愛の愚かさを生きる

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    「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」

     今日の第一朗読(.灰螢鵐1.17-25)で、パウロはこのように書いています。宣教が愚かな手段であるとは、一体どういうことでしょうか。

     宣教、すなわち、神の愛を述べ伝えるためには、私たちが考える「賢さ」は通じない、いらないということだと思います。私たちは神の言葉を伝える時にも、人を惹きつける話術を磨く、人目に付きやすい宣伝方法を考えるということを考えます。もちろん、そのような工夫も大切なことです。人に伝えるための努力をしないのは、神に対しても誠実とは言えないでしょう。

     しかし、それらは決して本質ではありません。神の愛を述べ伝えるためには、自分が神の愛に従って生き、その生き方によって愛を証ししていくしかないのです。全ての人を尊重し大切にする。それは人間的な価値観では「賢い生き方」ではないかもしれません。一度は人々の称賛を得ながらも、全ての人に見捨てられ、十字架上でむごたらしく死んでいったイエスの姿は、誰よりも愚かでみじめだったかもしれません。

     しかし、私たちが、十字架のイエスにこそ究極の愛があると信じるのならば、十字架によって全ての人が罪から救われたと信じるなら、その愚かな愛に生きることによってしか、愛を証しすることはできないのです。

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