正義とは何なのか―第一次世界大戦を経験した二人の作曲家 舞台稽古見学会&オペラトーク『修道女アンジェリカ/子どもと魔法』

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10月1日から粟國淳演出・沼尻竜典指揮のオペラ『修道女アンジェリカ/子どもと魔法』が新国立劇場にて上演されます。この舞台の稽古見学会の無料招待に抽選で当たったので、一足先に見てきました。またこの二人によるオペラトークにも参加してきたので、その内容もご紹介したいと思います。

 

キアーラ・イゾットン演じるアンジェリカ―激しい感情の吐露

プッチーニの『修道女アンジェリカ』は修道院が舞台です。アンジェリカは元は身分の高い貴族だったものの、未婚のまま出産したことで、修道院に入れられていました。7年間、家族の訪問を受けずに過ごしてきましたが、あるとき叔母の公爵夫人が訪れます。何よりも知りたかった息子の消息を尋ねると、息子は2年前に亡くなっていたのでした。アンジェリカは天国の息子に会おうと毒薬を仰ぎますが、それはキリスト教では大罪に当たることに気づき、絶望します。

 

修道院の石造りを印象づける舞台美術は、この作品の舞台であるイタリアを意識したものであるのと同時に、エッシャーにもインスパイアされて作られたのだといいます。

 

舞台転換は、舞台床が横にスライドすることで示されます。ある場所から別な場所に移っているはずなのですが、どこまでも石造りの構造が続くだけですから、スライドされても同じ場所のように見えてきます。それが修道院というものの閉鎖性を物語るようです。オペラトークによれば、この舞台美術の射程は社会にまで及びます。「エッシャーの絵画は必ずどこかに戻ってくる世界だ。それが大きくなれば社会である」。

 

毒薬を仰ぐ最終盤では、それまでのスライド式とは異なる、意表を突く舞台転換が用意され、アンジェリカが神と向き合うに実にふさわしい空間を演出しています。

 

私が『修道女アンジェリカ』で驚いたのは、生身の人間の感情が克明に描かれているということです。アンジェリカは、決して女々しく打ちひしがれているだけの女性ではないのです。叔母から妹の結婚相手について「家名を汚したお前の妹を受け入れてくれる人だ」と言われれば、「私の母の妹がそのような冷酷なことをいうなんて」と激します。

 

「同じ格好をしている修道女は個が分かりにくい。彼女たちは人間離れしているけれども、人間であることには変わりないのだ」(オペラトーク)。

 

アンジェリカは本当は激しい性格なのでしょうね。激しいというよりも、人間らしく生きるためには激しくならざるを得ないといった方が正しいかもしれません。だから彼女は人を愛して子どもを産んだのだろうし、息子の死を知って(いわば見境なく)毒薬を飲むのだと思います。キアーラ・イゾットンが歌うアリアは激しい感情の吐露のようで、オペラ初心者の私ですら思わず胸が締め付けられました。

 

この作品はアンジェリカが見る奇跡で締めくくられますが、粟國淳の奇跡の描き方には注目です。

 

「アンジェリカが見る奇跡は本当に起きたのかという問題がある。初演では実際に息子と聖母がアンジェリカへと近づいていく演出だったらしいが、プッチーニの手紙を読むと、プッチーニはそれに納得がいっていない様子だったことがうかがえる。私自身はアンジェリカが奇跡を見たのだといえば、それは奇跡だったのだと思っている」(オペラトーク)。

 

毒薬を仰ぐアンジェリカの背後には、刺々しい筆致で十字架を描いた石版があります。この十字架は公爵夫人との会話の場面から存在していたもの。その刺々しさときたら、ささくれ立って緊迫した叔母と姪の心理を表すようでしたが、奇跡の場面に近づくにつれて、荒い筆致の十字架の周辺がわずかに光を帯びていきます。照明の当たり具合によるものなのでしょうか。それとも私の目の錯覚なのかしら。ぜひ舞台で見ていただきたいラストです。

 

『子どもと魔法』―人のアクションが別なことへとつながる

今回の公演は『修道女アンジェリカ』と『子どもと魔法』のダブルビルです。「魔法の世界は本当に起きたのか。それとも夢だったのか。これは『アンジェリカ』と共通する」(オペラトーク)。

 

共通するといえば、舞台転換のありようも、この二作品で粟國淳の演出は似ています。『アンジェリカ』における毒薬を仰ぐシーンへの切り替えがそれまでのスライド式とは異なるということは先述の通りですが、『子どもと魔法』では家の中と外の切り替えが少し意表を突く演出となっています。

 

ラヴェルの『子どもと魔法』は、母親から小言を言われた男の子が部屋にあるものに当たり散らしたものの、ついに当たり散らした相手である椅子や柱時計や動物たちから復讐されるという話です。ちなみに初演はジョージ・バランシンが振り付けていて、medici.tvではイリ・キリアンが振り付けた作品が配信されています。

 

私が招待してもらったゲネプロ見学会はTwitter(X)で感想を投稿することが義務づけられており、元々褒め言葉を撒き散らす予定でいたのですが、配られた投稿要項には「皆様の率直なご感想をお待ちしております」とあるので、率直に書かせていただきます。『アンジェリカ』には大変満足でしたが、『子どもと魔法』は私のセンスにほとんど合わなかったです。

 

ただ強く言いたいのは、ラヴェルの音楽は本当に楽しいということです。オペラトークでも紹介されていましたが、スライドホイッスルなど子どものおもちゃも楽器として使用されています。また初演ではリテラル(?)という今は存在しない楽器が用いられていたそうで、現在では代わりにピアノを使用しているそうです。パリ万博の影響で、中国茶碗などにはシノワズリが見て取れます。

 

それに私のセンスはどうも人とずれているので、もはや「私が面白くないものは大ヒット」の法則すら生まれつつあります。最近、親しい友人とミュージカルに行くようになりましたが、私はほとんどの大人気プロダクションで気に入ったためしがないですからね・・・。

 

さて、『子どもと魔法』で印象的なのは映像を用いた舞台作り。ただその使い方が私には陳腐に見えたのも事実です。また舞台美術と衣装は、『アンジェリカ』と同じ横田あつみと増田恵美であるにもかかわらず、あまりピンと来なかったです。あ、でも教科書のシーンの子どもたちが着用していたアフロとパジャマレンジャーみたいな衣装は可愛かったです。

 

そして最大の楽しみであった伊藤範子の振付も個人的には微妙。ダンサーのお名前が分からないのですが、バレエテクニックを使っているので、バレエダンサーであることは間違いありません。

 

一つだけ気に入った振付シーンがあるとすれば、それは炎の場面。男の子を飲み込もうとする炎のうねり迫るさまがよく描けていたと思います。

 

オペラでは、男の子は動物たちから、自分が殺してしまった生き物には家族や恋人がいて、彼の行為のせいで多くの動物を悲しみの淵へと追いやってしまったことを知ります。以前、イリ・キリアンの作品を見たときには、字幕があったんだかなかったんだか、ほとんど歌詞の内容を知らなかったのですが、今回きちんと歌詞を見て意外に思ったことがあります。

 

この男の子は暴れん坊ですが、その動機は思いのほかに無邪気なのです。リスを罠にかけたきっかけは「君のきれいな瞳が見たかったから」。

 

「きれいな瞳を見たい」なんていう、およそ大人には思いつきもしない詩的な世界が子どもの中にはあるけれども、人々と、生き物たちと共生していくためには、他者には他者の世界を知らなければなりません。それは動物たちも同じで、このオペラの最後には、動物たちもこの男の子の真の姿を知っていくこととなります。

 

「『子どもと魔法』は、人のアクションが別なことへとつながることを描いている」「正義とは何なのか。第一次世界大戦を経た作曲家だからこその作品だ」(オペラトーク)。

 

第一次世界大戦を経た作曲家という意味ではプッチーニも同じ。「アンジェリカの、子どもの消息を知りたいという母として当然の願いが、社会のルールでは許されない」。何が正しくて、何が正しくないのか。『アンジェリカ』と『子どもと魔法』が組み合わされているゆえんでもあります。

 

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パリ・オペラ座とは異なる素直で穏やかな王子 ヌレエフ版『白鳥の湖』(ミラノ・スカラ座バレエ団)

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先日はウィーン国立バレエ団のルドルフ・ヌレエフ演出の古典の配信がありましたが、本日からミラノ・スカラ座バレエ団によるヌレエフ版『白鳥の湖』が配信されています。パリ・オペラ座バレエ団以外のバレエ団がヌレエフ版を踊っているのを見るたびに同じことを言っている気がしますが、同じヌレエフ版と思えないくらい、やはりニュアンスが異なりますね。

 

ミラノ・スカラ座のダンサーたちは、驚くほど動きが明快です。この公演は相当に音楽のテンポが速いのですが、コール・ド・バレエの誰一人として、音から外れることなく、鮮明に動きを見せていきます。それが1幕では若々しい印象を与え、あるいは3幕のマズルカでは躍動感として立ち現れてきます。

 

1幕のパ・ド・トロワの女性の第二ヴァリエーションもダンサー泣かせの早さですが、まるで音と楽しげに戯れるように踊ったGaia Andreanòには驚嘆でした。なお、第一ヴァリエーションのCaterina Bianchiは流れるような踊りが印象的。Mattia Semperboniは最後のジャンプで上体の引き上げが甘いのが残念でしたが、力強い踊りを見せてくれました。

 

オデット/オディールはMaria Celeste Losa。以前の『ラ・バヤデール』の配信ではガムザッティを演じていました。手脚の長いダンサーですが、その分、オデットではやや繊細さに欠ける気はしました。

 

ただ、これはほとんど好みの問題だと思います。上体をしなやかに大きく動かしているのですけれども、どうも私には哀しみの押し売りのように見えてしまって・・・もう少し抑制された表現の方が私は好きです。テレビの大画面を近距離で見ていたから、そう思っただけなのかもしれないです。舞台だったら、これくらいの動きの方が伝わった可能性もあります。

 

もう一つ、彼女の大仰な動きに戸惑ってしまったのには、やはりパリ・オペラ座バレエ団のダンサーだったら、このような曲線的な腕の動きは見せないだろうとも思ったからです。また、白鳥が湖畔に舞い降りる場面は、パリ・オペラ座のオデットであれば、手をぐっと下に押しつけ、上を向くのですが、Maria Celeste Losaは腕を浮かせ、下方を見つめています。マニュエル・ルグリ監督、結構、踊り方はダンサーに任せているんですね。

 

オデットはそこまで私の好みではなかった一方で、オディールはLosaによく似合います。長い手脚が鋭く空気を切り、オディールという人のダイナミックなオーラが伝わってきました。

 

ロットバルトのEmanuele Cazzatoは、初めこそもう少し威圧感ないし存在感が欲しい気もしましたが、第3幕のヴァリエーションではまるで自身の支配力を楽しんでいるかのようで、指先にまで近づいたロットバルトの勝利を感じさせるものでした。

 

Navrin Turnbullの王子もこれまでヌレエフ版では見たことのない王子でした。ヌレエフ版の王子といえば、憂愁に沈んだかと思うと、些細なことに苛立ち、老成しているのと同時に精神的に幼い人間として描かれることが多いですが、Navrin Turnbullの王子はロットバルトにアンビバレントな感情を抱いているわけでもなければ、極度に繊細なわけでもありません。

 

とても穏やかで素直な性格なのです。そもそもTurnbullはすべてのフォルムが完璧で、何の癖もない踊りをするダンサー。クリアで若々しい動きも相まって、まだ何の色にも染まっていない少年のような朗らかさが感じられます。

 

そのような素直な王子だからこそ、ロットバルトの支配と抵抗というヌレエフ版ならではのテーマとの化学反応が面白かったです。彼はときには思うところがあるのか、顔をやや曇らせることもありましたが、基本的にはロットバルトに腕をつかまれているときですら、微笑を浮かべているような人間です。

 

パリ・オペラ座のダンサーたちのように、自我の芽生えた人間が彼を支配する人物に反抗を企てるというのではなく、自我がいまだ成熟しきっていないからこそ、かえって夢という無意識の中でそれが強く意識され、オデットの解放を通して自我を解き放とうとする。もちろんその企ては成功しません。Turnbullが作り上げたのはそういう物語だったのです。

 

■キャスト

Choreography

Rudolf Nureyev

from

Marius Petipa & Lev Ivanov

Conductor

Koen Kessels

Staging

Rudolf Nureyev

Sets

Ezio Frigerio

Costumes

Franca Squarciapino

 

CAST

Odette/Odile

Maria Celeste Losa

Siegfried

Navrin Turnbull

Rothbart

Emanuele Cazzato

The queen

Luana Saullo

Pas de trois

Caterina Bianchi, Gaia Andreanò, Mattia Semperboni

Waltz soloists

Linda Giubelli, Agnese Clemente, Camilla Cerulli, Alessandra Vassallo, Gioacchino Starace, Domenico Di Cristo, Federico fresi, Gabriele Corrado

Big swans

Alessandra Vassallo, Gaia Andreanò, Giulia Lunardi, Letizia Masini

Little swans

Agnese Di Clemente, Giordana Granata, Linda Giubelli, Marta Gerani

Czárdáa soloists

Greta Giacon, Darius Gramada

Spanish

Francesca Podini, Alessandra Vassallo, Gabriele Corrado, Gioachino Starace

Neapolitan dance soloists

Agnese Di Clemente, Domenico Di Cristo

Six princesses

Gaia Andreanò, Caterina Bianchi, Marta Gerani, Paola Giovenzana, Asia Matteazzi, Martina Valentini

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Il Corpo di Ballo del Teatro alla Scala

 

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マチュー・ガニオ―第一級の美が生み出した理念としての火の鳥 パリ・オペラ座バレエ団『ベジャール・プログラム』(火の鳥/さすらう若者の歌/ボレロ)

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NHKプレミアムシアターでパリ・オペラ座バレエ団『ベジャール・プログラム』が配信されています。中でもマチュー・ガニオの『火の鳥』はガニオにしかできない素晴らしい解釈です。彼の美しい姿と、ベジャール作品の持つ力強さに胸打たれて、見終わった後、思わず涙がぼろぼろこぼれてしまいました。

 

第一級の美だけが到達できる『火の鳥』

ベジャールの『火の鳥』は、火の鳥としてのパルチザンのリーダーが戦いの中で傷つくも、不死鳥が現れて復活を遂げるというストーリーです。ガニオの火の鳥は、戦うリーダーとして、ベジャール作品のキャラクターとしてあまりに美しすぎるかもしれません。初めガニオの優美さにただひたすら目を奪われるあまり、全くベジャール作品としての内容が頭に入ってこないなと苦笑いしてしまったほどでした。

 

しかしガニオの美しさは単なる美しさで終わらない。これまで火の鳥をリーダー、すなわち生きた人間として捉えていましたが、ガニオの理想的な美しさを見ていると、火の鳥とは生きた形を取る人間ではなく、「理念」なのではないかと思い始めました。

 

そう思うと、釈然とする振付も多くあります。例えば、連判のように自分の手に息を吹きかけ、メンバー内でそのぬくもりを回していくシーンや、火の鳥が心臓から情熱を分け与えるシーンなどは、リーダーがメンバーとの絆を強固にする場面だとしてもよいけれども、「理念」がメンバー内に伝達していくさまを描いたとも捉えうるのではないでしょうか。

 

ガニオの火の鳥にメンバーがついていく場面に至っては、メンバーたちが美しい火の鳥に、美しい理念に惹かれ、思わずついていってしまった―美しい鳥に人が惹かれ、飛び立った後を追うということはしばしばあるはず―といった風です。ガニオの波打つ腕はまさに美しい鳥の羽ばたきです。

 

私はガニオのようなダンスール・ノーブルが踊るベジャール作品というものをほとんど見たことがありませんでしたが、ガニオは彼の素質から程遠いところにありそうな振付ですら、清新な意味を与えてしまいます。傷ついた火の鳥が何度も示す2回連続のカプリオールに、飛びたくても飛べない火の鳥の非力を、ガニオの踊りほどに感じたことはありませんでした。

 

不死鳥はフロリモン・ロリユー。ほんの少しあどけない雰囲気があるので、力強さというよりも若々しい生命の力を感じさせます。そして彼もやはり美しい。

 

パリ・オペラ座バレエ団による第一級の美が作り出した『火の鳥』でした。

 

自己と影の濃密な関係を描いた『さすらう若者の歌』

『さすらう若者の歌』は青のソリストがフロラン・メラク、赤のソリストがオドリック・ベザールです。この夏、『オペラ座ガラ』でアントワーヌ・キルシェールが見事な『さすらう若者の歌』を見せてくれたところだったので、それに比べると私の心に刺さらなかったのは事実です。

 

ただこれはもはや好みの問題。大人になりきらない少年のようなキルシェールとはメラクは生まれ持った身体が違うのだから、キルシェールには決してなれないし、なる必要もありません。

 

その代わり、ひたすらキルシェールしか見ていなかった『オペラ座ガラ』とは異なり、この配信では二人の関係性がよく見えました。支えられることと、従わせることとの間の微妙な揺らぎとでもいいましょうか。

 

二曲目で見せる二人の蜜月を経て、青の青年は赤の青年ではない何者かに恋い焦がれる。赤の青年は、青の青年の抗いに屈せず、青の青年をあるべき軌道に戻そうとするのと同時に、疲れ果てていく青の青年を肩から支える。その支えすら青の青年にとってみると支配だと感じるのか、反発する。

 

フロイトやユングの理論を思い起こさせる自己と影の擬人化としての二人の青年の関係を濃密に描いた舞台だったと思います。

 

ありのままの姿の尊さと凄まじさ

最後はアマンディーヌ・アルビッソンによる『ボレロ』。

 

アルビッソンがどうのこうのというより前に、15年ぶりに見ましたよ、この変に奇をてらったゴミアングル!!!カメラ監督の方は『ボレロ』を単調な繰り返しだとでも思っているのですかね。「間を持たせよう」とするかのように、頻繁にアングルを変えるから、『ボレロ』特有のエネルギーの抑揚が伝わりにくい。それから「今じゃない!」という謎タイミングでの頭上アングル。こういう撮影は2005〜2010年くらいは酷かった覚えがありますが、2015年くらいにはとうとう撲滅されたと喜んでいたのに・・・まだ生き残っていたんかい。

 

『ボレロ』は名演が多くあるので、アルビッソンがそれら名演に肩を並べたかというと、(好みの問題もあるだろうが)自信を持ってイエスとは言えませんが、クライマックスに向かって次第にエネルギーを増していく力強い踊りとなっています。

 

そして疲労の限界への到達を取り繕うことなく、芸術として見せていくさまは、生身の人間のありのままの姿の尊さと凄まじさを感じさせるものでした。

 

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ウィーン国立バレエ団の衣装だったから気づいたヌレエフの振付の秘密 ウィーン国立バレエ団『ドン・キホーテ』

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ウィーン国立バレエ団 リュドミラ・コノヴァロワ ダヴィデ・ダド
埋め込み元:ウィーン国立バレエ団

ウィーン国立バレエ団からルドルフ・ヌレエフ版『ドン・キホーテ』が配信されました。パリ・オペラ座バレエ団で採用されているバージョンですが、同じバージョンにもかかわらず、舞台から伝わる雰囲気が両バレエ団で全く異なっていて驚きました。

 

何が違うのかと問われると、うまく言葉にできないのですが、濃密度が違うとでもいうのでしょうか。

 

まずウィーン国立バレエ団は舞台が若干暗めなのですよね。そしてあの強烈なパリ・オペラ座の衣装に比べると、どこか地味で、一人ひとりの衣装の意匠を変えているのがかえって印象をぼやけさせ、もっといえば色あせた配色となってしまっているように思えます。

 

また音楽のテンポがゆっくりめなのもあって、ヌレエフ版ならではの華麗な足さばきからは『ドン・キ』らしい楽しさが薄れてしまった気がしたし、演技もやや物足りなかったのではないでしょうか。

 

舞台の最初に登場して第一印象を支配してしまうドン・キホーテ役のZsolt Törökに、騎士らしい高潔さがなかったのも、気に入らなかったプチ要因かもしれません。

 

こうした印象が積み重なってか、全体的には取り立てて悪いところはないはずなのに、どうしてか(特に1幕は)今ひとつ湧き上がる興奮に欠けた舞台だったように思えました。

 

リュドミラ・コノヴァロワのキトリは、パリ・オペラ座バレエ団のダンサーにありがちな豪胆なキトリとは異なり、大人かっこいい女性です。その分、床に扇子を打ち付けたり、キスされた唇を腕で拭ったりする1幕では大胆さに欠ける気もして、なかなか彼女の良さが分からなかったのですが、次第に色っぽさとクールな格好良さが結びついた魅力に虜になっていきました。特にジプシーシーンにおける首筋の色気と大人っぽさは素晴らしいです。パリ・オペラ座のダンサーでは決して見られません。

 

ドゥルシネアの解釈も独特でした。『眠れる森の美女』の夢の場面に似た、まるでドゥルシネア自身が眠りの中にあるような余情を感じさせます。

 

そして何と、この配信の森の女王はオリガ・エシナ。私の中ではエシナというと、冷たいほどに美しいイメージがあったので、森の女王の姫然とした夢見心地な柔らかさには、正直エシナとは気づきませんでした。

 

バジルのダヴィデ・ダトはそつなく踊ってみせたものの、個人的にはもう少し立った個性が欲しかったです。

 

エスパーダのBrendan Sayeは颯爽としている上に、ほのかにセクシーな余韻を残す踊りで、この役にふさわしかったのではないでしょうか。街の踊り子のケテヴァン・パパヴァはからっとして明るい。

 

そのほか印象に残ったのは、ジプシーの頭のArne Vandervelde。動きがワイルドでセクシーで・・・・・キャキャキャッって感じでした笑

 

先述した通り、パリ・オペラ座と違う雰囲気に戸惑いを覚えたのは事実ですが、異なる衣装だったからこそ気づいたことがありました。それは、第3幕のグラン・パ・ド・ドゥのアダージョの冒頭、キトリがドゥミ・スゴンドの腕で空中で5番になるリフトです。

 

多くの版ではパ・ドゥ・シャが多いと思います。この5番、ヌレエフ版ではドン・キホーテの夢うつつに、ドゥルシネアが登場する際に出てくるリフトだということに、今回初めて気づきました。ドゥルシネアとキトリとで動きがそれとなく地続きになっていたのですね。

 

マニュエル・ルグリとオーレリ・デュポンの『ドン・キホーテ』のDVDは子どものころに買ったもので、小さいころから擦り切れるほど見ていました。それにもかかわらず、今回初めて振付がシンクロしていることに気づいたのは、ウィーン国立バレエ団の衣装が、ドゥルシネアと第3幕のキトリとで両方とも三角形をモチーフにしており、疑似的な相似形となっていたからです。

 

■キャスト

Kitri

LIUDMILA KONOVALOVA

Basil

DAVIDE DATO

Don Ouixote

ZSOLT TÖRÖK

Sancho Pansa

FRANCOIS-ELOI LAVIGNAC

Lorenzo

IGOR MILOS

Gamacht

JACKSON CARROLL

Zwei Freundinnen Kitris

• SONIA DVO?AK, ALEKSANDRA LIASHENKO

Eine Straßentänzerin

KETEVAN PAPAVA

Espada

BRENDAN SAYE

Ein alter "Zigeuner"

KRISTIAN POKORN?

Eine alte "Zigeunerin"

ADI HANAN

Ein "Zigeuner"

ARNE VANDERVELDE

Zwei "Zigeunerinnen"

ILIANA CHIVAROVA, HELEN CLARE KINNEY

Dic Königin der Dryaden

OLGA ESIINA

Dulcinea

LIUDMILA KONOVALOVA

Amor

ELENA BOTTARO

Drei Dryaden

ALISHA BRACH, GALA JOVANOVIC, SINTHIA LIZ

Erste Brautjungfer

NATALYA BUTCHKO

Der Verwalter

ANDRÉS GARCIA TORRES

Die Verwalterin

YUKO KATO

 

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