いつか迎えに来てくれる日まで(番外編) ~あの世はあるのか~

あの世はあるのか。俺が死んだら、またかみさんに逢えるのか。

2018年04月

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・・・

★前置き

死んだら「無」になってしまうんだろうか。それとも「何か」が残るんだろうか。

そもそも「無」とは何だろう。
とりあえず「無」を定義すれば、「何も無い状態」という、ある種の理想状態(?)を指すことは間違いなさそうだ。

だが、正真正銘の「無」なんていうモノはあり得ないのも事実だ。「真空や無、あるいは0(ゼロ)、何も無い」という状態は、物理的にあり得ないのだ。

アインシュタインの「一般相対性理論」とともに、20世紀以降の物理学を牽引してきた「量子論」。
この「量子論」によれば、「真空や無、あるいは0、何も無い」という状態は、決して許されないのだ。

・・・

さて。
ニールス・ボーア(デンマークの理論物理学者)は「バルマー系列」から何を見抜いたのか。そして、どのようなアイディアを思いついたんだろうか。

そもそも「ラザフォードの原子モデル」が受け入れ難かったのは、「電子」が「原子核」の周囲を回転すると、電磁波を放出してエネルギーを失い、「原子核」に落ちてしまうことで、「原子」が潰れてしまうからだ。

これに対し、ボーアは以下の大胆な仮説を立てることで、水素原子の「線スペクトル」を見事に説明したのだ。

仮説①:「電子」が「原子核」の周囲を回っているのは事実だが、どんな軌道でも回ることができるわけではない。その軌道半径は、「ある条件」を充たす「とびとび」の値に限られている。

仮説②:この決められた軌道を回っている限り、「電子」は電磁波を放出しない。

仮説③:「電子」が電磁波を放出したり吸収したりするのは、ある軌道から別の軌道に移動するときだけである。その放出または吸収される電磁波のエネルギーは、それぞれの軌道を回転しているときの「電子」のエネルギーの「差」に等しい。

上記の三つの仮説は、古典物理学の常識に反している。だが、これらの仮説は「いいかげん」に提唱されたわけでもない。マックス・プランクの「エネルギー量子仮説」アルベルト・アインシュタインの「光量子仮説」を土台にした「まとも」な仮説なのだ。

上記の仮説①から③に基づいて水素原子の構造を図示すると、以下のようになる。
水素原子の構造②

水素原子の構造は単純だ。「原子核」は1個の「陽子」だけでできていて、その周囲を1個の「電子」が回っている。

仮説①によれば、水素原子の中の「電子」には複数の軌道があるが、その軌道半径は任意の値を取ることができず、「とびとび」の値のいずれかしか取ることはできない(上の図のn=1、n=2、n=3、…のいずれかの値しか取ることはできず、それらの「中間」、たとえばn=1.8とか、n=2.3といった軌道を回ることはできない)。

また仮説②によれば、「電子」が「とびとび」の値のいずれかの軌道を回っているとき、電磁波を放出することはなく、一定のエネルギー状態を保っている。この「電子」の状態を「定常状態」という。

しかし、なぜ「とびとび」の値の軌道を回っているとき、「電子」は電磁波を放出しないのか。この疑問に対し、ボーアは一切の解答を与えていない。「そんなことは知らん!」という態度を貫いたのだ。「どうしてそうなのか知らないけれど、そういうものなんだ」という姿勢だったのだ。

だが、ボーアの姿勢は、結果的に正しかった。

上の図をもう一度見て欲しい。「電子」のエネルギーは、外側の軌道を回っているときの方が高く、内側の軌道を回っているときの方が低い(上の図で言うと、n=2の軌道を回っている「電子」は、n=1の軌道を回っている時よりもエネルギーが高い)。

そして「電子」が、ある軌道の「定常状態」から別の軌道の「定常状態」に遷移する(飛び移る)とき、「電子」はエネルギーの差を、電磁波として放出したり、吸収したりする(図のケースで言えば、n=2の軌道からn=1の軌道に飛び移るとき、「電子」は電磁波としてエネルギーを放出している)。

つまり、外の軌道から内の軌道に遷移する際、「電子」はエネルギーの高い状態から低い状態に移るわけであり、そのエネルギーの差は、電磁波として放出される。その一方、内側の軌道から外側の軌道に遷移する場合、エネルギーの低い状態から高い状態に変わるということであり、そのエネルギーの差は電磁波として「電子」に吸収されるのだ。

もう一度、水素原子の「バルマー系列」を思い出して欲しい。
3-13-728

この数列を見ると、水素原子の中には「2つの整数の『差』」に関わる何かがあることが見て取れる。

ニールス・ボーアがこの関係式を眺めていて気づいたのは、この「差」が「電子」の2つの「定常状態」のエネルギーの差を示しているということだったのだ。

(続く)

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★前置き

死んだら「無」になってしまうんだろうか。それとも「何か」が残るんだろうか。

そもそも「無」とは何だろう。
とりあえず「無」を定義すれば、「何も無い状態」という、ある種の理想状態(?)を指すことは間違いなさそうだ。

だが、正真正銘の「無」なんていうモノはあり得ないのも事実だ。「真空や無、あるいは0(ゼロ)、何も無い」という状態は、物理的にあり得ないのだ。

アインシュタインの「一般相対性理論」とともに、20世紀以降の物理学を牽引してきた「量子論」。
この「量子論」によれば、「真空や無、あるいは0、何も無い」という状態は、決して許されないのだ。

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ここで登場したのがニールス・ボーア(デンマークの理論物理学者)だった。
ボーアの名前はあまり知られていないかもしれないが、アルベルト・アインシュタインに匹敵する20世紀最高の物理学者であることは間違いない。

ボーアは「原子」の構造について考え続ける過程で、水素原子の「バルマー系列」を知った。そして、この系列をヒントに「量子条件」と「振動数条件」という大胆な仮説を立て、「ボーアの原子モデル」を発表した。

以前、このブログの中で「バルマー系列」に触れた。

真空にしたガラス管の中に水素を入れて放電すると、光を放つ。その光をプリズムなどの分光器を通してスペクトルを分析する(どんな波長の光をどの程度含んでいるのかを分析する)と、下の図のような「線スペクトル」が現れる。
svg

右から順に、赤色、青色、藍色、紫色の、4つの「とびとび」の光が並んでいる。
ちなみに
① 赤色の光の波長は656.210nm(1nmは10億分の1m)
② 青色の光の波長は486.074nm
③ 藍色の光の波長は434.010nm
④ 紫色の光の波長は410.120nm

これでは何の規則性も見えないが、19世紀後半のスイスの数学教師・バルマーは、このスペクトルに異様な規則性を発見した。

上記①から④を分数の比で表すと
①:②:③:④ = 9/5:4/3:25/21:9/8

これでも何の規則性も見えてこないが、あえて約分するのを止めると以下のようになる。
①:②:③:④ = 9/5:16/12:25/21:36/32

こうすると、次のような数列が見いだせるはずだ。
3-13-728

水素原子の「線スペクトル」の関係が、3、4、5、6という簡単な整数の組み合わせで表すことができるということは、偶然とは思えない。「ひょっとすると、この世界は『誰か』がデザインしたんじゃないの?」と思いたくもなるのだが、今回の記事で言いたいのは、そういうことではない。

この数列から予想されるのは、「原子」の構造の中に「整数」と関わる「何か」があるということだ。

また、上記の数列の分母は、左から
3の2乗-4、4の2乗-4、5の2乗-4、6の2乗-4となっているが、これはさらに、
3の2乗-2の2乗、4の2乗-2の2乗、5の2乗-2の2乗、6の2乗-2の2乗と変換することができる。

つまり、上記の数列の分母は「整数」の2乗同士の「差」になっているということであり、これも恐らく「原子」の構造と関係を持つと推測される。

だが、「ラザフォードの原子モデル」では、この「バルマー系列」を説明することはできない。

前述したとおり、「電子」が「原子核」の周囲を回転すると、「電子」は光(電磁波)を放出する。このときの電磁波のスペクトルを計算すると、その「線スペクトル」は等間隔になるはずなのだ。だが、上の図のとおり、水素原子の「線スペクトル」は、どう見ても等間隔ではない。

また、「電子」が電磁波を放出すれば、「電子」はエネルギーを失って、渦巻き状に回転しつつ、最後は「原子核」に落ちてしまう。このときの電磁波の波長を計算すると、「電子」の軌道半径が小さくなるにつれて波長がどんどんと短くなっていく。だとすれば、水素原子のスペクトルは、「線スペクトル」ではなく、「連続スペクトル」になるはずなのだ。

以上のように、「ラザフォードの原子モデル」では、水素原子のスペクトルを説明することはできない。だが、さまざまな実験の結果は、「トムソンの原子モデル」ではなく、「ラザフォード原子モデル」が正しいことを示唆している。

この難問に対して解答を与えたのが、ニールス・ボーアだったのだ。

(続く)

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★前置き

死んだら「無」になってしまうんだろうか。それとも「何か」が残るんだろうか。

そもそも「無」とは何だろう。
とりあえず「無」を定義すれば、「何も無い状態」という、ある種の理想状態(?)を指すことは間違いなさそうだ。

だが、正真正銘の「無」なんていうモノはあり得ないのも事実だ。「真空や無、あるいは0(ゼロ)、何も無い」という状態は、物理的にあり得ないのだ。

アインシュタインの「一般相対性理論」とともに、20世紀以降の物理学を牽引してきた「量子論」。
この「量子論」によれば、「真空や無、あるいは0、何も無い」という状態は、決して許されないのだ。

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物理学の中に「量子」という概念が定着した。
前にも書いたとおり、19世紀の末には「物理学はほぼ完成した」と考えられていたにも関わらず、「量子」という概念の導入によって、物理学に大革命が起こったのだ。

物理量が「とびとび」に変化するという事実、あるいは物質が「波」でもあり「粒子」でもあるという事実、これらによって、我々の常識はことごとく覆されることになったのだ。

・・・

ここで突然、話は飛ぶ。
現在の我々は、あらゆる物体は、「原子」という微粒子が集まって作られていることを知っている。

当初、「原子」はそれ以上分割できない最小の単位だと考えられていた。
だが、19世紀の末になり、「原子」の中には「電子」が含まれていることが判明した。言い換えれば、「原子」はそれ以上分割できないモノではないということが分かったのだ。

「原子」の中に「電子」が含まれているのなら、その「電子」は「原子」のどこにあるのか、すなわち「原子」がどのような形をしているのかという疑問が生まれた。

「原子」はとても小さい。最も小さな「水素原子」の大きさは、約0.1nm(1nmは10億分の1m)だ。こんな小さなモノを見ることのできる顕微鏡は、19世紀には存在しなかった(ちなみに現代では、「走査型トンネル顕微鏡」などを使えば「原子」1個の姿を見ることができる)。

見ることのできないほど小さい「原子」。その形について、物理学者たちは、さまざまな考察と実験を通じて知ろうとした。

・・・

そもそも「電子」はマイナスの電荷を帯びている。一方で、「原子」は電気的に中性だ。だとすれば、「原子」の中にはプラスの電荷を帯びた部分があるはずだ…ということは分かるだろう。

そうした事実を背景に、まずはジョゼフ・トムソン(イギリスの物理学者)が「トムソンの原子モデル」を発表した。このモデルによれば、「原子」はスイカのような形をしている。スイカの実の赤い部分がプラスの電荷を帯びていて、マイナスの電荷を帯びた「電子」は、スイカの種のように分布していると考えた。

当時の顕微鏡では見ることのできない小さな「原子」。その形を調べるために、アーネスト・ラザフォード(ニュージーランドの物理学者、科学者)は、ある実験を行った。

その詳細については割愛するが、実験の結果、プラスの電荷を帯びた部分は、「原子」の中心部分に集中しており、その周囲をマイナスの電荷を帯びた「電子」が回っていることが判明した。それはあたかも、太陽の周りを惑星が公転しているかのようなイメージだ。これは「ラザフォードの原子モデル」と呼ばれている。

ちなみに現在、プラスの電荷を帯びた「原子」の中心部分は、「原子核」と呼ばれており、プラスの電荷を帯びた「陽子」と、電気的に中性な「中性子」とが結びついてできていることが分かっている。

こうして「原子」の構造が判明し、一件落着…と言いたいところだが、「ラザフォードの原子モデル」には致命的な欠陥があった。

「電子」が「原子核」の周りを回転していると、「電子」は光(電磁波)を放ちつつ、エネルギーを失っていく。「電子」はマイナスの電荷を持っているため、エネルギーを失えば、プラスの電荷を持った「原子核」に引き寄せられていく。

こうして「電子」は渦巻き状に回転し、いずれは「原子核」に落ちてしまう。
要するに、「原子」が潰れてしまうのだ。

計算値によれば、「ラザフォードの原子モデル」は1,000億分の1秒で壊れてしまう。
それはいくらなんでもあり得ない。人間の肉体だって「原子」でできているのに、それが1,000億分の1秒で壊れてしまう…なんてことは考えられない。「原子」が1秒にも満たない「ほんの一瞬」で崩壊してしまうなんて明らかに変なのだ。

それにも関わらず、多くの実験は、「ラザフォードの原子モデル」が正しいことを示唆していた。

これはいったい、どういうことなのか。

(続く)

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★前置き

死んだら「無」になってしまうんだろうか。それとも「何か」が残るんだろうか。

そもそも「無」とは何だろう。
とりあえず「無」を定義すれば、「何も無い状態」という、ある種の理想状態(?)を指すことは間違いなさそうだ。

だが、正真正銘の「無」なんていうモノはあり得ないのも事実だ。「真空や無、あるいは0(ゼロ)、何も無い」という状態は、物理的にあり得ないのだ。

アインシュタインの「一般相対性理論」とともに、20世紀以降の物理学を牽引してきた「量子論」。
この「量子論」によれば、「真空や無、あるいは0、何も無い」という状態は、決して許されないのだ。

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既に述べたとおり、光が「波」だとすると、「光電効果」を理解することができない

光は本当に「波」なんだろうか…

繰り返しになるが、電磁波の波長は、その電磁波の色を決めるものであり、エネルギーとは無関係なはずだ(エネルギーと関係があるのは波長ではなく振幅だ)。

それなのに、電磁波の波長を短くするほど、飛び出す「電子」のエネルギーが大きくなる(勢いよく「電子」が飛び出してくる)。

また、電磁波の振幅が大きくなれば、そのエネルギーが大きくなるはずなのに、飛び出す電子の数が多くなるだけで、飛び出す際のエネルギーは変わらない。

こうした現象を見ると、光は本当に「波」なんだろうか…という疑問が湧いてくる。
そして、この謎に答えを与えたのが、アルベルト・アインシュタインだった。

「特殊相対性理論」を発表する3か月前のこと。アインシュタインは「光量子仮説」を発表した。
この理論の中で、アインシュタインは「振動数がνである光は、hνのエネルギーを持った『粒子(光量子)』が集まったものである」と仮定した(hは前述のとおり、「プランク定数」である)。

この仮定に基づき、アインシュタインは「光電効果」の謎を解いたのだ。

繰り返しになるが、「光電効果」には二つの謎があった。

① 金属に当てる電磁波の波長が短いほど、飛び出す「電子」のエネルギーが大きくなる(勢いよ
 く「電子」が飛び出してくる)。電磁波の波長を長くしていくと、飛び出す「電子」のエネルギーは
 小さくなり、さらに波長を長くすると、「電子」は飛び出してこなくなる。

② 電磁波の振幅を変えたとしても、飛び出す「電子」のエネルギーは変わらない。だが、振幅が
 大きくなると、飛び出す「電子」の個数が増える。

まずは上記①について述べたい。

波長と振動数とは反比例の関係にある。
だとすれば、波長の短い電磁波は、振動数νが大きくなり、結果としてエネルギーhνも大きくなる。

この大きなエネルギーを持つ「粒子(光量子)」を金属の表面にぶつければ、金属と「電子」の結びつきが断ち切られ、「電子」が飛び出してくるのだが、振動数νが大きいほど「光量子」のエネルギーhνも大きくなるため、「電子」の飛び出す勢いが強くなるのだ。

逆に、振動数νが一定の値より小さくなれば、エネルギーhνも小さくなって、金属と「電子」との結びつきを断ち切ることができなくなり、「電子」が飛び出して来なくなるのだ。

次に上記②について述べたい。

電磁波の振幅が大きくなれば、その強度が増す。可視光線を例にとれば、「強度が増す」とは「明るくなる」ということだ。

光の振幅が大きくなって「明るくなる」ということについて、アインシュタインは「光量子」の数が増えることだと考えた。「光量子」の数が増えれば、飛び出す「電子」の数が多くなることも理解できるだろう。

だが、一つひとつの「光量子」のエネルギーの大きさが変わるわけではないため、飛び出す「電子」のエネルギーも大きくなるわけではない、ということだ。

・・・

アインシュタインは、それまで「波」であると考えられてきた「光」を「光量子」という「粒子」の集まりとみなすことで、「光電効果」の仕組みを解き明かすことに成功した。

1921年、アインシュタインはノーベル物理学賞を受賞しているが、その受賞理由は「理論物理学の諸研究、特に光電効果の法則の発見」だった(意外に思われるかもしれないが、相対性理論に対して与えられたのではない)。

17世紀以来、光は「波」なのか、それとも「粒子」なのかが議論されてきた。19世紀の初め、トマス・ヤング(イギリスの物理学者)によって、光が「干渉」することが発見されて以来、光は「波」だという考え方が定説になった。

だが、アインシュタインによって、光は「粒子」であることが証明された。

それでは光は「波」ではないのか…と言えば、そうではない。
光が「波」に特有の「干渉」を起こすことも事実なのだ。

つまり、光は「波」でもあり、同時に「粒子」でもあるという二重性(双対性)を持っていることが明らかになったのだ。
言い換えれば、光は「物体」であると同時に「状態」でもあるのだ。

こうして物理学の中に「量子」という概念が定着した。
前にも書いたとおり、19世紀の末には「物理学はほぼ完成した」と考えられていたにも関わらず、「量子」という概念の導入によって、物理学に大革命が起こったのだ。

物理量が「とびとび」に変化するという事実、あるいは物質が「波」でもあり「粒子」でもあるという事実、これらによって、我々の常識はことごとく覆されることになったのだ。

(続く)

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★前置き

死んだら「無」になってしまうんだろうか。それとも「何か」が残るんだろうか。

そもそも「無」とは何だろう。
とりあえず「無」を定義すれば、「何も無い状態」という、ある種の理想状態(?)を指すことは間違いなさそうだ。

だが、正真正銘の「無」なんていうモノはあり得ないのも事実だ。「真空や無、あるいは0(ゼロ)、何も無い」という状態は、物理的にあり得ないのだ。

アインシュタインの「一般相対性理論」とともに、20世紀以降の物理学を牽引してきた「量子論」。
この「量子論」によれば、「真空や無、あるいは0、何も無い」という状態は、決して許されないのだ。

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ここで「波」について簡単に説明しておきたい。

波は山→谷→山→谷…と交互に続いていくが、山と山の頂点(あるいは谷と谷の頂点)の間の長さを「波長」という。
また、山の高さ、あるいは谷を深さを「振幅」という。
波の波長、振幅

ちなみに波の振幅は、その波のエネルギーと密接な関係がある。
たとえば海の波について考えてみると、振幅の高い波(いわゆる高波)は、船を転覆させてしまうほどの強いエネルギーを持っている。
つまり、振幅の大きな波ほどエネルギーが大きいのだ(それにもかかわらず、前述の「二つ目の謎」のようになってしまうからこそ「謎」なのだ)。

もうひとつ、「振動数(周波数)」という言葉を覚えておくと便利だ。
波の振動数

振動数というのは、波が1秒間に何回振動するかを表す値であり、単位はHz(ヘルツ)。
上の図の一番上の波は、1秒間に1回振動しているので1Hz、一番下の波は、1秒間に4回振動しているので4Hzとなる。

ちなみに波の波長と振動数とは反比例の関係にあり、波長が長くなるほど振動数は小さくなるし、波長が短くなるほど振動数は大きくなる。

この場合の比例定数は「波の速度」だ。
言い換えれば、「波長 × 振動数 = 波の速度」というわけだ。

ちなみに電磁波(光など)の比例定数は、光速(毎秒299,792,458m)だ。
言い換えれば、「光の波長 × 光の振動数 = 299,792,458m/s」となる。

・・・

もうひとつ、「光」について説明しておきたい。
そもそも光は「粒子」なのか「波」なのかという論争は、17世紀から続いていた。

ちなみに「粒子」であれば「物体」だが、「波」であれば「物体」ではなく「状態」だ。言うまでもなく、「物体」であることと「状態」であることとは矛盾している。

光はいったい、どっちなんだろうか。

アイザック・ニュートン(イギリスの自然哲学者)は、無色透明なはずの太陽光をプリズムに通すと7色の光に分かれることを発見した。このことからニュートンは、光はさまざまな色を持つ小さな「粒子」が集まったものだと考えた。

また、人間が光に当たると、その背後に影ができるが、それも光が「粒子」である証拠とされた。光が「波」だとすれば、「波」は障害物の後ろに回り込んで進んでいく(これを「波」の「回折」という)はずで、影ができなかったり、できたとしても輪郭がぼやけてしまうはずだからだ。

ちなみに光の正体が小さな「粒子」であると考えることを「光の粒子説」という。

一方、クリスチャン・ホイヘンス(オランダの物理学者、天文学者)は、光は「波」であるという「光の波動説」を提唱した。
二つの細い光を衝突させても、光はお互いを通り抜けて直進していく。もし光が「粒子」であるならば、衝突後に光の進行方向が変わるはずだと考えたのだ。

このように、光は「粒子」なのか「波」なのかという論争が、19世紀初めまで続くことになった。

そうした中、19世紀の初め、トマス・ヤング(イギリスの物理学者)が光の「干渉」という現象を発見した。ここでいう「干渉」というのは「波」に特有の現象だ。

二つの「波」の山と山、あるいは谷と谷がぶつかると、「波」の振幅が大きくなって、山の高さ、あるいは谷の深さが増す。
一方、二つの「波」の山と谷がぶつかると、「波」の振幅が打ち消し合って、「波」は消えてしまう。
こうした現象を「波」の「干渉」という。

トマス・ヤングは光が「干渉」を起こすことを発見した。これにより、光は「粒子」ではなく「波」である…という考え方が、物理学に定着し、長年の議論が一応の収束を見たのだ。

だが…
既に述べたとおり、光が「波」だとすると、「光電効果」を理解することができない

光は本当に「波」なんだろうか…

(続く)

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