自動ドアを開き、冷房のよく効いた店内へと足を踏み入れる。

 平日の夕方でも人はいるものだった。やはり学生が多い。セーラー服に学ランに、ブレザー。
 白いセーラー服と学ランは俺が通う県立高校、ブレザーは近所の有名私立高校のものである。校則が厳しいと噂のブレザーたちでも下校時の道草は許されているらしい。それともお忍びで来ているのだろうか。だとしたらご苦労なことだと思う。

 入口に入るあたりで、店に入るセーラー服と、出ていくブレザーがニアミスを起こす。スクールバッグ同士がぶつかり、お互いの中身が多少ばらまかれた。
 慌てて落ちたものを拾っていく二人。俺も手伝おうと小走りになるが、どうやらそこまでたくさんのものは落ちなかったようだ、そこへたどり着くまでには二人ともものを拾い終えている。

女子生徒「あ、すいませんでした」

 セーラー服が言うと、ブレザーも頭を下げ、歩いていく。そういえば鞄同士がすれ違う際、お互いのキーホルダーが絡まって云々という話を聞くけれど、今回のこともそういうことだったのだろうか。
 俺はいつの間に関わっていた店内の内装を見やりながら、ぼんやりと考える。

 店内にはポップや店員からのおすすめ紹介などがひしめいていて、実に自己主張の強い場となっていた。躍る惹句は「ゴールデンウィークに本を読もう! 春の読書フェア!」を筆頭に、五月の長期連休にちなんだものばかりだ。

273: 2012/08/11(土) 14:05:05.01 ID:WuXosgBm0
 残念ながら新刊は出ていなかった。前回来たのが三日か四日前だから、それも当然と言えば当然だ。
 まぁ、本を買うのが本懐ではない。店の中をもう一度見まわしながら、足の向くまま気の向くまま、散策する。

女川「あ、勇じゃん」

勇「女川か」

女川「なに、文句ある?」

勇「ねぇよ。絡むなよ」

女川「いーじゃん。幼馴染の仲でしょっ」

勇「はぁ……」

 相も変わらずよくわからない女だった。十数年の付き合いだが、時たま以上に理不尽である。
 だがしかし、あの転校生には負けるだろうが……。

 女川の眉根が寄った。

女川「あの転校生、可愛かったもんねっ!」

勇「……なんでわかった」

女川「ふん、デレデレしちゃってさっ」

 俺の質問に答えることなく女川は言った。そんなに顔に出やすいタイプではないと思っているのだが。

女川「あ、そうだ。あんた夜ヒマ?」

勇「まぁな」

 高校生に夜の予定などはいるはずもない。我が高校はよほどの理由がなければバイトも禁止されているのだし。

274: 2012/08/11(土) 14:08:09.18 ID:WuXosgBm0
 女川は「ま、そうでしょうね」と呆れたようにつぶやく。いや、お前だってヒマに違いないだろう。

女川「今日そっち行くから、待っててよ」

勇「なんかあるのか?」

女川「なんかっていうか、なんていうか」

勇「焦らすなよ。笑ったりしねぇよ」

女川「ちょっと、夢を見るんだけど、その話」

勇「夢?」

女川「その話は夜に言うから! 帰るよ!」

 帰るよ、と言われても、俺はたった今来たばかりなのだが。
 ……仕方がない。我を通すばかりがコミュニケーションではない。どうせ用事も別段存在はしないのだ。
 女川に促され、帰路についた。

* * *

275: 2012/08/11(土) 14:09:19.44 ID:WuXosgBm0
* * *

 夕食はカレーライスだった。月に一回は必ずカレーの日がある。そして一旦カレーが出ると、その後数日は出続けるのだ。これは我が家の特徴というよりは、全国どこでもそうなのではないだろうか。
 明日も明後日も食べられることを思うと、どうにもがっつく気にはならない。皿一杯だけを食べ、部屋に向かう。

 宿題は確かなかったはずだ。手持無沙汰を紛らわすために本棚から漫画を引き抜き、読み始める。
 久しぶりに読んだ本だったため、思ったよりも展開を忘れていた。知らず知らずのうちに夢中になって読み込んでしまう。
 スペースオペラはたまに理解できない部分があるけれども、他の読者はわかっているのだろうか。特にタイムリープや並行世界などが出てくるとお手上げだ。とはいえ、難解さも含めて魅力であるという論には俺も同意ではある。

 魔女とスペースオペラという素材の料理の仕方に妙味を感じつつ頁を繰っていると、俺の部屋の窓が叩かれた。
 窓である。扉ではない。

勇「鍵は開いてるぞ」

 女川が外に立っていた。
 こいつの家は我が家の隣である。お互いの部屋は二階にあって、しかも窓を面している。スチール製の梯子を渡せば、高さに目を瞑る限りにおいて、簡単に行き来ができるのだった。

女川「お邪魔」

勇「夕飯は」

女川「食べてきたよ。あんたもでしょっ」

勇「まぁな」

276: 2012/08/11(土) 14:13:07.17 ID:WuXosgBm0
勇「で、なんだっけ、夕方に言ってた……」

女川「夢」

勇「そう、それ。たかが夢だろ、って……言えたら、お前はそんな顔してねぇわな」

 俺の知っている女川祥子という人間は、小柄で、だけれど強気だ。不安になることもあるだろう。辛いことだってあるだろう。ただ、夢見が悪いといって俺に話をしに来るなんてのは尋常じゃない。
 夢の話は、本題の呼び水なのかとも思ったが、どうやらそうでもないようだった。

女川「あんた、夢は覚えてるほう?」

勇「……あんまり気にしたことはないな」

女川「アタシは覚えてるほうなの。でね、最近同じ夢を見る」

 夢に同じ場所や同じ人が繰り返し出てくるというのは珍しくない話だ。
 かくいう俺も、気にしたことはないとは言いつつも、夢を見ると決まって廃工場が舞台になる。人間の頭は実に不思議な構造をしている。

女川「ファンタジーの世界、なのかな。アタシは旅をしてる。魔王を倒すために。……RPGまんまな感じ」

女川「道路は土が剥き出しの未舗装で、森がぶわぁってあって、町も、なんていうか、スチームパンクみたいな世界」

勇「お前、その歳でそんな夢みたいなこと言うなよ」

女川「うっさいっ!」

 座布団が飛んでくる。
 顔目掛けて投げられたそれを軽く弾き、俺は女川の顔を見た。

 あ、これは駄目だ。実によくない。
 本気でどうしたらいいか困っている顔だ。

277: 2012/08/11(土) 14:15:41.60 ID:WuXosgBm0
女川「アタシだって真剣に考えるだけ馬鹿らしいとは思ってるけど……」

女川「でも、こんなばからしいこと相談できるの、あんたしかいないし……」

 どきりとした。平静を装いつつ、言葉を返す。

勇「……それで」

女川「出てくるの。あんたが。いや、あんたに似てる人が、なんだけど」

勇「知り合いが夢に出てくるなんて珍しくないだろ」

女川「そうなんだけど、そうじゃないの!」

 女川は語気を荒げた。普段から強い物言いをするやつだが、それとはニュアンスが違うように感じられる。わかってもらえない苛立ちがそうさせるのだ。

女川「そりゃ、あんたが出てくるだけなら単なる夢で済むと思う。けど、あんただけじゃなくて、長部も、上春先輩も出てきてて……」

女川「長部はともかく、上春先輩なんて、アタシ会ったこと一回か二回しかないよ。夢に出てくるもんかな」

勇「出てきたなら、しょうがないだろう」

女川「でもっ!」

 これから話すことが、話の核心なのだ――女川は言外にそうまとわせて、身を乗り出してきた。

女川「転校生――狩野真弓、あいつもアタシ、夢の中で見たことあったのっ!」

勇「まさ」

 「か」を何とか飲み込んだ。まさか、そんなことがあるはずはない。きっと偶然じゃあないのか? それを言うことは簡単だ。そう断定してしまうこともまた。
 だけれど、それがどう作用するというのだろう? 女川は自分が所謂現実的でないことを言っている事実を客観視できている。そして頭がおかしな女のレッテルを張られることを覚悟の上で、俺を頼っているのだ。

278: 2012/08/11(土) 14:17:53.00 ID:WuXosgBm0
 俺は慎重に言葉を探し、選び、言う。

勇「……本当に狩野なのか」

女川「うん。絶対」

 絶対、か。それほど自信があるのだろう。
 確かに狩野は特徴的だ。容姿や喋り方が。夢に出て、現実にも現れれば、「あ」と思う気持ちもわかる。
 だが、女川の不安はそれだけではないはずだ。狩野が夢の世界から抜け出してきたなどとは彼女も思っていない。でなければ、不安にする要素が他にもあるのだ。

女川「夢が、さ、すっごいリアルなの。どっちが現実なのかわからないくらい。夢ってそういうものなのかもしれないけど、最近なんか、わかんないんだ。アタシってのが」

勇、女川「「果たして本当にここは現実なんだろうか?」」

 言葉が重なる。
 胡蝶の夢だ。夢を見ているのは蝶か、人間か。

女川「……なんか、ごめんね」

勇「いや、別にかまわないけど?」

女川「うん、わかってるけど、ごめん」

女川「そろそろ戻るわ。今日のこと、覚えといても忘れても、どっちでもいいから。じゃあね」

勇「風邪ひくなよ」

女川「うん……」

 女川は窓から出て、梯子を伝って自室へと戻る。
 部屋に戻る前にこちらへと手を振ってきたので振りかえす。そうして窓ガラスが閉じられた。
 俺はベッドへと倒れこむ。

 女川には悪いが、真面目に聞く類の話ではなかった。が、あいつが何かを不安に思っているならば、それを取り除かなければならないと、俺はそう思う。
 そんなことを考えていたら、いつの間にか眠ってしまっていた。

* * *

288: 2012/08/14(火) 09:46:39.94 ID:hgvusBa00
* * *

 醜悪な魔物が眼前にいた。
 剣で切って、倒す。

 醜悪な魔物は次々湧き出てくる。
 剣で切って、倒す。

 醜悪な魔物の出現は止まらない。
 剣で切って、倒す。

 「俺」は、剣と防具を身に着けていた。機動力を重視しているためか、分厚い鎧ではなく簡素な皮の鎧だ。鞣した皮のにおいは甘く、まだ新品なのだろうということは容易く想像できる。
 念じると体の内部に火が灯る感覚が走る。丹田から全身へ駆け巡る暖かい衝動。それをコントロールし、左手に集めると、手のひらから紫電が走った。

 不思議と痛みはない。体内のエネルギーとでも呼ぶしかないものが、徐々に、徐々に放出されている感覚はあるものの、「俺」が感じることのできるのはそれだけだ。

 「俺」は、勇者だ。

 ぞわり、とした感覚が、足元の泥濘から這い上がってくる。
 否、泥濘などはどこにもなかった。感覚器官が暴発しているだけで、地面は確かに濃密な土の匂いを醸している。
 暴発? 「俺」は考えた。それは一体どういうことだ。ならばこの黒い塊はなんなのだ。

 黒い、靄のような塊。それは酷く冷たく、類稀な悪意を包含し、じわりじわり「俺」の体を這いあがってくる。
 足から腰へ。
 腰から胸へ。

 黒い塊が、ついに「俺」の首へとかかる。
 それは手の形をしていた。

 頸動脈に指が押し込まれる。それだけでいともたやすく血流は止まり、俺は目の前が白くなっていくのを感じた。

??「勇者!」

289: 2012/08/14(火) 09:47:57.95 ID:hgvusBa00
 俺が目を覚ますと、目の前には少女がいた。狩人も老婆も、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
 なんだ、何がどうなっているんだ。

狩人「急に倒れるから、どうしたかと思った」

老婆「日頃の不摂生の賜物じゃな、ひゃひゃひゃ」

 俺の体よりあんたの寿命を心配したらどうだ。

老婆「いざとなったらおぬしの体に乗り移らせてもらうから大丈夫じゃよ」

 こいつなら本当にやりかねない。俺は少し老婆との距離を置く。

狩人「大丈夫?」

 冷えた手が俺の額にあてられる。随分と気持ちの良い手だ。安心する。

 なに、疲れが溜まってるんだろうさ。もうちょっと頑張って、宿についたらしっかり休むよ。

狩人「……そう、それならいいんだけど」

 森の切れ目には、確か交易で栄えた町があるはずだった。鬱蒼とした大森林と切り立った尾根を避けながらうねる道々の交差点、俺の国にも隣国にも属さない、交易という唯一にした絶対のカードを握る町だ。
 俺たち四人は現在そこを目指しているのだ。

 夜な夜な亡霊が現れ、町の人間を襲うのだという。ギルドや酒場から依頼があったわけではないが、賞金もかけられており、財布の中身が心もとなくなってきた俺たちとしては、この機会を逃すつもりはなかった。

290: 2012/08/14(火) 09:48:48.05 ID:hgvusBa00
 と、不意に違和感を覚える。

 いや、それは違和感という次元ではない。普段と何かが違う、とか、そういうことではない。

 根本がおかしい。

 不意に気が付いてしまった事実に、俺は眩暈をせずにはいられない。頭を横殴りにされたような衝撃と驚愕。そして混乱。
 思わず足元が前後不覚になる。なんとか木に手をついて体を支えようとするが、力が入らないのは脚だけではなく全身だ。背中を木に預け、滑り落ちて尻もちをつく。

 ここはどこだ。
 こいつらは誰だ。

少女「ちょっと、あんた本当に大丈夫? ここは大森林のはずれでしょ?」

 かわいらしい姿の少女が、今の俺には化け物のように感じられた。俺のことを取って食おうとしているのではないか――そんな感覚が拭い去れない。
 というか、この少女、どことなく女川に雰囲気が似ているような……。

少女「は? 何言ってるの? ちょ、ちょっとおばあちゃん!」

 老婆――俺の担任に似ている人物は、今更気が付くが、時代錯誤のローブと杖を持っている。何のコスプレかと思うほどに。

狩人「ゆう、しゃ?」

 その少女は弓を背負い、肌こそより浅黒かったが、確かに狩野真弓その人であった。寡黙そうな雰囲気も、三白眼も、全て。

 三人が心配そうな顔をして俺に近づく。
 俺は喉から「ひっ」という引き攣った音が漏れ出るのを、自ら聞いた。

 圧倒的な恐怖。
 俺は世界から見放されている。

少女「ちょっといい、先に謝っとくけど、ごめんね?」

 少女は手を振りかぶって、そして――

291: 2012/08/14(火) 09:49:47.06 ID:hgvusBa00

 バチーン!

 と、俺の頬が鳴った。

女川「勇、勇!? 大丈夫?」

 瞳を開けば天井があった。空を遮る木の葉も、枝も、何もない。
 尻の下にはベッドがあって、腐葉土の痕跡など感じられない。しっかりとした自室の床。大地の質の差異は歴然としている。

 そして、視界いっぱいに移りこむように、女川祥子が俺を覗き込んでいた。

 涙を目に一杯溜めて。

女川「よかった、揺すっても叫んでも起きないから、どうしたのかって……」

 俺は、けれど暫し愕然としていた。今の夢は、即ち、女川が昨晩言っていたそれではないのか? 一笑に付すことこそしなかったが、内心女川の不安を俺は理解できなかった。それも今ならば理解できよう。
 酷く、気分が悪い。
 あのまま世界に連れていかれるのではないかという焦燥は、依然消えることなく全身を取り巻いている。

 夢なのだ。それは事実であるが、決して納得を俺にもたらさない。なぜなら俺はこの景色――ベッドと、出窓と、本棚と、机と、女川に対して、限りなく懐疑的になりつつあるからだ。
 もちろん無意味さを感じないわけではない。触れているものは存在しているし、見えているものは存在している。唯物論は主観において絶対的である。そのはずだ。

 そのはずなのに。

292: 2012/08/14(火) 09:52:20.39 ID:hgvusBa00
 頭の中に霞がかかっていく。桃色の霧が俺の耳から侵入して脳髄を握りしめた実感が確かにあった。力を籠めれば今すぐにもお前のことなど殺せるのだぞ、という警告だ。
 けれど同時に愉悦も感じられた。だけど、お前のことは絶対に殺さないぞ、という。その上でびくびくしながら生きればよいのだ、という。

 頭を振る。まるで脳内の霧を散らすかのように。

 そんな俺の様子をどう思ったのだろう、もう一度女川は俺の顔をじっと覗き込んだ。
 一点の曇りもないその瞳。白状せずにはいられなかった。

勇「昨日お前が言ってた夢な。たぶん俺も見た」

女川「!」

勇「ありゃ、駄目だ。引きずり込まれそうになる」

女川「それで、いた?」

勇「いた、って?」

女川「アタシに似た人。転校生とか、長部とか、先生とかに似た人」

勇「あぁ、見たよ。長部はいなかったけど、狩野もいたな」

勇「たぶんあの世界での俺は、俺に似てるんだろうな」

女川「単なる夢なのかな」

勇「……」

 当たり前だ、そりゃそうだろう。軽く言えればどれだけ楽か。
 荒唐無稽な話だとはわかっている。だが、今の俺たちは、あれがそんなたやすいものではないということを、肌でひしひしと感じていたのだ。

 あれは恐ろしいものだ。心から底冷えするほどの。

 母親の「遅刻するよ!」の声に促され、俺たちは家を出た。
 脳内のしこりがとれないまま。

* * *

293: 2012/08/14(火) 09:54:56.63 ID:hgvusBa00
 授業中に自然と狩野の背中へと視線をやってしまっていた。
 どうやらそれは女川も同様であるらしく、時たま彼女と視線が合うこともある。そのたびに気まずそうな顔をして俺たちは顔を反らすのだ。

 夢の原因が可能であるなどとは思ってはいない。だが、だとしたらあの夢はなんなのだろう。いったい何があの夢をもたらしているのだろう。
 当事者である俺たちにはわかる。あれはよくないものだ。決してこの世のとは相容れないものだ。
 陳腐な表現だが、心霊的怪奇現象。

 教室の前方では、我が学級の担任、夢に出てきた老婆に酷似している定年間際の女性教師が、国民年金について説明している。
 板書を書き取らなければいけないが、つい視線は狩野のほうへ。

勇「!」

 狩野が俺のことを見ていた。視線に気が付いたのだろうか。
 堂々としていればいいものを、つい視線をそらしてしまう。黒板へと視線を移すが文字など頭に入っては来ない。脳にそこまでのCPUはつまれてはいない。

 視線をそらす一瞬、俺は気が付いた。狩野が微笑んだのを。

 その微笑みが意味するところを理解できない。意味がないと断ずれないほどには、その微笑みはこれ見よがしだった。

 チャイムが鳴る。担任は中途半端なところで終わってしまったことにため息をつきながらも、教科書を閉じる。
 それを合図にして、教室の仲が徐々にざわめき始めた。いつものことだ。一時間目とはいえ、授業の終わった解放感は、いつだって誰にだって格別である。

294: 2012/08/14(火) 10:00:04.01 ID:hgvusBa00
 狩野が立ち上がった。こちらへ来るのかと思って身構えるが、何のことはない、そのまま教室の外へとぺたぺた歩いていく。

 ぺたぺた?

 狩野は上靴を履いていなかった。
 白い無地のソックスが、細すぎる足首に映えている。色の濃い肌とのコントラストもまた眩しい。
 転校してきたばかりだから指定の上靴がない? いやまさか、そんな。昨日は履いていたはずだろう。大体、それにしたって靴下のままやってくる必要もあるまい。

 熱くなっていく頭を冷ましたのは、背後から投げられた女川の言葉であった。

女川「あんた、ちょっと不自然すぎじゃないの」

勇「え? あ、女川か」

女川「気になるのはわかるけどね」

 小声で女川は言った。彼女もまた狩野が気になる一人なのだ。
 しかも女川の場合、狩野が転校する以前から夢で狩野に酷似した少女を見ていたのだから、それも仕方がないのかもしれない。

勇「そういや、狩野の奴上靴履いてないみたいだけど」

 何の気なしの指摘だったが、それは存外女川のクリティカルなポイントを突いたらしい。露骨に視線をそらし、頬へと手をやる。

女川「あー、それは、なんていうか」

295: 2012/08/14(火) 10:02:20.47 ID:hgvusBa00
 言葉を濁す女川を見て、ようやく俺も一つの答えに辿り着く。

勇「……マジかよ」

女川「マジもマジ、大マジよ。クラスの女子に昨日メール回ってきたっつーの」

 努めて小声で女川は言う。自らの立場を公言するのは得策ではないのだ。
 学生という身分は、つまり一介の兵士であると同時に首相でもある。時として、自らという領土を守るために銃を取り、指揮を執り、生存を勝ち取らなければならない。そのためには外交努力も当然手段として入ってくる。
 狩野側に回ることは敵対を意味する。せめて中立でいれば、戦火からは逃れられる。物資の提供をすることがあっても、戦争へ加担しているという罪悪感は軽い。

 俺は女川を叱責できなかった。叱責するのならば、今すぐ首謀者をひっぱたいてやらなければならないからだ。

 しかし、それにしても、転入してきたのは昨日だ。たった一日どれだけ不興を買ったというのか。狙いでもしなければできないことである。

夢野「どうしたの、二人でこそこそと」

 遠くからやっとこやってきたのは夢野だった。あっけらかんとした笑顔で、虐めなど自領域には存在しないかのように、距離を詰めてくる。

女川「ん、ま、ちょっとね」

夢野「えー、仲間はずれかよぅ」

女川「ちょっと、やめてよ。あんまり大声で喋ることじゃないんだから」

夢野「ってーと、あれ? 転校生のメンタルをボコそうってやつ?」

勇「ばっ」

 あまりにも普段の声量で夢野が言うものだから、俺は思わず叫び出しそうになる。
 この学級でいじめはないものなのだ。あるとしたらヒエラルキーであり、調教なのだ。
 俺たちは知らんぷりをしていなければいけない。それがいじめられもしない、いじめもしない中立派の、ただ一つのルール。

 そのルールを破ったものは、次に対象となってもおかしくはない。

296: 2012/08/14(火) 10:04:52.18 ID:hgvusBa00
夢野「なに、そんな大声で。気にしなくていいじゃん。そんなのストレスフルになるだけだって」

勇「お前……!」

夢野「やだなぁ、勇ちゃん。面白けりゃいいんだって。娯楽だよ、娯楽」

 視界が赤熱する錯覚を覚えた。見て見ぬ振りする俺や女川が人間として上等だとは思わない。だが、五十歩百歩、どんぐりの背比べ、目くそ鼻くそを笑うだとしても、夢野の言いぐさはあまりにもあんまりではないか。
 俺のそんな雰囲気を察して、夢野は困ったような顔をした。そんなつもりじゃなかったんだけどなぁ。感情を表すならばこうだろうか。

 肩をすくめて夢野は去っていく。俺はそれを追うことはなかった。俺に一体全体追う権利があるだろうか? 既にまったき加害者だというのに?

 酷く吐き気がした。重石を飲み込んでしまったと思える程度には、重力が辛い。

 わかっている。俺「も」悪いのだ。俺「すらも」悪いのだ。
 だけれど、平穏で安寧とした学校生活を送るために、全力で策を巡らせて何が悪い!?

女川「……勇」

 女川がばつの悪そうな顔をしている。こいつの性根は真面目で正義感が強い。例え同調圧力に負け、保身に走ってしまったとしても、根が腐っているわけではないのだ。
 それが欺瞞であるということは、恐らく彼女自身が最もわかっている。だから口にしない。口に出さないことで、何とか自らを罰しているのだ。
 自己満足であるとしても。

* * *

307: 2012/08/15(水) 08:47:11.54 ID:nCIrDtoE0
* * *

 次の日、狩野の机に菊が置かれていた。
 狩野は一瞬目を見開くが、まるで何もなかったかのように椅子を引く。
 せめて花と花瓶くらい除ければいいのに。そのようなこれ見よがしな態度が攻撃を激化させることをわかっていないのだろうか?

 しかし狩野の行動は明らかに不自然だ。俺が今考えたように、本来ならばおとなしくなるべきなのだ、やられている側は。
 性格なのだろうか。やられて黙っていられないほどの。

夢野「全く、転校生もよくわかんないねぇ」

女川「……」

勇「……」

夢野「どうしたのさ、二人とも。そんな黙りこくっちゃって」

勇「いや、なんか、頭が痛くてさ」

女川「うん……」

夢野「風邪でも引いたんじゃないのー? 保健室にでも行ってくればいいよ」

女川「うん……」

 女川の生返事を夢野は気にしないようで、花瓶に挿された菊の花を前に、じっと席に座っている狩野をにやにや見ている。

308: 2012/08/15(水) 08:47:42.86 ID:nCIrDtoE0
夢野「怖いよねぇ女って」

 女である夢野が言うのはおかしかったが、俺はそれを指摘する元気もない。日がな一日こうなのだ。それでいて病院にかかろうとは全く思えない。
 思えないというのは、単にやる気の問題であり、かつやる気の問題でしかなかった。やる気が根こそぎ奪われているのだ。誰が何の目的で俺のやる気などを奪っているのかはわからない。世界中の恵まれない子供にでもばらまくつもりだろうか?

夢野「ま、転校生も付き合いが悪かったしね。ね、ね、聞いてよ。あの娘、クラスのリーダー格の○○さんに、『存在が臭いからどっか行って』って言ったんだってさ!」

勇「あぁ……あぁ、そう……」

夢野「もう、もっと頑張ってよ! 張り合いがないなぁ!」

夢野「九尾の一押しだから期待してるのにさ!」

 夢野が何やら変なことを言っている。
 隣にいるはずの彼女なのに、どうしてか薄い膜を隔てた向こう側にいるようで、俺はどうにもうまくそちらを見られない。
 あぁ、そうだ、頑張らなければいけないのだ。頑張って、頑張って、何かをどうにかしなければいけないのだ。
 そんな気が、するのだけれど。

 チャイムに引きずられるように、俺は眠りについた。腕の枕は実に気持ちがいい。

* * *

309: 2012/08/15(水) 08:48:28.90 ID:nCIrDtoE0
* * *

 また次の日、トイレから戻ってきた狩野は、なぜかびしょ濡れだった。まさかトイレの中で夕立にでも降られたのだろうか? だとしたら運の悪いことである。
 朝にやっている教育番組のように、狩野に対するソーユーコトは、手を変え品を変えバリエーションが豊富だ。ゲームでチーププレイを拒む心理に通じるものがある。変なことに熱意を燃やす人間もいるものだ。
 最近、頭は痛くなくなってきた。代わりと言ってはなんだが、視界の端がうっすらと桃色に染まり始めている気がする。

 俺は女川の席を見た。彼女は本日欠席である。体調が悪そうだったから、家で安静にでもしているのだろう。

夢野「ねーねー、勇ちゃん。転校生がまたやられてるよ。あんなに頑張って意味あるのかな。どうせうまくいきっこないんだしね」

 何がうまくいきっこないんだろう。夢野は何を知っているんだろう。

夢野「ていうか、本当わけわかんない。クラスメイトに喧嘩吹っかけるなんて、どういう攻略法だろう?」

 俺にはお前の言っていることのほうが全然わかんないけどな。
 喉まで出かかった言葉は、けれどやる気の問題で失われる。無気力が全身をつつみ、がんじがらめにしているイメージ。
 なんとかしなければな、とは思っているのだが。

 いずれこの意思さえも縛られてしまうに違いない。

 それはそれで楽な生き方なのかもしれなかった。全てを自分の意思で選択し、決定し、進んでいくのは、経済的ではない。時には周囲に流されることも利得である。
 俺はぼんやりと夢野の言葉を聞いている。

310: 2012/08/15(水) 08:49:39.16 ID:nCIrDtoE0
夢野「あ、もしかしたらマゾなのかもね。それならよかったな」

そうなのか?

夢野「うん。ちょーっと登場人物のパターン弄って、みんな転校生をいじめるようにしといたんだ」

夢野「折角みんなに喧嘩売ってるみたいだったからさ」

 そんなこともできるのか。

夢野「まぁねー」

 違和感があった。俺はいま、口に出していたか?
 ……会話が成立しているということは、恐らくそうなのだろう。

 チャイムが鳴る。頭の奥へと侵食する、鈍い音だ。
 ぐぉおおおん、ぐぉおおおんという独特の鐘の音は、何かしら叫びだしたくなる衝動を増幅させる。もちろん俺は理性によって守られているため、そんなことはしないのだが、それにしてもこの音はどうにかならないだろうか。

 俺は立ち上がって鞄を取る。今のチャイムは放課を告げるものだ。ならば教室にいる必要もない。一刻も早く部室へ行かなければ。

 部室は安息の地である。あそこならば、何ものに惑わされることもない。

311: 2012/08/15(水) 08:50:14.41 ID:nCIrDtoE0
 脳髄へと伸ばされた誰かの手を振り払い、教室を後にする。無節操に解剖されるのは好きではない。だのに、誰かが違法行為をおかしているのだ。ぞわりぞわり這い登ってくる悪寒の主はその誰かに決まっている。

 部室へ行って、夢野と駄弁る必要がある。そしてそのあと本屋に寄って、女川の見舞いに行こう。そうしたら明日は学校で、それさえ乗り切ってしまえば土日の連休。
 そこで頭をゆっくりリフレッシュすればいい。夢だの現実だのに振り回される必要はない。

 もうすぐ終わるのだ。
 なにが? ――学校が。平日が。

 だけれど本当にそうだろうか? もっと大事な何かが終わりを迎えるのではないだろうか?
 心がぎしぎしと軋んで悲鳴を上げる。経年劣化した輪ゴムが千切れるように、心もまた、劣化は早い。

 体中を掻き毟りたくなる感覚をなんとか押さえつけ、俺は部室を目指す。

* * *

312: 2012/08/15(水) 08:51:36.40 ID:nCIrDtoE0
* * *

 さらに次の日、狩野の机の中身が丸ごと避妊具に置き換えられていた。ご丁寧に中身が入った状態で。

 誰が何のためにやっているのか。そんなことは最早どうでもいい。戦争はすでに包囲戦へと突入している。諦めて退くか、兵糧が尽きて陥落するか、どちらか一つしか結末は存在しない。
 生きるということは戦争である。学校ならば、それに拍車をかける。

 吐き気がする。頭痛がする。倦怠感。眩暈。幻聴に幻覚。病んでいるのは周囲なのか、それとも俺の精神なのか。
 現実は加速し、とどまるところを知らない。ブレーキはすでにどこかへ吹っ飛んで行ってしまったのだろう。手を伸ばしたとしても、それより早く遠ざかってしまっては、行為をするだけ無駄というものだ。

 そしてまた、夢もとどまらなかった。あの日を境に現れた仮想現実は、俺の安眠を妨害こそしないまでも、着実に現実を蝕み始めている。
 目を覚ませば、明日にも俺は俺であって俺でない俺になっているのかもしれない。その考えは何度振り払ってもこびりついて黒ずんでいく。

313: 2012/08/15(水) 08:54:10.43 ID:nCIrDtoE0
 ぐぉおおおん。ぐぉおおおん。ぐぉおおおん。

 鐘の音で気が付けば、すでに放課後であった。昼食はどうしたのか、板書は書き留めたのか――その辺りの記憶がまるでない。霞がかかった中で、正確な事実を引き出せない。引き出すほどの事実が本当にあったのだろうか。

 苛立ちは焦燥感を引き寄せ、精神を不安定にさせる。
 何かをしなければいけない強迫観念だけがあった。けれど、何を強迫されているのかがまるでわからないのだ。目的の欠如は方向感覚を乱して大いに俺を惑わせる。

 自然と手に力が入ってしまっていた。爪は加工された机の天板の上を滑っていくだけで、何にも引っかかることはない。力すら籠めさせてくれないのは、俺に対しての罰のつもりだろうか。だとすればなんと効果的な。

勇「部室……いかなきゃ」

 ほとんど反射でそう口にする。こんな状況下でも、俺は足繁く部室に顔を出していた。必ずそこには夢野がいて、気さくな会話を繰り広げる。
 あそこが唯一の安住の地だった。俺をやさしく包み込んでくれる桃源郷だった。

314: 2012/08/15(水) 08:56:11.61 ID:nCIrDtoE0
 脇目も振らず一目散に、誰よりも早く教室を出る。後ろからクラスメイトが声をかけてくるが知ったことか。掃除当番などサボタージュの対象だ。今はただ、今はただ俺は、この心を休めたいのだ。

 二階に一旦降り、渡り廊下を伝って特別教室棟へ移動し、さらにそこから階段を上って三階へ。
 突き当りを右に曲がった一番奥、物置のような小さな冒険部の部室。
 そこに酸素を求めるかのように、俺は扉を開ける。

夢野「やっほー」

勇「あぁ、夢野か。上春先輩は」

夢野「今日は用事でお休みだって言ってたよ」

勇「そうか……そうか」

 それは残念であるが、とにかく部室までたどり着けたことに意味がある。ともすれば過呼吸気味になりそうな深呼吸を経て、俺はぼんやり天井を見上げた。

 夢野の顔が目の前にあった。

夢野「――んっ」

 口づけをされる。舌が歯の間から割り込んでくる。
 蹂躙される口内。舐られる舌。
 けれど、驚きよりも心地よさが増すのはなぜだろう。

夢野「ぷはっ」

 口を離すと唾液が糸を引いた。満足そうな顔をしている夢野を見ると、俺は心の中心がほっこりしていくのを感じる。

 思考がうまく回らない。抵抗感が失われ、筋肉が弛緩する。

夢野「あの娘は結局どうにもできなかったみたいだね。賭けは、私の勝ちか」

夢野「なーんだ。案外呆気ない。見込み違いだったかな」

 下卑た笑みを浮かべ、軽やかに笑った。

315: 2012/08/15(水) 08:56:55.38 ID:nCIrDtoE0
 こいつは何を言っているのだろうか。浮かんだ疑問は、しかし一瞬で霧散する。誰かが思考の流れを絞っているのだ。脳髄の根っこを掴んだ手が、きっとどこかに転がっているはず。

夢野「勇ちゃん、私のこと、好き?」

 血のように真っ赤な夢野の唇の向こうに覗く、鋭い犬歯。桃色の吐息は酷い酩酊をもたらす。
 最早何もかもが面倒くさかった。

 ゆっくりと頷く。全てを彼女に任せておけば問題はないのだ。だって夢野は夢野なのだ。だから大丈夫。問題ない。
 ワイシャツのボタンが外されていく。次いで、夢野自身のそれも。
 豊満な胸が零れ落ちた。それに手を伸ばすと、夢野はにこりと笑って、触りやすいように突き出してくれる。

 夢の中にいるようだった。こんな心地のよいことがあるだろうか。茫洋とした霧の中でへらへらと浮かんでいるアリの群れが俺だ。
 外からは吹奏楽団の飛行機が屋根の上で大蛇と缶詰のツーシームに決まっていて格好いい。四件目のラーメン屋を混ぜ込んだヨーグルトと粘土の川は、今日がまた今日で来年の今日に決まった。
 蛋白質は電波に重なる魚の樹液に違いない。なぜならその中心に夢野が立っているから。

 夢野。
 歪む景色の中で夢野とその周りだけが燦然と煌めいていた。明るく、後光が差し、道を指示してくれているのだと俺はすぐにわかった。
 甘い香りに包まれる中で、これが現実なのだ。これだけが現実なのだ。

316: 2012/08/15(水) 08:59:43.27 ID:nCIrDtoE0
 柔らかく反復するトリツチェルマジネ電離層が俺の背中を押してくれていた。足元も蚕の微笑みが渦巻くように前転をしていて、放っていても自然と足が前に進む。実に快適な環境だった。

 思わず夢野の唇を貪る。

 頭の中でリトルボーイが五人ワルツを踊っている。おーい、俺も混ぜておくれよ。お料理教室のテーマに沿って踊りましょう。
 快楽物質で世界中の多幸感が俺にハッピーエンド。スポイトで一滴一滴垂らされたラブ&ピースは俺の幸福上限値に表面張力を働かせる形で盛り上がる。

 気持ちいい。
 気持ちいい。

 このまま溶けてなくなったとして、俺は何一つ不満がないだろう。

夢野「ちょっと勇ちゃん、そんなにがっつかないでよ」

 苦笑しながら夢野は言った。そんなことを言われても止まらない。夢野を壁に押し付け、唇と言わず耳朶と言わず、舌を這わせて吸い尽くす。
 仄かに甘い香りは香水だろうか? いや、ケミカルな感じではない。もっと生物由来の、艶めかしい香りだ。

 窓の外は夕焼けだった。橙の光が俺と夢野のシルエットを部室に浮かび上がらせる。
 窓は空いていて、そのためか陽光だけでなく風もふんわりと差し込んでくる。外の景色は不思議と見えない。きっと夢野だけを俺が見ていたいからそうなったに違いない。

 誰かの苛立ち交じりの声が聞こえて、硬いものと硬いものがぶつかる音も聞こえた。
 別に、そのまま夢野の体を漂っていてもよかったのだけれど、当の夢野が「ほらほら、勇ちゃん」と引っ張って、外を見させてくれる。

 ちょうど真下で、狩野が暴行を受けていた。

317: 2012/08/15(水) 09:01:26.75 ID:nCIrDtoE0
 四人の女子が彼女を取り囲んで、ひたすらに足蹴にし続けている。狩野は蹲って耐えているようだが、それにどんな意味があるだろうか。
 もっと楽に生きればいいのに。だって世界はこんなにも濃密な乳白色の空なのだ。

 辛いことなど何もない、悦楽だけがそこにある、桃源郷色のユートピア。
 いや、ユートピア色の桃源郷なのかもしれない。どっちだろう。

 俺のへらへらした笑みが零れ、狩野に落下する。
 音符の見えない世界において、どうしてだろう、俺はその事実を視覚的に捉えた。

 そうして、彼女は俺を見る。
 鋭い、余りにも鋭い、まるで矢のような視線が俺を打ち抜く。

 血を吐いた。

 いや勿論そんなことはなくて俺は健全健康な学生だし肺尖カタルなんてもってのほかだから急に血を吐くことなどありえない。袖で口元を擦っても学生服の黒は黒のままで黒々しくそこにある黒でどこにも赤い要素が見当たらないということはつまりそういうことになるだろう。だけれど果たしてそれが本当にそうなのかはわからないという思考の波と波と波と波と大回転と

318: 2012/08/15(水) 09:02:23.49 ID:nCIrDtoE0
「わたしがピンチになったら、絶対助けに来てね」

 誰かがそう言った。
 誰がそう言った?
 言われたのは、いつだ?

 助けるって誰を?

 ん?

夢野「勇、ちゃん?」

 夢野の顔が驚愕に彩られている。
 心配をかけてしまったか。俺はせめて大丈夫だと示すため、引き攣る顔面の筋肉を総動員し、笑顔をつくって見せる。

夢野「まさか、なんで、こんな、今更……っ!」

夢野「私の勝ちだったのに、そのはずだったのに、なんで!」

 珍しく見る夢野の恐慌状態だ。なんとか宥めなければ。ほら、俺は大丈夫だぜ。いつも通りの田中勇だぜ。だから落ち着けよ。

勇「ら、らい、らいじょーぶ、らお」

 呂律が回らない。落ち着かなければ、一度落ち着かなければ。夢野を落ち着かせるよりもまず先に。
 落ち着かなければ世界の街灯が全部計画停電だ。それだけでなく俺はスナック菓子すらもマントルの/夢野の/中に放り込まれ/服を掴んで/スティック糊の熱さ/窓から身を/が券売機/投げ/を焦が――投げ、

 意識と行動に介入が/力一杯に夢野を/この感覚は一体/いや、「夢野」では、なく/俺は/俺は/俺は/俺は

319: 2012/08/15(水) 09:08:48.04 ID:nCIrDtoE0
 切れそうになった電球が点滅している。おかしい。部屋の電気はつけていないはずだ。ならばこの明滅はどこで起きているというのだ。
 あぁ、そうか。
 俺の脳内だ。

 妙に冷静な感覚があった。思考だけが急速に回転し、肉体の動きはほぼ停止しているといっても過言ではないだろう。
 頭の中は冴え冴えとしている。と同時に、割れそうなほどの頭痛もまた。

 本来同時に起こりえないであろう事象が同時に起きているのに、俺は極めてそれを傍観者気取りで見ている。そんなことに振り回される前にすべきことがあるのではないか。
 すべきことがあるのだ。
 理屈とか、理由とか、わからないけれど。
 過程とか、考えたところでわからないけれど。

 誰かと約束をしたのだ。
 約束を守らねばならないのだ。

 「勇者」と誰かを呼ぶ声がした。

 だから。

 だから、俺は、

320: 2012/08/15(水) 09:10:07.31 ID:nCIrDtoE0
 俺は、

 夢野の、

 服を、掴ん、で!

 窓――窓、窓だ、窓から、落ちたら、氏ぬかもしれないけれど!

 氏ぬかもしれないけれど、

 けれど――だからこそ!

 しれないからこそ、俺は、

 俺は!

 爪切りの内臓が四つ折りになって違う! そうじゃない!

 夢野の悲鳴、が、聞こえる、と、言う、

 ことは!

 家賃の漬け汁違う! このまま、で、

 正しい!

夢野「や――やめろ、やめろ、やめろぉおおおおおっ!」

勇「か、の――か、か!」

勇「狩人ぉおおおおお!」

 重力からの解放。

 衝撃。

――――――――――――――

327: 2012/08/18(土) 09:21:41.14 ID:YYhMJExk0
――――――――――――――

 頭の中で焦燥と冷静が入り混じる。赤と青は決して紫になることはなく、それぞれの色を保ったまま思考の渦を巻く。
 狩人は頬に汗が伝うのを感じたが、それを意識的に無視した。冷静を装うふりなどしてられなかった。

 焦燥の部分――二人はどこへ行ったのか。無事なのか。攻撃を受けたのは彼らなのか、それとも自分なのか。
 冷静の部分――違和感の正体はこれだ、という理解。背後が静かすぎたのだ。

 ともかく、分断されてしまったようだ。二人は二人でいるのか、あちらも一人ずつに分断されたかまでは、彼女にはわからない。

 狩人は沈思黙考する。焦ってはいけない、敵の思うつぼだ。冷静に、冷静に。

 この状況が敵の攻撃によるものであることは明白。しかし、敵の術中に自分たちが陥っているならば、なぜ傀儡となっていないのか。他の兵士と自分たちの置かれている状態の差異は捨て置けない。

 仮定。意識は明快であるが、実は肉体は傀儡となって勇者たちを襲っている。
 仮定。何らかの理由があってこちらに傀儡の術をかけることができず、やむなく分断した。
 仮定。初めから分断することが目的であった。

 可能性としては一番か三番が有り得そうな気もしたが、あくまで可能性だ。
 狩人はあまり魔法に詳しくはない。初歩の初歩くらいならば用いることもできるが、精神汚染、精神操作といった超高難度の魔法など、理論すら聞いたこともない。
 老婆ならばわかったのだろうがと考えて、気が付く。

 老婆がいない。

328: 2012/08/18(土) 09:22:17.56 ID:YYhMJExk0
 否。狩人は知っている。老婆は洞穴や大空洞を調査していて、まだ王城へは戻ってきていない。
 問題はそこではないのだ。老婆がいれば、恐らく精神操作には対抗できるだろう。気付けだってできるかもしれない。

 この状況は老婆がいなくなった隙を意図的に狙って引き起こされた。そうでなければここまで大規模にはならない。
 つまり、相手はこちらの状態を把握しているのだ。その考えに至って狩人は眉根を寄せる。

 それが、例えばウェパルのように兵士に化けているのか、それとも遠見なのかは、彼女にはわからない。しかしなぜ自分たちが? 狩人はそれだけが納得できなかった。
 確かに自分たちは冒険者にしては強いだろう。勇者は実質不氏で、少女も老婆も埒外の強さを誇る。正当な手続きを踏まずに宮仕えとなったことからもそれは明らかである。
 ただ、その程度で敵に目を付けられる理由になるだろうか。脅威という観点ならば隊長のほうがずっと魔物に対して脅威だろうし、そもそも傀儡にしてしまわないわけも不明だ。二人を消せるならいっそ傀儡にしてしまえばいいのに。

 ざく、と瓦礫を踏みしめる音が聞こえた。反射的に狩人は鏃を後方へと投げつける。

??「あ、あっぶないなぁ!」

 赤髪の女が立っていた。煽情的な体つき、顔つきで、露出も多い。
 背中からは悪魔の羽が一対生えており、尻尾もある。切れ長の眼に収まる桃色の瞳は、それを見ているだけでくらくらしそうだ。

 脳内に手が伸ばされる感覚がした。思わず地を蹴って後ろへ下がり、鏃で腕を突き刺す。
 激痛が走る――しかしその痛みで覚醒。不快感は消失した。

??「え、マジ。チャーム効かないの。そっかー、マジかー。やっべー」

狩人「あなたが、元凶……」

 最早疑う余地はなかった。狩人は断定的に呟いて、鏃をあるだけ指の隙間に挟む。武器はこれだけしかないが、それでも立ち向かわなければならない。傀儡となった兵士、そして消えた勇者と少女を助けるためにも。


329: 2012/08/18(土) 09:24:06.27 ID:YYhMJExk0
??「やや、どもども。私はアルプ。夢魔アルプ。よろしく」

 目の前のアルプは言う。けらけらと、あっけらかんと。

 内心の動揺を悟られぬようにしつつも、狩人は実のところ気が気でなかった。夢魔アルプ。第四の四天王。精神も肉体も操れぬものはない、状態変化の卓越者。
 彼女の攻撃は物理的に働きかけるものではなく、限りなく精神的かつ魔術的だ。狩人は魔法抵抗のルーンなど刻めなかったが、結局のところ退くわけにもいかない。せめて一矢報いようという気概だけは心にとどめている。

アルプ「うわ、すっごい警戒されてるよ」

狩人「……これはあなたのせいなんでしょ」

アルプ「そうだよ」

 まさか返事が普通に帰ってくるとは思っていなかった。狩人は拍子抜けした感覚を受け、しかし罠かもしれないと気を引き締める。何せ相手は単なる魔物ではないのだ。

狩人「……あなたを殺せば、兵士たちは元に戻る?」

アルプ「まぁね」

狩人「あなたを殺せば、勇者と少女は帰ってくる?」

アルプ「さぁ、どうだ――」

 ろう。アルプが続ける前に、鏃が二つ、時間差でアルプを襲う。
 あらぬ方向へと曲がって、それぞれ地面と天井へ突き刺さった。

狩人「……!」

 有り得ない動きであった。狩人は決して手加減などしておらず、乾坤一擲、頭を潰して頃すつもりで投げたのだ。しかしアルプはそれを触れることなく軌道を変えて見せた。
 鏃が弾ける音以外は静かすぎる城内に、唾液を飲む音さえ響く。

330: 2012/08/18(土) 09:24:38.00 ID:YYhMJExk0
 狩人は、手や背中にじっとりと汗をかいている自覚が確かにあった。そうやってなんとか恐怖としり込みを体外に排出しようとしているのである。

アルプ「四人組ならまだしも、私とタイマン張ろうってのは、ちょーっと早いんじゃないの」

 飄々とした態度とは裏腹に、なるほど確かにアルプは実力者で、四天王なのだと狩人は理解する。
 実力差はいくらもあろう。だが、しかし。

狩人「それでも、私が氏ぬまで私は貴方を頃す」

 鏃を引き抜く。とは言っても勝機なぞ皆無であった。隙を見て逃げ出す算段なのだ。

 投擲――弾けて本棚を砕く。
 投擲――軌道が歪曲し壁に突き刺さる。
 投擲――衝突寸前で停止、アルプはそれを軽くつまんで捨てた。

 木製の机に鏃が転がる。

狩人「――っ!」

 隙もクソもあったものではない。こちらは攻撃するために行動しなければいけないのに、あちらは防御に行動をしなくてもよいのだ。まともに遣り合えば遣り合うほど損をするばかりである。
 狩人はちらりと背後を見た。電気の付いていない物置には、箒や藁、板などが無造作に積まれている。そこの壁に、少女が空けた穴と、扉の二種類の脱出路。

 かび臭い部屋の外からは依然として足音が近づいてきている。時間にして一分か、一分半。それまでに心を決めなければいけない。

 アルプは客室のベッドへ腰を下ろした。その余裕が狩人にとっては憎らしいが、それこそが実力の違いである。

アルプ「別に逃げてもいいけどさ、きみの仲間の身柄、こっちで預かってるんだからね」

331: 2012/08/18(土) 09:25:22.03 ID:YYhMJExk0
狩人「……何が目的。頃すなら殺せばいい」

アルプ「だから人間って駄目なんだよねー。なんていうの、ほら」

アルプ「生き急ぎすぎ」

 狩人の体を唐突に衝撃が襲った。横からの圧力にたまらず吹き飛び、冷たい石の壁に激突する。
 からん、からんと床に何かが散らばる音。見れば物置においてあった木の板であった。それがぶつかってきたのだ。

 地面に肩から落ちる。打撲がもたらす痛みに顔を顰めるが、それより先に立ち上がらねばという危機感が体を叱咤した。反射的に体を叩き起こし、

狩人「……」

 背後、喉元、両足の付け根の五か所に、鏃の先が押し付けられる。先ほど狩人が投擲した鏃が、なぜか空中に浮かんでいるのだ。
 動けば刺さる。痛みを度外視したとしても、アルプが今度こそ息の根を止めに来るだろう。
 逆に言えば、ここまでして動きを封じてくるという以上、あっけなく殺される可能性は少ないと考えられる。無論まだアルプの過ぎたお遊びという考えもできるが、狩人はアルプから殺意の気配を感じられなかった。それを唯一の頼りにして不動を貫く。

アルプ「ただでさえ短い寿命を自分で削ってどうするのさ」

 いつの間にか傍らにいたアルプが、やれやれというふうにため息をつく。
 背中から生えている一対の羽が泳いでいる。天使の羽が厚く、温かく、柔らかいのだとすれば、彼女の羽はその真逆だ。薄く、ひんやりとしていて、骨ばっている。
 その姿からは筋肉の緊張は一切見られず、あくまでも自然体だ。単に狩人が取るに足らない相手として認識されているわけではない。彼女は常に真剣で、真剣に他人のことに興味がないのである。

 それはある種の魔族らしさだった。そのような意味での「らしさ」という一点において、アルプは誰よりも――序列的には上である九尾よりも、ウェパルよりも、デュラハンよりも、魔族然としている。

アルプ「逃げられないんだから、頑張らなくていいんだけど?」

 狩人はそのとき視線の端に確かにとらえた。壁に空けた穴はきれいに塞がり、存在したはずの部屋の扉が、まるで最初からそうであったかのように、石の壁となっているのを。
 彼女には何が起こっているのかわからない。アルプは夢魔である。その名の通り、精神を操ることしかできないのではないか。

332: 2012/08/18(土) 09:26:21.78 ID:YYhMJExk0
アルプ「折角チャンスをあげてるのに、変なことしないでよねー」

狩人「チャンス……?」

アルプ「そう。これからあなたにやってもらいたいことがあるの。で、それを成し遂げられたら、あなたの最愛の人は返してあげるよー」

狩人「……もし断ったら」

アルプ「あなたは氏ぬし、操られてる人たちも、お仲間も全滅だね」

 狩人は口内で舌を噛んだ。アルプの意図がまったく読めない。
 いや、と頭を振る。思考などここに至っては意味がない。彼女の申し出を引き受けないことには全滅しかないのだ。

狩人「……わかった。どうせ選択肢なんてない」

アルプ「さっすが、そうじゃないとね」

 喜色満面の笑みを零して、アルプは笑った。狩人はその笑みに、けれど恐ろしいものしか感じない。

 アルプが指を鳴らすと景色は一瞬にして転換した。王城から、異空間へと。

 桃色の空間であった。地面を踏みしめている感覚はないが、確かに大地のような基準平面があって、そこに狩人もアルプも立っている。
 空間はどこまでも広く、限りなく向こうまで伸び続けている。が、この見えざる大地と同様に、もしかしたら不可視の障壁に囲まれているのかもしれない。

333: 2012/08/18(土) 09:29:08.53 ID:YYhMJExk0
狩人「ここは……」

アルプ「私のテリトリー。夢と精神の世界。心の内。貪欲なる病」

アルプ「私は他人の心を弄ぶのが好きなの。その点では、魔族よりも人間のほうがずっとおもしろい。だから、ね」

アルプ「賭けをしようよ」

狩人「賭け?」

アルプ「ゲームと言い換えてもいいかな。あなたがクリアできたら、ご褒美をあげる」

 狩人は覚悟を決めて先を促す。

アルプ「ルールは単純」

アルプ「仮想世界の中で、あなたの愛する彼の目を覚まさせてみてよ」

狩人「目を、覚まさせる」

 言葉の意味が理解しきれずに思わず鸚鵡返しで尋ねる。

アルプ「そう。勇者くんの精神は私の手の上にある。今から仮想世界をつくって、これをそこにぶち込むから、あなたはそれを助け出すの」

狩人「そんなことができるの?」

アルプ「さぁ? 今までできた人はいないけど、どうかな。できるんじゃない。知らなーい」

 全く無責任な返答に狩人は苛立ちを隠せない。
 目の前の夢魔は、結局のところ狩人にも勇者にも少女にも、ましてや何百人以上の傀儡にも、興味がまるでないのだ。無理難題を吹っかけてそれに喘ぐ様子を高みから見物したいだけに違いない。

334: 2012/08/18(土) 09:30:20.12 ID:YYhMJExk0
 が、立場が弱いのは狩人である。拳を握りしめて会話を試みる。

狩人「その、仮想世界? って、どういうものなの」

アルプ「んー、ま、普通の学生生活だよ。アカデミーみたいなものだね。あなたには縁がないかもしれないけど」

アルプ「あなたは転校生としてやってくる。クラスには勇者くんがいるから、なんとかして精神を現実世界に引き戻さないと、あなた共々ゲームオーバー」

アルプ「心が壊れたまま一生を終えることになるから、気を付けてね」

アルプ「期限は五日間。それを超えても駄目だから。……何か聞いておきたいことは?」

狩人「私が使えるものは?」

アルプ「んー、答える義務はないよ」

狩人「……っ」

 そちらが聞いてきたんだろう。一言言ってやりたかったが、寧ろアルプはそれを待っているのだ。
 人の心を弄び、揺らぎを生み出し、見つけ、そこに付け入ることを何よりの娯楽と感じているのだ。
 だから狩人は、努めて冷静に自己を律する。あちらのペースに巻き込まれては負けだ。

アルプ「ま、説明もそろそろ面倒くさくなってきたから、いっちょ行ってみっかー」

 桃色の空間がぐにゃりと歪んで、現れたのは青い空とコンクリートのブロック塀、電柱とガードレール、生垣の向こうで鳴く犬の存在であった。

335: 2012/08/18(土) 09:30:58.03 ID:YYhMJExk0
 不意に、今後やらねばならないことがわかった。この世界での常識。ルール。物品の使用法。何より、勇者の精神を助け出すこと。

 このまま緩やかな坂を上っていけば学校につくらしい。時間は決してたっぷりあるとは言い難い。この世界の彼は記憶を消され、この世界での記憶が埋め込まれている。そんな彼に真実を正直に話したとしても、それを信じてくれるだろうか。
 アルプは、あの人の怒りのツボを的確に押してくる夢魔は、確かに言っていた。「今までできた人はいない」と。
 恐らく狩人が最初ではないのだ。今までに彼女は何度もこのような「ゲーム」を主宰し、それら全てに勝ってきた。

 狩人は苛立ちがせり上がってくるのを感じた。
 勝たなければいけない。何としてでも。

 正直に話す、つまり正攻法が望めないのならば、搦め手を使っていくしかない。彼の精神を正気に引き戻す誘引剤を考えなければ。
 彼のためならば、どんなつらいことにだって乗り越えられるから。
 泥水を啜ってでもゲームに勝たなければならない。

 力強く右手を天に伸ばした。

――――――――――――――

336: 2012/08/18(土) 09:32:00.73 ID:YYhMJExk0
――――――――――――――

――だから私はっ!」

 勇者を背に、アルプに対峙した狩人は、鏃を構えて鋭く睨みつける。

狩人「あえて自らやられに行ったんだっ!」

 怒声を張り上げるなど何年ぶりだろうか。ともすれば人生初なのかもしれない。
 狩人は自らを温厚で冷静だと評していた。そしてその自らについての人物評は、あながち外れではない。だが、彼女は知らなかった。自らの中にここまでの激情が眠っていたことを。

狩人「人の恋人に手を出した罪、今すぐここで償ってもらう……!」

 現実世界に戻っていた。場所は転移する寸前の、来客用の一室である。勇者はまだ気を失っているが、その顔、格好は間違いなく勇者で、その点についてはアルプは約束を守ったのだ。
 最終的に約束を破ったとしたら。狩人は心の内ではそのような心配をしていたが、アルプは自らの持ち出したルールに対しては厳格だ。そうしなければゲームとしての体をなさない。そしてそれは彼女が最も忌避すべき、「楽しくない」ことである。

 狩人には仮想世界での記憶が残っていた。残滓ではない。まるまるしっかり、自分が何をしたのか、何をされたのか、どうしてこうしているのか、すべて覚えている。
 賭けだった。しかも、分の悪い、リセットの効かない、一度きりの投身自殺だった。
 それでも生きているということは、賽を投げた甲斐はあったのである。

 狩人が仮想世界において行ったことはただ一点、勇者を信じる、それのみ。彼は誰かを助けたかったし、誰もを助けたかった。その想いの強さとそれによって引き起こされた苦悩を狩人が知らないはずもない。
 彼が仮想世界においても彼であるならば、意識を取り戻す願いはそこにしかない。
 あのゲームが単純に看破されないのならば、単純でない策を打つ必要があった。

337: 2012/08/18(土) 09:32:50.63 ID:YYhMJExk0
 問題は時間の兼ね合いであったが、アルプが思わぬ手助けをしてくれたことは僥倖だ。無論、彼女の性格からして、こちらを甚振る何かしらを仕掛けてくることは想像に難くなかった。うまく利用できた、の一言に尽きる。

 狩人の眼前、深紅の髪を持つ夢魔は、顔を顰めて頭を押さえている。三階の窓から落下した衝撃は仮想のものだが、仮想から現実に放り出された衝撃は、特に彼女には堪えたらしい。
 先ほどの、アルプ曰くゲームには勝てたものの、次に彼女が何を起こしてくるのかは全く予想がつかなかった。潔く引き下がってくれるのか、それとも。

狩人(……動きがない)

 その事実がなおさら怪しく、狩人は僅かに身をこわばらせる。

 アルプの行為に対して狩人も勇者も抗う術を持たない。魔術的な障壁自体を展開できないし、仮に展開できたとしても、生半可なものでは気休めにしかならないだろう。
 彼女は王城へと侵入し、容易く今回の事件を引き起こして見せた。侵食力には、いらない折り紙が付帯している。

 アルプの瞳が見開かれる。
 体が震え、爆発するように立ち上がった。

アルプ「す、す」

アルプ「すっげー!」

 奇術に魅せられた子供のように、目を輝かせてアルプは言った。狩人が鏃さえ持っていなければ彼女に抱き着いていたかもしれない。

アルプ「いやいや、マジで、すっげー! 何それ、まさか普通できないでしょ、賭けにしては分が悪すぎるでしょー!」

 甲高い黄色い声とともにはしゃぎだす。興奮冷めやらぬ様子だ。

338: 2012/08/18(土) 09:33:24.42 ID:YYhMJExk0
 そもそも彼女はゲームがクリアされるとは思っていなかった。他の四天王が気にかけている冒険者がいるから、とりあえず潰してみよう、その程度の悪意だったのである。
 何より狩人が用いた方策こそがツボに嵌ったらしい。これまでの挑戦者は、みな当初から積極的な交流を以て攻略しようとしていた。その程度で解ける術ならばアルプは四天王など名乗っていないというのに。
 自らを追い込んで、気が付かせる。まさかそんな方法があったとは。

 二人の関係をアルプは知っていたが、間で交わされた言葉や約束までは知らなかった。もし敗因を探るとするなら、その辺りの情報収集が足りなかったと言わねばならないだろう。
 しかし、アルプは試合に負けてこそいるが、勝負に負けたわけではない。

アルプ「自分を虐めさせて気が付かせるかよ、おかしいっしょー! どんだけ肝っ玉母さんなんですかー、もう!」

アルプ「あー、くそ、惜しかったなー! もうちょっとで精神ぐちゃぐちゃにできたのにさー!」

狩人「ちょっと……」

アルプ「約束通り返してあげるよ、あなたの最愛の人をね!」

アルプ「んじゃ、お幸せにー!」

 大きな音を立てて彼女は翼を広げた。指を鳴らすと、彼女の背後の壁に、音もなく穴が空く。ひと一人なら簡単に出入りできるほどの大きさだ。
 狩人は鏃を振りかぶる。

狩人「逃がすと思っているの?」

アルプ「逃げられないと思っているの?」

339: 2012/08/18(土) 09:33:59.92 ID:YYhMJExk0
狩人「あなたには聴きたいことが山ほどある。食らいついてでも止める」

アルプ「やってみるがいいよ!」

 もしかするとアルプにとってはこの現状すらもゲーム、遊戯なのかもしれなかった。そこにあるものをただポジティブに享受するだけの姿勢。
 勝とうが負けようが、畢竟それすら関係はないのだ。

 アルプが叫ぶと同時に、部屋中の家具が一斉に狩人へと襲い掛かる。机、本棚、それに収まっていた本、ベッド、壁の装飾。それぞれが巨大な弾丸となって狩人を打ち砕こうとする。
 防御に時間を割く狩人を見やりながら、すぐさま後ろへと飛び出すアルプ。しつこい存在など相手にしていられない。彼女にはもっと楽しいことが待っているのだから。

 落雷。

アルプ「う、ぎゃあああっ!」

 幾条もの電撃が、狩人だけを避ける形で部屋を蹂躙する。全ての存在は撃ち落とされ、当然それはアルプも例外ではない。
 焼け焦げ破壊された家具のせいで、部屋中に異臭が蔓延した。鼻の奥を刺激する灰の臭いだ。

勇者「てめぇ、よくもやってくれたな……」

 狩人の背後で勇者が何とか立ち上がっていた。精神を弄繰り回されていた後遺症だろうか、脂汗が酷いが、命に別状は無いようで何よりである。果たして精神をやられて氏んだら、彼は生き返ったのちどうなるのだろうか?

 勇者の右手にもう一度稲妻の光が集中する。
 光は収斂し、人差し指の先端で一際大きく輝きを増した。

340: 2012/08/18(土) 09:34:46.71 ID:YYhMJExk0
勇者「きっちり倍返しだ」

 電撃を放つ。
 まるで雲間から降り注ぐ光条のような太さの雷撃が、まっすぐにアルプを狙う。

アルプ「効かないよ!」

 雷撃は膝をつくアルプに命中する寸前で大きく方向転換し、体の表面を滑るようにして、壁に空いた穴から外へと逃げていく。そうして一拍後に大きな爆発音。

狩人「大丈夫なの」

 短く狩人は尋ねる。お互いの背中を預けあう形での戦闘は、二人きりで旅をしていたころは日常茶飯事であったものの、少女や老婆と組んでからは久しい。
 緊張を解かずに、どこまで自然体で呼吸を合わせることができるのか。しかも相手は単なる魔物ではなく、四天王の夢魔アルプ。

勇者「まだちょっと頭痛はするけどな。……しかし、なんだ今の……魔術障壁でもないみたいだし」

狩人「わかんない。さっきからそうだった」

 魔術障壁ならば展開する瞬間に詠唱か、ないしは詠唱破棄のための手続き――ルーン文字の書かれた護符などが該当する――が必要になる。しかしアルプにはそれすらも見られない。
 恐らくはアルプ特有の能力なのであろう。二人にもそこまでは考えが至るが、それ以降へ思考を進めることはできなかった。

 方向性を切り替え、二人は半身になりながらアルプのほうへと目をやる。

341: 2012/08/18(土) 09:35:19.60 ID:YYhMJExk0
 落雷に撃ち落とされたアルプが立ち上がろうとしている最中だった。それほど効果はなかったようだが、皆無とまではいかない。痺れが残るのか動きにくそうにしている。
 ずい、と二人は一歩前に出た。

狩人「訊かせてもらう。なんでこんなことを?」

アルプ「なんでって言われてもなー。遊び?」

 電撃を纏った勇者の右手が向けられる。回避されるのだろうが、脅しとしてはまだ何とか有効だろう。
 アルプは諦めて両手を挙げた。負けを認めたのではなく、強情な二人に付き合ってやるか、その程度の認識だ。

 随分と余裕であったが、その余裕こそがアルプの強みでもあり、力量差を指示しているといってもよい。一度に百人もの兵士を操ったことからもわかるとおり、アルプにとっては一対多の戦いは全く苦ではないのだ。

アルプ「わかった、わかった、わかりました。わかったよぅ」

 何度も繰り返し、にやりと笑む。

アルプ「だってみんなずっと戦いばかりやってるからさー、つまらないんじゃないかなって」

勇者「つまらない?」

アルプ「そう。視聴者サービスってやつだよ」

勇者「?」
狩人「?」

 要領を得ない返答に、二人は顔を見合わせるばかりだった。全く会話が噛み合っていない。それでもアルプは「訊かれたことには答えた」という顔をしている。

342: 2012/08/18(土) 09:36:26.82 ID:YYhMJExk0
狩人「私たちをどうして狙ったの」

アルプ「九尾があなたらばかり気にしてるんだもん。ここ最近は特に」

勇者「九尾が……?」

 大空洞、地底湖での一件を二人は思い出す。鬼神。白沢。海の災厄ウェパル。不穏な暗雲渦巻く事件は、考えればつい数日前のことだ。
 魔物が近隣の町を襲ったことに端を発する一連は、ここにきて必然実を帯びたことを勇者は感じた。もしかしたら初めから自分たちは九尾の手の上で踊らされていたのではないか。そして、今もまた。

 先日の一件を皮切りに、九尾が自分たちに興味を持ったというのならばまだわかる。そこにはれっきとした始まりが存在する。事の起こりに疑問を抱く必要はない。
 が、先日の一件すらも九尾の興味の上でのことなのだとしたら、折角の始まりは消失だ。なぜ九尾が興味を持ったのかについて答えてくれる事実や人物は存在しない。永遠に思考を続けなくてはならなくなる。

勇者「どういうことだ……?」

 アルプに向けてではなく、自分に向けて呟いた。

 問題はアルプの言葉にある。彼女の言葉には、九尾が勇者たちを気にし出したのが数日より前であることを暗に示していた。それが果たしてわざとなのか、無意識なのかは彼女にしかわからない部分である。
 そのまま素直に受け取るなら、九尾と勇者たちの関係は後者ということになるだろう。しかしそれでは彼は納得できないのだ。

アルプ「九尾、全然かまってくれないしさ。だから、ね。頃しちゃおうかなって」

343: 2012/08/18(土) 09:37:05.92 ID:YYhMJExk0
狩人「……クソみたいな女」

 吐き捨てるように言う狩人であった。アルプは寧ろそれが褒め言葉のように鼻を鳴らす。

アルプ「上等だよ」

勇者「狩人」

 狩人を制して勇者はアルプを見据えた。

勇者「お前、何か知ってるのか」

アルプ「知ってても答えると思う?」

勇者「無理にでも答えてもらう」

 返事を聞いてアルプは大きくため息をついた。

アルプ「恋人二人して同じこと言うんだもんなぁー」

アルプ「知らないよ。本当にね。考えはあるんだろうけど、みんな秘密主義者だから」

勇者「魔王の指示かなにかなのか?」

アルプ「魔王?」

 アルプの眉が初めて顰められた。歪んだ顔の理由を勇者たちは理解できない。

アルプ「魔王なんていないよ?」

344: 2012/08/18(土) 09:37:39.22 ID:YYhMJExk0
 今度は二人の顔が歪む番であった。魔王がいない。それはどういう意味なのか――二人が問い質すよりも先に、アルプの眼が見開かれている。
 桃色の、魅了の魔を宿した瞳が。

アルプ「ゲームオーバーだよ、二人とも! 既に魅了はかけ終わった!」

勇者「ん、なっ!」

 ごぐん、と、低く響く音が、周囲から万遍なく響く。
 部屋が揺れる。煉瓦造りの建築が、怒りに打ち震えているのだ。
 狩人はそれが、まるで巨大生物の胃腸に住んでいるかのような錯覚に陥った。城を一個の生き物に喩えるならば、確かに部屋は、客室ならなおさら胃にあたるだろう。そこに住む人々は絶えず居り、かつ流動的なのだから。

 天井が抜けた。
 大量の煉瓦と、土と、木材と、そして上の階に存在した全てが、二人目掛けてなだれ込んでくる。

 狩人は察する。これまでの攻撃がアルプにあたらなかったわけを。そして、なぜ彼女が四天王足り得ているのかを。
 彼女は二人に魅了をかけたのではなかった。
 魅了をかけたのは、この部屋に、だ。

勇者「うぉおおおおおおおおっ!」

 押し潰されそうな焦燥感――それは決して比喩ではない。
 勇者は咄嗟に狩人の手を取り、蹴り飛ばす。少女が客室に空けた穴はまだ空いていた。そこ目掛けて力一杯。

 彼の視界を覆う、雑多。

 一寸の差で狩人は隣の部屋へと倒れこむ。地鳴りと土煙が聴覚と視覚を奪っていて、最早何を感じることもできなかった。
 しかし、何が起こったのかはわかる。勇者は身を挺して自分を助けてくれたのだと。

345: 2012/08/18(土) 09:38:36.74 ID:YYhMJExk0
 やがて地鳴りも止んだ。恐ろしいほどの静寂。静けさが針となって心をひっかくというのは、まさか彼女も想像していなかったことである。

 アルプには恐らく逃げられてしまっただろう。油断がこの事態を招いたのだと思うと、悔やんでも悔やみきれない。
 無論あのまま二人でアルプを倒したり、実力で抑え続けることができたかというと、それは甚だ疑問である。そうだとしても、狩人は徒に勇者を復活させることには消極的だった。
 彼は笑って言うだろう。氏んでも平気な人間が氏ぬべきなのだ、と。それは正しいが、狩人は正しいことならばすべて納得し受け入れられるほど大人ではなかった。
 なにより、そんな大人にはなりたくなかった。

 考えはまとまらない。先ほどアルプの言った、「魔王などいない」という言葉もある。その言葉が示す意味を、狩人はわからない。所詮考えることは本業ではないのだ。そのようなことは、それが得意な老婆や少女にやってもらえばいい。

 ……少女?

狩人「……え?」

 狩人は思わず土煙の晴れてきた周囲を見回す。
 少女の姿はどこにもなかった。

――――――――――――

347: 2012/08/18(土) 23:14:18.17 ID:YYhMJExk0
――――――――――――

 黒い疾風が川沿いを奔っていた。
 黒毛で首から上のない馬が一頭、己の体よりも暗い、闇夜のような馬車を引いている。幌がついているため中の様子は窺えないが、それがこの世のものでないのは明らかだ。

??「しかし、いいのか。こんな形で連れてきてしまって」

 馬車の中では全身鎧を着た、男の声を持つ存在が、目の前のアルプに尋ねる。

アルプ「別に。だって私嘘言ってないし。最愛の人は返したけどね、他の人は知らないよ」

アルプ「それよりも、あなたの我儘叶えてあげたんだから、もう少し感謝してくれてもいいんじゃないの。デュラハン」

デュラハン「うーむ……まぁ、そうだな」

 デュラハン――漆黒の首なし騎士は、どこから声を出しているのか、唸って頭を下げた。
 彼の膝の上には、眠ったままの少女が横抱きにされている。

 彼は気が付いた。アルプが馬車の外、高速で移り変わる景色を見ながら、何やらにやにやと笑みを零しているのを。
 長年の経験から、彼はその笑みが決して良い類のものではないことを知っている。歪んで歪んで歪みきった性根がもたらす、他人の努力を嘲笑う笑みだ。他人を出し抜き、してやることに情熱を燃やしている顔だ。

 無い首を器用に使ってため息をつく。仕方がないとはいえ、アルプに頼んだのは大きな不安を引き起こす。もしかしたら人選のミスでないかと思う程度には。

 馬車はある塔へと向かっていく。

アルプ「さぁ、勇者くん、囚われのお姫様だよ。早く助けに来てあげないとね、うふふふふふふふふ……」

――――――――――――――

349: 2012/08/28(火) 11:22:06.24 ID:z4Z7oF2k0
――――――――――――――
 子供のころから勝気なことで有名だった。
 今も子供だろう。勇者――あのいけ好かない男はそういうかもしれない。まぁ、それは置いておいて。

 生まれ故郷の町は牧畜が盛んだった。
 朝は鶏の鳴き声とともに目覚め、日が沈むとともに眠る、そんな生活。
 けれど、その生活は、だからといって穏やかであるとは言い難い。

 唯一にして無二の問題は、魔物の砦と砦の、ちょうど中間にあるという立地。
 たとえ碌な思考を持たない、生殖と食欲に突き動かされている魔物といえども、見栄や他人に先んじたいという気持ちはあるのだろう。
 お互い競い合うようにこの町へとあの汚らしい手を伸ばすのだ。

 家畜が襲われるだけならまだいい。それが人に及ぶとなると……。

 我が家は代々、町の人々を守る家系だった。護り手、防人などと呼ばれる。
 幾世代を経て受け継がれてきた魔力は、ルーン文字ではなく血液に刻まれている。体中を巡るその力は、アタシの場合、膂力として顕現した。

 楽観的に見れば誰かを守るための力であり、悲観的に見れば刻まれた肉体改造の歴史である。どちらかと問われれば、
 ……どっちだろう。どちらでもあるという答えが許されるならば、そう答えるしかない気がした。

 その日は厚く暗い雲が空を覆い、湿度も高く、嫌な天気だと記憶している。
 かん、かん、かんと三点鐘。火事ではない。まぎれもなく魔物たちが襲ってくる音に違いない。
 アタシは反射的に武器を取った。家族も武器をとる。おばあちゃんは杖、お父さんは剣、お母さんは弓、アタシは鎚。
 見張りの人が駆けてきて、方向とおおよその規模を伝えてくれる。かなりの規模だ。だけど、絶望するほどでもない。

350: 2012/08/28(火) 11:22:38.30 ID:z4Z7oF2k0
 散開。真正面にアタシとお父さん、後ろにおばあちゃんとお母さん。撃ち漏らしのないように。
 町の人々は非難するか、でなければ最終防衛ラインを築いている。
 
 見えたのはゴブリンの軍勢だ。浅黒い肌、尖った耳と鼻、醜悪な顔つき、鋭い牙と餓鬼のような肢体。こん棒や剣のなりそこないをそれぞれ手に、突っ込んでくる。
 鎚を力強く握りしめ、走り、振るう。アタシの仕事はそれだけでよかった。

老婆「……おかしい」

 おばあちゃんが言う。アタシはゴブリンの手首から先を吹き飛ばしながら、尋ねる。

少女「なにが?」

老婆「一気に襲ってくるでもなく、退くでもなく……なんじゃ? なにが目的じゃ?」

老婆「継戦になんの意味が……」

「大変だ!」

 声が背後から聞こえた。背後には町しかないはずだし、門は一つしかない。いったい何が?
 やってきた男性は息を切らしながら、こう言ったのだ。

「ゴブリンども、ならず者たちと手を組んでやがった! 女子供がさらわれて……!」

 さぁっと血の気が引いていくのがわかった。それはきっとおばあちゃんも、お父さんも、お母さんも同じ。
 おばあちゃんが目を剥いた。早口で呪文を唱えながら――アタシにはわかった。おばあちゃんは怒りに打ち震えているのだと――力の奔流を杖の先端に蓄えたまま、ゴブリンの軍団へ歩を進めていく。

351: 2012/08/28(火) 11:26:03.99 ID:z4Z7oF2k0
少女「おばあちゃん!」

父親「逃げるぞ!」

少女「なんで!? おばあちゃんが――」

父親「バカ言ってんじゃない! おふくろ――ばあちゃんから逃げるんだよ!」

 アタシの返事を両親は待たなかった。軽々と担がれたアタシは、韋駄天の速さで町へと引き戻される。
 背後で地鳴り。何故だか心の臓がつかまれたみたいに、きゅっとなった。

* * *

 町は大騒ぎだった。破壊の後こそほとんどないが、ところどころに血や、服の切れ端や、農具、武器の類が散らばっている。

母親「あなた……!」

父親「もちろんだ。助けに行く」

 後から先のことは、覚えていな

 ……いや、覚えているのだ、本当は。
 思い出したくなど、ないだけで。

 ならず者のアジトに辿り着いたアタシたちは、結果として、遅かったのだ。
 狂乱。享楽。饗宴。
 ゴブリンと人が交わっているところなど、見たくなかった。
 同族の血のにおいなど、かぎたくなかった。

352: 2012/08/28(火) 11:34:50.28 ID:z4Z7oF2k0
 ならず者たちは金と女がほしかっただけなのだろう。ゴブリンだって、きっと大差はあるまい。

 なぜ無辜の民が殺されなければならないのか?
 なぜこんな目に合わねばならないのか?

 お父さんが叫び、お母さんが無言で矢を引き絞り、おばあちゃんが呪文を詠唱するその僅かな間隙を縫って、アタシは走り出していた。

 激情。
 激情!

 真っ赤に滾る溶岩は誰しも腹の内に秘めている。普段はおとなしいそれを御しきれなくなったとき、噴火は加速力となって、一気に思考を蹂躙するのだ。

 アタシはそうして人を頃した。
 ヒトであって人でない獣に成り果てた。

――――――

353: 2012/08/28(火) 11:35:42.53 ID:z4Z7oF2k0
――――――

 少女は目を覚ます。
 体が重たい。思考回路がジャムを起こしている。重要な体の神経は絡み合ってぐちゃぐちゃだ。
 夢の中で夢を見ていたような、連続するスライドをずっと眺めていたような、そんな気分である。思わず彼女は自らの頬を触り、次いで手の甲をつまんでみる。

少女「いた……」

 痛覚がある。意識も次第に明敏化してくる。この感覚すらも夢の産物でなければ、確かに自分は夢から目覚めたのだろう。
 と、少女はそこで、自らの居場所が王城でもどこかの宿屋でもないことに気が付いた。
 天蓋――少女はそれを初めて見たため、言葉では知っていても、それが本当に「それ」であるか自信がなかったが――つきのベッドに、彼女は寝かされていたのだった。

 ベッドは柔らかく、体をやさしく包んでくれると同時に、しっかりと受け止めてもくれる。その上に敷かれたシーツもまた上物で、素材は恐らく絹。流れていくような触感がどこかこそばゆい。
 枕も、上にかけるリネンもまた一級品であった。詳しくない者でもわかる程度には。

少女「え、これって……」

 まさかまだ自分は夢の中にいるのだろうか。少女は考える。だって、自分はこれまで王城にいて、何らかの敵の攻撃を受けて、そして――
 そして。

少女「……それから」

 それからの記憶がないのだ。目が覚めたらここにいるということは、繰り返すがまだ夢の中にいるのか、それとも敵に拉致されたか。
 はっとして背中に手をやる。ミョルニルがない。
 豪奢な調度品で埋め尽くされている部屋を見回しても、そぐわない、あの武骨な鎚はどこにもない。

354: 2012/08/28(火) 11:37:33.82 ID:z4Z7oF2k0
少女「うそっ!」

 跳ね起きる。
 頭が急激に覚醒していくのがわかった。あの鎚は代々の家宝だ。そして何より彼女の長年のパートナーでもある。刻まれたルーンは全てを容易く打ち砕き、千の兵士にも劣らぬ力を授けてくれる。
 いや、だがしかし、待てよ。深呼吸をして一度冷静を取り戻した。

少女「そもそも、ミョルニルは部屋に置いてきた。ってことは、王城まで戻らないと、ミョルニルは手に入らない……?」

少女「ミョルニルはアタシにしか使えない。そういう術式になってるはず。……狙いはミョルニル? でも、だとしたらアタシは殺されてる……」

 敵――もうこの際敵と呼んでしまっても差し支えないだろう。敵の目論見が、現時点では彼女にはわからなかった。
 王城でのあの兵士は陽動だったのだろうか。少女を捉えるために、三人を分離させ、隙をつくるための策略だったのだろうか。もしそうならば三人は術中に見事に嵌ってしまったこととなる。

 と、そのとき、扉が開いた。

 開いた扉から人物が入ってくる。上に青磁の水差しとティーカップを置いた丸い盆を右手に、小分けされ和紙で包装された菓子を入れた皿を左手に、鼻歌など歌いながら。
 その人物は一歩部屋に踏み入れ、少女が起きたことを確認して一歩後ずさる。どうやら驚いたようだ。

??「起きていたのか。申し訳ない。ノックくらいすべきだったかな」

??「おっと、すまない、デリカシーがなくて。女の子だものな、寝起きを見られるのは嫌か。あとでまた来るよ」

少女「いや、ちょっと」

 しかし、驚いたのは少女もまた同じだった。

355: 2012/08/28(火) 11:38:00.39 ID:z4Z7oF2k0
少女「訊きたいことはいろいろあるんです、けど」

??「あぁそれはそうだろうな。なんでも答えよう」

少女「……」

 慎重に言葉を選ぶ。尋ねたいことは山ほどあったが、それ以前に気になって仕方のないことがあった。

少女「どっから声出してるんですか?」

 その問いに、漆黒の騎士はくつくつと笑った。

デュラハン「御嬢さんはどうやら中々肝が据わっているようだ」

少女「え、いや、あの、すいません」

デュラハン「いや、いいんだ。ちょっと面白くてね」

少女「はぁ……」

 少女は自分が生返事になっていることに気が付いていない。
 それよりも事態の理解をしようと必氏なのだった。豪奢な調度品に彩られた部屋。そこに現れた、茶話会の道具を持って現れた化け物。極めつけは、その化け物が友好的だということだ。
 本来の少女ならば忽ち切って捨てていただろう。が、今は混乱しているということもあり、ミョルニルがないということもある。呆然とした精神は肉体に命令を出さない。

 デュラハンは部屋に備え付けのテーブルの上に盆と皿を乗せた。そして椅子を引いて、その重厚な身体を乗せる。
 ぎっ、と椅子が軋んだ。

356: 2012/08/28(火) 11:39:32.63 ID:z4Z7oF2k0
デュラハン「お腹は空いてないかな? 中々に美味しいお菓子だ。お茶もある。最高級のウバがね」

 毒という単語が一瞬少女の脳裏をよぎる。しかし、少女は自分の腹が食べ物を欲していることに気が付いた。ついさっき食べたような気がするが――どれほど時間が経っているのだろう。
 窓へと目をやるが、カーテンが閉まっていて外の様子を伺うことはできない。つまり、もう夜なのだ。

 夜! 少女は愕然とする。
 朝食を食べてその後すぐに記憶を失ったから、十時間程度は経過していることになる。

少女(ってことは、あいつらはどうしてるのかな……)

 いけ好かない男のことを思う。彼らもここへと連れてこられているのか、それとも別のところにいるのか。

デュラハン「あー、お考えのところ悪いけど、いいかな?」

 話しかけられて、少女は驚き体を震わす。
 それを恐怖と受け取ったのだろう、デュラハンはわかりやすくしゅんとし、悲しそうな声を出した。

デュラハン「ごめん。驚かすつもりはなかったのだが」

少女「いや、全然、そんなんじゃないです!」

 デュラハンから少女は殺意や悪意というものを感じなかった。それは魔族ならば必ず発しているものなのだと思っていた。
 目の前の騎士が、だから安全であると断定することはできない。それでも警戒心を解くには値する。ネガティヴな要素を考えれば、そもそもミョルニルを持たない彼女が、デュラハンに勝てる道理もないという意味もある。

 少女は柔らかいベッドを離れ、騎士の対面へと座る。砂糖の焼けた芳しい香りが鼻腔をくすぐる。

少女「あの、訊きたいことがあるんですけど」

357: 2012/08/28(火) 11:40:07.29 ID:z4Z7oF2k0
デュラハン「そうだろうな。こちらからも言いたいことがいくつかある」

デュラハン「まずはそっちの質問を聞くよ。たくさんあるんだろうし」

 友好的な態度に少女は気勢を殺がれながらも、最低限の警戒は残しつつ、尋ねた。

少女「ここは?」

デュラハン「俺が管理している塔だね。名前はないが、周囲の人間は『必氏の塔』とか呼んでいるっけ」

 周囲の人間。少女は心の中で反芻する。やはり目の前の騎士は魔族なのだ。

少女「なんでアタシは、その、必氏の塔? に連れてこられたんですか」

デュラハン「それに答えるまでに、自己紹介をしなければいけない」

デュラハン「俺の名はデュラハン。御嬢さんがたが倒そうとしている魔王の配下、四天王のひとりだ」

 大きな音を立てて椅子が蹴倒された。少女は一足飛びで後ろへと下がり、窓をぶち破ろうと体当たりをする。
 しかし。

少女(堅い! これ、魔法の力で強化してある!)

 大きな音を立てるだけで、窓ガラスが破れる気配は一向になかった。
 少女の膂力で破れないとなると、十分すぎるほど十分な魔法がかけてあるのだ。しかも大から小まで重層的に。
 デュラハンは、今度こそ悲痛な声を上げた。

358: 2012/08/28(火) 11:40:34.07 ID:z4Z7oF2k0
デュラハン「……だから嫌だったんだ、名乗るのは。だが、まぁ、仕方がない。わかっていたことだ」

 その態度にも少女は今度こそ警戒を解かなかった。ミョルニルはないにしろ、ぎろりと睨みつける。

デュラハン「誤解を言葉だけで解けるとは思わないが、聞いてもらいたい。俺は別に、御嬢さんに危害を加えたくて連れてきたわけではない」

少女「じゃあ、なに。ミョルニルが目的?」

 デュラハンは大きくため息をついた。

デュラハン「それは一面では真実だ。だけど、俺の目的はミョルニルそれだけではない。御嬢さんとミョルニルのセットが目的なんだ」

少女「アタシと、ミョルニル……」

デュラハン「言葉だけで誤解が解けると思わないと、言ったばかりだな。やっぱり行動が伴わなければいけないか」

 彼が空中に手を伸ばすと、何もない虚空へと手が吸い込まれていく。音もなく腕が空間に埋まっていくのは、何も知らない分には随分と衝撃的な光景であった。
 デュラハンの抜いた腕に握られていたのは、紛うことないミョルニルそのものだ。

デュラハン「王城から持ってきた。返そう」

 と、布団へと放り投げる。柔らかい音とともに神の加護を受けた鎚はその柔らかさに吸い込まれる。

少女「……」

 何か罠があるのではないか。考えながら、それでも一歩ずつ、恐る恐る少女はベッドへ近づく。
 鎚に触れると独特の暖かさがあった。自らの血の暖かさ。少女はそれが贋物ではなく本物のミョルニルであることを理解する。

359: 2012/08/28(火) 11:41:27.85 ID:z4Z7oF2k0

 理解したからこそ、なおさら彼女にはデュラハンのことが理解できなかった。命が目的ではなく、ミョルニルすらも目的ではない? ならば何を目的としてここまでもてなすのか。
 食客として招かれる謂れが少女には全く心当たりがなかった。なぜなら彼女はただの田舎の防人でしかないのである。

デュラハン「疑問は尤もだ。だから俺は、御嬢さんの疑問を解くためにここにいる。そしてそれは俺にとっても利益がある」

少女「……」

デュラハン「俺と手合わせを願いたい」

少女「……え?」

 拍子抜けした。同時に、それが首なし騎士の本心なのか、判断にあぐねた。
 デュラハンは続ける。

デュラハン「我が名はデュラハン。氏を告げる妖精にして、武の道を歩む者也」

デュラハン「兵士たちとの戦い、鬼神との戦い、白沢との戦い、俺は全て見ていた。その上で、手合わせを申し込む」

デュラハン「御嬢さんの強さに、俺は興味がある」

 あるはずのない視線が真剣みを帯びていて、少女は思わずデュラハンをまっすぐに見やる。
 手合わせ、つまりは戦いということだ。「勝負」であるのか「試合」であるのかは、彼の言葉からはわかりかねる。

360: 2012/08/28(火) 11:42:02.94 ID:z4Z7oF2k0
 思わずミョルニルを握る手に力が入る少女だった。この世に生を受けて十数年、戦いに明け暮れ、何十何百の魔物を頃し、僅かに同胞をも頃した。それが己の生きる道であり、誇りでもあった。
 では、これはそれが認められた結果だというのか? 考えて、しかし違うと首を振った。デュラハンが求めているのは自らの強さという結果であり、過程には決して目をくれない。畢竟、彼は強ければそれでいいのだ。

少女(は、今更赦しなんてくれるわけもないか)

 自虐的に笑う少女。

デュラハン「もちろん今すぐに、というわけではない。御嬢さんの気が向いた時でいい」

デュラハン「ただ、卑怯なこととはわかっているが、御嬢さんが受けてくれない限り、この部屋から出ることはできない」

デュラハン「衣食住の心配をさせるつもりはない。が、早く受けたほうがお互いのためだとは思う」

少女「……」

デュラハン「無理やり連れてきて、礼を失しているということはわかっているつもりだ」

少女「他のみんなは」
 
デュラハン「アルプの夢からは醒めたようだ。あいつは楽しそうに負けたと言っていたが、半分本気で、半分は負け惜しみなんだろうな……」

少女「アルプ?」

 尋ね返しつつも安堵感が去来する。あの二人はどうやら助かったらしい。現状、王宮は蜂の巣をつついたような騒ぎになっているのだろう。

361: 2012/08/28(火) 11:42:48.14 ID:z4Z7oF2k0
デュラハン「兵士を操り、御嬢さんを夢の世界に引きずり込んだ張本人。あいつは勇者と狩人に興味があった。俺は御嬢さんに興味があった。だから、協力してもらった」

少女「無事なんだ。そっか。よかった」

 胸を撫で下ろす少女をデュラハンは見つめ、椅子から立ち上がる。

デュラハン「どのみち、今日はもう遅い。俺は去ろう。部屋は自由に使ってくれていい。呼び鈴を使えば、従者が大抵のことは叶えてくれる」

 それだけを一方的に言って、デュラハンは霧のように透けて消えた。
 紅茶と甘味の芳香だけを揺るがせながら。

 少女はその光景を見て、糸が切れたようにベッドに倒れこむ。
 高級な品質のそれを楽しむ余裕などない。それよりも涙が溢れてきて仕方がなかった。
 重力に何とかしてほしいのに、止まらない涙は決壊し、眦から頬を伝ってベッドを濡らしていく。

 考えてはいけないことを考えてしまう。それは今までの人生を叩き折る行為だ。してはならぬ唯一の自虐だ。

 強くなかったらよかったなんて、思ってはいけないのだ。

少女「っ、く、う、うぅ、ぅっく、ひっく」

 歯を噛みしめても喉から嗚咽は零れていく。
 引き攣る喉。眉根は寄り、手は行き所をなくしてミョルニルを握りしめる。

 勇者はどうやって乗り越えたのだろう。もしくは、耐えてきたのだろう。
 唐突に、何の前触れもなく夜に襲い来る、ナイーブ。激情は、獣は、今度こそ自らに牙を剥く。

少女「うぅ、っく、ひっく、くそ、バカ、止まれ、止まれよぅっ……」

362: 2012/08/28(火) 11:44:51.39 ID:z4Z7oF2k0
 少女はあの男が大嫌いだった。大嫌いだったし、大嫌いだ。
 だって、いちいちうじうじしているのだもの。少女は常々そう思っていた。思っていたし、思っている。覚悟を決めて狩人を抱いたからと言って、その評価は何ら変わるものではない。

 けれど結局は同族嫌悪なのだ。その事実を自覚的に無視し、勇者をけなすことによって、少女は自らを遠回しにけなして精神のバランスを取っていた。
 うじうじしているのは自分だろうに。

 誰かを救うってことは、助けるってことは、強くたって難しいよ。彼女は彼に先日そう言った。それは本心で、彼女自身を縛り付ける鎖でもある。
 もっと力があれば人を頃すことなく助けることができただろう。もっと無力であれば、そもそも人を殺せなかっただろう。なぜ中途半端に、人を頃すことでしか人を助けられない程度に強く在ってしまったのか。

 わかっている。人を頃してでも人を助けることができるのは、稀有だ。人を助けられない存在ばかりの世の中においては。
 十を頃しても百を救えれば表彰される。救えたのが十一であったとしても。
 それは確かに誇りであった。誇りという名の杖であった。

 その杖を芯から腐らせたのは自分なのだ。

 しかし、一体どれだけの人間が、そう単純に割り切れるだろうか。

 少女は何とか赤く腫らした目を袖で乱暴に擦る。そうして無理やりにでも涙を止めなければ心に悪い。自らの頬すらも張りたくなるほどに心がひしゃげている。
 なんとかしなくてはならないとはわかっているのである。だが、方法がわからない。手探りで探すしかないとは思いつつも、余りも茫洋としたものが周囲に漂っていて、どれから手を伸ばせばいいのやら。

 腹の虫が鳴った。普段なら恥ずかしくも思うのだが、そんな余裕はない。
 何もしなくても、食べる気がしなくても、腹は減るものだ。徐に紅茶をカップに注ぎ、皿から菓子を掴みあげる。

 どちらも一気に口へ放り込み、嚥下したところで椅子にすっと腰を下ろした。

少女「あま……」

――――――――

365: 2012/09/03(月) 18:38:47.16 ID:/Y9BHaZa0
――――――――

 時は遡り、中天の時刻。
 鬼神が潜んでいた洞穴、その最奥の地底湖において、老婆含む儀仗兵の一団はキャンプを張っていた。一通り調査は終わったが、いくつかの試料の反応検出待ちなのである。
 あれだけ濃度の高かった瘴気はすでに跡形もない。深呼吸をして眩暈が起きるということも、最早ない。

 鬼神が氏んだからだと言う儀仗兵もいたが、老婆はそれは違うと考えていた。
 あの瘴気の正体は、老婆が思うに、恐らく陣地構築の産物なのだ。

 指定領域を快適な環境にする陣地構築は、洞穴でキャンプを張るにあたって老婆たちも使用している。洞穴、特に地底湖には、より一層強力なそれが張り巡らされてあった。中途で襲ってきた大ミミズらも影響を受けたに違いない。
 問題は誰が強力な陣地を構築したかと言うことだ。老婆は陣地構築が専門ではないため、詳細についてはそれこそ検出待ちである。ただ、同じ魔法を行使する者として、素直に感嘆を覚えるほどだ。

 外道に堕ちた魔法使い、リッチ、アルラウネ、魔族でも魔法を使える者は多い。今後も油断はできないだろう。
 それこそ、九尾やウェパルの仕業かもしれないのだ。

儀仗兵長「すいません、今よろしいですか?」

 儀仗兵長がテントの中に顔を突っ込んできた。彼女の顔には疲労の顔が濃い。恐らく自分もそんな顔をしているのだろうと老婆は思った。
 頷き、テントの外へと出る。

老婆「どうした?」

儀仗兵長「反応検出については一晩かかりそうです。痕跡削除がこれでもかってくらいにされてます。はっきり言っておかしいですよ、あれ」

 苛立ちよりも驚きの色を強め、儀仗兵長は続ける。

儀仗兵長「慎重なのか、臆病なのかはわかりませんけど……こうなることが初めからわかってたみたいで気味が悪いです」

366: 2012/09/03(月) 18:39:34.99 ID:/Y9BHaZa0
 老婆は何も言わなかった。最初からそうであろうと彼女は思っていたためである。
 恐らく、鬼神は捨て駒だったのだ。経済的にも地政的にもそれほど重要でない町を、鬼神のような上位種が、ある程度の統率で襲うなどということは信じられない。そこを簒奪しないのならばなおさらだ。
 鬼神に指示を出した黒幕がいる。そしてその黒幕は、存在こそ前面に押し出すけれど、尻尾を掴ませるつもりはないのだ。

老婆「……やはり、九尾か」

 ぼそりと呟く。九尾は鬼神に指令を与えた。陣地構築も行った。たった数日間のために。
 九尾の行為の意味と意義を、恐らく老婆は理解できないだろう。しかし、いつかは辿り着くに違いない。そのように九尾はこれまで振る舞ってきたのだ。

 老婆は頭を回す。儀仗兵長は置いてけぼりになっているようだが、知ったことではなかった。

 九尾が黒幕である可能性は限りなく高い。問題は、なぜ九尾が鬼神をけしかけたのかということだ。
 老婆はその答えに辿り着いていた。辿り着いた上で、自分で出した答えだというのに、その答えが全く信じられなかった。歯牙にもかけないほどに嘘であると思っていた。
 それでも打ち捨てないのは、それ以外に真実味を帯びた仮定が出てこないからである。どんなに荒唐無稽な結論が導き出されたとしても、それが論理的な過程で以て、唯一導き出されたものならば、それが真実である。
 しかし、と老婆はやはり素直に首を振れない。

 全ては自分たちを誘き寄せるためだったのだと、誰が信じられるだろう?

367: 2012/09/03(月) 18:41:37.94 ID:/Y9BHaZa0
 ウェパルが目当てだったのかもしれない。そうであれば話は単純だ。ウェパルに執心していた九尾が、ウェパルを自らの元に戻すために策を講じた。比較的規模の大きな事件を引き起こせば調査隊がやってくるだろうと踏んで。
 だが、老婆はもう一つの可能性を案じていた。それはつまり、九尾はウェパル以外の誰かが目当てだった場合である。

 無論、あの時、洞窟へと進軍したのは三つの部隊である。から、九尾の目当てが他の部隊にいた可能性も、一応否定できなくはない。だが他の部隊では九尾の声すら聞いてはいないという。
 もし九尾が、自らのパーティの誰かを目当てにしていた場合、それが一番厄介だった。恐らくイベントは洞穴だけでは終わらないだろう。

――老婆は知らない。この時点ですでに王城は襲撃に遭い、愛すべき孫は連れ去られていることを。
 彼女の仮定は、考え得る中で最悪な、そして迅速な形で現実化していたのだ。

 老婆はさらに思考を深めていく。

 そもそも彼女には理解できないことがあった。彼女らが兵士の一団と戦闘を行った一件である。
 遥か過去のかなたに霞んでいたそれは、やにわに確かな輪郭を伴って目の前へ浮上してくる。果たしてあの兵士たちは何をしていたのか。なぜ町を燃やしたのか。

 老婆が王城へ勤めるよう三人に求めたのはこの件を調べるためでもあった。嘗ての経歴を生かしてシンクタンクとして活動している現在、並行してさりげない聞き込みを行っていたが、あまり有益な情報は得られていないというのが実情だ。
 恐らく、軍の上層部で情報が遮断され、隠匿されているのだ。そして物事を秘匿するのは、それが重要であるからか、でなければ後ろめたいからに決まっている。
 そこに九尾の思惑はあるのだろうか――老婆は考え得る可能性を網羅しようとし始め、そこで儀仗兵長の声がかかる。

儀仗兵長「あの?」

 老婆ははっとして儀仗兵長を見た。どうやら思考に埋没してしまったらしい。

368: 2012/09/03(月) 18:43:59.42 ID:/Y9BHaZa0
儀仗兵長「大丈夫ですか? 体調が悪いなら休んでらしたほうが……」

老婆「いや、平気だ。すまん」

儀仗兵長「なら、いいんですが」

老婆「時に儀仗兵長よ。お前は今の情勢をどう思う?」

 その質問の示すところをすぐには理解できなかったのか、僅かに下を向き、そして顔をあげる儀仗兵長。

儀仗兵長「戦争は不可避だと思います。釈迦に説法だとは存じてますが、隣国との不仲の原因は、情勢不安の面が大きい」

儀仗兵長「敵を外に作ってしまいたいのです。飢饉、資源の枯渇、宗教問題……もちろん全て王家のせいではないでしょう。が、民衆はそんなことはどうだっていいのです」

老婆「かといって、こちらも国力は低下する一方。天候に恵まれないと言ってしまえばそれまでだが……」

儀仗兵長「はい。大変なのはどこも同じです。しかし、隣の芝生は青く見えるもの。民衆のガス抜きも必要です」

儀仗兵長「今は魔族という大きな危機があるため、同盟と称してそちらに戦力を割いてますが、この関係が長く続くとは思いませんね」

老婆「キナ臭いにおいもするしな」

 儀仗兵長は苦虫を噛み潰したような顔をした。

儀仗兵長「誠実であり続けることは難しいですから。糾弾されない程度に一歩先んじらなくては」

369: 2012/09/03(月) 18:44:32.91 ID:/Y9BHaZa0
大きくため息をつく老婆であった。目の前の嘗ての弟子は、今も昔も嘘をつくのが苦手だ。そういう意味では決して上層部には向かない立場の人間である。
 人を動かす人間は、人が動きやすい環境をつくってやらねばならない。換言すれば人が動きやすいような言い訳が必要なのだ。ばれないように、息をするように、耳触りのいい嘘を作れなければ。

老婆「ここから東に半日歩いたところに盆地があるじゃろ。ま、あそこじゃろうな、基地をつくるなら」

儀仗兵長「……」

老婆「前線基地の構築か。ご苦労なことじゃ」

儀仗兵長「わたしは――」

老婆「言うな。お前の気持ちはわかっているつもりじゃからの」

 ぴしゃりと老婆は言った。それ以上喋れば軍規に触れる。作戦の漏洩は、状況問わずに大罪だ。
 儀仗兵長の専門は陣地構築。空気の清浄、浄水、結界、探知、それら全てを内蔵した魔法陣の描写によって、石造りの家屋を一瞬で前線基地へと変貌させることができる。

 儀仗兵長はしばらく俯いていたが、やがて意を決したように顔をあげる。

儀仗兵長「また戦争がはじまります。老婆さん、旅になんて出ずに、このまま王城で戦い続ける覚悟はありませんか?」

 驚きもせず、ただ「やはりか」と老婆は思った。いくらコネクションがあるとはいえ、身元の明らかでない者をそう易々雇い入れるわけがないのだ。
 情報が欲しかった老婆らと、戦力が欲しかった王国。ある種の互恵関係がそこには成立していた。とはいえ、王国側の欲していた戦力は、所詮一介の兵士レベルではない。戦術的ではなく戦略的に役立つ人材を彼らは求めていた。

 だからこその老婆である。彼らは老婆の一騎当千ぶりを知っていた。
 それは彼女にとっては触れてほしくない傷跡であったが……。

370: 2012/09/03(月) 18:46:06.40 ID:/Y9BHaZa0
儀仗兵長「長引けば長引くだけ民草は苦しみます。こちらも、向こうも。早く終わらせるためにはそれだけ強大な力がなければいけません」

 気が付けば、老婆の周囲をぐるりと儀仗兵たちが取り囲んでいた。杖を彼女に向けている。返答如何ではいつでも魔法を打ち込めるぞ――そんな陣形である。
 その気になれば相討ち覚悟で呪文を唱えることは可能だった。だが、その行為にどれだけの意味があるだろうか。虎穴に入らずんば虎児を得ず。リスクを負わずにリターンを求めるのは、何よりのリスク。

老婆「さしずめ、孫たちは人質と言ったところか」

 しわがれた声で老婆が言う。

儀仗兵長「……最初からそのつもりだったわけではありません」

老婆「ま、そうじゃろうな。上に性根の拗けたやつがいるのじゃろ、大方」

老婆「魔族は滅ぼすのか」

儀仗兵長「はい」

老婆「隣国もか」

儀仗兵長「……」

 儀仗兵長は言葉に詰まる。彼女が王国の生まれでないことを老婆は聞いたことがあった。隣国なのか、それとももっと向こうの公国、宗教国、交易国、その他諸々のどこかなのか。ともかく、王国が覇道を往かぬ確証はない。

371: 2012/09/03(月) 18:46:40.55 ID:/Y9BHaZa0
 たっぷりと間を取って、儀仗兵長はうなずく。強く。

「はい」

儀仗兵長「やる前にやらなければいけません。魔族との戦争を盾に、今のうちに隣国との国境付近に、準備をしておかなければ」

 魔族との戦争など所詮は隠れ蓑にすぎないのだと行間で主張していた。
 無論、魔族との戦争は不可避だろう。もともと彼らは魔族を潰すつもりであった。が、それは行きがけの駄賃にすぎない。本懐は別のところにある。

 老婆は両手を挙げた。降参のポーズである。

老婆「仕方がない。手伝うしかないなら、手伝うしかないか」

儀仗兵長「恩に着ます」

 脅しておいて白々しい。が、儀仗兵長を責める気にはならない。組織に属するとはそういうことだし、何より老婆自身、いくつもの悪事を働いてきた。それを思えば脅迫など大したことではない。
 それよりも、大義名分があることが何よりの問題なのだと彼女は思っている。大義は罪悪感を使命感へと転化する。その二つの本質が異なっていようとも、半透明の膜で包んでしまうのだ。
 そして使命感は人を狂わせる。行きつく先は目的のためなら手段を選ばない、非人道的な効率化だ。

儀仗兵「兵長! た、大変です!」

372: 2012/09/03(月) 18:47:56.59 ID:/Y9BHaZa0
 儀仗兵の一人が通信機を片手にやってくる。顔面蒼白の顔は、まるで氏人のそれだった。
 ぴりりとしたものが走る。何かあったのだ、と一瞬で全員が理解した。

 本来であればそれは小声で話すべき事態だったのだろう。が、儀仗兵にはそれほどの余裕はなかった。
 責任は彼にこそあれど、責めることはできない。

 儀仗兵は儀仗兵長に捲し立てる。

儀仗兵「魔族と隣国が手を組み、王城を強襲したとの報告が!」

 その場にいた全員が凍りついた。

老婆「どういうことじゃっ、儀仗兵長! 同盟を組んでいるんではなかったか!」

儀仗兵長「そうですよ、そのはずなんです!」

 やや遅れて儀仗兵たちがざわつきだす。いや、ざわつくというよりも、それは聊か悲鳴にも似ていた。このタイミングでの王城の強襲は誰にとっても予想外でしかない。

儀仗兵長「敵の情報攪乱じゃないの!?」

儀仗兵「専用の魔法経路を使って飛んできた通信魔法です、これが情報攪乱だったら、
俺はもうどうしようもないですよ!」

 涙目で言う儀仗兵であった。
 受けて、儀仗兵長も老婆も黙り込む。そして黙り込んだ二人を見て、儀仗兵たちもまた黙り込んだ。二人が思考を巡らせていることを察したからだ。

373: 2012/09/03(月) 18:49:29.03 ID:/Y9BHaZa0
 通信魔法に指向性を持たせる場合、魔法経路を敷くことによって可能にする。魔法経路は儀仗兵長謹製のもので、幾重にも障壁がかけられている。この魔法経路に情報攪乱がなされたなら、それだけで敵は戦争に勝てるだろう。
 ならば王城の強襲は事実であり、その報告は正しい。そこまで考え、老婆は眉を寄せる。
 ほぼ同時に儀仗兵長も同様の事実に思い当たったようで、老婆と顔を見合わせる。

老婆「お前、敵の本拠地に、転送魔法で軍隊を送り込むということは可能か?」

儀仗兵長「理屈だけなら、可能です。私はできませんが」

老婆「そうじゃ。わしにもできん。しかし、なんでこのタイミングで……?」

 二人が言っているのはこういうことである。
 まず、情報が真実であるならば、王城が強襲されるだけの戦力が投入されたことになる。城下町は巨大な都市だ。兵士も多く、迎撃用の装置や堀もきちんと整備されている。そんじょそこらの村とは勝手が違う。
 ここで一つの疑問が生まれる。それだけの戦力をどうやって移動させたのか、ということである。

 十人程度ならば見つかることなく王都までたどり着けるかもしれない。国境に関所はあれど、長い壁があるわけでもなし、比較的難しい話ではない。
 だが、それが数百ならばどうだろう。密かな移動ができない状態で王都まで移動すれば、当然目立つ。そんなものを見逃すほど王国の監視体制はざるではない。

 老婆は舌打ちをした。理屈が実践に勝るときもあるが、今はTPOが違う。

374: 2012/09/03(月) 18:49:57.00 ID:/Y9BHaZa0
老婆「誰からの報告じゃ」

儀仗兵「それが、そのっ!」

 儀仗兵は慌てて告げる。
 彼は決して老婆の迫力に負けたのではなかった。それよりももっと大きな何か、端的に言うならば、未曽有の不理解と戦っていたのだ。

儀仗兵「王からの直通です!」

儀仗兵長「っ!」

老婆「うさんくさいなどと、言っておれんな」

 老婆は杖を振った。と、地底湖全体を覆い尽くすように、巨大な魔法陣がうっすらと光を放ち始める。

老婆「全員着地の衝撃に備えろ! きちんとした座標指定をする暇など、最早なくなった!」

老婆「転移魔法――王城に戻るぞ!」

――――――――――――

378: 2012/09/19(水) 14:04:40.10 ID:mCa2nlGM0
――――――――――――

 ざく、と砂利を踏みしめる音で、そこが王城の中庭、枯山水だと気が付いた。着地に失敗した兵士たちは腰を大きく打ち付け、顔を歪めて摩っている。
 老婆は全く彼らに気をやる余裕がなかった。周囲を見回して今一度場所を確認し、大股で王城へと続く扉をくぐる。慌てて儀仗兵長が追うけれど、それも無視だ。
 ずんずんと歩く老婆。彼女の目の前の扉はまるで彼女にひれ伏すかのように、近づくだけで音を立てて開く。

 ひときわ大きな音を立てて大広間につながる扉が開いた。精緻な細工の施された巨大な柱が二本あり、高い天井を支えている。赤い天鵞絨の絨毯の両脇には槍を持った衛兵が立っており、闖入者を阻む。

老婆「退けぃ!」

 一喝で二人が吹き飛んだ。周囲で見ていた衛兵が急いで駆け付けようとするが、体はピクリとも動かない。見えない糸で雁字搦めにされているような。

 背後で見ていた儀仗兵長にはわかる。詠唱破棄した魔法の連続使用。日常生活で用いる必要のないそれを惜しげもなく用いるだなんて、溜息が出るほど埒外だった。
 が、それは換言すれば、老婆が埒外なのではなく現状が埒外なのである。儀仗兵長もそれをわかっているからこそ、老婆を止めようとはしない。

379: 2012/09/19(水) 14:05:31.69 ID:mCa2nlGM0
 老婆は段差の上、玉座に座っている白髪白髭の老人に対し、叫んだ。

老婆「国王、隣国が魔族と手を組んだというのは、どういうことですか!」

国王「そのままの意味だ」

 老人――国王は豊かな眉を動かさず、重厚な声で言う。

国王「本日の午前に、兵士たちが操られる一件があった。幸いにも氏者はゼロ。報告を聞けば、どうやら四天王のアルプによるものらしい」

老婆「それは、本当なのですか」

国王「疑わしいのなら、ほら、聞けばよい。そこにいる」

 顎をしゃくって示した先には、勇者と狩人が立っていた。
 手錠をかけられた姿で。

勇者「……」
狩人「……」

 もちろん老婆は気が気ではなかった。二人に手錠がかけられている理由を全く理解できなかったからだ。

380: 2012/09/19(水) 14:06:16.12 ID:mCa2nlGM0

老婆「これはどういう……」

国王「そこの二人は幻術にかからなかったらしい。そこの二人だけが幻術にかからなかったのだ。アルプと何らかのつながりがあると想定し、万一を考えている。

老婆「つまり、二人がアルプを手引きした、と?」

国王「儂は王だ。この国を統べ、民の安全を守らねばならない義務がある」

 念には念を、ということなのだろう。王の理屈も理念も老婆には痛いほどよくわかったが、心中は決して穏やかではなかった。
 努めて落ち着こうとして、息を細く吐く。

老婆「して、隣国と組んでいるという証拠は」

国王「それについては、残念ながらない」

老婆「王!」

 思わず声を荒げた。
 証拠がないにもかかわらず、隣国が魔族と手を組んでいるなどと仮定するのは、侮辱以上のなにものでもない。いや、ともするとそれ以上の可能性もありうる。
 老婆の知る国王は無鉄砲な男ではなかった。無節操な男でもなかった。思慮深く、智慧に富み、国と民のことを何よりも重視する男だった。

しかし今はどうだろう。彼の考えていることが、老婆にはわからない。

381: 2012/09/19(水) 14:06:53.79 ID:mCa2nlGM0

国王「確かに我々は魔族と争いを起こそうとしている。小競り合いは激化し、砦の攻防も、ないわけではない」

国王「が、四天王がいきなり王城に攻撃を仕掛け、あまつさえ途中で引くなどありうると思うか? スタンドプレーを許すほどには、魔族はばらばらではないだろう」

国王「隣国が何らかの目的をもって、アルプを使ったのだ。おそらく。でなければ、それこそその二人が先導したか……」

 余裕を持った表情のまま、国王が勇者と狩人を見る。

 二人の表情は、息苦しさと苛立ちこそあれど、確かに強さがあった。権威や衛兵の数にもひるまない意志の強さが。
 いや……老婆は違和感を覚える。二人の表情が老婆に示すこと。気が付かなければならない大切なこと。

 孫が――少女がいない。

 その事実に意識を奪われそうになるが、なんとかベクトルを王との会話に振り戻す。おざなりで会話をしていい相手ではないのだ。
 何より彼は老婆を脅迫しているのだから。

382: 2012/09/19(水) 14:07:21.97 ID:mCa2nlGM0
 老婆は王の先ほどの言葉で理解した。隣国と魔族が結託しているなど、王自身が微塵も信じていないのだと。不信の上で、国の行く末をアジテイトしているのだと。
 否。それはアジテイト、煽動ではない。王のまっさらな瞳がそれを物語っている。彼は確かに往年のままだ。往年のまま、思慮深く、智慧に富み、国と民のことを何よりも重視している。

 しかし、と老婆は唇を噛んだ。水清ければ魚棲まず。まっさらな瞳が見据える世界は、あまりにも苛烈だ。

 王は一足飛びに目的を果たそうとしている。
 魔族と隣国が手を組んでいるのだとでっち上げ、それを旗印に攻め入るつもりなのだ。開戦の口火を切るつもりなのだ。

 それが果たして許されるのだろうか。国と民のためでは、確かにある。が、方法としてそれは善き方法か。
 王は言うだろう。善悪は些末だ、と。

 そして老婆はそれを否定できない。

 なぜなら、彼女もまた、善だの悪だの語れるほど崇高な立場にはいないから。
 人を頃して生を掴んだ人間に語れることなど、何一つないから。

383: 2012/09/19(水) 14:09:21.64 ID:mCa2nlGM0
王「……」

 王は無言を通じて老婆にこう語りかけている。「仲間を頃して儂に刃向うか、儂を見過ごして仲間を救うか」

 異を唱えれば、王は魔族との内通者として二人を処刑できる。二人がアルプの魅了から逃れられたというのは事実なのだろう。だから二人も黙って捕まっているに違いない。

 老婆は結局、無言を貫いた。

 王を見逃すことになっても、老婆は二人を救いたかった。連れてきたのは自分であるという責任感と、戦争までの猶予で何かできることに賭けたのだ。

王「儂は軍備を指揮せねばならない。そのために、老婆、お前を手元に置いておきたい。手伝ってくれるな」

老婆「……御意」

王「そこの二人の手錠を解け。解放だ」

 王が言うと、すぐに二人の手を縛っていた金具が外された。押し出されるように老婆の前にやってきた二人は、悲痛な面持ちで言う。

狩人「少女が……」

勇者「すまん、俺たちのせいだ」

384: 2012/09/19(水) 14:10:01.95 ID:mCa2nlGM0
老婆「王、この二人の話を別室で伺ってもよろしいでしょうか」

国王「許す。必要になったら呼ぶ。それまでは自由にしていてよい。洞穴の調査もご苦労であった」

老婆「ありがたきお言葉でございます。報告は儀仗兵長、その他儀仗兵に任せてあります」

 背後で儀仗兵長が肩を竦める。管理職は大変です、と唇の端を軽く吊り上げ、溜息をついた。
 申し訳ない、と老婆は済まない気持ちでいっぱいだった。儀仗兵長とて老婆と王のやり取りの深い意味をわからないわけではない。しかし彼女はとうに骨を王城にうずめる覚悟をしていた。

 王が立ち上がり衣の裾を翻したのを見て、老婆も転移魔法を唱える。一瞬で空間が歪み、体が空中へと放り出される。

 とある部屋へと転移していた。分厚い本が山積し、広い。兵士の詰所の倍以上ある広さは、権力のある人間の部屋だと一目でわかる。

狩人「ここは?」

老婆「わしの部屋じゃ」

勇者「随分と広いな。さすがって感じだ」

老婆「それで」

 一秒の時間も惜しいと老婆は勇者に詰め寄る。すぐに勇者も真剣な顔つきになって、

勇者「あぁそうだな」

385: 2012/09/19(水) 14:12:48.68 ID:mCa2nlGM0
勇者「実はアルプが……」

 と事の顛末を話しだす。

 兵士たちが操られていたこと。
 夢の世界に引きずり込まれたこと。
 狩人が夢の世界から助けてくれたこと。

 アルプと相対したこと。
 アルプが不思議なセリフを吐いていたこと。

 そして。

勇者「少女は、どうやら連れて行かれたらしい」

老婆「……なぜじゃ」

勇者「わからん。ミョルニルが狙われた可能性はあるけど、本人を連れて行く必要はないだろう」

 顎に手をやって幾許か老婆は考え込んでいたものの、現状はあまりに手がかりが少なく、それではどうしようもなかった。
 が、解決しなければいけない事案であることも確かだ。もし懸念が正しければ、この国はそう遠くないうちに戦火に包まれることとなる。そうなってからでは十分な対策は施せない。

386: 2012/09/19(水) 14:15:21.05 ID:mCa2nlGM0
勇者「ばあさん、戦争が始まるまで、猶予はどれだけある?」

老婆「あまりない、というのが率直な感想だ。もともと対魔族用に準備はしていた。補給所の敷設、道路の拡張などをこれから行うとしても……ひと月もかかるまい」

老婆「恐らく、王はかねてから機会を伺っていた。秘密裡に隣国用の準備を進めていたとしてもおかしくはない」

老婆「本当に最速で、国民の周知と非難を含めても、一週間、か」

 勇者と狩人は息を呑んだ。まさかという思いと、あの人物ならやりかねないという思いがないまぜになっている

老婆「映像魔法を使えば遠隔地まで情報など簡単に行き渡る。王の発表は偉大じゃ。事実かどうかにかかわらず」

 それはつまり言ったもの勝ちということである。隣国が魔族と手を組んでいるのかなど民衆にはわからないのだから。
 すべての因果関係がわかるのは、戦争が終わったとき。そしてその時にはもう、歴史の正誤なぞは曖昧に違いない。

 なんという――なんという人間の恐ろしさか!

 勇者は頭を振った。ここまで来ては、善悪で物事を測れる範疇を凌駕している。統治行為論という単語が、彼の頭で明滅を繰り返す。

 と、老婆の腰に据え付けられていた通信機から、砂嵐交じりの声が鳴り出す。

??「あー、あー、テステス、聞こえますか聞こえますか、どーぞ」

老婆「聞こえておる。そちらは誰じゃ。名前と所属と階級を答えてくれ。どーぞ」

??「アルプ。魔族の四天王です。どーぞ」

狩人「何しに来た、クズ」

387: 2012/09/19(水) 14:20:26.73 ID:mCa2nlGM0
 驚愕する老婆と勇者を尻目に、狩人は冷ややかな声で返した。
 ノイズ交じりの、しかしよく聞けば確かにアルプの声が、通信機から響く。

アルプ「うっわ! つれねーなー、つれーなー。同じ学校に通った中じゃにゃーの」

狩人「御託はいい。そっちからコンタクトをとるってことは、要件があるんでしょ。少女のこと?」

アルプ「あー、そっちじゃないんだけどね。でも気になる? 気になるか。教えてあげてもいいよ」

 あまりにもあっさりとしたアルプの物言いに、三人は同時に眉を顰めた。少女を攫ったのはアルプではなかったのか。それとも、誰かに頼まれてアルプが手助けしたのか。
 どのみちあの夢魔は気まぐれで、その事実を特に二人は承知していた。快楽主義者ゆえの無鉄砲さに乗っからない理由は、少なくとも現時点ではない。何しろ彼らは少女が必氏の塔にいることすら知らないのだから。

 三人の戸惑いなど意に介さず、アルプは続ける。

アルプ「女の子は必氏の塔にいるよ。川沿いを下った先、共和国連邦との国境付近だね」

 勇者は視線で二人に尋ねる。聞いたことがあるか? と。
 頷いたのは老婆だった。噂だけだが、と前置きして、

老婆「魑魅魍魎の類が巣食っている、との話は聞いた。名うての者どもが束になって攻略しようとしたが、ついに誰も帰ってこなかった」

老婆「ゆえに名前が『必氏の塔』」

勇者「ってことは、つまり、そこにお前らの仲間がいるわけだな」

アルプ「きみたちの仲間もね」

 一瞬の間。
 狩人は気を取り直し、鋭く詰問する。

狩人「で? 何が目的なの」

388: 2012/09/19(水) 14:23:37.26 ID:mCa2nlGM0
アルプ「あぁそうそう、そっちの王様さ、あることないこと言ってるじゃん。私たちが他国と結託してどうとか、こうとか」

 老婆は小さく「情報は筒抜けか」と呟いた。
 王城は特に限界な防衛魔法がかけられている。それを突破して千里眼を行えるのは、よほどの術者だけである。

 とはいえ、彼女はそれを半ばわかっていた。信じたくないことではあったが、洞穴の陣地構築や、アルプの侵入のことを考えれば、それもやむなしといったところだろう。魔法経路をジャックしてのこの会話だって、つまるところそういうことなのだ。
 より一層守護を強化せねばならないが、それがどれだけ役に立つか、老婆には疑問だった。

アルプ「人間同士が争うのは構わないけど、魔族を巻き込まないでほしいんだよね。そういうのは、なんてーの?」

アルプ「癪に障る」

勇者「っ!」

 ぞわりとした感覚が肌を撫でた。勇者らは思わず体を退き、壁に背中を押しつける。
 本能が発する警告は黄色。「警戒」色のそれは、アルプと対峙していなくてよかったと素直に思える程度に、心臓を高鳴らせている。

 おどけた様子で、序列こそ四天王最下位ではあるが、アルプはそれでも四天王である。

 ひんやりとした煉瓦が冷や汗を吸って黒ずむ。

389: 2012/09/19(水) 14:25:20.39 ID:mCa2nlGM0
アルプ「そこで一つお願いがあんだけどさー」

老婆「お願いとは、随分下手に出たものじゃな」

アルプ「九尾が言ってたおばあちゃんだね、よろしく。なんだっけ? あ、そうそう、お願いお願い」

アルプ「あんまりやりすぎないで欲しいの」

老婆「やりすぎない、とは」

アルプ「そのままの意味。どっちかが滅んだりするようなことがあれば、隙を見てこっちも……なんつーの? 侵略だーってなっちゃうから」

アルプ「そっちにも都合と事情はあるっしょ? その辺は見て見ぬふりするからさぁ……せめて水源地とか、領土争い程度にしてもらいたいなって」

老婆「どういうことじゃ?」

アルプ「どういうことって?」

老婆「お前ら魔族が人間に干渉する理由がわからん」

アルプ「そっち同様に、こっちにも都合と事情があるっつーことだね。っていうか、だめだー、私はこういうの向いてないんだわー」

アルプ「だからさぁ、ね、喋るの変わってよ、九尾」

 通信機の向こうで何やらごそごそと音が聞こえてくる。ノイズではない、衣擦れにも似た音だ。
 それきりアルプの声が途絶え、通信機は沈黙を続けている。ラインがオンになっているため、通信そのものが切れたわけではない。

390: 2012/09/19(水) 14:25:56.47 ID:mCa2nlGM0

 ややあって、もう一度大きな雑音が入り、唐突に通信がクリアになった。

九尾「もしもし、聞こえているか。九尾だ」

 幼ないながらも老成した口調が通信機から漏れる。三人は先のアルプのそれとは異なる重圧を確かに感じつつ、通信機をまっすぐに見据えた。

老婆「儂が応対する」

 二人が頷く。古来より狐は人を騙す。九尾の口八丁手八丁を警戒しているだろう。

老婆「九尾か。この間、言葉を交わしたな」

九尾「そうだな。洞穴の調査ご苦労」

 それすらもばれているのか、と老婆は舌打ちをした。どこまで見えているのか全く理解できていないようだ。

九尾「早速本題に入ろう。とはいえ、大まかにはアルプの言ったことと同じだ。あまり戦争が激化するような事態はこちらとしても好ましくない」

老婆「何か理由があるということじゃな」

九尾「そう受け取ってもらって構わない」

老婆「儂らの力だけでは戦争のコントロールなどできない。もし激化した場合にはどうする」

九尾「魔族が襲うだろうな」

老婆「優勢なほうを? 劣勢なほうを?」

391: 2012/09/19(水) 14:26:23.32 ID:mCa2nlGM0
九尾「なぁ」

 老婆が警戒しているのはわかったが、このような会話では埒が明かない。九尾はため息交じりに言葉を紡ぐ。
九尾「九尾は別に腹の探り合いがしたいわけではない。こちらがしたいのは取引だ」

老婆「……わかった。一応国王には進言してみる。が、信じてもらえるかどうか」

九尾「その時はその時だ。いくらでも脅迫できる」

九尾「もう一度アルプをけしかけてもよいし、九尾が出て行ってもいいな」

老婆「お前から王に話をつけることはできないのか。そちらのほうが簡単だろう」

九尾「九尾が? 勘弁してくれ。それに、向こうが嫌がるだろう。魔族と関係があると疑われるだけでもマイナスイメージだ」

 そもそも、老婆が九尾をはじめとする四天王と会話をできていること自体が問題なのではあるが。

九尾「こちらには目的がある。そのために、九尾も活動している」

九尾「派手なことをされても困るんだ。色よい返事を期待しているぞ」

老婆「おい、待て――」

 一方的に告げて、今度こそ本当に通信が切断される。聞こえてくるのは砂嵐の音だけで、矯めつ眇めつしても再度連絡が入ることはない。
 老婆は無言で背後の二人を振り向いた。二人はそれを受けて、ようやく緊張が解けたのか、大きく息を吐き出す。

392: 2012/09/19(水) 14:28:17.21 ID:mCa2nlGM0
勇者「なんていうか……大変なことになってきたな」

老婆「今更だがな。しかし、問題はあちらの目的がわからないことじゃ」

狩人「考えたってしょうがないよ」

 軽く組んだ自分の手に視線を下し、狩人はぽつりと、けれどしっかりと地面に着地した言葉を吐く。

狩人「考えたってしょうがないよ」

 繰り返し、ふっと笑った。
 勇者にはわかった。狩人の言葉は、決して思考の放棄ではないということに。言うなれば決意の表明なのだ。例え何が起ころうとも、全力で当たるしかないのだという。

 勇者と老婆もまた笑った。その通りでしかないと思ったからだ。

 どんな遠望深慮も十重二十重の謀略も構わず打ち砕く。
 権謀術数を弾き返すためには鋼だけでも柔皮だけでも不足だが、そんな強さをこのパーティなら得られると、彼らは信じていた。
 そしてその強さを得るためには、一人足りない。

 物事が全て加速していく中で、変わらないものなど存在しない。それでも彼らは確かにもう一人の存在を欲している。
 必氏の塔に囚われた少女。

393: 2012/09/19(水) 14:34:46.56 ID:mCa2nlGM0
 差し迫る戦争の脅威と彼女を助け出すことは決して両立しえない。が、少女なしでどうして自分たちが戦っていけるだろうかと、勇者は思った。
 なんとかせねばならぬ、とも。

 九尾の思惑を彼らは当然知らない。正体不明に立ち向かうのは相当の勇気がいることである。が、彼らならば必ずや全てを乗り越えてたどり着けることだろう。

 老婆は膝に手をついて「どっこらせ」と立ち上がる。

勇者「年寄りくさいぞ」

老婆「実際に年寄りじゃ、気にするでない」

老婆「それとも、お前が精気をくれるか?」

 深いしわの刻まれた手が勇者の腕を取ろうとするも、寸前で狩人が抱きしめる形で腕を横取りする。

狩人「だめ」

 恥ずかしいやらうれしいやらで勇者の顔がみるみる赤くなっていく。
 狩人本人はどうやらいたって真面目なようだ。無論老婆は単なる冗談のつもりだったのであるが、真面目というより融通が効かないというべきか。
 いや、単に愛のなせる業かもしれない。

 老婆は喉の奥から笑い声を漏らす。

老婆「仲良きことは素晴らしきことかな、じゃ」

 そう言って、扉を開けた。

勇者「……王のところか」

老婆「心配せんでもよい。付き合いは長い。何とかしてみせるさぁ」

 困ったような顔をしていたが、勇者はあえて何も言わず、そのまま見送った。

―――――――――――――――――

395: 2012/09/20(木) 11:17:12.88 ID:JMA/K7S50
―――――――――――――――――

 質素な部屋、そして簡素な部屋。
 板張りで、床には絨毯こそ敷いてあるが、決して上等なものではない。黄土色に白で抜く形で稲穂の図柄が織り込まれている。
 九尾は何よりその図柄が気に入っていた。

 部屋には陣地構築の魔法がかけてあるため窓はなくとも空気は清潔だし、壁自体がうっすらと光を放って採光にも困らない。
 長期間部屋にこもりっぱなしになることもままある身として、これ以上便利な部屋はないといってよい。

 ベッドの上ではアルプが暇そうに転がっている。そう見えるだけで実際暇ではないはずなのだが、半日も居座られるとアルプの役割と役職を忘れそうにもなる。

九尾「お前は反省が足らんのか?」

 椅子を回して視線を向ければ、アルプはベッドに突っ伏した。顔を隠すように。

アルプ「ごめんってー。あいつが逆手に取ってくるなんて思わなかったんだよー」

 あいつとはかの国の王のことである。聡明で、小賢しい男。九尾は一人の人間として彼を評価してはいたが、目の上のこぶでもあった。
 とはいえ行動原理は単純で、ゆえに読みやすくもある。

396: 2012/09/20(木) 11:17:46.19 ID:JMA/K7S50
アルプ「でもでも、勇者くんたちに接触できたし、なんとかなるんじゃないの?」

九尾「そうだといいがな。二の矢、三の矢は番えておいて損はない」

アルプ「ウェパルとデュラハン?」

九尾「あいつらは九尾に協力してはくれまいよ。いや、魔族はそういう生き方しかできない、か」

 哲学的なことをぽつりと吐いて、続ける。

九尾「アルプ、お前、一度に何人くらい魅了できる?」

アルプ「んー、試したことないけど……100人とか?」

九尾「上出来だな」

 尻尾がぱたぱたと揺れる。自らの意思に反して動く九本の尾――今は七本しかないが――は、どうにも直情的である。それは九尾のキャラではないとは思っているのだけれど。

九尾「不穏な動きがあれば引っ掻き回してやれ。千里眼と読心術でサポートする」

アルプ「あいあいさー!」

アルプ「でも、本当に二人に協力を要請しなくていいの? 戦力は多いほうがよくない?」

九尾「あいつらは所詮魔族だ。衝動からは逃れられん。九尾やアルプも含めてな」

397: 2012/09/20(木) 11:18:39.99 ID:JMA/K7S50
九尾「それに、どうせ言ったって聞きやしないのさ。夢中になれるもののあるうちはね」

九尾「予定に少々狂いは生じたが、まだ十分リカバリーの範囲内。ゆっくり衝動の射程圏内に引きずり込んでやるのさ」

アルプ「へー、すっげーなー。私にゃ全然わからん」

 わからないといいつつも、至極楽しそうにアルプはベッドで転がる。彼女は「楽しそう」という感覚だけで楽しむことのできる人間――否、夢魔である。
 それが夢魔としてもともと持ち合わせている気質なのか、それともアルプ自身の性質なのかは、流石に九尾といえども知らない。夢魔族は殆ど滅亡しかかっているためだ。

 九尾はアルプにも計画の詳細を教えていない。
 その理由はいくらかあるが、まず彼女自身が計画に興味を持たないという点。
 そして目的の達成は複数の錯綜した臨機応変な手段によって成されるため、一口での説明ができないという点が大きかった。

398: 2012/09/20(木) 11:19:29.04 ID:JMA/K7S50
 目的だけならアルプも知っているし、それこそウェパルもデュラハンも、九尾が何をしようとしているのかという情報は耳に入っているはずだ。
 が、ウェパルは衝動と恋慕の情の間でにっちもさっちもいかなくなっている。デュラハンは少女を攫って決闘を申し込んだ。それどころではないらしい。

 どこまで無関係でいられるだろうか。まるで並べたドミノの最初の一枚を倒す心持ちだった。どんなに離れた場所にあるドミノであっても、連鎖からは逃げられない。

 すでに連鎖は始まっている。九尾にできることは、いまだ倒れていない部分の不具合を見つけたとき、ちょっとずらしてやる程度だ。それ以上のことは神でもなければ。
 そう、九尾は神ではない。万能とも思える魔法を行使できても、なお。そしてそれをしっかりと自覚している。

 分を弁えること。そして、背丈よりもわずかに高いところへ手を伸ばすこと。それが秘訣。

アルプ「しっかし、頑張るねぇ」

九尾「頑張るって……九尾がか?」

アルプ「ほかにいないじゃーん」

九尾「そんなつもりはないのだがな。これは九尾がやらねばならない責務だ」

アルプ「ふーん。ま、頑張ってね」

399: 2012/09/20(木) 11:20:05.62 ID:JMA/K7S50
 アルプがようやくベッドから起き上がり、扉を押し開ける。

アルプ「ちょっと見張ってくるよ。隣の国も何やらかすかわからないし」

九尾「任せたぞ」

アルプ「任されたよ。じゃ、お互いしっかりやろーね」



九尾「魔王の復活のために」
アルプ「魔王の復活のために」



400: 2012/09/20(木) 11:20:56.50 ID:JMA/K7S50
 静かに扉が閉まった。アルプの足音すらも聞こえない静寂の中、部屋の隅を見つめる。
 そこには体を拘束された人間がいた。睡眠魔法の効果でぐっすりと眠っている。

 どこにでも見られる一般的な服装だ。布の半ズボン、シャツに綿の上着を軽くひっかけた状態。恐らくどこかの村民か町民。
 年齢は二十前後だろうか。線の細い女性である。

 九尾はこの程度の人間を最も好んでいた。

 椅子から降り、つかつかと近づいて、

 合掌――胸の前で手を合わせ、

九尾「いただきます」

――――――――――――――

401: 2012/09/20(木) 15:06:04.52 ID:BkmFxl/IO


クールぶってるのに一人称が自分の名前って…

402: 2012/09/20(木) 16:57:15.48 ID:tKijymAlo
九尾はメンヘラに違いない
乙乙

次回:勇者「王様が魔王との戦争の準備をしている?」【3】


引用: 勇者「王様が魔王との戦争の準備をしている?」