514oiGQD2iL._SL500_ (12)



1: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/05(日) 13:11:21
なかったので建ててみた。まあキョウイがずば抜けてるんだけど。

蜀滅亡を語るとどうしてもショウエン、ヒイ時代が重要になってくると思うので。
キョウイの比べて地味な二人だけど。ヒイって結構裏がありそうな人物なんだよな。
正史を見てると。








9: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/07(火) 00:22:39
益州派閥と涼州派閥ってのは実際あったのかね。
考察系サイトとかだと派閥争いみたいのあったらしいが
出身地で派閥組むかな?

12: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/07(火) 02:09:20
>>9
無かったと思う。蜀内部で何度か派閥争いらしい事件は何度か起きてるけど、当事者の両方が荊州人だったり、両陣営に荊州人と益州人が混じったりしてるから。
あと、蜀の構成員は荊州人と益州人だけじゃなく、後漢末の混乱から逃れるために益州に逃げてきた中原の人間もだいぶいる。

13: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/07(火) 12:08:23
>>9
漢中幕府派と蜀中央政府という区分けの方がいいだろう
これが出来てくのは劉備亡き後の遠征のために諸葛亮が権力構築してから
逆に言うと劉備生前は派閥なんてなかった

16: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/07(火) 16:15:32
>>13
その区分けだと、誰が漢中幕府派のボスで、誰が中央政府派のボスなんだ?
蒋エンや費イは両方に影響力あったし、ずっと中央にいた董允も特に漢中と対立した形跡は無いんだが。

34: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/09(木) 18:10:45
>>16
明確な対立構造が出来るのは姜維の頃になってからだろう
それまでは漢中派が中央をグラップリングしてたが権力構造としては本来上位である筈の中央を漢中が抑え込み、皇帝→漢中→中央政府という二重構造で政権が運営されてたことは間違いがない

36: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/09(木) 21:22:28
>>34
漢中と成都の対立構造ができるのは、姜維の頃になってすぐじゃないよ。
姜維は費イの漢中と成都の両方に持つ権力を引き継いで、費イの成都における代理人陳祗ともうまくやってる。
陳祗と劉禅の蜜月関係が続いてる間、姜維は成都の劉禅・陳祗と漢中の軍隊の両方の支持を得て、毎年出兵を続けてる。

これが崩れるのは陳祗が死んで黄皓が台頭し、尚書令が姜維の思い通りにならない董蕨になってから。
やがて、諸葛瞻と董蕨が平尚書事に、樊建が尚書令になって、黄皓と結託して姜維下ろしに動き出して、成都と漢中は決裂する。

107: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/27(月) 16:47:40
姜維はすごく優秀なんだろうけど、蜀における立場が悪すぎだよね。
戦功立ててなんぼになっちゃうのは仕方ない気がする。

地元の名士でもなく先主以来の来歴も無く元は魏将でしたって辛いなあ。

108: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/27(月) 17:30:04
でも、姜維は戦功がまったく無いのに、蜀に仕えて6年で輔漢将軍まで昇進して、平襄侯に封じられてる。
これは趙雲が降格される前より高い地位。初めて戦功らしい戦功をたてるのは、その4年後。

110: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/27(月) 20:09:32
>>108
正史に書かれてないだけでなにか戦功あったんじゃね。

111: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/27(月) 20:29:53
>>110
蜀に仕えてからの姜維の官職から推測すると、軍政畑と思われるから、戦功よりは実務能力を見込まれて昇進したんじゃないかと思われ。
33歳で軍首脳の一角の輔漢将軍になれるほどの人間が、そこまで昇進する前にどんな戦功あったかまったく分からんってのは不自然。

109: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/27(月) 17:45:08
記すほどでもない地味な仕事をこなしてたんだろうけど、明らかに始めから出世コースに乗ってるんだよな。
蜀が外敵に対して極端にアグレッシブなのは劉備以来の伝統だけど、一旦規模を縮小した北伐を再び大々的にやるようになったのは姜維の志向が大きいでしょ。
窮地に陥った時、後ろ盾や調停勢力が無かったのは出身のせいもあるだろうけど。

112: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/28(火) 00:58:07
魏からの降将というのもありそう>出世コース
我が国へ降れば良い待遇もらえますよアピールとかさ。

113: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/28(火) 01:24:21
>>112
降伏したばかりの時に将軍に任命されて、亭侯の爵位をもらってるから、郡の参軍事程度の人間には過ぎた厚遇だろ。
普通ならこのまま飼い殺しにしても十分宣伝になるけど、目立った功績が無いうちから出世し続けて、帰還する北伐軍を統率して成都に入るという大役を担ったんだから、相当能力を評価されてたんだろう。

116: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/29(水) 02:58:11
蜀にとって重要なのは、やはり有能な政治家だったのかな?
軍事じゃ、魏がガチで来たら勝ち目は無い訳だし
生き残るためには、内政と外交でギリギリのバランスを保つしか無かった気が

117: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/29(水) 07:59:57
なんか蜀って後半は政治家ばかりで軍事が出来る人が少なかった印象。
キョウイぐらいか。あとはエンウとかもいるけど。劉備時代に比べると少ないよな。

169: 無名武将@お腹せっぷく 2011/01/01(土) 23:35:22
涼州ってさ三国志のゲームとかだと左上のたいしたことない地域だけど、あれずっと左上の向こうぐらいまで影響力あるわけでしょ?


178: 無名武将@お腹せっぷく 2011/01/06(木) 10:55:23
>>169
ゲームでは世界の隅っこ、なんで魏に反抗しようと思ったかも理解できない
地味な方の公孫氏はゲームよりは影響範囲広かった。朝鮮半島の少なくとも北西部まで支配してたとみていいだろう。

179: 無名武将@お腹せっぷく 2011/01/06(木) 23:49:40
>>178
しかも海洋貿易で呉とも繋がってたんだろ?
そういう意味で言ったら、呉が手を伸ばした範囲も相当広かったはずだな

180: 無名武将@お腹せっぷく 2011/01/07(金) 00:01:11
>>178
憶測するまでもなく、公孫度の時代に朝鮮半島北部の楽浪と帯方を手に入れたとバッチリ公孫度伝に書いてある

170: 無名武将@お腹せっぷく 2011/01/01(土) 23:53:52
魏の時代は敦煌ぐらいまでしか支配を受け入れてないけど、実質的には関中より西は半分別天地。

174: 無名武将@お腹せっぷく 2011/01/04(火) 21:15:01
三国時代なら、并州らへんの鮮卑が西南へ突っ切って、雍州を攻撃したりしてる

177: 無名武将@お腹せっぷく 2011/01/05(水) 03:02:28
>>174
まぁ漢や魏の統治が及んでないってだけで人が通れない地域ってわけじゃない
からな。

182: 無名武将@お腹せっぷく 2011/01/10(月) 22:13:03
実際アレだけ広いんだから成都陥落なんてありえないよなあ。どれだけ怠けてたんだ?
って感じ。

183: 無名武将@お腹せっぷく 2011/01/10(月) 22:39:16
まともな部隊を全部剣閣に送っちゃって、残りも鄧艾に負けたから、あとは成都へ一直線だろ。
しかも、成都には食料がほとんど無い。真面目にやったら兵や食料が湧いてくるわけでもないし。

184: 無名武将@お腹せっぷく 2011/01/11(火) 01:11:50
蜀の勢力範囲に対して、実質的に使える土地は半分以下じゃないのか?
しかも兵士の最大動員数も全盛期で約100万、末期はさらに少ないはずだし、常にその数を動員出来るはずもなく・・・・・・
この時代、ましてや蜀みたいな峻険な土地では、面では無く点と線で戦局を見る

185: 無名武将@お腹せっぷく 2011/01/11(火) 14:42:02
南方も馬忠や張嶷が抑えてれば資源供給するし兵も出せたかもしれないが、二人が死んだあとはどうなんだろう。

186: 無名武将@お腹せっぷく 2011/01/11(火) 15:56:05
霍弋がいるじゃん。
蜀が滅亡した後はそのまま晋の南中の都督に横滑りして、交州に攻め込んで呉から奪って、部下を刺史に任命するほどの勢力を誇ってたから、その気になったら結構やれたかもしれない。

187: 無名武将@お腹せっぷく 2011/01/12(水) 18:58:47
末期ってなんで豪傑少なくなるんだろうか

初期って名も無い農民や山賊にもめちゃくちゃ強いのがいて曹操や劉備は取り立てている
何時の時代にも元々強い人はいるだろうに、末期にはこれだという豪傑が出て来ない

189: 無名武将@お腹せっぷく 2011/01/12(水) 19:50:36
武勇達者な人間というのは、中小群雄がひしめいていた時期に群雄の直下で百とか千とかいう規模で活躍し、勢力伸張や鞍替えに伴って昇進していった人間。
国家が成立すれば、群雄ではなく皇帝の直下の軍人とは、数万規模の軍を率いる都督となる。
小部隊の長と大軍の都督では、当然必要な能力も出身も若い頃の経歴も異なる。

武勇達者な人間は相変わらず百や千の部隊を率いて活躍していたはずだが、彼らが歴史に名を残すほど出世するのは非常に稀な例となっていく。

割拠期と鼎立期と、どっちの軍が強いかといえば後者だろうね。

190: 無名武将@お腹せっぷく 2011/01/12(水) 20:09:51
戦術とかちゃんとしてる正規兵の方が強いだろうけど。
あの時代どれぐらいの戦争してたか分からないんだよな。

集団戦とかあまり関係ないなら正規兵じゃなくても十分使えると思う。

202: 無名武将@お腹せっぷく 2011/01/25(火) 23:24:25
みんな三国志の孔明死後って興味なくなるんだよなあ。
義経死後の鎌倉時代があんま有名じゃないのと一緒か。

204: 無名武将@お腹せっぷく 2011/01/26(水) 00:13:15
孔明死後の見所

魏=司馬氏と曹氏の権力闘争、曹叡の宮殿造り、蜀滅亡戦、帝位禅譲
呉=二宮事件、蜀侵攻(失敗)、西陵防衛戦、孫晧の暴政
蜀=費イ暗殺、姜維の北伐、段谷の戦い、黄皓の暗躍、蜀滅亡、永安篭城戦

205: 無名武将@お腹せっぷく 2011/01/26(水) 00:19:53
演義のメインは蜀の北伐の失敗話が延々と続くところだからな
普通の人からしたら読むに耐えないだろう

206: 無名武将@お腹せっぷく 2011/01/26(水) 08:00:32
最後のほうはもう蜀対司馬氏みたいになって呉はなにしてんだ?
って感じだったな。・

230: 無名武将@お腹せっぷく 2011/01/29(土) 01:03:32
そういや、姜維の子孫はどうなったんだろうな?

231: 無名武将@お腹せっぷく 2011/01/29(土) 03:49:07
>>230
滅ぼされたという話はないから、どっかにいるのかもね。
自称の子孫ならいたと思う。

232: 無名武将@お腹せっぷく 2011/01/29(土) 04:50:24
少なくとも成都にいた一族は族滅くらってるだろう

233: 無名武将@お腹せっぷく 2011/02/06(日) 17:21:54
ヒイにいたっては暗殺されてるわけだからな。
なんか軽く済まされてるけどTOPが暗殺されるってなかなかないよね。
幕末だと井伊直弼があるけど、リュウゼンを孝明天皇とするならヒイは徳川将軍クラスになるわけだし。

TOPが暗殺された後ってのははっきり言えばすごい修羅場なわけで、大混乱状態だったと思う。

234: 無名武将@お腹せっぷく 2011/02/06(日) 20:19:15
既に魏や呉じゃドロドロの政争劇で流血でまくりな時期だしな
宴会やっててグサリってどんだけ呑気なんだか

236: 無名武将@お腹せっぷく 2011/02/06(日) 20:53:04
費イの無警戒ぶりに謹言する者もいたから、刺し殺されたのは自業自得だな
頭のいいバカだったらしい

237: 無名武将@お腹せっぷく 2011/02/06(日) 21:03:08
諸葛亮の後任が姜維ではなかったのは、彼が経験不足だったからでも政治に疎かったからでもない。
姜維が創業型の人物だったのに対し、蒋エンや費イは守成型だったからである。
ご存知のとおり、蜀は魏や呉に比べて圧倒的に国力が低い。
三国志演義が劉備・諸葛亮を主人公とし、蜀を正当国家とする物語だからいかにも拮抗しているようにも見えるが、実際は、三国の国力比は、魏9:呉3:蜀1程度でしかない。
そして関羽・張飛・趙雲らに匹敵するような豪傑はなく、ホウ統・法正も既に亡くなっている。
かといって魏延や楊儀は人格的に偏りすぎていて内部紛争の種になっている。
諸葛亮死後の最大の戦略方針は、蜀の国力をいかに疲弊させないかということ。
おそらく諸葛亮は自分の死期が迫っているのと同時に、蜀が天下平定をできる終期が迫っていることを確信していたはず。
だからこそ、蒋エンや費イといった守成型の人物に後事を託したのである。
事実、蒋エンや費イは自分の実力をわきまえて、無理な出兵をしようとはせず国内の安寧に努めていた。
また、蒋エンや費イが生きている間は、姜維の軍権も良い意味で抑えられていた。
諸葛亮の目論みは見事当たったというべきだろう。
しかし、何度考えても、董允涙目だなとw

238: 無名武将@お腹せっぷく 2011/02/06(日) 23:03:43
>>237
諸葛亮後継は単純に序列の問題だろ。
一番地位が高いのは長史の楊儀だけど、こいつは人格的に論外。
で、その次が留府長史の蒋エンで、丞相司馬の費イがそれに次ぐ。
姜維は中監軍で蒋エン・費イより一段落ちる。鄧芝や張翼と同格。
それで年齢や実績は鄧芝や張翼の方がずっと上。後継者になんかなりようがないです。

239: 無名武将@お腹せっぷく 2011/02/07(月) 02:26:27
諸葛亮が死んだ時点で姜維は数え33歳だからね。
人格とか能力性質以前の問題だ。

241: 無名武将@お腹せっぷく 2011/02/07(月) 17:17:16
孔明が死んだ時では有力者はギエンとヨウギだったわけだよね。
ショウエンもヒイもヨウギの部下だったわけで。

孔明の遺言かなにかしらないがここあたりすごい怪しく感じる。

245: 無名武将@お腹せっぷく 2011/02/08(火) 07:16:20
>>241
楊儀と蒋琬はどちらも230年に丞相長史になったから一応同格。
ただそれ以前は楊儀の方が上だったけど。

240: 無名武将@お腹せっぷく 2011/02/07(月) 16:43:41
姜維は爵位の面では異常に厚遇されてる。諸葛亮死去時で平襄県侯。
234年時点で県侯だったのは他に呉懿だけ。魏延も南鄭侯だったが誅殺。

242: 無名武将@お腹せっぷく 2011/02/07(月) 17:22:56
姜維の平襄侯は諸葛亮の死後、成都に北伐軍が帰還してから与えられたもんだぞ?それまでは当陽亭侯。
北伐軍帰還時に有力な将軍や幕僚は軒並み爵位を与えられてるが、ほとんどはこれまで持ってなかった人間が亭侯を授けられたもの。
姜維が県侯になったのは、他の人間がみんな亭侯になった時には、魏から降伏した時に与えられた亭侯の爵位を持ってたから、県侯に進められたんだ。

呉懿も諸葛亮が生きてた頃は高陽郷侯で、諸葛亮死後に済陽侯に爵位を進められた。

243: 無名武将@お腹せっぷく 2011/02/07(月) 17:27:18
>>242
王平は228年から亭侯だったが、県侯に登ったのは呉懿の後を継いだ237年。
234年の成都帰還時に亭侯だった人物が全員県侯に上げられたわけじゃないのでは?

244: 無名武将@お腹せっぷく 2011/02/07(月) 18:02:17
>>243
この時官爵が進んだのは、成都に帰還した丞相府の幕僚だけ。
このメンツが諸葛亮死後の蜀の軍政の中枢になるから、政権首脳になるべき人間の地位を高めるための処置だろう。
官位だけ進んだ人間と、爵位と官位の両方進んだ人間がいるが。

呉懿の昇進は督漢中になって、蜀の前線の全権を任されたことによる例外と思われ。
成都にいなかったのに同時期に昇進した人間は、呉懿のように格の問題で成都帰還組とのバランスを取るために、官爵を進める必要があった人間。

247: 無名武将@お腹せっぷく 2011/02/09(水) 06:23:16
夏侯覇の蜀における地位はどの程度のものだったの?

248: 無名武将@お腹せっぷく 2011/02/09(水) 07:31:24
>>247
車騎将軍になって,そのまま死んだのだと思う。

250: 無名武将@お腹せっぷく 2011/02/09(水) 21:22:12
>>247
たぶん亡命時に征北将軍に任じられ、251年にトウ芝の後任として車騎将軍就任。
その後255年の第三次北伐に従軍したのは確かだけど、それ以後の事績は不明でたぶん259年頃に死去。

亡命者としての優遇だけでなく、実際に北伐に従軍して魏軍を大破してるから、それなりに信頼されていたんじゃないかと思う。

249: 無名武将@お腹せっぷく 2011/02/09(水) 14:08:58
演義みたいに夏侯覇が姜維の右腕として長生きしてたら、少しはマシな展開になってたかね?

変わらないか

引用元: ・蒋エン 費イ 姜維の流れを語るスレ