ご覧頂いているブログは番外編です。
本編はこちら。
・・・
★前置き
死んだら「無」になってしまうんだろうか。それとも「何か」が残るんだろうか。
そもそも「無」とは何だろう。
とりあえず「無」を定義すれば、「何も無い状態」という、ある種の理想状態(?)を指すことは間違いなさそうだ。
だが、正真正銘の「無」なんていうモノはあり得ないのも事実だ。「真空や無、あるいは0(ゼロ)、何も無い」という状態は、物理的にあり得ないのだ。
アインシュタインの「一般相対性理論」とともに、20世紀以降の物理学を牽引してきた「量子論」。
この「量子論」によれば、「真空や無、あるいは0、何も無い」という状態は、決して許されないのだ。
・・・
さて。
ニールス・ボーア(デンマークの理論物理学者)は「バルマー系列」から何を見抜いたのか。そして、どのようなアイディアを思いついたんだろうか。
そもそも「ラザフォードの原子モデル」が受け入れ難かったのは、「電子」が「原子核」の周囲を回転すると、電磁波を放出してエネルギーを失い、「原子核」に落ちてしまうことで、「原子」が潰れてしまうからだ。
これに対し、ボーアは以下の大胆な仮説を立てることで、水素原子の「線スペクトル」を見事に説明したのだ。
仮説①:「電子」が「原子核」の周囲を回っているのは事実だが、どんな軌道でも回ることができるわけではない。その軌道半径は、「ある条件」を充たす「とびとび」の値に限られている。
仮説②:この決められた軌道を回っている限り、「電子」は電磁波を放出しない。
仮説③:「電子」が電磁波を放出したり吸収したりするのは、ある軌道から別の軌道に移動するときだけである。その放出または吸収される電磁波のエネルギーは、それぞれの軌道を回転しているときの「電子」のエネルギーの「差」に等しい。
上記の三つの仮説は、古典物理学の常識に反している。だが、これらの仮説は「いいかげん」に提唱されたわけでもない。マックス・プランクの「エネルギー量子仮説」、アルベルト・アインシュタインの「光量子仮説」を土台にした「まとも」な仮説なのだ。
上記の仮説①から③に基づいて水素原子の構造を図示すると、以下のようになる。
水素原子の構造は単純だ。「原子核」は1個の「陽子」だけでできていて、その周囲を1個の「電子」が回っている。
仮説①によれば、水素原子の中の「電子」には複数の軌道があるが、その軌道半径は任意の値を取ることができず、「とびとび」の値のいずれかしか取ることはできない(上の図のn=1、n=2、n=3、…のいずれかの値しか取ることはできず、それらの「中間」、たとえばn=1.8とか、n=2.3といった軌道を回ることはできない)。
また仮説②によれば、「電子」が「とびとび」の値のいずれかの軌道を回っているとき、電磁波を放出することはなく、一定のエネルギー状態を保っている。この「電子」の状態を「定常状態」という。
しかし、なぜ「とびとび」の値の軌道を回っているとき、「電子」は電磁波を放出しないのか。この疑問に対し、ボーアは一切の解答を与えていない。「そんなことは知らん!」という態度を貫いたのだ。「どうしてそうなのか知らないけれど、そういうものなんだ」という姿勢だったのだ。
だが、ボーアの姿勢は、結果的に正しかった。
上の図をもう一度見て欲しい。「電子」のエネルギーは、外側の軌道を回っているときの方が高く、内側の軌道を回っているときの方が低い(上の図で言うと、n=2の軌道を回っている「電子」は、n=1の軌道を回っている時よりもエネルギーが高い)。
そして「電子」が、ある軌道の「定常状態」から別の軌道の「定常状態」に遷移する(飛び移る)とき、「電子」はエネルギーの差を、電磁波として放出したり、吸収したりする(図のケースで言えば、n=2の軌道からn=1の軌道に飛び移るとき、「電子」は電磁波としてエネルギーを放出している)。
つまり、外の軌道から内の軌道に遷移する際、「電子」はエネルギーの高い状態から低い状態に移るわけであり、そのエネルギーの差は、電磁波として放出される。その一方、内側の軌道から外側の軌道に遷移する場合、エネルギーの低い状態から高い状態に変わるということであり、そのエネルギーの差は電磁波として「電子」に吸収されるのだ。
もう一度、水素原子の「バルマー系列」を思い出して欲しい。
この数列を見ると、水素原子の中には「2つの整数の『差』」に関わる何かがあることが見て取れる。
ニールス・ボーアがこの関係式を眺めていて気づいたのは、この「差」が「電子」の2つの「定常状態」のエネルギーの差を示しているということだったのだ。
(続く)
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死んだら「無」になってしまうんだろうか。それとも「何か」が残るんだろうか。
そもそも「無」とは何だろう。
とりあえず「無」を定義すれば、「何も無い状態」という、ある種の理想状態(?)を指すことは間違いなさそうだ。
だが、正真正銘の「無」なんていうモノはあり得ないのも事実だ。「真空や無、あるいは0(ゼロ)、何も無い」という状態は、物理的にあり得ないのだ。
アインシュタインの「一般相対性理論」とともに、20世紀以降の物理学を牽引してきた「量子論」。
この「量子論」によれば、「真空や無、あるいは0、何も無い」という状態は、決して許されないのだ。
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さて。
ニールス・ボーア(デンマークの理論物理学者)は「バルマー系列」から何を見抜いたのか。そして、どのようなアイディアを思いついたんだろうか。
そもそも「ラザフォードの原子モデル」が受け入れ難かったのは、「電子」が「原子核」の周囲を回転すると、電磁波を放出してエネルギーを失い、「原子核」に落ちてしまうことで、「原子」が潰れてしまうからだ。
これに対し、ボーアは以下の大胆な仮説を立てることで、水素原子の「線スペクトル」を見事に説明したのだ。
仮説①:「電子」が「原子核」の周囲を回っているのは事実だが、どんな軌道でも回ることができるわけではない。その軌道半径は、「ある条件」を充たす「とびとび」の値に限られている。
仮説②:この決められた軌道を回っている限り、「電子」は電磁波を放出しない。
仮説③:「電子」が電磁波を放出したり吸収したりするのは、ある軌道から別の軌道に移動するときだけである。その放出または吸収される電磁波のエネルギーは、それぞれの軌道を回転しているときの「電子」のエネルギーの「差」に等しい。
上記の三つの仮説は、古典物理学の常識に反している。だが、これらの仮説は「いいかげん」に提唱されたわけでもない。マックス・プランクの「エネルギー量子仮説」、アルベルト・アインシュタインの「光量子仮説」を土台にした「まとも」な仮説なのだ。
上記の仮説①から③に基づいて水素原子の構造を図示すると、以下のようになる。
水素原子の構造は単純だ。「原子核」は1個の「陽子」だけでできていて、その周囲を1個の「電子」が回っている。
仮説①によれば、水素原子の中の「電子」には複数の軌道があるが、その軌道半径は任意の値を取ることができず、「とびとび」の値のいずれかしか取ることはできない(上の図のn=1、n=2、n=3、…のいずれかの値しか取ることはできず、それらの「中間」、たとえばn=1.8とか、n=2.3といった軌道を回ることはできない)。
また仮説②によれば、「電子」が「とびとび」の値のいずれかの軌道を回っているとき、電磁波を放出することはなく、一定のエネルギー状態を保っている。この「電子」の状態を「定常状態」という。
しかし、なぜ「とびとび」の値の軌道を回っているとき、「電子」は電磁波を放出しないのか。この疑問に対し、ボーアは一切の解答を与えていない。「そんなことは知らん!」という態度を貫いたのだ。「どうしてそうなのか知らないけれど、そういうものなんだ」という姿勢だったのだ。
だが、ボーアの姿勢は、結果的に正しかった。
上の図をもう一度見て欲しい。「電子」のエネルギーは、外側の軌道を回っているときの方が高く、内側の軌道を回っているときの方が低い(上の図で言うと、n=2の軌道を回っている「電子」は、n=1の軌道を回っている時よりもエネルギーが高い)。
そして「電子」が、ある軌道の「定常状態」から別の軌道の「定常状態」に遷移する(飛び移る)とき、「電子」はエネルギーの差を、電磁波として放出したり、吸収したりする(図のケースで言えば、n=2の軌道からn=1の軌道に飛び移るとき、「電子」は電磁波としてエネルギーを放出している)。
つまり、外の軌道から内の軌道に遷移する際、「電子」はエネルギーの高い状態から低い状態に移るわけであり、そのエネルギーの差は、電磁波として放出される。その一方、内側の軌道から外側の軌道に遷移する場合、エネルギーの低い状態から高い状態に変わるということであり、そのエネルギーの差は電磁波として「電子」に吸収されるのだ。
もう一度、水素原子の「バルマー系列」を思い出して欲しい。
この数列を見ると、水素原子の中には「2つの整数の『差』」に関わる何かがあることが見て取れる。
ニールス・ボーアがこの関係式を眺めていて気づいたのは、この「差」が「電子」の2つの「定常状態」のエネルギーの差を示しているということだったのだ。
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