心を動かし、学びの意欲を引き出すために 学校依存社会から脱却を

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教育ジャーナリスト・おおたとしまさ=寄稿

教育ジャーナリストおおたとしまささん寄稿

夏休みが終わり、多くの学校で新学期が始まりました。そもそも学校とはどういう場所なのでしょうか。子どもたちが生き生きと学べる学校にするためにできることは? 学校にも人間にも「理想」を求めすぎる社会を見据え、幅広い角度から論じます。

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 いきなりですが、漢字テストです。「自然」。この二字熟語、読めますか?

 学校では「しぜん」と習いますよね。でもこれを「しぜん」と読むようになったのは明治時代以降なのだとか。それ以前は「じねん」と読んでいたそうです。西洋から「nature」という概念が輸入されて、それに対する訳語として「自然」と書いて「しぜん」と読ませる新たな概念が日本語に登場したそうです。

 「しぜん」と「じねん」では意味が違います。

 じねんは、私たち人間を含む森羅万象を意味します。しぜんは、人間社会以外のものを示します。「手つかずの自然」を「てつかずのじねん」と読むのでは意味が通じず、この場合、「てつかずのしぜん」としか読めません。

 じねんという概念は日本固有のものではありません。古代インド古代ギリシャ、ポリネシア、ネイティブ・アメリカン中南米のインディオなど、西洋的価値観が入ってくる前の土着な文化圏にはむしろポピュラーな世界観です。それぞれの言葉で「梵我一如」「ピュシス」「マナ」「カイティアキタンガ」「ワカンタンカ」が、「万物を司(つかさど)る偉大なる気配」のようなものを前提にしています。

 しかし人間はいつからか「自我」をもち、「言語」や「論理」を操るようになりました。そして本来複雑すぎてとらえどころのない「じねん」をいちいち分節化して名前をつけて、整理整頓するようになりました。その結果、圧倒的なじねんの支配から、ちょっとだけ自由になりました。

 言語や論理の力でじねんの一部を制御することで、文明社会や都市ができます。文明社会や都市のなかでは「理屈」が通じます。しかしそのなかだけで暮らしていると、「万物を司る偉大な気配」と疎遠になっていきます。

 近代以降その動きが加速し、しかも世界を覆い尽くしました。何でも理屈で説明可能なはずだという考え方を啓蒙(けいもう)主義や近代合理主義といいます。

 学校も「理屈」の産物の最たるものであり、子どもを「万物を司る偉大な気配」よりも「理屈」に従って生きるように仕向けていくところです。

人類の叡智をフリーズドライした「教科書」

 「世の中は数学、国語、理科……みたいには分かれていない。教科に分けて学ぶなんてナンセンスだ」という批判は大昔からありますが、そうはいっても森羅万象を丸のみできる人間なんていません。だから食べやすいように細かく分けます。それが「教科」や「科目」という概念です。

 そうやって体系化された人類の叡智(えいち)を極限まで圧縮したものが「教科書」です。まるでフリーズドライにされた食品です。教科書をそのまま読んでも面白く感じられないのは、フリーズドライの食品をそのままかじってもおいしくないのと同じです。そこにお湯をかけてみずみずしさを取り戻すのが先生の役割です。

 森羅万象を理屈で解明する過程で人類が経験したわくわくやどきどきのいちばんおいしくて大事なところだけを選別してぎゅーっとフリーズドライしておいたものに、先生が目の前でお湯をかけ、みずみずしい状態で子どもたちに提供する。子どもたちは、それが何百年も前につくられたものであることを意識せず、その味わいをありありと追体験する。それが本来の学校です。楽しくないわけがありません。

 しかし、どんなに好きな食べ物だってむりやり食べさせられたらおいしくないですよね。本来とても楽しい学びだって、強制されたら楽しいわけがありません。その強制力を働かせる絶対的装置としての側面が学校にはあります。つまり宿命的に学校は、学びをつまらなくする装置としての役割も担ってしまっているのです。

 しかも強制力を各教科の隅々に行き渡らせるのがテストです。テストの点をとるため勉強しましょうと言われてやる気になるひとなんていません。もしいるとしたら、テストをゲームか何かのようにとらえて、学び本来の喜びを得るというよりは、目標を達成すること自体を楽しめるひとです。そういうひとが、日本の受験システムでは有利になります。

 宇宙物理学に魅せられて時間を忘れて図書館の本を読みふけるようなひとは本来ものすごく学びの意欲が強いひとだと思いますが、物理だけ100点満点でもそのほかの教科がぼちぼちだと、さほど勉強のできない変わり者だと見なされてしまいます。逆に、これといった学問的な興味はなくても、競争心が強く、受験科目についてまんべんなく努力ができて、苦手分野が少なく、効率的に得点する術に長けている生徒のほうが優秀だとみなされます。

教科愛で生徒たちの心を動かす

 生徒にテストでいい点をとらせることが自分の役割だと勘違いしている先生が多いのも事実です。

 テストは基本的に教科書に書いてあることからしか出ませんから、テストで点数をとらせたい先生はフリーズドライのまま生徒たちに教科を食べさせます。おいしくもなんともありません。だから授業がつまらないのです。

 〝わかりやすい授業〟という…

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    内田良
    (名古屋大学大学院教授=教育社会学)
    2024年9月8日2時14分 投稿
    【提案】

    学校は、本当に多くのことを背負うようになりました。いまでは、家庭でのスマホの課金トラブルについて、保護者から学校に相談されることもあるようです。それは極端だとしても、夏休み中で子供の生活が学校管理下にない状況でも、街の中や店舗、家庭での事案

    …続きを読む
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    中川文如
    (朝日新聞コンテンツ編成本部次長)
    2024年9月5日11時0分 投稿
    【視点】

    この夏、岩手で暮らす親戚から大量のプチトマトが送られてきました。素人なりに丹精込めた、家庭菜園で育てられたプチトマトたちです。赤かったり青かったり、大きかったり小さかったり、丸かったり楕円球っぽかったり、柔らかかったり硬かったり、ところどこ

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Re:Ron

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対話を通じて「論」を深め合う。論考やインタビューなど様々な言葉を通して世界を広げる。そんな場をRe:Ronはめざします。[もっと見る]