外から見る日本、見られる日本人

バンクーバーの日本人社長ヒロが仕事、生活を通じて感じた経済、経営、社会、日本人観などを綴っています。

記憶

記憶に残らない会合4

山際氏がついに大臣の座から降りました。私の8月27日付ブログにこういう一節があったのですが、あえてもう一度、コピペします。

「政治家の『記憶にございません』は常套句でありますが、山際経済再生大臣の旧統一教会に絡む記者会見で2016年、19年に同団体関係のイベントに参加したことを『しっかりとは自分自身でも覚えていない』と述べたことに私はのけぞりました。この答えには3つの可能性しかありません。ご本人が認知症か、仕事をいい加減にやってきたか、ヤバいと思って隠し通しているか、です。3番目のヤバいという訳ではなさそうで、2番目の仕事を惰性でやってきたのではないでしょうかね?私は仕事だけではなく人生を一生懸命に歩んできたのでかなりの記憶はあります。ましてや誰とどこでどうしたかぐらいは普通分かるものです。となれば任命責任が問われますよ、岸田さん」。

今、読み返してみれば悪くない指摘だったと思います。山際氏辞任に関するインタビューの一節では「何か深い関係があったわけではないので、説明ができなかったのは事実。私自身は20年間、政治活動をやってきた。数千や数万の会合には出ていると思う。それを全部覚えているほうが自然ではない。しかし、もちろんそういった会合の中で、思い入れのあった会合や、重要だと思って記憶している会合はある」と述べ、万単位の会議に出席しているので全部覚えられないと述べているのが印象的でした。

日本人は会議好きであります。何故か、といえば合議制の社会だからです。会議に出席する人の中で強い意向をもっている人はごくわずかであとは「出席することに意義あり」「一応、聞いておかなくちゃ」「部内を代表して」という感じでざっくり8割の人は受動的参加者です。発言をするわけでもないので後で議事録を見れば無駄な時間を過ごす必要はないのですが、日本人は会議に呼ばれることに一定のプライドを持っているところもあります。「会議に行ってくる」というのは格好いいことにすら思っている節があるのです。また最新の討議や情報がそこで繰り広げられることもあり、「会議、どうだった?」が部内に戻ってきた参加者への一言目でしょう。

テレビで政府や政府関連の会議のシーンが頻繁に出てきますが、あれだけの会議出席者の中で発言する人はごくわずか。とすれば山際氏も「壁の花」ならぬ「会議椅子の像」だったわけです。それも数万回に渡って。これって人生の中でどれぐらい時間を費やしているのでしょうか?仮に2万回の会議に一回当たり1時間出席していたら2万時間、つまり833日なので人生の2年分以上を「会議椅子の像」として費やしたわけです。ご苦労なことです。

私は昔から大の会議嫌いです。インタレストもない人間が会議をしてもしょうがないのでキーパーソンからの聞き取りや個別折衝で済ませます。今の時代はメールやスラックなどもありですね。最近はNPOの会議は月に一度ありますが、業務の会議は過去10年で数えるほどしかありません。なので、逆に会議した内容はある程度覚えているのです。それこそ、30年前に以前勤めていたゼネコン時代にあったごくわずかの会議経験も覚えています。

私の会議嫌いの背中を押したのは25年ぐらい前にやった大手会計会社との税務戦略会議でした。会計会社の担当が大風呂敷を広げて「社内専門家」を5-6人集めて「あぁでもない、こうでもない」という議論を数時間やったのです。議論なので結論は出ていません。が、後日100万円相当の請求書が来て「ふざけるな」と思ったのです。不毛の会議に100万円です。

また、当時の社長が社内会議の際に「お前ら、会議に出て一言もしゃべらないなら出て行け。この会議でどれだけの給与額になるのかわかっているのか」と活を入れたのです。その通りなんですね。

会議には2通りがあります。意図した方向にするために参加者の同意を得ること、もう一つはあるテーマについて「どうしようか」と議論する場合です。前者のケースが多いと思うのですが、これは冒頭申し上げたように自分も参加させてもらって説明を聞いたというプライドと事実が重要なのです。会議の席で了承というのと議事録が廻ってきて「なんでこうなるんだ」と怒りを見せるのでは大違いです。とても日本的な共同参加意識です。

いわゆる謝罪関係の会議ならば「つるし上げ」をしに行くわけです。誰か一人が声を上げれば「そうだ、そうだ!」と勢いづき、ひな壇に座る人は頭を垂れて陳謝する、そのざまをみて留飲を下げるわけです。

ところで習近平氏の3期目が決まり、上海党委書記の李強氏が首相になります。上海市民にとってはコロナ封鎖で嫌な思いをした相手です。街の人へのインタビューは「上が決めたことだから…」としゃべりにくそうでした。この「上が決める」というのは中国だけではなく、北米も往々してそうです。「上とは決める者」なのです。北米に30年以上いて下からの提案というのはあまり聞いたことがないのです。なので日本式の会議ももちろんないです。「決める」ということはそれに精通し、かつ、クレバーでなくてはいけません。「あの人は賢いねぇ」と言われるには正しい選択をし続けることであり、その選択は全体にとってメリットがある道を進む決定という意味でもあります。

日本の労働生産性が低いとされますが会議好きのデメリットもあるのかもしれません。逆に言えば上に立つ者がよろよろしているともいえます。岸田さんは典型的な人で自分にポリシーがないから専門家の意見を聞くのですが、専門家も右から左までずらっといるのでそれぞれ聞いてうなずいてしまったら聞いた方の負けなのです。何をしたいか、リーダーに骨太のポリシーがあれば会議は今の半分とか1/3に減らせると思います。

日本的な共同決議は共同体意識に基づいた民主的で関係者の利害関係をよく吸い上げた仕組みであり良い面も多々あります。が、いかんせん、多数のインタレストを吸い上げるということは判断が中庸になりがちとなり、尖ったものにならない点に於いてインパクトが小さい「弱い決定」となりやすいこともこれまた事実ではないかと思います。もっとも、会議の責任者がいないのもまた日本の特徴で議長がまとめ上げて結論を引き出す能力が十分備わっているのかな、と思う時もあります。

では今日はこのぐらいで。

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また明日お会いしましょう。

今週のつぶやき4

政治家の「記憶にございません」は常套句でありますが、山際経済再生大臣の旧統一教会に絡む記者会見で2016年、19年に同団体関係のイベントに参加したことを「しっかりとは自分自身でも覚えていない」と述べたことに私はのけぞりました。この答えには3つの可能性しかありません。ご本人が認知症か、仕事をいい加減にやってきたか、ヤバいと思って隠し通しているか、です。3番目のヤバいという訳ではなさそうで、2番目の仕事を惰性でやってきたのではないでしょうかね?私は仕事だけではなく人生を一生懸命に歩んできたのでかなりの記憶はあります。ましてや誰とどこでどうしたかぐらいは普通分かるものです。となれば任命責任が問われますよ、岸田さん。

では今週のつぶやきをお送りします。

ジャクソンホール
そもそもジャクソンホールの会議はもっと学術的で金融市場について経済学者などを交えて議論をする場でした。が、そこに招かれるFRB議長の講演で先々の金融政策を暗示することもあり、この10数年急速に着目されるようになりました。実は私は今年は無風を期待していたのです。前回のFOMCでパウエル氏は政策はデータ次第と強調し、次回のFOMCまで8月度の雇用統計と消費者物価指数の発表を控える中、ポリシー的に何も変化はないと予想していました。事実、彼はそう発言しているのですが市場は何か、甘いものをねだるようなつもりだったのでしょう。失望売りが出ました。

結局パウエル氏も含め中央銀行はインフレを抑え込むために利上げをするという単純な方程式を示すのみなのですが、インフレの原因がどこにあるのか、分析が十分ではない気がするのです。アメリカのダラーショップ(いわゆる100均)の業績が好調のようですが、100均が流行るのは景気減速の明白なシグナルの一つで08年のリーマンショック後にもそれは起きました。かつてビックマック指数というのがありましたが、「景気の温度はダラーショップに聞け」と私は思っています。

先日カナダのファミレスで会計をした時カードマシーンのチップの提示は18,20,22%でした。ひどいところは30%まであるそうですが、チップで2割差し上げても飲食店に人材は集まりません。高校や専門学校を卒業して一歩目の社会人経験の場が飲食店という人も多いのですが、カナダCBCの調査では人材流出が一番多いのが飲食、ホテル業で理由は年収が低いから。ちなみに最も人気なのは高度な専門職で年収1000万円は最低線という時代なのです。労働者の取捨選択を作ったのが今回のインフレの隠れた主役だと私は疑っています。

ニッポン風責任のとり方
安倍元首相暗殺事件を受けて予想通り中村警察庁長官と桜沢警備局長が辞任しました。事件のあと、タイミングをみて辞任すると思っていましたが、予想というより必然でした。民間も官庁も責任のとり方は似ているのですが、特に官庁の場合、在任期間中に「何もなければよい」無風を期待するのが普通。特に警察ならばキャリア入社で23歳で警部、すぐに警視で警察署長を踏み台にして…という具合ですので現場責任者の警察署長勤務ならば署全体で「キャリア様をお守りする」というまるで江戸時代の大名と家臣のような話であります。

これが日本の事なかれ主義にもつながっており、受動的仕事はするけれど能動的仕事は極端にしないようにします。なぜなら役人にとって目立つことは自分の人生を潰すきっかけになるからです。日本の組織論は功罪いろいろあると思いますが、動かない役所が岩盤であることは間違いありません。しかし、受動的業務ならばいつかはコンピューターやIT、ロボットにとってかわることが可能です。「俺は潔くやめる」というのはハラキリではあるまいし、格好よくもなんともありません。

海外の場合は責任は下に押し付ける、上はSorryすら言いません。責任の押し付け方は基本はクビです。日本は下はクビにならず、上が自主退職なのです。どっちもどっちですね。ただ日本の場合は世論が許さないのです。「責任者を出せー!」の国ですから。「責任者は私です」と胸を張って言えるような下を育てるのが上の仕事だと思います。中村さんや桜沢さんが辞めたところで警察は何ら変わりません。警備の強化はするかもしれませんが、本当に必要なのは体質改善ではないでしょうか?

食糧危機がもたらすこと
食材価格が上がり、手に入りにくくなるものも増えている中、食糧問題は今後否が応でもクローズアップされることになるでしょう。戦争だけではなく、気候変動による不作や不漁もあります。今年もサンマ漁が解禁になりましたが、初物のサンマは一尾5000円也。昔、サンマ定食は2尾ついて500円だったよな、と思います。かつていくらでも取れたニシン漁とそっくり同じ道のりであります。中国では干ばつと豪雨で農地に危機感が漂います。中国の最大の淡水湖はもう1/4に干上がっています。

ウクライナは欧州の穀倉地帯で世界でも有数の農業国です。欧州のみならず中東やアフリカの胃袋を支えているのです。船積出荷は始まりましたがそもそもウクライナには鮮度を保って貯蔵できるような設備が少なく、今後、年単位で足りない状態が続くと想定した方がよいでしょう。日本は高級食パンがブームでしたが小麦の値上がりでたぶん、ビジネスとして成り立たなくなるとみています。

食べ物の傾向も少しずつですが変わっていく気がします。飽食の時代は終わりで必要なものを必要なだけ食べるのがトレンドになるとみています。牛肉の消費は着実に落ちると思いますが、日本の和牛はその点で真逆のような気がします。そもそも和牛は海外でも話題にはなるけれど商品としては普及しにくいのです。理由はサシが多くて欧米人の好むステーキの味にならないのです。日本はグルメの人が多いですが、食糧危機を機会に人々の食への価値観やこだわりが少しずつ薄れていくように感じます。

後記
州の大臣からお誘いを受けて行った党の資金集めの食事会。集まったのはざっと300名弱。ほぼ決定している次期州首相もいて3年ぶりに握手をしたけれど彼は残念ながら私を覚えていませんでした。会食は4時間でその間、参加者は動き回り、いろいろな人とネットワークを広げます。このような資金集めは今後、何度も行われます。件の大臣も「私も秋にやろうかな」と言われお財布からお金がまた羽を出して飛んでいくシーンが浮かびます。ただ、強力なネットワーク構築にはこういう世界もあるのですよね。案外利用価値はあると思います。

では今日はこのぐらいで。

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AIの時代の悲劇4

日経の正月から連載、「新幸福論 TECH2050」。2050年の世界を想像するというもので、今からわずか31年で大きく変わるであろう社会を描いています。AIにシェア、iPS細胞、AIロボットの政治家…と今の社会で将来あるかも、と思っていてもなかなか受け入れられないその仕組みが31年後には当たり前になっている、という点がスリリングでもあり、怖い感じでもあります。

その中に「AIやロボットが仕事の半分以上を代替する結果、人の仕事は思いっきり減って娯楽や余暇が生活の大部分を占めるようになっていた。」とあります。そこは想像できます。しかし残された人間は何をするのか、であります。宇宙旅行や狩猟をする、とその後に続きが書いてありますが、これは違うと思います。

現代の人間は、動物からははるかに進化しています。その進化の最大の特徴は高度に発達した頭脳により知識のみならず道徳、精神力、協調性など人としての基本的備えを保持していることであります。ところが最近の人は記憶媒体を頭から取り去ることを覚えました。つまり、外部装置に覚えさせることで自分はそれを操作するだけであたかも自分が不自由することがないと錯覚しているのです。

もう少し時代をさかのぼりましょう。皆さん、紙と鉛筆で計算ができますか?簡単な四則演算ならできると思いますが、案外小学校レベルまで落ちている人も多いはずです。では漢字や英文はどうでしょうか?紙と鉛筆だけで書けますか?漢字は小学校レベルを卒業できない人が続出しているとみています。

つまり、電卓やパソコンが普及し始めた時点で我々の頭脳からせっかく学んだ知識が徐々に消え去っているのです。そして今、スマホに全ての情報と権限を与えているため、大事な電話番号や友人のところへ行く道筋すらわからない人がふえています。

つまりヒトの退化と考えてよいと思います。ではAIが席巻する世の中になった場合、人はどうなるのでしょうか?私の大胆な予想です。さらに退化が進み、原始人化、そして動物化する傾向がより強まるかもしれません。つまり種の保存という水準であり、マズローの欲求5段階説でいう一番下の生理的欲求と二番目の安全欲求まで落ちてしまうのではないかと危惧しています。

もちろん、すべての人が落ちるわけではありません。しっかりした自己統制ができる方は大丈夫ですが、多くの方が問題を抱えることになるかもしれません。

ではその時に働く価値観がどこにあるか、です。ほとんどの仕事をAIがこなすとなれば人はわずかな隙間の仕事をするしかありません。しかもスキルがないので多くは肉体労働かもしれません。その労働もワークシェアで一日4時間だけの労働となれば我々の生きがいはどこにあるのでしょうか?先立つものがなければ宇宙旅行も狩猟もあったものではありません。このままではノイローゼになる人も多く生まれるでしょう。

我々が今、AIの進化とともに考えなくてはいけないのは生きがいとヒトとしての意識の保持ではないでしょうか?年々便利になる世の中に我々は歓喜し、「お前、そんなのもの知らないの?」と自慢げに最新の便利グッズを見せられているこの社会を何か、あまのじゃく的にとらえてしまう悪い癖が私にはあります。

私が私として進化する中でAIは補助的役割をしてくれればそれでいいと思っています。別にIoTの冷蔵庫が中身を検知してスーパーでこれこれを買いなさい、と指示されたくないし、AIスピーカーに電気つけてもらい、エアコンを家に着く前にオンにしてもらい、帰宅すると風呂が沸いていなくてもいいです。便利に甘えたくないのです。面倒くさい、これ、やらなきゃ、という人間が我慢したり、乗り越えるというメンタルを持ち続けることの方がずっと重要だと思うのです。

AIとの付き合い方、私は一歩、距離を置きながらスマートにお付き合いさせてもらう、これが私が生きている限り残りのライフスタイルであります。

では今日はこのぐらいで。

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偏差値時代の終焉4

受験シーズンも中高が終わり、大学入試にシフトしてきました。この時期、いつも思うのは偏差値。私も偏差値世代でありますが、これは一見便利な指数ではありますが、弊害があることは多くの人が知っていると思います。それでも改善できない教育界には「なぜ?」という言葉しか出てきません。

私が高校受験したころもクレージーでした。中学校1年生から年に数回、模試があり、校内成績が順位として個人のテスト結果に出てきます。当然、自分は「あいつより上でこいつより下」というのが会話等で分かってしまうため、優勝劣敗の意思を強く押し出します。これは成績上位者の場合、ライバル心が高まるため結構なことなのですが、中位から下の生徒にとっては苦痛以外の何物でもなかったと思います。

更に追い打ちをかけるのが進学塾です。私の時は確か夕方5時ぐらいから8時か9時まで塾に缶詰でしたが、その塾もテスト、テストの大攻勢で成績ごとにクラス分けをし、入れ替え戦も日常茶飯事。私は比較的上位のクラスにいたのですが、中3の二学期ぐらいから上位者のみが集まる渋谷のクラスに集中させられ、更に激しいライバル心を煽るところに放り込まれました。

クラスは40名ぐらいだったと思います。例えば英語は一枚のシートに質問が20−30個あるのですが、それを全て回答するのに与えらえる時間は1分とか2分でした。その上、9割以上は正解していないとダメ。これを一日に20枚ぐらい「処理」させられるのですが、この効果とは「この構文にはこれ」という完全丸暗記であり、頭を使っておらず、鉛筆だけが動いているという条件反射の教育でありました。数学でも社会でも「処理時間」は若干長いですがほとんど同じです。

二学期終了時点(=冬休み)から受験日前日までは学校に行かず、塾に朝9時から夜まで缶詰、正月も鉢巻き、塾の講師が「君たちの正月は春までこなーい!」との威勢に完全に押されていました。結果としてその気違い沙汰のクラスメートの大半は偏差値70以上の国公私立に進みました。

今考えてみればあのスパルタは自分の限界への挑戦だった気がします。東京マラソンで限界に挑戦した方も多かったともいますが、受験勉強という長丁場のマラソンで完走した気持ちであります。但し、暗記学習ほど忘れやすいものはなく、今考えれ見れば「記憶の保証期間」はないのか、と言いたくなります。

では中位ぐらいの方ですが、今、私立高校の経営は厳しさを増し、生徒集めに必死であります。そんな私立高校では巷に公表されている偏差値とは別枠でかなり合格者を出しているところもあると聞きます。

偏差値は計算上、40-60の間に68%の人が収まるようになっています。その偏差値を測定する試験ですが、コンディションや設問によってばらつきが出やすいながら、中位の場合、一問の成否の差異で順位が大きく変動します。(マラソンで最後の100メートルをダッシュすれば10人ぐらい抜けるのと同じです。)ある意味、試験の運次第ということであって個人的には中位の人は偏差値による位置づけはあまり意味をなさないと考えています。

一部の学校側もその辺りを認知しているのでしょう。学校の全体水準から大きく落ちこぼれない限りにおいてドンドン採用しているようです。また、高校の校長は塾廻りをして「良い生徒を当校に是非」と営業しています。今や中学校廻りだけではないのです。

では正解を一つ選ぶ方式ではなく記述式にすれば採点に時間とムラがでるという点が指摘されています。明らかな不正解はともかくとして、記述式のポイントは考え方のアプローチにあるわけですから正解は一つではなく、採点者の裁量を広げてもよい気がします。逆に記述式の設問がある一つの答えを誘導するものではなく、多数あるであろう考え方を引き出すものにすればどうでしょうか?

多くの若者はマニュアルがないと自分で判断が全然できなくなってきています。これはマニュアルを覚える能力はあるけれどそれ以外の事態が生じた時、自分で考える能力が欠落していると言えるでしょう。まさに私も経験した進学塾で考えない学習をし続けた結果だろうと思いますが、このあたりは今後10年ぐらいで良くなるのでしょうか?(数十年待って変わらない日本ですから期待はしていませんが。)

では今日はこのぐらいで。

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また明日お会いしましょう。

記憶させる動機づけ4

日々のニュースから検索、価格情報から道案内まで今やインターネットが情報収集元となっている人が主流ではないでしょうか?まさに頼りっきりということです。

私も先日、夜遅くにあまり詳しくないエリアからあまり詳しくないエリアに移動するのに車のナビがどれだけ便利かということを改めて感じさせてくれました。指示に従って運転するだけですから実に楽なのです。ある意味、運転に集中できるとも言えるのですが、あとで家に帰ってからはて、いったいどういうルートでたどり着いたのだろうか、という疑問だけが残ってしまいました。

考えてみれば一昔前は車の中には地図なるものが常備され、移動には地図上で大まかな方向を頭の中に描き、主要な大通りや高速道路の出口番号や国道の番号はそれなりに頭にインプットしておきます。それをなぞるように走っていくわけですから記憶と事実が結びつき、体で覚えたより強い記憶となってほとんど忘れることがなくなるのです。

小さい頃、自転車や水泳を一度でも覚えればその後、何年もやっていなくても案外出来るものです。あれも体が覚えているからなせる技であります。

では、これをあふれんばかりの情報についても応用し、記憶させることが可能なのでしょうか?いわゆる記憶術の話ではないのですが、覚え込ませる手段として繰り返しのインプット、それに対するアプトプットが極めて重要ではないかと思います。

たとえば奥様の井戸端会議、ご主人の仕事帰りの同僚との一杯。それぞれ、テーマは違いますが一定の内容について複数の人と談義しています。談義する以上、自分も一定の知識があったケースが多く、更にその上にそれを肯定、否定されつつも自分の理解に対する軌道修正を行っていきます。更にその後、再び、同じ話題で会話する時には自分は「詳しいんだ」という自負すら芽生えていることがあるのです。ですから奥様はご近所の話には詳しいし、ご主人は社内事情には詳しいわけです。

私の場合は対話相手が市場であります。それは北米マーケットであったり、東京マーケットであったりするわけです。一定のインプットをベースに自分で高速回転でこのニュースはどう消化し、展開するのか判断し、市場にはプラスか、マイナスか、といったことを考え、行動していきます。その結果、市場が自分の思惑通りに動くこともあるし、逆に行くこともあります。更に市場ニュースを見ながら、なるほど、市場はこういう解釈をしたのか、と復習するわけです。これを日々、北米市場と東京市場で繰り返しているわけですから一日中、考え続けています。

当然、膨大なインプットがありますが、それも吸収できるだけ吸収します。ブログのコメントに「その情報は違うのではないか」といわれれば一応情報源はさっと出てくるぐらいの記憶はある程度の期間は保持しております。

皆さん、本を読まれると思いますが、1年前に読んだ本の内容をすぐさま、大体このあたりにこんなことが書いてあったとページをペラペラめくって引っ張り出すことが出来ますか?私はそれがもっと容易く出来ればと思っています。先日、ある人とある本の内容について議論してたところ、先方が「大体何ページあたりに一節だけこんな表現があった」と指摘され、思い出せず、恥ずかしい思いをしました。その人は10年以上前に読んだだけだとのこと。本もそこまで噛しめて読まねばならぬかと気持ちを入れ替えた次第です。

ところで新聞の内容の記憶ですが、これはネットで読む新聞よりリアルの新聞のほうが圧倒的に記憶に植え付けやすいと思います。私は両方読みますのでそれを確信しています。理由はリアルのほうは編集してあり、微妙に目立たせ型が違うのです。フォントやデザインが結構微妙に違ったりするのですが、お気づきですか?記憶は動機付けだといいますが、まさにそれを地でいっているということでしょうか?

漠然と読み流すのではなく、いろいろなことを感じ取り、考えながら生活するとそのピクチャーはまったく違うものに見えてきたりするものではないでしょうか?

今日はこのぐらいにしておきましょう。

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ではまた明日。

新学習指導要綱4

新学習指導要綱が昨年の小学校に引き続き本年4月から中学校に、そして来年には高校へと本格的に適用されていきます。この新しい学習指導要綱の目玉は

「ゆとり」か「詰め込み」かではなく、基礎的・基本的な知識・技能の習得と思考力・判断力・表現力等の育成(文部科学省のサイトから)となっております。

教科書の厚みは膨れ上がり、内容も濃くなるそうですが授業時間数は中学校で105時間増加するものの教科書のボリューム、内容増に見合う程ではないそうです。

いろいろな意見があったゆとり教育でしたが総じて疑問点のほうが多かった気がします。私はゆとり教育が本来求めていた暴力、いじめ、登校拒否といった学校教育問題と青少年が関わる社会問題の解決という根本目的と違うバイアスが強く出て、結果として相対的な学力の低下、国際社会の中での日本の競争力の潜在的低下のリスクという観点が強調されてきたように思えます。

新学習指導要綱が具体的にどう展開されるか、これは数年間待たないと一定の状況や成果は見えてこないかもしれません。

私は個人的には詰め込もうがゆとりを持たせようが結果は同じだと思っております。人間の能力とキャパシティーは果てしないものがあります。アインシュタイン博士ですら脳みその数%しか使わなかったといわれています。学校教育を通じた教育ボリュームは人間個体としてはまったく問題ないでしょう。それよりもそれをどういうモチベーションで記憶させ、どう引き出すか、これが最大のポイントだと思うのです。

私の今使っているノートパソコンやデスクトップのパソコンは正直、性能的には中ぐらい以下だと思います。ですが、特にそれで困っていることはありません。理由はインプットし、記憶するデータをどのファイルに系統的に入れ、必要なときにどれぐらい引き出しやすくするか、これに全てがかかっていて性能の全てを使い切ることはないのです。

学校教育も単純記憶ではなく、インプットした記憶をいかに応用させ、引き出せるかが目覚めを与えるような気がします。

例えば戦国時代。教科書では年号順に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のそれぞれのベンチマーク的事実を流すだけだと思います。正直、その内容を私は長らく忘れておりました。しかし、久しぶりにNHK大河ドラマを見てすっかりとりこになり、猛烈に興味を持ちました。

理由は簡単です。豊臣秀吉は変な性格だったようだ、これにつきます。学校教育では無表情の秀吉の写真が小さく出ているぐらいでしょう。或いはホトトギスのたとえ話をするぐらいだったと思います。ですが、もし、学校時代に「秀吉は変わり者だった」というテーマがあればぐいぐい引き込まれていったでしょう。

トリガーという言葉があります。「引き金」です。子供はさまざまなものに興味を持ちます。そして、なぜ、なぜ、なぜを繰り返します。つまり、興味があるのです。その興味の扉をもっと開かせる、目からうろこの事実を教える、これも教育だと思うのです。

人は一人として同じ性格ではありません。とすれば人が興味を持つものは全て違います。私が教育者ならば例えば先述の歴史上の三名ならばこの三名から一人をピックし、調べ、レポートし発表せよ、という形ではないでしょうか?そして、発表の際、クラスメートで意見を戦わせる。これは相手の内容を知らないと討論になりません。ですから自然に拡大研究に繋がると思うのです。

もう一例。私が英語を喋ることができるようになったのは19歳の時にイギリスに行った経験からです。小学校5年生ぐらいから英語の塾に行き、学校時代は英語が得意だったと思います。しかし、イギリスに行ったときそれがほとんど役に立たなかったことのショックが大きすぎました。試験や入試でいくら素晴らしい点を取っても身についていないという気づきから英語を一生懸命勉強したのです。

日本に欠けているものは考える力とそのプレゼンテーションです。日本では入試というハードルを理由に答えは一つしかない、という教育です。四択で答えは一つです。こちらでは極端な話、全てが正解という考え方をします。もちろん、答えが一つしかないものが多いと思います。ですが、私はその答えにたどり着くまでのプロセスをもっと大事にした教育になってもらえればと思っております。

この新学習指導要綱は少なくとも今後数十年間は大きくは変わらないでしょう。つまり、これが我々の未来のベースになってくるのです。これに肝に銘じ、踏み出しに留意していただければと思います。

今日はこのぐらいにしておきましょうか?
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ではまた明日。

スマホの落とし穴4

スマホが世界中で急速に普及してきています。今、普通の携帯を持っている人の契約が暫時切れ次第、スマホへの転換が進んでいくと思います。(海外での携帯は2-3年契約が主流です)

アップルのスティーブジョブズはもともとパソコンを作っておきながら今や、パソコンは不要なものである、という破壊と創造を主張しました。創造の部分はスマホやタブレット型の端末ということでしょう。しかし天才ジョブズですらここまで世の中を変えることを想像していたでしょうか?

携帯ですら便利すぎたのにスマホになると正直、怖くなるときがあります。ですから、僕もスマホを持っていますが、わざとその使い方に制限をかけています。例えば、非常に良く使う電話番号は携帯にメモリーさせません。なぜなら番号を見ればおのずとわかりますし、他の電話からかける時に重要番号を記憶できなくなります。

位置情報もよほどでないと使いません。車にもナビがついていますが、まず見ません。道を覚えなくなるからです。

スケジュール。僕は事務所で一発管理です。スマホには入れません。なぜなら、目先の予定ぐらい記憶できるキャパは僕の脳みそに残っていますから。

Eメール。よほど長時間事務所から不在する以外はメールは見ません。メールに追いかけられるのがいやだからです。逆に言うとそこまで緊急の用事なら電話がかかってくるはずです。

人類がスマホによって持てる能力を発揮できなくなる可能性にはもっと留意を計るべきです。僕らが子供の頃、テレビの見すぎは良くないということが盛んに取り上げていました。長時間見ることで目が悪くなる、頭が悪くなる、勉強しなくなる、本を読まなくなる、(番組の内容から)程度が低くなる、子供本来の発育に悪影響などなど。

今、携帯やスマホの使いすぎに気をつけましょうという標語を聞いたことがあるでしょうか?大人なら一定の分別がありますが、青少年の尋常ではない使用頻度を聞くたびに何故、社会は指摘しなくなったのだろう、と不思議に思います。

携帯はもともと電話であって、メール機能はそのあとに付けられました。が、今、携帯で電話をする頻度は大いに下がったでしょう。なぜか?さまざまな理由があると思いますが、一つに会話が怖い、と思う人が増えてきていないでしょうか?だから、メールでしかやり取りできない、と。

あと10年もすると携帯世代が世の中の圧倒的な中心世代になります。そのとき、人間の会話能力が極度に劣り、スケジュールの記憶はなく、自分の家の電話番号すらわからない、そんな恐ろしい時代が来るかもしれません。

スマホ時代であるからこそ、スマホにコントロールされるのではなく、スマホと上手に生きていく、そういう賢さを身につける必要があります。また、スマホの販売会社も社会的影響度を考え、そのあたりの警告は出すべきだと思います。

タバコ会社だって消費者金融だって自社の宣伝に必ず警告が入っています。誰でも受け入れられるスマホだからと安心していると大きな落とし穴が待っている気がします。

今日はこのぐらいにしておきましょう。

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ではまた明日。
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