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1: 世界@名無史さん 2005/03/22(火) 19:56:15 0
好きなんですが








541: 世界@名無史さん 2006/11/10(金) 09:11:32 0
財政逼迫の最大の原因はアメリカ独立戦争支援だそうですね。
ベンジャミン・フランクリンが支援を求め(ついでに女性も求め)パリやヴェルサイユに来たりした。
フランス海軍の仇敵イギリスを叩こうとしたのはルイ16世(というかヴェルジェンヌ)の外交上の判断としては当然であり問題ない。が結果として大赤字。しかもこの戦争参戦で共和制の思想が喧伝されたものだから革命の種ともなった…。
バカなだけの王様では決して無いことは既におフランスでは定着したようです。

542: 世界@名無史さん 2006/11/10(金) 11:04:17 0
革命の要因になったのは
・アメリカ独立戦争への支援
の他に
・知識人たちで百科全書の編集を行った
これもデカイのではないでしょうか。
万物を解明・解説しようとするこの試みはフランス王家の礎である王権神授説も検証の対象となり知識層からまず王家の権威に敬意を払わなくなってしまった。

543: 世界@名無史さん 2006/11/10(金) 22:08:45 0
ヴォルテールのせいということで。

544: 世界@名無史さん 2006/11/10(金) 23:58:31 0
ヴォルテールに
「あの子がたくさん本を買って勉強できるように」と支援したのはルイ15世の愛妾のポンパドール夫人。

545: 世界@名無史さん 2006/11/11(土) 08:28:28 0
ポンパドール夫人がその名を貰い宮廷入りしたのが1745年、1734年「哲学書簡」で逮捕状が出て以来愛人シャトレ侯夫人の館に潜伏していたヴォルテールは当時51歳。

546: 世界@名無史さん 2006/11/11(土) 13:28:15 0
ポンパドールじゃなくてマントノン夫人だったかも。

547: 世界@名無史さん 2006/11/11(土) 21:36:53 0
マントノン夫人だったらありうるかも知れませんね。揚げ足取りのような書き込みとなり失礼致しました。
百科全書派にとり、政府最大の功労者は何と言ってもルイ15世のもと出版統制局長だったマルゼルブ氏です。何しろこうした出版物を取り締まるべき立場なのに逆にその意義を認め、積極的に支援。なぜかあのルソーの面倒も長年見続けた。
そのかれが晩年、皆しり込みする中ルイ16世裁判の弁護人を買って出た…。
そして翌年、一家もろとも処刑された。
生き残った孫娘の子がアレクシス・ド・トクヴィル。
彼らの清廉潔白ぶりを見ると、フランスという国をいささか見直してしまう。

548: 世界@名無史さん 2006/11/12(日) 00:29:45 0
>>547
ヴォルテールを援助した貴婦人が誰だったか、手元に本がないのにうろ覚えの知識で書いてしまってすみません。
知識も禄にないのに口はばったいですが、貴族・裕福なブルジョアたちのサロン文化が後革命家になった人々の生活を支え、革命の温床になったのではないか、と自分は思ってます。

>百科全書派にとり、政府最大の功労者は何と言ってもルイ15世のもと出版統制局長だったマルゼルブ氏です。何しろこうした出版物を取り締まるべき立場なのに逆にその意義を認め、積極的に支援。なぜかあのルソーの面倒も長年見続けた。
そのかれが晩年、皆しり込みする中ルイ16世裁判の弁護人を買って出た…。
そして翌年、一家もろとも処刑された。

自分が保護し育てた卵から怪獣が飛び出し誰の手にも負えない存在になってしまった、その責任感が彼に革命家に危険な国王の弁護、という仕事を自己犠牲覚悟で引き受けさせたのかもしれませんね。
しかし、本人はともかく一家全員処刑とは、共産主義は粛清が好きですね。

549: 世界@名無史さん 2006/11/12(日) 08:36:14 0
>>548
いや実はワテもうろ覚えですねん。うろ覚えスレということで…。
ただ革命当時のあの恐怖政治の原理は当時まだなかった「共産主義」ではありません。
(社会主義ですらない)戦後ロベスピエール=共産主義とかいう論議があったようですが今は否定が大勢。むしろ対外戦争のさなか「国民の敵」を粛清するという、この革命で誕生した「ナショナリズム」「ポピュリズム」の行き着いた結果といえるのでは?

550: 世界@名無史さん 2006/11/12(日) 08:47:12 0
あ~また揚げ足ですね。ごめんなさい。フランス革命は「最高理性」を奉じたはずなのに、自身も理性を失い、後世の人間からも理性を奪う魔性のテーマですね。反省…。個人的にはアンシャンレジームに興味があります。なぜか。


551: 世界@名無史さん 2006/11/12(日) 23:26:40 0
>>549
勉強になります。恐怖政治の時代の革命委員会の連中は共産主義という概念がまだなかった、「共産主義」という言葉ができたのはフランス革命後しばらくしてから、でしょうか?誰がこの言葉を作ったのでしょうね。原語とが日本語訳の「共産主義」そのままのなかも興味あります。

>フランス革命は「最高理性」を奉じたはずなのに、

タリアン夫人も乳首丸見えのドレスでこの「最高理性」の女神を演じたそうですが清廉の士と呼ばれたロベスピエールが、よくもまあ女性が半裸の薄着でいわば生き神様やってるのを許したと思いますね。
当時のパリ市民の日記に人々は教会へも通えなくなり、モラルは低下の一途を辿りなぜかギリシャ=ローマの神話の風俗がもてはやされ、頭に月桂樹載せた「最高理性の女神」様までいたそうですが。

555: 世界@名無史さん 2006/11/13(月) 10:00:20 0
>>551
共産主義=マルクス・レーニン主義とすれば1848年2月の「共産党宣言」発刊時。
広い意味で=財産共有制を指すとすれば、モルガンの「古代社会」(だっけ?)の原始共産制、初期キリスト教徒集団内、トマス・モアの「ユートピア」も始まりといえるかも。
フランス革命もアメリカ独立戦争も、目指すところは共産主義ではなく古代ギリシア・ローマ共和政的民主主義政体。そしてフランスでは特に教会否定に力が注がれた。
あの「最高存在祭典」も非カトリック・ローマ共和政万歳をイメージしたらああなっちまいました、という珍イベント。
パリ市の「コミューン」というのも共産主義的自治組織の意味ではなく、中世以来の城壁で囲まれた「パリ市」の市民による自治組織として伝統的なもの。それが革命で恐怖政治の手先になってしまったのだが…。
ともかくロベスピエールの「恐怖政治」は独裁的「統制経済」でしかない。

556: 世界@名無史さん 2006/11/13(月) 11:28:20 0
「パンテオン=汎神殿」、「シャン・ド・マルス=マルスの野=古代ローマの軍団の集結、閲兵の場所」といった名称もローマ共和政がお手本。ダヴィッドなどの絵画の「新古典主義」も古典=ギリシャ・ローマに帰ろうという意味というように。(アメリカも同様で上院がセネター=ローマ元老院セナートゥスのつもり)。
そしてフランスの議会は直接的には当初イギリスの議会政治が目標だった。
悲しいのはルイ16世とて当時の貴族・知識人の常として、これらの政治制度の知識を十分持ち、理解していたはずということ。(ラテン語でタキトゥス、キケロを読み、英語でヒュ-ムの「英国史」を読み、イギリス議会月例議事録まで取り寄せていた)。
なぜ英国式立憲君主制をこっそり否定(1791年カルロス4世あての秘密書簡)なんかしたのか…。多分「教会」なんだよね~。こだわりの根本は。

557: 世界@名無史さん 2006/11/13(月) 12:52:19 0
ルイ16世はイエズス会の影響を絶大に受けたカトリック教徒ってのも影響してたんでしょうね。イエズス会はミッションの尖兵として殉教死覚悟で北米・南米大陸にインド、中国、東洋の島国日本にも乗り込んでくる語弊がありますがカトリック過激派。
カトリック大国フランスの中でイエズス会が力を持ち宮廷に出入りして王にもモノ申せるようになったのはやっぱりルイ14世治下からでしょうか。
一族から法王もだしたカトリーヌ・ド・メディチ
ナントの勅令を発したアンリ4世治下ではそこまでイエズス会の影響力っていうのはなかったように思います。

558: 世界@名無史さん 2006/11/13(月) 16:06:57 0
宮廷内にドヴォ=信心党と呼ばれる一派がいて(「王は踊る」にも出てくる)ルイ15世時代には王妃(レクザンスカ)や王太子夫妻、アデライード以下王の娘たちに多大な影響力を持っていた…。
そして父王太子がルイ16世に教育係としてつけ、父の死後は父と思えなんか言っていたのがそのドヴォの一員にして人格高潔とはいいがたいド・ラ・ヴォーギョン公ですから。
絶対主義国家とは相容れないイエズス会はフランス以外でも18世紀には(その財産もねらわれ)イタリアやオーストリアでも禁止されていたのに、なぜか宮廷内にはシンパ。

559: 世界@名無史さん 2006/11/14(火) 02:13:55 0
>ルイ15世時代には王妃(レクザンスカ)や王太子夫妻、アデライード以下王の娘たちに多大な影響力を持っていた…。

強国だったフランス国王の王妃にふさわしくないと言われ”身分違いの結婚”ではないかと言われた王妃 廃位された元・ポーランド選挙公(王)の娘のマリー・レグザンスカにしたら華美で欧州の名家と血縁の名門フランス貴族たちが支配する宮廷で馬鹿にされない唯一の手段が信仰だったのかも。財産も門閥も夫の国王の愛情さえない王妃にとっては唯一のプライドのよりどころが信仰。それが息子の皇太子や娘の王女たちに波及してしまったのかもですね。
特に息子の皇太子は父国王の愛人のポンパドールもデュバリーも大嫌いで自分は愛妾の一人も持たなかった堅物だったそうですから。

560: 世界@名無史さん 2006/11/14(火) 09:09:44 0
ルイ15世の唯一の息子、王太子ルイ・フェルディナンド。
この人の存在を抜いてのちのルイ16世の悲劇的失敗人生は語れません。
幼少時より傲慢不遜。生まれながらの国王(夭折した長男ブルゴーニュ公とよく似た性格)
姉妹たちとともに、母国の後ろ盾の無い母の味方となりドヴォの中心人物となる。
16歳でスペインの王女と結婚(その披露宴の舞踏会で父=15世はツゲの木に化けのちのポンパドール夫人をみそめた。バカ親父というしかない)
王太子は王女に一目ぼれしたものの一年後産褥で失う。
生まれた女の子もその後死亡。自暴自棄となり一日寝て過ごす王太子(父譲りの鬱傾向)
18歳でこんどはザクセン侯の娘、マリ・ジョゼファ・ド・サックスと再婚。
この控えめで地味で平凡だが教養はなかなかの少女がルイ16世他兄弟姉妹の母。
ルイは兄弟中最もこの母に似ていたそうだ。

561: 世界@名無史さん 2006/11/14(火) 09:16:34 0
間違えた。ツゲではなくイチイの木に化けた。
創元社刊「ヴェルサイユ宮殿の歴史」86pにそのおバカな仮装の絵があり、その右ページには『ヴォルテールが「イチイこそこんにちわたしたちが敬うべき木です」とポンパドール夫人を賞賛した』(同書87pより引用)とありますね。

567: 世界@名無史さん 2006/11/16(木) 02:03:52 0
ルイ16世陛下はルイ・シャルルの出生について例の日記に王子の誕生日に「何もなし」と記したりして無関心っぽく王子の父親が誰かということに疑問をもたれていたとも言われてますが本当のところどうだったのでしょうね。

568: 世界@名無史さん 2006/11/16(木) 09:27:08 0
かれの日記はとにかく公的予定と狩猟、お風呂と服薬、以上終わり、というしろものですからあまり気になされないほうが…。タンプル獄内で裁判当日も時間が許す限りルイ・シャルルの遊び相手をしたり、引き離されたあとはしばらく自室でひっそり悲嘆に暮れていた(幽囚記)。
また遺書で何度も王位継承者として王太子に対し忠告を書き残している。
その一方チュイルリーにて、ある日王太子を見て「この子誰?」と(トゥルゼル夫人談)
何日も誰とも口を利かないときもあったそうです。
ルイはどうも時期によってひどい鬱を患っていたような気がします。
(最初の王太子死亡直前も命を救うためになんら有効な手立てをとらなかった)。
たびたびの危機に瀕したときの突然の判断力喪失、忘然自失状態。周囲からの乖離。
やはり幼少時に兄ブルゴーニュ侯の死の苦悶、父に嫌われてその後父母死亡…といった精神的外傷がいつまでも尾を引いていたのかも。
そしてタンプル獄から処刑にいたる時期は、そうしたトラウマが完全に吹っ切れて家族(特に奥さん)からも愛され、そして…堂々と死ぬことを選んでしまった。

570: 世界@名無史さん 2006/11/16(木) 11:46:33 0
>>568
フランス王の日記ですから、後日第三者の目に触れることは当たり前だったので自分の感情について書き残さなかったのかもしれませんね。 フェルゼン伯も日記を私的なもの公的なものと2種類つけ晩年私的な日記は自ら処分したようですし。
私的な日記に何が書かれていたのか読んでみたいと思うのは私だけではないはずw

華麗な宮廷生活から一転タンプルの囚人になった環境の激変で自分も家族の命も知れぬ身であれば、ルイ16世でなくても鬱になりそうですがやさしすぎる人にしばしば見られる思い切りの悪さが災いしたのかと。
人としてはやさしい方だったんでしょうが、国難時の国王としては致命的です。
後ナポレオンも指摘してますが、ティリュリーに移された時に大砲の2,3発も撃ってれば、形成は逆転し革命は起きなかっただろうといわれています。
ベルサイユ時代に、メルシー伯はオーストリーへの手紙に
「王はしばしば大食され、その後は頭脳が停止したような状態である」
とかなり手厳しく指摘し、王に思考力がないことを皮肉ってますが鈍に見える人ではあったんだと思います。

571: 世界@名無史さん 2006/11/16(木) 13:34:24 0
↑ルイ16世=馬鹿説の源は主にこれらメルシー、アントワネットさんなどオーストリア関係者の報告。母に対して夫がバカである、というほうが何かと都合がよかったのでしょう。フランス側の文書の多くは革命で失われておりますし。
とはいえヴェルジェンヌやブルトゥイユとルイ16世との外交文書の研究なども進み、今では少なくともフランスやイギリスの研究者で、かれを(日本で言われるほどに)バカとみなすということはなくなったと思う。なぜか日本人にはフェルゼン&アントワネット伝説とナポレオン伝説ばっかり人気…口惜しい(泣)…。

573: 世界@名無史さん 2006/11/16(木) 19:47:23 0
>母に対して夫がバカである、というほうが何かと都合がよかったのでしょう。

まぁ、かつての敵国同士ですから
娘の夫のフランス国王が英邁だとあのテレジアさんですから謀略をめぐらされたかもしれませんから、ルイ16世=暗愚説を流すことでアントワネットは夫を守った、んでしょう。
たぶん、彼女は意識してなかったと思いますが。

574: 世界@名無史さん 2006/11/17(金) 09:11:28 0
ルイ16世が親オーストリア勢(含ショワズール)に実際以下にこき下ろされ続けたのはルイ15世にロレーヌ取られた腹いせ…かも?とも言われてます。
(ロレーヌの貴族出身のショワズール公は二人の政略結婚を段取る一方、ルイ・オーギュストを「王位継承者の地位が転がり込んだだけの愚か者」と痛烈にこき下ろしていた。)
フランスのルイ16世研究者はアントワネットさんはフランス王家に放たれた「刺客」みたいに言っている。(笑)
ルイ16世はずーっと彼女の政治容喙や大衆的不人気に足を取られ続けたのですから女帝が娘を使ってフランスをコントロールしようとしたというのも(エスコー河出兵の件など)
あながち否定も出来ない話。(クリストフ「…秘密の往復書簡」、カストロ「マリ=アントワネット」)

578: 世界@名無史さん 2006/11/18(土) 12:29:23 0
ヴェルジェンヌ死去まではおおむね内政・外交順調。特に妻には口は挟ませなかった。
(ド・ギーヌのためにチュルゴー、マルゼルブ更迭と、エスコー河の一件以外は)
1786年以降徐々に妻に依存、革命勃発以降はまわりに人がなく妻への依存度がさらにあがり、結果的に彼の本来の意思(穏健な改革)とは反対方向(強硬姿勢)へ傾斜。
1790年(?)の宣誓忌避僧排除の法律で一気に反革命になってしまった。

579: 世界@名無史さん 2006/11/18(土) 20:41:44 0
>1790年(?)の宣誓忌避僧排除の法律

宣誓忌避僧とはバチカンよりも共和国(?)に忠誠を誓う僧侶のことでは?
バチカンとフランスのカトリック教会・修道院の紐帯を断つことで国政へのバチカンの関与を排除し、教会(僧侶)→バチカンへの金の流れを断ち切りそれまで無税だった聖職者にも税金の義務を負わせる目的だったと思うけど違う?
アントワネットは処刑される前に懺悔聴聞層が宣誓した僧侶だったので彼に懺悔を拒んだという逸話があるので、アントワネット以上に熱心なカトリック教徒のルイ16世が宣誓忌避僧排除の法律を容認したとは思えないんだけど。
宣誓忌避しなかった僧排除の法律を容認したのならわかるけど。

580: 世界@名無史さん 2006/11/19(日) 09:13:49 0
>>578ですが「宣誓」とは1790年7月の「聖職者民事基本法」に加え、議会が聖職者が「憲法への忠誠を誓う」ことを決定したため、その結果として「憲法への忠誠を誓うこと」を忌避した僧は非合法的存在となった。
そのため父のドヴォ的教育のためローマンカトリックの信仰に忠実だったルイ16世の反革命の心情が決定的になった、と言いたかったんです。

宣誓忌避僧=フランス国憲法への忠誠を誓うことを忌避(嫌がって避けた)僧ということです。

581: 世界@名無史さん 2006/11/22(水) 02:35:38 0
>そのため父のドヴォ的教育のためローマンカトリックの信仰に忠実だったルイ16世の反革命の心情が決定的になった

王権を神から授けられたフランス国王として、宣誓僧侶など認めなかったのは当然です。
フランスの地方の農民たちでさえ宣誓した僧侶たちを異教徒と呼び彼ら宣誓僧のミサを受けるのを拒み、命がけで宣誓忌避僧たちのために戦ったのですから。

582: 世界@名無史さん 2006/11/22(水) 13:49:15 0
ガリカニズム、つまり国内の教会の頂点はヴァチカンではなくフランス国王だ、というフランス絶対主義の基本理念があります。
(そのため相対的にこの時代、フランス教会のヴァチカンとの主従関係は薄れていた)
18世紀はどこの国の教会もイエズス会とそのバックにいるヴァチカンとは一線を画していた。宣誓僧受け入れを、もしルイ15世ならいともたやすく受け入れたかも。
ついでにいえば、ルイ16世の改革の足を決定的に引っ張ったパリ高等法院の皆さんは「ジャンセニスト」=カルヴァン派のような運命予定説を唱える「異端」的カトリックの一派とみなされていた。が、ドヴォもジャンセニストも意外に似たような…カルト的信仰者
貴族集団だったような気もしますね。
ルイ16世は百科全書派やマルゼルブ氏のことさえも無神論者と思っていたらしい。
こと宗教・信仰に関した話になるとカーッと頭に血が上ったのか??
お父さん譲りのポリシー(ドヴォ的信仰)を衝かれるとついカッとなるなんて…
世襲権力者の悲しさ、なのかも。
いや、ルイ16世信奉者ですけれども、この点についてはどうかなと。

583: 世界@名無史さん 2006/11/22(水) 21:44:49 0
>ルイ16世の改革の足を決定的に引っ張ったパリ高等法院の皆さんは「ジャンセニスト」=カルヴァン派のような運命予定説を唱える「異端」的カトリックの一派とみなされていた

高等法院はかのサン・バルテミーの虐殺を全力で静止しようとして逆に悪魔だと告発されて火刑になってしまった人がいたりして絶対王政やカトリックの宗教的権威にも必要とされば逆らうのが伝統で権力者に逆らう常として刑死も覚悟ですから、運命予定説に傾いたのかもしれませんね。

>ルイ16世は百科全書派やマルゼルブ氏のことさえも無神論者と思っていたらしい。

でしょうねぇ。この世の万物を解き明かすのを目的とした百科全書派は聖書の奇跡にも疑問を投げかけるものですから、ガチガチのカトリック信者には異端だったでしょう。
反革命というよりむしろ己が信仰に殉じてギロチンにかかるルイ16世はもしかしたら殉教者のような高揚感を感じていたのかもしれないですね。

585: 世界@名無史さん 2006/11/25(土) 09:32:46 0
>>583
殉教者の高揚感…ミシュレが痛烈に皮肉っておりますね。聖人を気取ったとか。
でも「幽囚記」を読めば、生身の人間として相当煩悶していたように思えます。あえて宗教的な意味を見出すことによって、自らの運命を受け入れようとしたのでは。
決して頑迷な信仰にしがみついていたわけではないと思いますし、何よりそうした教会勢力とか世襲帯剣貴族の特権には即位時からルイ16世は懐疑的で、それゆえテュルゴーやマルゼルブを大臣として登用(でも、短期間で更迭…奥さんを利用したド・ギーヌの陰謀)
したのですから。
かれがドヴォ的信仰に回帰したのは、兄と同じ名を付け、同じように亡くしてしまった王太子の死からかな、と感じますが。

586: 世界@名無史さん 2006/11/25(土) 18:08:28 0
ルイ16世が信心深いので、当時の貴族連中は冷笑していたと言うのは事実でしょうか?

588: 世界@名無史さん 2006/11/25(土) 23:13:47 0
>>586
ベルサイユ宮殿内のミサでデカイ声で聖歌を歌うルイ16世を弟2人が「馬鹿」と嘲笑してたらしいです。

590: 世界@名無史さん 2006/11/26(日) 00:39:40 0
>>588
これは信心よりも「かっこ悪さ」を笑っているみたいですね。でもあのうっとうしい弟二人が王位についたのは悔しいです。

ギロチンにかかる貴族たちは堂々としていたそうですが、私が同じ目にあったら絶対騒ぎ立てると思いますよ。あの頃の貴族連中は嫌いですが、これは評価できる。

592: 世界@名無史さん 2006/11/26(日) 00:57:35 0
>>590
貴族で泣き喚き命乞いをして絶叫して死んだ人がいます。
かのデュ・バリー夫人です。
かつての国王の愛妾のギロチンを前にしての醜態に見物のパリ市民は大はしゃぎして喜んで見物していましたが、彼女の鬼気迫るギロチンへの恐怖=生への執着に最後は怖くなって、しいんとしてしまったそうです。
英国に亡命していたデュ・バリ夫人がこの時期のフランスに帰ってきたのはルイ15世からの贈り物の宝石が盗まれたから、というのは表向きの理由で革命の火消しを望んだ英国側からの密使としてフランスに帰ってきた、という説と危機管理能力ゼロで盗まれた宝石を取り返したい一心で帰国した説があります。
ルイ16世刑死を聞いて、英国で真っ先に喪服を着たのは彼女でしたが。

595: 世界@名無史さん 2006/11/26(日) 21:00:11 0
>>592
デュ・バリー夫人は成り上がりの平民女なんでは。
ブルジュア出身のポンパドール夫人よりさらに低い階層の出身。

587: 世界@名無史さん 2006/11/25(土) 23:12:29 0
ロベスピエールの恐怖政治の間中、ギロチンは休む間もなく稼動し続け「貴族だから」って理由だけで老若男女が死刑になったのですがル・ブラン夫人は回想で
「彼ら(貴族・王族)が威厳を持って自らの死に臨まず人間らしく恐怖に泣き叫んでいたら恐怖政治の寿命はもっと短かったでしょう」と言ってます。
平民の昨日今日議員になったような成り上がりから死刑宣告された王侯貴族は皆ルイ16世のような殉教者の心情だったのではないでしょうか。
革命の勝利に酔って死刑宣告を続ける成り上がりたちに怒りを覚えるよりも憐れむことで王侯貴族の矜持を保ち、自らの刑死を殉教死のようにとらえることでギロチンへの恐怖を克服しようとした。
ルイ16世の妹のエリザベートは一緒に刑場に轢かれていく貴婦人たちを慰め励まし「天にまします我らの神に、私たちのこの小さな命を捧げましょう」と微笑んでいたとか。
貴婦人たちは、ギロチン台に上る前にエリザベート前で膝を折って挨拶しいよいよエリザベートの番が来た時にも彼女の口元からは微笑みは消えなかったとか。

593: 世界@名無史さん 2006/11/26(日) 01:13:56 0
>あの頃の貴族連中は嫌いですが

私なあの頃の革命家たちの方がずっと嫌いです。
自由・平等・博愛を掲げつつやったことは恐怖政治。
重労働の農民のたった一つと言っていい心の安らぎだった信仰まで奪ったのは許せません。

594: 世界@名無史さん 2006/11/26(日) 10:57:37 0
>>593
当時の革命家は愛国者も気取っていた。敵国が攻めてくる前に裏切り者を倒せ、というのが彼らの言い分だった。自由・平等・博愛のつぎに来たのがナショナリズムの誕生だったということ。だから革命前から嫌われていた敵国出身の王妃や、国際人だった貴族・第三身分富裕層が攻撃された。王の命取りになったのも外国との交信。大革命は貴族対都市下層民というふうにはとても単純化出来ない複雑な事件。
また地方の農民でもかつて弾圧されたユグノーの多かった地域などもあり、すべてが保守的なカトリックとは一概に言えないのでは。
恐怖政治の実際の担い手は下級役人、元司祭、中産層以下の市民などなど。
どさくさまぎれに革命とは何の関係もない殺人が公然と行われたということか。
そして革命収束後…一番実利を得たのはかつての小作農。自作農となり何事もなかったようにまた教会に通う日常…。

引用元: ・ルイ16世万歳!!



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