外から見る日本、見られる日本人

バンクーバーの日本人社長ヒロが仕事、生活を通じて感じた経済、経営、社会、日本人観などを綴っています。

偏差値

大学経営の向かうところ4

東京工業大学と東京医科歯科大学が統合検討をしていると報道されています。双方国立大学ですがビジネス的観点から見ればこの統合はアリ、だと思います。理由は補完関係です。東工大は理系大学だけれども医学系がないのでここに東京医科歯科が合流すれば総合理系大学が完成します。

大学経営は規模がモノを言います。何故か、といえばキャンパスという巨大な固定資産を持たねばならないからです。いわゆる装置産業と同じで初めに巨額を投じてお膳立てをしたのち、ようやく学生が集まるという仕組みです。ですが、経営者として見ればそのキャンパス内の教室の「稼働率」はどれぐらいなのか、「占有率(教室一つ当たりの学生数)」は適正なのか、などを考えると大学経営の効率化はまだ序の口かもしれません。

言い換えれば、大学経営効率を高めることは少子化時代にあって絶対条件であり、大学の統廃合も今後少しずつ進むとみています。

日本に大学はいくつあると思いますか?案外びっくりするかもしれませんが、2021年で788校です。都道府県一つあたり17の大学です。22年前の2000年の出生者数が119万人ですが、大学進学率をざっくり55%とすると65万人が1年に入学する学生数でこれを単純に788で割るとわずか830人/学年にしかならないのです。大学の規模は概ね年間入学者数が800人以下を小規模大学、3000人までが中規模大学、それ以上が大規模大学とカテゴリーされます。とすればこの計算式からすれば大多数が小規模大学でそこで激しいパイの奪い合いが起きていることが明白にお分かりいただけると思います。

日経の特集、「漂流する入試」の第一弾で「偏差値時代、終幕の足音」とあります。どういうことかといえば一般試験入学者の比率が少しずつ減り、推薦型とAO総合型が格段に増えていることを指摘しています。AOとはAdmission Office の略で面接や小論文、実技などを介して試験するので一回限りのクリアパスにしません。更に総合型は一定の学力試験を兼ねるので人物を総合的に判断するわけです。北米型の大学入学に近くなってきているわけです。

その結果、私立では推薦とAO総合が過半数を超え、一般入試の入学者は確実に減少しているというわけです。これは確かに良い傾向です。日経は「偏差値終焉」と捉えていますが、私はそれよりも有能な高校生の囲い込みだろうと考えています。

大学体育会系運動部は有能な高校生の採用に目を光らせています。相撲から陸上、各種球技まで概ねスカウトに近い状態となっています。これをより踏み込ませたのが推薦やAO総合で一発の試験結果という「腕試し」ではなく、もっと可能性がある若者をしっかり確保することで質の良い学生数を確保することに他ならないわけです。

それは冒頭申し上げたように大学経営が装置産業と同じで広々とした施設と設備が整った環境を提供し、学生が勉学のみならず、人間の奥深さを得られるような総合的な教育の場を提供するためです。このため学生数はビジネス的には売り上げと同じで非常に重要なわけです。

とすれば次に展開されるのは大学による提携校づくりで一般高校を大学と強く連携させることで一定枠の学生がその高校から大学に入れるようにするのです。かつては付属高校が主流でしたが最近は提携校から入れるケースも増えているのです。いわゆる付属校、提携校が全部でいくつあるのか数えていませんが、首都圏だけでも2−300校はあります。こうみると大学入試とか浪人は過去のものになりつつあるのかもしれません。もちろん、上級の大学を目指す方は浪人してでも、ということはあるのでしょうけれど時代はずいぶん変わったといってよいのでしょう。

このトレンドが何を意味するのか、といえば大学全入時代が着実に進んでいるわけです。「大学は出たけれど」というのは小津安二郎の1929年の映画ですが、100年後の1929年にそれが再び起きかねないとも言えます。

私が期待する次の大学経営の展開は何か、といえば卒業させない大学を作れ、ということです。大学は4年間の通過点ではなく、学ぶところだという当たり前の常識を再度徹底させる、そして留年率が各年1−2割ぐらいいても構わないという強気の経営ができる大学を育てることかと思います。

もう一つは留学生を取り込み、大学のクラスが一部でもよいので英語で履修するようになればよいと思います。ただ、日本の先生に英語で授業させるのもアリですが、私は世界から大学の講師や准教授クラスを引っ張ってくるぐらいのレベルアップも必要かと思います。

3つ目が日本の大学と世界の有力大学との提携です。オンライン化が進んだ今、世界の有力大学の講義をオンラインで受講することはたやすくなりました。これは上記2番目のアイディアの代替にもなりますが、日本の大学が世界の大学と繋がるというグローバルな教育環境を作ることが重要です。

日本の多くの大学は今、新設学部がより実務に近いものが増えています。医療保健学、観光学、メディア学、環境やITに特化したものなど短期大学の消滅化を補い、より専門的分野の学部を提供することで学生の将来の就職を助ける形になっています。これは学生を集めやすく、目先の経営としては分かるのですが、経営第一主義と言われても致し方ないのではないか、というのが私の思うところです。

では今日はこのぐらいで。

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また明日お会いしましょう。

日本の大学のありかた4

いわゆる新卒の採用枠があまりないカナダ。先日、保険会社の担当とランチをしたら新入社員を連れてきました。インドから移民して大学院を出たばかりの女性で「なぜ、保険業界に?」ときけば大学院でその勉強をしてきたと。保険業界は上に上がるためには常に試験がついて回り、お勉強好きでないと務まらない業種の一つです。過去30年お付き合いしてきたこの会社の弊社の担当者は男性が2回だけでほとんどの期間は女性でした。女性向きなのかもしれません。

日本で「Youは何しに大学へ」と聞けば就職理由が50%、学歴取得が47%、資格のため40%…となっています。この就職のため、というのが曲者で一流企業や公官庁に新卒枠で入ることを目指していると考えてよいでしょう。それは人生の安定ルートの確保ともいえ、人生22年目にして「詰んでいる」とも言えます。なぜならば会社に入り、普通に仕事をすればまずまずの生活は確保でき、必死にならなくても会社の言うことを聞いていればどうにかなるからです。

今後、企業はAIやIT化をさらに進め、中途半端な人材は不要になる、これが私の見方です。日本の労働生産性はOECD38カ国中23位で悪化のトレンドです。最新データの2020年は若干改善していますが、理由は労働時間の短縮が理由。本来であればこれだけテクノロジーを導入している社会において一人が生み出す生産能力は飛躍的に上がらなくてはいけないのですが、それがそうならないのはご批判を覚悟で申し上げればクビが切れない日本の制度上の問題であります。

もちろんクビにすることは厳しい判断です。しかし、苦労して入社したもののこの会社の性格と自分は合わないと思ってもなかなか辞める勇気がない社員も多いのです。そこで無理をして働くことでむしろ精神衛生的に悪化させることもあるでしょう。わかりやすい表現を取れば「どんな不仲の夫婦でも片方(会社側)からは離婚してもらえない」のと同じです。

私が人材を採用する時には2つ、気をつけていることがあります。一つはこの仕事が好きになってもらえそうか、もう一つはこの会社とウマが合いそうか、という点です。よって私は絶対に即決はしないのです。一日置いて電話でもう一度話をして決めます。一晩寝ると双方、良い面悪い面を落ち着いて考えることができるのです。

仮に日本も労働の移動の自由、つまり雇用者も被雇用者も一定条件の下で労働契約を解除できる時代になったとしたら被雇用者は商品と同じ、自分が他の会社に売れる価値ある商品でなくてはいけません。これができないのは冒頭のカナダの保険業界のように公的な試験が常について回るような仕組みが少ないこともあるでしょう。専門的知識の欠如もあるかもしれません。その点で大学院での深掘りは今後も価値があるものだと考えています。

当地の大学やカレッジに行くと何処も建設ラッシュです。大学施設をどんどん増強しています。理由は学生数の増大と共にリサーチプログラム(研究開発)が極めて進んでいる点です。例えば当地UBCは世界大学ランキングでは東大とほぼ同等ですが、研究開発に約700億円、1万本以上の研究プログラムで235の企業が支援しています。産学共同プログラムですが、日本の大学とは圧倒的な差です。

大学とは何しに行くところか、といえば勉強するところであり、就職するためのステップにしている日本とはまるで違います。教科書だけで大学卒業時には背の高さぐらい買うとか、教科書代だけで総額100−200万円も使うという人もいますが、それぐらい勉強しないと卒業できない、ともいえるのです。日本の大学経営はビジネスですので国から補助金をもらい、学生から売り上げを計上し、なるべく安いコストの先生をうまく配置しながら、名物先生を何人か確保する、といった感じでしょう。これで本当に良いのでしょうか?

私は一つには大学の国際化を進めることが重要かと思います。英語での講義/授業が必要だと思いますが、日本には英語で授業できる先生は少ないとされます。ならば何単位かは英語ですすめる授業のクラス履行を必須にするといった工夫が必要でしょう。先生も海外から招へいするぐらいの資金をつけるべきです。すると高校生が受験する際の考え方の基準が変わってくるはずです。

大学進学率が5割を超えるのは結構ですが、これから少子化でどこの大学も経営は厳しくなります。ならばアジア地区からの学生を大幅に増やさねばならないのは自明です。私は30年後に日本人学生がマイノリティになるぐらい日本の大学が国際化すれば本望だと思います。そしてレベルの低い大学は消えるのです。だからこそ、大学改革は絶対必要で、そこが変われば高校までの偏差値偏重も変わるし、企業の採用も変わると思っています。

文科省も均一教育からメリハリ教育という発想に変えるべきではないでしょうか?

では今日はこのぐらいで。

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また明日お会いしましょう。

金太郎飴の大卒生なんてもういらない!4

日本人の没個性化は長年指摘されてきました。私が大学の時にもそのテーマは存在したのですから少なくとも4-50年、変わっていないということになります。

没個性化と聞けばむっとすると思います。しかし、日本を含む東アジアの教育は集団行動の訓練を通じて個性をいったん仕舞い込ませるスタイルを重視します。かつては小規模集団行動である農家用水の村落内の配分から始まり、昨日のテーマで触れた企業のアメーバー型小規模集団に至るまで基本的にグループ内の一人のミスは全員のミス、謝罪するのはミスを犯した本人ではなく、グループの長であります。

例えば企業の年中行事になった不祥事の謝罪において本人が出てくることは1000%ありません。必ず、責任者であり、深々と頭を下げるのです。謝罪の流儀ですね。

日本を含む東アジアは統制を至上とするため、人々の人格や個性についてもなるべく差をつけず、目立たさせないようにします。悪い言い方をすればクラスに規格外の児童がいてもその子をなるべく特別扱いしないわけです。しかし、見方によってはそれは個性や人格に無理やり蓋をしているともいえるのかもしれません。抑圧は必ず、暴発するものです。現代社会において様々な社会事件が起きているその犯人の心理には「むしゃくしゃする」「むらむらする」といういう動物的で我慢ができない状態でトラブルを起こしたりします。

学校教育については相変わらず偏差値による算定で大学教育は昔のように色濃かった時代から没個性化したところが増えたと思います。いわゆるMARCH(明治、青山、立教、中央、法政)の現役生、卒業生なんてどうやっても区別がつけられません。最近では近畿大学、千葉工大が個性的かもしれませんが京都大学や一橋大もある意味、強烈であります。

ただ、そんな中で世の中、これほどユニークな大学はないといわれる超難関は東京芸大で東大なんて足元にも及びません。ただ、東京芸大を出た場合、大成功するか、就職できないかのどちらかといわれるのは個性が強すぎるからともいわれており、日本の規格社会において東京芸大卒業者は受難だともいえるのです。

近年、企業は金太郎飴から個性派へのシフトが進んでいるとされます。私はそこまで企業が変われるとは思いませんが、10年20年かければ変質化するかもしれないと思っています。なぜ、日本の企業が個性派を採用できないかといえば個性派を使いこなすのは偏差値で評価された金太郎飴大学出身の上司であるからです。では北米ではどうなのか、といえば様々な個性の人材が企業にいますが、結局ひとり一人のジョブディスクリプションが明白であり、担当が決まっており、それ以外の人はその業務にタッチしない仕組みです。担当者が全部をひっくるめて窓口となって受けてくれるのです。仕事を発注する方は会社に発注しているというよりその担当やチームと仕事をするという認識が強いと思います。

私が日本で発注しているある建設会社への業務はこの担当制を敷いています。私の担当が若い女性で初め、おやっと思ったのですが、調べてみてなるほど女性社員を顧客とのやり取りに送り込み、技術者はその後ろ側で作業を進めるという分業をしているのです。上手だと思いました。

大学時代が楽しかったというのは過去の産物にすべきです。大学時代にその専門性をベースにどんな深堀をしたのかが就職の最大の決定要因であるべきです。とすれば国立早慶だろうが無名大学だろうが関係なしだろうと思います。今、高専卒業生は大学生よりはるかに高い就職率となってますが、それは実践型として5年間、しっかり学んでいるからで極端な話、入社した翌日から使えるのです。だけど、大卒がものになるまでに数年かかり、その間3割が辞めていくのです。

それでも人事部は有名大学卒業生をかき集め、役員会で今年の採用目標人数を達成したと報告し、どれだけ優秀な、つまりどれだけ名の知れた大学卒が入社したのかを尺度としているのは本質的ではないと思います。

この問題も日本の構造問題の一つではありますが、メスを入れる時期に来ているのではないかと思案しております。

では今日はこのぐらいで。

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また明日お会いしましょう。

教育への親の関与4

日本で教育全般、様々な議論が沸き起こっており、変革期にあるような気がします。適齢期の子供がいない人にとってはあまり関心がないのかもしれませんが、子供の教育こそ、次世代の日本を担う人材を孵化させるインキュベーションであると考えれば他人事というわけにはいかないと思います。

かつて日本で母親は教育熱心だったと思います。昔の漫画には宿題に追われ、親から「終わるまで遊びに行っちゃだめ」とまくしたてられるシーンは数多くあったと思います。あの頃は母親は家にいたのです。そして家のことだけではなく、子供の教育を主体的にみるという重要な役割を果たしていました。それは夫婦間の立派な分業であったと思っています。ところがその役割は金銭的に換算しずらいうえに、母親を家に縛り付けるというイメージから女性の社会進出が強く叫ばれてきました。

もう一つは母親が子供の勉強の相談に乗れなくなり、塾に追いやるケースが増えたことでしょう。塾とは母親が担うべく仕事を代行しているともいえ、進学塾ではない普通の塾では子供の監督を含めた役割を期待されています。

昔の母親はなぜ、教育熱心だったか、子供を含めて人々の人生が極めて分かりやすいシナリオが基本パタンとして存在していたことがあると思います。良い高校や大学から名の知れた一流企業で終身雇用してもらい、60歳になれば高額の退職金をもらい、悠々自適のライフを送れるのだということを子供に伝承することでしょうか?

もう一つはより儒教的ではありますが、子供が立派に育った際には子供に養ってもらうという期待感があったはずです。これは長男が家を継ぐという発想が根本に残っており、親の面倒を子供が見る、それは金銭的なものも含まれていたと解釈しています。日本では金銭の部分は剥落したかもしれませんが、韓国は今でもその名残が強く、とにかくNo1にさせるために親は必死でありました。故に韓国のKPOPのスターたちが片言の日本語をしゃべり日本で稼いだり、韓国のプロゴルファーが日本や世界で稼ぐことを標榜していたと考えています。

これが現代社会になり大きく変わりました。まず、親が子供の教育にかつてほど熱心ではない、教育費の高騰で十分な親としての施しができない、共稼ぎが普通になり子供が放置されている、子供が成人しても親の面倒など見ない、転勤で親とは物理的に離れたところに住む、給与が厳しく抑えられ親どころが子供の生活すらままならない…といった具合でしょうか?

日経に「学校で『やり抜く力』は育つか」という編集委員記事があります。いわゆる学力やIQといった認知能力だけではなく忍耐力、好奇心、やり抜く力といった非認知能力が重要になってきているというものです。アンジェラ ダックワース氏の「やり抜く力(Grit)」(2016年発刊)は本ブログで何度かご紹介したのですが、なぜ一冊の本を複数回ご紹介したかと言えばそれぐらい衝撃を受ける内容の本だった、そして自分の中で今でも印象深い名著の一つだと思っているからです。日経の記事はダックワース氏の書籍には一切触れてはいないものの記事的にはそれに沿っています。

教育における親の役割とは何か、この書籍を読むと自分なりに描きやすくなります。一言でいえば親が子供を主導するのか、子供の才能を親が引き出すために可能性のオプションを提示するのかの違いです。例えば子供がサッカーが大好きで将来はサッカー選手になる夢を見ているとします。親はそれに対してそうだな、サッカーの強い学校に入れてプロを目指せるように主導するのでしょうか?それとも子供にサッカーもいいけれど柔道もあるし、マラソンもある、テニスや自転車もある、一通りやってみて自分に最もふさわしいと思うことを自分の体得から決めなさいというオプションの提示をすることです。優れた親の役割、その答えは後者です。

親が歩んできた人生と子供たちが歩みだすそれとはあまりにも社会や価値観が変化し、親の押し付けは将来無効であるとすれば子供たちが自分で立ち、考える癖、そしていろいろなものに興味を持つ土壌を作ることが大事だと思うのです。それは時として嫌なことでも体験させるという押し込みであります。それは親が担わなくてはいけません。

今の時代、ある一つのことに注力していてもなかなか成就できなくなりました。2つ、3つのことを掛け合わせて新たなジャンルを作り出す、そのためにはサッカーだけ知っていればいいというわけではないのです。

欧米で大学に入学する時、入学試験ではなく、GPA(Grade Point Average)、課外活動、エッセイ、推薦状といった非常に総合的な力を要求されます。特にGPAは日本でいう内申書以上にその中身の分析結果が重視されます。日本は内申書と一発勝負の入学試験です。入試は要領の世界。しかし、GPAにしろ課外活動にしろこれは普段の絶えまぬ努力でしかなし得ない評価であることを理解すべきでしょう。

この辺りの違いが教育の違和感となってきているのです。偏差値世代とよく言われていますが、正直、偏差値ではない世代がいるのか、と逆に聞きたくなります。日本の教育は偏差値に汚染されているのに文科省、模試の事業者、教育委員会、学校の先生がまるで変える気がないのです。こんな鉄壁の構造体はありません。私はこれが壊せないなら日本の教育は恐ろしいほど立ち遅れることになるとみています。ノーベル賞なんてそのうち全く取れなくなる日が来ます。それでも真綿で首を絞められている我々は分かっているけど一歩目が踏み出せないということなのでしょう。

私が考える唯一の方法は民間と優れた人材で全く新しい教育システムを作り上げること、そして官主導の現在の仕組みにぺんぺん草を生えるようなそんな変革の核融合が生まれることを期待します。

では今日はこのぐらいで。

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世界大学ランキングにみる日本の教育の課題4

英国の教育専門誌Times Higher Education(THE)が毎年発表する世界大学ランキングで2020年度版が出ました。日本からは東大が36位、京大が65位に留まり、不本意なランクはさほど変わっていません。日本の大学に何が求められるのか、この辺りを考えてみたいと思います。

まずこのランキングで東大が位置する36位までの上位を見るとアメリカの大学が21校、英国が7校でこの2カ国で78%を占めています。特にトップレベルは両国の大学で占められており13位でようやくスイスの大学が入ります。アジアでは23位の清華大学がトップで24位に北京大学が入ります。ほかにアジアからはシンガポール、香港が東大より上位にランクされています。ちなみにカナダはトロント大学とバンクーバーのUBCが東大より上位になっています。

では、この大学ランキングの信ぴょう性はどれぐらいあるのか、であります。THEの作るランキングの評点項目は13ほどありますが、大きく影響するのが論文被引用数が30点、研究評判調査が18点、教育評判調査が15点の配点になっています。この評判調査がどういうものかかなり主観性が入りやすい項目ではないかと思うのですが、英米の大学が大多数を占めるその理由はこの辺りに若干のゆがみがある可能性はあるかもしれません。

ちなみに世界大学ランキングはいくつかあるのですが、大学の教育内容を比較的ストレートに反映しやすいとされるのが「世界大学学術ランキング」でこちらの2019年度版ランクは東大が25位、京大が32位であります。ちなみに東大より上の大学はスイスとカナダが一つずつ食い込んでいるほかはこちらも残りは全部英米であります。

こう見ると英米上位大学は評判が評判を呼んで大学規模が大きくなり、パワーアップし続けていると考えられそうです。

となれば日本の大学が悩むべきところは国際的な評価を引き上げ、留学生を呼び込み、優秀な教授陣の招聘、英語での授業の大幅増加がまず考えられます。次いで改革された新しい大学入試制度が2021年から始まりますが、考える力、創造する力、複数の答えを引き出す能力に主体性を置き、記憶装置としての教育からの置き換えを早急に進めるべきと思います。

次に卒業生と在校生、大学の連携が薄すぎます。私も母校校友会の評議員をしていますが、校友会上の登録数が30数万人いることに校友会が満足してしまうのではなく、それらの人たちとのつながりをなぜもっと密接に取り込もうとしないのか、不思議なのです。また私大の場合、何かと寄付金というのですが、(私の母校も当然そうです)何に使うのか明白な目的がなく、募金総額の目標だけがそこに存在しています。校友会の会議である方が「募金をどうするつもりか?」との質問に「これから有意義に使えるよう検討します」というわけです。これでは誰も募金なんてしません。

英米の大学の特徴は卒業生からの巨額の寄付金で支えられてることにあるのですが、カナダでよく目にするのは〇〇研究センターを作るとか、〇〇財団を通じた学術的展開を図るといった明白な目的に対して卒業生が「よし、それなら」と多額、時として億単位の寄付すら平気でするのであります。

これに対して例えば東大に今年度、これまでに寄付をした件数は297件約790万円しかありません。私はこれを見た時、ゼロが2つ足りないと感じました。日本人の寄付に対する感性なんてそんなものです。東大を卒業して「東大卒です」とあちらこちらでそのブランドを掲げながら母校のことにはまったく振り向かず、懐にしこたま溜め込む様子が目に浮かびます。

どうせなら人気クイズ番組の「東大王」で東大チームが勝ったら東大に寄付するぐらいの太っ腹になってもらいたいところです。

ところで私どもの会社はカナダの多くの大学とビジネスをしている関係にあるのですが、今夏、カナダ、アメリカ、日本から先生方が集まるあるアカデミックな年次会合があり、その会合そのものへの参加と寄付を今年も求められました。大した額ではありませんが、寄付をし、参加のための諸経費を含め全部で20万円ぐらいかかりましたが、あとで大変感謝されました。もちろん、ほとんど全部持ち出しです。

日本の人は儲かるならやるというスタンスが強く、例えばカナダの日系のイベントへの出店希望者が多いのはやればそれなりに懐が温まるからですが、私どもがやるような寄付は直接的な見返りはほぼありません。しかし、私どもが何らかのお手伝いをすることでそのような学会を援助できるなら私にとってはそれの方がずっと意味あることだと思っています。

最後に日本は大学全入時代と言われています。正直、その必要はないと思います。文科省も大学への交付金をばらまくのではなく、一定の絞り込みをしながらよりレベルの高さやユニークなポリシーを打ち出させるなどの「らしさ」を考えてもらいたいと思います。MARCHとか関関同立はどこもドングリの背比べで令和版「大学は出たけれど…」に近くなっている気がします。少なくとも偏差値への偏重は早急に改善すべきかと思います。

では今日はこのぐらいで。

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できる人、できない人4

偏差値が生み出した悪影響は計り知れないものがあるかもしれません。ごく一面から見た人間の能力を数字で評価することにより、個々人にレッテルを張るからでしょうか?

例えば模試を受け、ある教科だけがいつも成績が悪いとすれば「俺はこれ、苦手」という意識を植え付けてしまいます。苦手なのでいくら勉強しても頭に入ってこない、そして好きな教科だけ勉強するようになる、という循環に陥ります。

東京に行くと経営する塾に行きます。この塾は生徒が各々コンピューターのソフトと対面し、音と画面で学ぶような仕組みになっています。そこで子供たちがどのように勉強するか、後ろから見ていると大体、苦手教科はやっているふりで画面を見ながら目が滑っていたり、設問に対して間違っていてもなぜ間違ったかを見ずスルーしてしまう子が多いのです。これではできるわけがありません。

ある生徒は算数がとても苦手でした。そこで画面の設問に対してどうやって解に導くか、紙と鉛筆で書きながら教えました。何度か同じような問題を繰り返し、紙に書き、手で計算してそのプロセスを覚えさせると不思議とすらすらと解けるようになります。つまり、ちょっとしたことに引っかかっていただけなのですが、それを取り除いてあげる人がいなかった、それだけの話です。この生徒はその後、算数全般が苦にならなくなります。つまり、苦手意識が解消したのです。

日経に「キセキの高校」という特集があり、「本当にうちの生徒?対話が高校を変えた」というがあります。舞台は都立大山高校。私の塾でも時として名前が挙がってくる割と近くの高校です。記事によるとこの都内でも最低レベルの高校で「哲学対話」なるものがあり、生徒が体育館で車座になってあるテーマについて皆で議論することを取り入れたところ、生徒が考える力を持ち始めた、というストーリーです。

私が時折いう「答えは一つじゃない」という試練を感じているのでしょう。ものの見方は見る角度によって変わります。正面と後ろ姿、上から、下から、透かしたり、様々な切り口から考えるようにすると全く違った答えが見えてきます。世の中に出回る統計の数字ほど切り口次第でどうにでもなるものはありません。つまり、我々の住む世界には絶対というものはないのだ、とまず認識することでしょうか?

とすればできないとレッテルを張られていた人も切り口を変えれば案外できたりするわけです。人の才能は開花のさせ方だと思っています。確かに天才と称される極めて高い能力を持った人はいます。しかし、積み上げた努力で高いレベルを勝ち取る秀才がいるのも事実です。つまり、天才にはなれないけれど秀才には誰でもなれると考えたらどうでしょうか?

できる人、できない人の違いの究極は「粘り」だろうと思っています。今の子たちはこの粘りがやや薄くなってきている気がします。それは何でも簡単に手に入る世界になったこともあるかもしれません。だからテストもできなきゃすぐ答えを見て、何も感じず、次に行ってしまいます。「なぜ」を繰り返し、たった一つのことにもパイ生地のように何層も積み上げていく手間暇、これができるかできないかで将来大きな差が出てきます。

私はできないと思わせることがまず間違いだと思っています。できるはずなんだ、何に引っかかっているんだ、とぶつかりながらも問答していくことでハタとした気づきが生まれるのではないかと思っています。

では今日はこのぐらいで。

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大学には誰が行くべきか?4

数日前ですが、堀江貴文氏が政府の打ち出した生活保護世帯の子弟大学の進学支援に対して「税金の無駄遣い」とツイートし、物議を醸している、とハフポスト紙に掲載されています。堀江さんも着眼点がユニーク故に好きな人は好きだし、嫌いな人は何を言っても駄目でしょう。しかし、中庸でどちらとも言えない意見を聞くよりはすっきりしていてよいかもしれません。

「税金で高等教育をあまり役に立たない人に施すのは間違ってると思う」という彼の発言は相当語弊を招くと思いますが、私なりに堀江さんの意図するものを解釈してこの提起にスポットを当ててみたいと思います。

日本の塾で子供たちを見ていると「うーん」とうなってしまうことがしばしばあります。「なんでこれができないのだろう」といういらだちであります。そこでできない理由を探るため、一歩下がって様々な角度から子供たちを見ているとなんとなく見えてくるのは「勉強に対する姿勢」であります。

「嫌いな勉強を無理やりやらされている」というそれこそ強迫観念が潜んでいる気がするのです。それでもなぜ、勉強をするかといえば「親がうるさい」ではなく「学校で試験があるから」「とりあえず、高校に入らなくてはいけないから」であります。毎月のようにあるV模試の結果は詳細な分析がA3の紙2枚一面に満載されて送られてきます。私はその結果を丹念に見て各科目の正誤をチェックし、どこが弱いのか確認したうえで試験や受験のアドバイスをします。

教える側がテンションいっぱいでどちらが受験生が分からないほど盛り上がっているときに突然親から「やはり2ランク下げて都立の推薦にします」と言われたら思わず「えー!」と声が出てしまうほど落胆してしまいす。こういう親は比較的多いのですが、その親の心理とは「高校受験も失敗したら最悪。ならばどんなところでもいいから入ってくれればよい」と弱気の極みになっているのです。そして一言、「私も勉強できなかったので…」であります。

言い換えれば子が親にトレースされてしまっているんです。親ができなかったことを子に託すならいいのですが、親が子にできないレッテルを貼ってしまっているようにすら感じるのです。

いわゆる進学塾ならば偏差値60以上の子弟が競うように勉強し、周りが全員秀才に見えて焦って必死に勉強するというプラス効果があります。ところが私のところのように普通の子を教える塾は大半が偏差値50前後のごく普通の子かそれよりやや落ちこぼれている子であります。偏差値40台半ばぐらいだと試験で40点前後ぐらいのイメージでしょうか?その場合、ほとんど基礎的な問題しか解けていません。中学でそんなものなのです。高校はもっと熾烈。ならば大学はどうなるのか、という話であります。

もう一つはできない子はどれをやってもできない、という共通点があります。昔、得意科目は国語と社会、だけど数学と理科は嫌い、などという言葉通りに試験成績や内申もその通りに反映されたのですが、最近、その傾向が見られないケースがある気がします。どれも50点に到達しないのです。

では堀江貴文さんが吠えている点にどうつなげるか、ですが、中学の勉強でどの科目も半分もできない人たちがどうやったら一人前の社会人になれるか上級の教育を受ける以外にもっと様々な道筋を作るべきではないかと思うのです。

大学卒は高卒より生涯賃金が高いぞ、という意見があります。なぜ、大卒が高卒より一般的に良いポジションにつけるのか、といえば受験という競争に勝ち抜き、就活という競争に勝ち抜くガッツや努力なのではないと思うのです。つまり、本人のやる気であります。

これが家庭の経済状況で政府がおカネは出すわ、大学は全入時代だわ、となれば大学に行く意味は半減してしまう、これが堀江さんの言いたかったことではないか、と思うのです。

私のところの塾は圧倒的に都立志望者が多いのですが、その理由は学費無料だからです。私学がいくら補助が出て個人負担が減ったといってもタダには勝てないのです。その意味をよく考えれば高校は卒業しなくてはいけないところという親の強制力であって、子供の自我は何処まで芽生えているのか微妙なところであります。

日本の大学生が大学で勉強しているとは思えません。それが将来役に立っている人も一握りでしょう。ただ、何らかの競争を勝ち抜いたという優越感と自信、これが大学卒の勲章なのだとしたら勲章がタダでもらえる安売りはしない方がいいのでしょう。

では今日はこのぐらいで。

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