ロシアの偉大な振付家は一夜にして生まれたわけではなかった 村山久美子著『バレエ王国 ロシアへの道』

TAG:#バレエ入門・見方/講演会・レクチャー

 

ガリーナ・ウラノワ
埋め込み元:Wikipedia

1ヶ月以上前になりますが、村山久美子著『バレエ王国 ロシアへの道』が出版されました。

 

一夜にして生まれたわけではないバレエの改革の歴史を丹念に辿った好著です。

 

ロマン主義バレエとロシア

この本は十三章構成となっていますが、第一章からプティパについて言及するのではありません。全章の約三分の一である冒頭四章がプティパより前の時代のロシアバレエの歴史に割かれています。この章構成だけで、本著の姿勢が伝わってくると思います。

 

ヨーロッパからロシアへのバレエ移植の歴史を追いつつ、ロシアバレエの基盤を作り上げた人物としてシャルル=ルイ・ディドロを挙げています。

 

ディドロはプーシキンの『エフゲニー・オネーギン』にも言及されている振付家。1830年代のロマン主義バレエより前の、1920年代のプレ・ロマン主義に当たる振付家だそうですが、パントマイムと舞踊を融合させた振付やワイヤーを用いた演出など、ロマン主義で完成したと思われる要素を先取りしていたと説明されています。

 

村山氏はロシアバレエの主流は「ドラマ・バレエ」だと述べていますが、そのようなロシアバレエの出発として、プティパの古典主義バレエから始めるのではなく、ディドロに代表される、芝居性を重視した(プレ・)ロマン主義バレエから始めたというのは興味深いと思います。

 

ディドロの後に訪れるビッグネームはもちろんプティパです。しかしプティパを単に古典主義バレエの振付家として雑に扱うのではなく、この本の中では、どのように彼がロマン主義バレエから古典主義バレエへと発展させていったかが丁寧に辿られます。

 

ロマン主義バレエの影響が残る作品として大きく取り上げられているのが『ラ・バヤデール』。ガムザッティの結婚式の場におけるニキヤのヴァリエーションは、心理と舞踊が分かちがたく結びついた振付。そこにマイムと舞踊部分を分離しないように混ぜ合わせ」たロマン主義の要素と、さらに20世紀の「ドラマ・バレエ」との結節点を見出しています。

 

マリウス・プティパとユーリー・グリゴローヴィチの溝を埋める

さて、現代ロシアバレエを代表する大家、ユーリー・グリゴローヴィチが、物語を語るバレエでありながら、極めて音楽的で舞踊を前面に押し出したシンフォニックな要素を持ち合わせているということは、グリゴローヴィチの作品を見たことがある人なら、誰しも頷くと思います。

 

今、本が手元にないので乱暴なことは書けないのですが、太古の昔に読んだ、講談社から出ている某有名評論家M氏の著書では、グリゴローヴィチの章で、グリゴローヴィチのシンフォニックな要素とバランシンのシンフォニック・バレエを関連させて記述していました。

 

直接的な影響関係は否定しつつも、グリゴローヴィチの伯父だったか、誰かが、バランシンと一緒に踊っていたんだったか、バランシンの作品に出演していたのだったか、ということで、二人を結びつけていたわけです。

 

(私の記憶を元に書いているので、誤っている可能性大)

 

私のバレエ史の理解というと、このようにグリゴローヴィチを説明するのにバランシンを持ってこなければいけないほど、プティパ以降・グリゴローヴィチ以前の歴史が空白だったのでした。

 

村山氏の著書では、プティパからグリゴローヴィチ、さらにボリス・エイフマンに至るまでを埋める主要な振付家として、アレクサンドル・ゴールスキー、ミハイル・フォーキン、カシヤーン・ゴレイゾフスキー、フョードル・ロプホーフなどが挙げられています。

 

ゴールスキーは、プティパの『ドン・キホーテ』を改訂し、より演劇的な構成にしたことで知られる振付家。フォーキンは説明不要でしょう。

 

大雑把に言えば、いずれもプティパの古典主義バレエに反逆し、ロマン主義に寄り戻した振付家として捉えられています。

 

ロシアバレエの主流がロマン主義的、つまり「ドラマ・バレエ」であるのは、こうした振付家たちが存在したからです。

 

彼らの系譜を引く振付家として、そしてグリゴローヴィチやエイフマンをつなぐ重要な振付家として取り上げられているのが、ゴレイゾフスキーです。フォーキンに振付技法を習ったらしいゴレイゾフスキーは、音楽のムードや心理を視覚化するシンフォニックなバレエを作ったらしい。

 

グリゴローヴィチへの影響を考える上では、彼の師匠のロプホーフはもちろん欠かせません。ロプホーフはゴレイゾフスキーとは別な意味でシンフォニックなバレエを作った振付家でした。

 

ロスチスラフ・ザハーロフやレオニード・ラヴロフスキー、彼らの振付を十二分に体現したダンサー、ガリーナ・ウラーノワといった人々の後、彼らが作り上げた「ホレオドラマ」というバレエジャンルの空疎化が批判されるようになります。

 

その中で、ゴレイゾフスキーやロプホーフのシンフォニックな要素をドラマバレエに取り込んでバレエ界を一新したのがグリゴローヴィチだったといいます。

 

現代バレエのイメージの強いエイフマンも、ロマン主義的な、つまり「ドラマ・バレエ」を主流とするロシアバレエの歴史の中で位置付けられています。

 

以上、『バレエ王国〜』で丁寧に説明されているロシアの「ドラマ・バレエ」の歴史を、大雑把にご紹介してきましたが、主流以外のスタイルについても、この本は言及されています。

 

その一人がニコライ・フォレッゲル。私は名前すら知らない振付家だったのですが、意味よりもフォルムを重視し、メカニック・ダンス、機械ダンスといったジャンルを生み、絶賛されたそうです。

 

ロシアバレエの主流が、なぜ絶賛されたフォレッゲルの系譜ではなく、「ドラマ・バレエ」を選択していったのか。それについてはぜひ本を読んで確かめてください。

 

二つのシンフォニック・バレエ

最後に、この本を読んで私の抽象バレエに関する理解が大きく変わったことについてお話ししたいと思います。

 

フォーキンの『ショピニアーナ』は抽象バレエ、シンフォニック・バレエの嚆矢として言われることが多いと思います。そしてシンフォニック・バレエといえばジョージ・バランシンですから、プティパからフォーキン、フォーキンからバランシンと、シンフォニック・バレエが完成していったと考えがちです。

 

ですが、恐らく村山氏はプティパやバランシンのバレエとフォーキンのバレエは異なるものとして捉えていると思われます。

 

バランシンが音楽の構造を視覚化したのに対し、フォーキンは音楽のムードを伝え、シンボリカルな表現が凝縮されたドラマティックな「バレエ詩」を作った人物で、両者ともにシンフォニックな側面があるにしても、その内実は異なるのだと。

 

音楽のムードを伝えるシンフォニック・バレエを作ったゴレイゾフスキーの先蹤がフォーキンだったとすれば、バランシンの先蹤はロプホーフだったと、この本には書かれています。

 

ただしロプホーフは純粋に音楽構造を視覚化しようとする志向と、ロシアバレエの主流であるメッセージを伝えようとする志向で矛盾を来たし、その試みは十分に成功しなかったとあります。

 

音楽構造を視覚化するシンフォニック・バレエを完成させたのが、ロプホーフのシンフォニック・バレエ、『宇宙の偉大さ』に出演していた、我らがバランシンだったわけです。

 

「シンフォニック・バレエ」という言葉で一括りにされがちな、こうしたバレエのスタイルの違いを丁寧に分別できるのは、その時代、その時代で生まれるバレエが過去の何に影響を受け、次の時代におけるどのようなスタイルの萌芽を秘めているかを丹念に読み解く、この著書だからこそできることだと思います。

 

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ロシアの古き良き伝統を感じさせる伸びやかな踊り モスクワ・クラシック・バレエ『くるみ割り人形』

TAG:#評・感想

 

モスクワ・クラシック・バレエ くるみ割り人形
埋め込み元:光藍社

12月19日、東京国際フォーラムでモスクワ・クラシック・バレエ『くるみ割り人形』を鑑賞しました。

 

元々はキエフ・バレエ団の同演目上演が予定されていたところ、オミクロン株による入国規制で上演が叶わず。入国規制前から来日公演を行っていたモスクワ・クラシック・バレエが、空いた劇場を使って公演を行ってくれたのでした。

 

モスクワ・クラシック・バレエの芸術監督であるナタリア・カサートキナとウラジーミル・ワシリョーフが振り付けた本バージョンは、雪のワルツや花のワルツなどワシリー・ワイノーネン版を踏襲しながら、古風かつ素朴な演出で、暖かみのある作品に仕上がっています。

 

見応えのあるクラシックのテクニックと、見応えを失ったキャラクテールのリアリティ

多くのバージョンではキャラクテールのダンサーに当てられる役柄にもダンスシーンを与えている点が最大の特徴。

 

例えば、いわゆるネズミの王様は、ネズミの女王として総身タイツの女性ダンサーが演じ、手下のネズミたちによるダイナミックなリフトやシャープなジャンプで、悪者の威圧感や鋭さを表現しています。

 

ただキャラクテールを除いた分、役柄の年齢や性格表現が薄れたきらいもありました。

 

その最たるものがドロッセルマイヤー。白い衣装とタイツに、これまた白のマント。もはやジャン・ド・ブリエンヌじゃあないですか!!

 

写真を見るに、一応はこのドロッセルマイヤーは眼帯を付けているようなのですが、残念ながら2階席後方に座っていた私にはそんなものは見えず。

 

演じたニコライ・チェヴィチェロフは足先の甘さを除いたら、おおむね私好みの柔らかくノーブルなダンサーです。もうあれは素材ですね・・・持って生まれた雰囲気ですね・・・レヴェランスまで完璧なプリンスです。

 

はて、このバージョンはルドルフ・ヌレエフ版のごとく、ドロッセルマイヤーが王子に変身する演出なのか・・・(なおこのバージョンはおろか、モスクワ・クラシック・バレエ自体も初見)

 

そう思っておりましたら、このプリンス型ドロッセルマイヤーの元に突如出現した、本物の王子さま!!!

 

王子とドロッセルマイヤーとマーシャの3人で踊るシーンも多分に含まれており、なるべく目にバイアスをかけつつ鑑賞しておりましたが・・・うーん、どう見ても少女の両脇にプリンスが2名控えているようにしか見えない・・・

 

一体、このドロッセルマイヤーと王子はどのような関係なのか、改めてパンフレットの粗筋を読んでみましたら、叔父と甥という何の変哲もない設定。こりゃあサザエさん系の家庭を想定して鑑賞せねばならない版に違いない、、、

 

色々と話は逸れてしまいましたが、要は、このバージョンが「見応え」をもたらすためにドロッセルマイヤーに与えたクラシックのテクニックゆえに、かえって作品としての見応えや面白さを失っていたように(少なくとも私には)思えたということです。

 

モスクワ・クラシック・バレエの伸びやかなダンサーたち

冒頭で述べたとおり、このバージョンはコール・ド・バレエのシーンをワイノーネン版に依拠しているのですが、なまじマリインスキー・バレエ団のワイノーネン版が念頭にあるため、雪のワルツのラストの足取りの重さだったり、花のワルツの叙情性のなさだったりが目立ったのは事実です。

 

しかしこのバレエ団は伸びやかなダンサーが多く、見ていて気持ちが良い。ロシアの古き良き伝統を感じる踊りなのです。

 

ドロッセルマイヤーのチェヴィチェロフはもちろん、王子を演じたアルチョム・ホロシロフもマネージュでのジャンプで見せる開いた脚が美しい。パ・ド・トロワでは、石山蓮が端正でありながら、青年ダンサーらしい若々しさを見せてくれました。

 

マーシャのマリーナ・ヴォルコワは瑞々しく透明感があります。お転婆を作り込まなくても、少女らしい清らかさを自然に表現できるのはロシアバレエならでは。

 

彼女、経歴を見てみると、エイフマン・バレエ出身らしいので、相当の高身長と思われますが、パートナーのホロシロフと身長のバランスが取れていることもあり、少女役を演じていても、何ら違和感がありませんでした。

 

子どものエネルギーに向けたカサートキナとワシリョーフの観察眼

マーシャといえば、カサートキナとワシリョーフの演出にあって、他の多くの版には存在しない描写がこの少女にはありました。

 

やんちゃなフリッツために壊れてしまったくるみ割り人形をどうやったら治せるかを考え、包帯を巻いてあげるのは、ドロッセルマイヤーではなく、マーシャ自身なのです。

 

フリッツに壊されて、ただただ泣くしかなかった従来版の多くのマーシャとは異なり、このマーシャは子どもらしい創意工夫を発揮し、自分の力だけで物事を解決できる強さを持ち合わせている。

 

「保護者に守られる少女」という大人が持ちがちな固定観念に陥ることなく、子どもの持つ溌剌としたエネルギーに向けたカサートキナとワシリョーフの観察眼が光る一場面だったと思います。

 

そしてこのバージョンは、夢に現れた王子とそっくりなドロッセルマイヤーの甥がマーシャに紹介されるところで物語を終えます。

 

ここで見せる王子=甥の目には、夢の王子にはなかった、一人の女性であるマーシャを射貫くような眼差しを湛えています。現実の男性の確とした存在感は、今、マーシャが結婚という決められたコースに確実に乗せられたことを観客に読み取らせます。

 

しかし、夢の中に耽溺していたい私のような観客にとっては、彼女がもはやこのコースから外れて生きていくことは難しいのだろうと思うと、どこか胸がチクリと痛むのを覚えるのです。

 

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悲哀と気高さを湛えたロパートキナと静かに寄り添うイワンチェンコ マリインスキー・バレエ団『白鳥の湖』

TAG:#評・感想

 

ロパートキナ イワンチェンコ 白鳥の湖
埋め込み元:The New York Times

今、マリインスキー・バレエ団公式YouTubeにて、ウリヤーナ・ロパートキナ&エフゲニー・イワンチェンコ主演『白鳥の湖』の湖畔の場面が配信されています。

 

ロパートキナの白鳥は言葉にならないくらい美しい。深い悲しみを湛えた表情と、それが決して甘さにつながらない気高さが、彼女の比類なき音楽性とともに伝わってきます。

 

一人のダンサーによる同じ演目を複数の映像や舞台で見ると、そのダンサーの技術的な成長だったり表現の進展だったりに気づくものなのです。しかしロパートキナに関しては、私がバレエを見始めたときにはすでに、美しい腕、首のライン、頭部の傾きがこれ以上の到達点は存在しないのではないかというほどに完成されていました。

 

だから(これはもう私の見る眼の問題でもありそうだが、)今回の映像も私の記憶の中のロパートキナから大きく動きや情感が変わっているということはありません。

 

とはいえ、私にとっては初めて見ることになるイワンチェンコのジークフリートを相手とした『白鳥の湖』では、また異なる作品の魅力が引き出されますね。

 

例えばDVDにもなっているダニーラ・コルスンツェフだと、ジークフリートらしい(言ってしまえば、オディールに騙されても仕方のないと説得される脳天気で)素直な愛情がオデットとのアダージョで表出されます。

 

ロパートキナのような心痛と憂いの姫も、こうした彼の気取らない人間的な暖かみに触れて安らぎを覚えるといった趣ですが、イワンチェンコのジークフリートはロパートキナの深い悲しみに静かに寄り添います。

 

ますますロパートキナの悲哀と気高さが際立つ今回の映像は必見です。

 

なお5月8日真夜中の0時より同キャストの花嫁選びの舞踏会の場面が配信される予定です。

 

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静かで澄み切った夜空の下の二人きりの時間 ナチョ・ドゥアト版『くるみ割り人形』

TAG:#評・感想

 

12月31日、ミハイロフスキー・バレエ団によるナチョ・ドゥアト振付『くるみ割り人形』のLIVE配信を鑑賞しました。真夜中の夢の世界を美しく描いた好バージョンです。

 

冒頭、ドロッセルマイヤーが登場し、クララ(あるいは姫)、王子、ネズミの操り人形を用いて何やら物語を言葉で説明します。しかし残念ながら、この部分は字幕なしのロシア語。作品全体に影響を与えていそうな重要な場面ですから、いつかきちんと理解して鑑賞できたらと思います。

 

マーシャとくるみ割り人形の二人だけの旅

その後の物語自体はオーソドックスなバージョンとほぼ変わりません。しかし一つ、大きく異なるところを挙げるとすれば、マーシャのイニシエーションを強調して描いているわけではないことです。

 

マーシャはネズミに靴を投げつけもしません。ネズミの王様を退治するのはくるみ割り人形であり、人間となったくるみ割り人形が再び元の人形に戻るまで、マーシャはくるみ割り人形と二人で歩いて旅をしただけなのです。

 

それにドロッセルマイヤーが二人の間にしゃしゃり出ることもなければ、お菓子の国の住人たちが二人に何かをベタベタと語りかけることもありません。

 

マーシャがクリスマスプレゼントとして与えられたのは、一夜の旅を通して大好きなくるみ割り人形と二人きりで過ごす時間でした。

 

それは彼女にとって人生でたった一度きりしかない大切な美しいものだったに違いありません。

 

横切らせることで表現した時間の経過

この「旅」という流れゆく時間をドゥアトは、上手から下手へ、あるいは下手から上手へとダンサーたちを横切らせるフォーメーションによって象徴的に描きます。

 

マーシャがネズミたちに追いかけられる場面では、彼女は上手と下手を往復しますが、袖から出るたびにくるみ割り人形のサイズが大きくなり、最後にはくるみ割り人形のダンサーの手を引っ張って走ってきます。

 

劇場という限られた箱の中で異なる時間と空間を作り出す手法として、しかもアニメーションのようにどこか愛らしい演出として脱帽ものです。

 

それからネズミと兵隊人形たちの争いの場面も左右に流れるフォーメーションによって表現。雪片のワルツではコール・ド・バレエが対角線上にアントルラッセで連続して飛び、あたかも雪片が一つ一つ舞い降りるのを目で追ってくような気分になります。

 

2幕冒頭、マーシャとくるみ割り人形がお菓子の国へと移る場面では、お菓子の国の住人たちが町中の道を話しながら歩くかのごとく、対角線上に移動していきます。

 

ここは多くのバージョンでは気球などに乗る演出を取りますが、ダンサーたちを横切らせるドゥアト版では乗り物に乗らなくても十分に場所の移動と時間の経過―くるみ割り人形とマーシャ二人きりの素敵な旅―を表現できるのです。

 

形式化され繰り返される動きの数々

もう一つ、ドゥアトの振付で凄いのは、一目見て観客の記憶に刻ませるユニークで可愛らしい動きです。それら一つ一つは意味を持ち、随所で繰り返されます。

 

例えば1幕で相手と手を打ち合わせる子どもたち。ドゥアト版『眠れる森の美女』の花のワルツにも出てくる、愛らしいことこの上ない動きは、1幕終わりにも再登場します。

 

雪のワルツの終わり、マーシャと王子が肩を寄せ合って横座りし、互いの手を合わせるのです。1幕の子どもたちの無邪気な愛らしさを残しつつ、愛する人の肌に初めて触れるというロマンティックな意味も込めた、非常に美しい場面です。

 

その他にも印象的な動きは多くあります。ネズミと兵隊の戦いの場面で、くるみ割り人形が仲間の兵隊たち一人ひとりの頭をポンと銃で叩いて整列させるところは、マーシャの家のパーティにおける、やんちゃな男の子たちがフリッツにおもちゃの銃で頭をはたかれて整列させていた場面を思い起こさせます。

 

くるみ割り人形が人間となるシーンのドゥアトの描き方も独特。電動の人形が関節一つ一つを動かしていくようなのです。この動きは王子となったくるみ割り人形が元の人形に戻るときにも再登場します。

 

子どもたちには手を叩かせたドゥアトは、パーティの大人たちには(やや戯画的な)カメラのレンズを前にしたような澄ましたポーズを取らせます。

 

2幕、マーシャが踊る金平糖の精のヴァリエーションでは、タンデュでポーズを取る動きが出てくるのですが、これをパーティの大人たちの動きと相似形と見るのは深読みに過ぎるでしょうか。

 

こうしたユニークに形式化された動きの数々は、現実の生々しさを和らげ、Fairytaleと呼ぶに相応しい夢の世界の愛らしさを作り出しています。

 

マーシャに適役のアナスタシア・スミルノワ

ドゥアト版『くるみ割り人形』に命を吹き込んだ最大の功績者はマーシャ役のアナスタシア・スミルノワでしょう。

 

一目でワガノワ出身と分かる四肢の隅々まで繊細な踊りで、良家の娘らしい愛らしい気品に満ちて輝いた少女を演じています。彼女の当たり役だと思います。

 

くるみ割り人形のレオニード・サラファーノフも、王子としての頼もしさと年齢を感じさせない若々しさに溢れ、ジャンプの高さは健全。

 

舞台美術はシンプルですが、それだけにマーシャの心の内の物静かで繊細な世界観を表現できています。中でも1幕における、一粒一粒が煌めく星空の背景は美しい。

 

パーティのときはその背景が三角に覆われ、ツリーとして使われていますが、ツリーが大きくなる場面で覆いが外れ、背景いっぱいの星空が出現します。その下で星に煌めく雪の精たちが踊ることになります。

 

ドゥアト版ほど、恋人たちの囁き声が聞こえてきそうな静かで澄み切った夜空を作り出したバージョンを私は見たことがありません。

 

■キャスト

 

Masha — Anastasia Smirnova

The Nutcracker/Prince — Leonid Sarafanov

 

Choreographer: Nacho Duato

Stage Designer: Jérôme Kaplan

Lighting Designer: Brad Fields

Costume Technology: Alla Marusina

Choreographer’s Assistants: Tony Fabre, Gentian Doda

Répétiteurs: Zhanna Ayupova, Elvira Khabibullina, Kirill Myasnikov, Denis Tolmachov

 

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