永久メイ、金子扶生―絶品のグラン・パ・ド・ドゥ NHKバレエの饗宴2024

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NHKバレエの饗宴2024
埋め込み元:NHKバレエの饗宴

今年のNHKバレエの饗宴はどの作品も完成度が高く、それぞれのバレエ団やダンサーたちの個性の違いを楽しめる機会となりました。

 

藍と遊びに溢れた洒脱な作品

東京シティ・バレエ団の踊ったイリ・ブベニチェク振付『L’heure bleue』は、ルール・ブルー、すなわち日没後から日の出前の空に現出する薄明で幻想的な「青の時間」に、西洋古典絵画の額縁から絵の登場人物が抜け出したら・・・という趣向の作品です。

 

あるひと組の男女は額縁を小粋に弄んで弾むように踊り、ある男性は憂愁に浸る。中央の大きな絵からは気取った女性が現れ、両脇に置かれた二つの単身肖像画の男性たちが彼女をめぐって恋のバトルを繰り広げます。恋の象徴として描かれたのかもしれない裸体の腰に布を巻いた男性が、恋に素直になれない女性を一人の男性へと導いていきます。

 

振付は、ロココ時代のように大仰で気取っているのだけれども、洗練された印象を与えています。この作品は以前にも鑑賞したことがありますが、そのときよりもさらに東京シティ・バレエ団のダンサーたちの身体に馴染んでいたように思います。彼らはクラシックのテクニックそのものからして絵画のように美しいので、絵から抜け出したという設定にも説得力があります。愛と遊びに溢れた作品を洒脱に演じてくれました。

 

絶品のグラン・パ・ド・ドゥ

海外からは永久メイとフィリップ・スチョーピン、金子扶生とワディム・ムンタギロフがパ・ド・ドゥで出演しましたが、同じお姫さまと王子さまの役柄でありながら、それぞれに雰囲気が異なっていて、両者ともに絶品でした。

 

永久メイとスチョーピンが踊ったのは『眠れる森の美女』のグラン・パ・ド・ドゥ。永久メイのオーロラは幸福と美徳がきらりとした輝きになっているかのよう。昨年の『バレエの美神』で見たときから、さらに柔らかな気品が増しました。スチョーピンのデジレは、余計な装飾を排した、極めて端正でノーブルな王子でした。

 

一方、金子扶生とムンタギロフの『くるみ割り人形』のグラン・パ・ド・ドゥは、相手を包み込むような大人な品格に満ちていました。アダージョは音楽の豊かさを身体に移し替えた踊りで、お菓子の国の統治者の器の大きさを見るようでした。金子扶生が主演したロイヤルシネマのときの『くるみ割り人形』に比べて、金子は蠱惑的なニュアンスを抑えています。今回は踊り方を変え、多く語らないことでミステリアスな雰囲気を醸し出していました。ムンタギロフの王子はソフトな趣の中に心温まる優しさがあります。

 

小㞍健太振付『幻灯(改訂版)』は小㞍自身と中村祥子によるデュエットです。デュエットと書きましたが、二人の別個の人間が描かれているというよりも、作品としては一人の人間のたゆみなき営みを捉えているように思えます。小㞍健太が中村祥子の内面に響く反響音のような存在に見えるのです。

 

「幻灯」とは強い光を照らして映写幕へ写してみせる装置のこと。この作品は装置も秀逸で、ダンサーの身体を鏡のように写し出す舞台床は作品タイトルにまつわる想像力を掻き立てます。リヒターの残響音に似た音楽も作品にぴったりでした。

 

小㞍健太は中村祥子の影のように彼女の動きを追いかけ、あるいは彼女にぴったりと寄り添ったリフトを繰り広げます。そうかと思うと、楽しげに踊る中村祥子の背後で、重い足取りを前ヘと進めて舞台を横切っていきます。ここに描かれるのは、自身を内面で支える何者かに導かれ、支えられ、しかしあるときには彼を拒絶し、葛藤する一人の女性の姿であり、強く楽しげな表情の裏には厳しい忍耐があるということなのです。

 

中村祥子という一人の人間が自らに疑問し、問いかけてきた人生の命題が、小㞍健太というダンサー、舞台床、音楽という媒体に反響し、増幅する。味わい深い作品でした。

 

曇りなき澄みきった明るさ

新国立劇場バレエ団による『ドン・キホーテ』は(前日にロイヤルシネマの活気溢れる『ドン・キホーテ』を見ていただけに)古典バレエとしての品格を印象づける仕上がりとなっていました。

 

川口藍と中島瑞生によるボレロでは、特に中島瑞生の端正な雰囲気に目が惹かれます。第1ヴァリエーションの山本涼杏は通常よりもテンポ速く進められた中盤のシェネを美しくまとめ、第2ヴァリエーションの直塚美穂は音楽を可視化したような品位ある踊りを見せてくれました。

 

米沢唯のキトリはことさらに誇張をせず、さらりと踊るところに大人の余裕を感じます。速水渉悟のバジルは若々しさに溢れていました。

 

曇りなき澄み切った明るさに満ちた華やかな締めくくりでした。

 

■キャスト

『くるみ割り人形』からグラン・パ・ド・ドゥ

振付:    ピーター・ライト(イワノフ版に基づく)

音楽:    チャイコフスキー

出演:    金子扶生(英国ロイヤル・バレエ団プリンシパル)、ワディム・ムンタギロフ(英国ロイヤル・バレエ団プリンシパル)

 

新国立劇場バレエ団

『ドン・キホーテ』第3幕

振付:    マリウス・プティパ、アレクサンドル・ゴルスキー

改訂振付:アレクセイ・ファジェーチェフ

音楽:    ミンクス

出演:    米沢唯、速水渉悟 ほか

 

東京シティ・バレエ団

L’heure bleue(ルール・ブルー)

振付:    イリ・ブベニチェク

音楽:    バッハ、モーツァルト、ボッケリーニ

出演:    岡博美、平田沙織、植田穂乃香、折原由奈、石塚あずさ、吉留諒、沖田貴士、福田建太、岡田晃明、林高弘

 

幻灯(改訂版)

振付:    小㞍健太

音楽:    リヒター ※この作品は録音音源を使用いたします。

出演:    中村祥子(Kバレエカンパニー名誉プリンシパル)、小㞍健太

 

『眠りの森の美女』からグラン・パ・ド・ドゥ

振付:    コンスタンチン・セルゲーエフ(プティパ版に基づく)

音楽:    チャイコフスキー

出演:    永久メイ(マリインスキー・バレエファーストソリスト)、フィリップ・スチョーピン(マリインスキー・バレエファーストソリスト)

 

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マヤラ・マグリ―愛し愛されることを謳歌するキトリ ロイヤルシネマ『ドン・キホーテ』(マヤラ・マグリ&マシュー・ボール)

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マヤラ・マグリ ドン・キホーテ
埋め込み元:ロイヤルシネマ

かねてから表明している通り、カルロス・アコスタ版『ドン・キホーテ』は、流れるようなテンポいう『ドン・キホーテ』最大の魅力を死滅させたバージョンだと思っています。

 

長野由紀氏の評に「『ドン・キホーテ』の第1幕は全体として緩やかなグラン・パ・ド・ドゥの形式となっている」というものがありましたが、逆にいえば改めて指摘されないと気づかれないほどに、純粋な古典バレエに付き物の形式性を薄め、踊りと踊りの間をシームレスにつなぎ、物語展開と踊りを絡めながら作品をテンポよく進めていくところに『ドン・キホーテ』の魅力があったはずです。しかるにアコスタ版はその流れをダンサーたちのかけ声でぶった切るという暴挙に出ています。

 

アコスタの意図としては臨場感を出したかったということらしい。それはこの版がケネス・マクミランの『マノン』の影響を受け、乞食を出し、砂埃をも感じられるような街の活気を演出しようとしていることからも分かります。

 

しかし、現実世界とバレエの舞台上における生き生きとしたリアリティというものは別物です。現実世界で私たちが使っている声をバレエの舞台の上に持ってきて簡単に臨場感が出るのだったら、演出家は誰も苦労しません。また個人的には第1幕におけるキトリの友人たちとバジルによるトロワがなくなったのも残念です。アコスタがあの生き生きとしたトロワの魅力を理解せずに消し去ってしまったのだとすれば、私とアコスタでは『ドン・キホーテ』理解の根本が全く異なっているのでしょう。

 

それぞれに役を生きたダンサーたち

ただ、アコスタ版にとって幸いだったのは、この版を踊るのが、一人ひとり役を生きるロイヤル・バレエ団のダンサーたちだったということです。流れを滞らせる演出には辟易しますが、ロイヤルのダンサーたちが踊ると、一つ一つの役それぞれに個性が表れ、アコスタが舞台に求めた臨場感は間違いなく出ていたと思います。

 

中でも輝いていたのが、マヤラ・マグリによるキトリです。マグリのキトリは、愛し愛されることを謳歌し、生きることが楽しくて仕方がない。私はずっとマグリはクールな人なのかと思っていたら、Instagramに投稿しているマシュー・ボールとの写真があまりにラブラブで驚いたことがあります。この舞台にはそういうマグリの素顔が上手く役に生きていたのではないでしょうか。第1幕のアダージョでは恋に心をときめかせるロマンティックな乙女心を見せ、第3幕のグラン・パ・ド・ドゥでは肩を揺り動かすところに色香と遊び心が入り交じる。心から愛を満喫する娘を演じきってくれました。

 

マシュー・ボールは生の舞台で見る方が彼の色男ぶりが伝わったのではないでしょうか。やはり映画だと、来日公演のときに見せてくれたようなむせ返るような色気は感じ取りにくいですね。一方、来日公演のときに気になった足さばきの緩さはこの数年で引き締まりました。狂言自殺のチャーミングさもたまりません。

 

脇役もしっかりしています。特筆すべきは、レティシア・ディアスによるシックなメルセデス・・・!きっと無駄口なんか叩かないようなクールな街の踊り子なのでしょうね。キトリと同じような赤の衣装を着ていても、楽天的なキトリとは性格を異にしています。カルヴィン・リチャードソンのエスパーダは(色男が好きな私にはそこまで刺さらなかったものの)華やかさがありました。

 

キトリの友人の前田紗江は踊りの端々に可愛らしさを覗かせ、もう一人の友人のソフィー・アルナットには、エネルギーの炸裂する作品でありながら、彼女本来の魅力と思しき品の良さを感じました。

 

イザベラ・ガスパリーニのキューピッドはいたずらっ子のよう。森の女王のアネット・ブヴォリは長身で素材は間違いのないダンサーですが、それにもかかわらず、華に欠けており、非常に勿体なかったです。今後、より上体を引き上げて、このダンサーにしか叶わない華と煌めきを見せてくれることに期待したいです。第3幕では、シャープなミーシャ・ブラッドベリと、雰囲気のあるルーカス・B・ブレンツロドによるファンタンゴが目を惹きました。

 

ギャリー・エイヴィスのドン・キホーテは賛否が分かれると思います。私としては、騎士を以て自ら任ずるドン・キホーテには高潔さが不可欠だと考えていますが、エイヴィスのドン・キホーテにはそれがありません。前時代的な古臭さにこそ今では失われた美徳が宿るというようなアナクロニズムに欠け、そこら辺の近所にいそうな妄想癖のあるおじいちゃんというにとどまっていました。

 

小道具豆知識

幕間インタビューでは小道具に着目し、舞台美術を担当したティム・ハットリーと小道具の管理担当者に話を聞いています。あ、そういえば、余談ですが、この版は舞台装置が大掛かりで、舞台床が狭くなっているためか、このシネマの闘牛士たちは滑ったり、けつまずいたり、つんのめったり・・・・・・みんなの憧れの闘牛士とは思えないダサさぶりでした。国王、王妃の天覧公演なのに大丈夫なのかい?笑

 

さて、インタビューによれば、ドン・キホーテが乗る馬は、中に人が入って歩みを進ませる仕組みになっているとのこと。てっきり御者役のダンサーが引っ張っているのだと思っていたので、びっくりしました。中の人は足につける衣装を馬と同じ素材にして馴染ませているという話だったので、第3幕の最後に馬が登場したときに注目して見てみたのですが、中に人がいると知って見ても、ぱっとは分かりにくいくらい人間の足はカモフラージュされています。こうした豆知識を確認できるのもシネマならではの面白さです。

 

■キャスト

【振付】カルロス・アコスタ、マリウス・プティパ

【音楽】レオン・ミンクス

【デザイナー】ティム・ハットリ―

【照明】ヒューゴ・バンストーン

【ステージング】クリストファー・サンダース

【指揮】

ワレリー・オブシャニコフ

ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団 

【出演】

ドン・キホーテ:ギャリー・エイヴィス

サンチョ・パンサ:リアム・ボズウェル

ロレンツォ(キトリの父):トーマス・ホワイトヘッド

キトリ:マヤラ・マグリ

バジル:マシュー・ボール

ガマーシュ(金持ちの貴族):ジェームズ・ヘイ

エスパーダ(闘牛士):カルヴィン・リチャードソン

メルセデス(街の踊り子):レティシア・ディアス

キトリの友人:ソフィー・アルナット、前田紗江

二人の闘牛士:デヴィッド・ドネリー、ジョセフ・シセンズ

ロマのカップル:ハンナ・グレンネル、レオ・ディクソン

森の女王:アネット・ブヴォリ

アムール(キューピッド):イザベラ・ガスパリーニ

ファンダンゴのカップル:ミーシャ・ブラッドベリ、ルーカス・B・ブレンスロド

 

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人間は未知に際してどのように行動するのか ディミトリス・パパイオアヌー『INK』

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ディミトリス・パパイオアヌー INK
埋め込み元:ロームシアター京都

この作品が観客に投げかけたのは、人間は未知に際してどのように行動するのかという問いでした。

 

上手に置かれたスプリンクラーから大量の水が放出され、舞台上は水浸しとなっています。男(ディミトリス・パパイオアヌー)がガラスの鉢に水を入れ、鉢に手を突っ込んでかき回し、そのまま手を抜くと、遠心力によって鉢は水を吐き出しながら回り続けます。そして、渦を巻いて鉢から飛び散る水の軌跡は、舞台を囲むカーテンに反射し、銀河のような模様を浮かび上がらせます――パパイオアヌーの詩的世界観が大量の水をもって展開されていきます。

 

そこに現れたのは、全裸の男(シュカ・ホルン)です。彼は舞台床に張られた透明なフィルムの下を這って出てきます。両生類のように足を折り曲げた姿を見ると、まるでこの大量の水がないと生きていけない未知の生物のようであり、生まれたての生き物の無防備さと生命力を持ち合わせています。

 

未知の生物の登場にしばらく呆然と立ちすくんでいた男は、全裸の男を覆うフィルムを剥がし、彼を外界に出してやります。しかしその次の瞬間には剥がしたフィルムを使って全裸の男を捕獲しようとするのです。そして嫌がる全裸の男を取り押さえた後、彼を鞭打ち始めます。

 

この作品は全編を通して暴力性を帯びています。それはとりもなおさず、人間と未知との出会いは、不幸なことに、暴力性を帯びているということでもありました。

 

着衣の男と全裸の男によって描かれる未知との遭遇は、全く異なる生命体の遭遇のみならず、ひと組のカップルの対峙や、新たに誕生した生命との出会いなど、作品を通して意味の色合いを変化させていきます。

 

二人の男は互いにフィルムを使って相手を捕獲しようとしますが、それはひと組のカップルが相手に対して優位に立つべく、いち早く束縛しようとする欲求に駆られているかのようです。もっといえば、重なり合う二人の四肢は濃密なエロティシズムを湛えています。

 

やがて彼らの間から胎児が生まれてきます。胎児は裸体の男となり、着衣の男に鞭打ちによって調教されていきます。

 

思えば、水は生命の源でした。地球に生命が誕生したのは水があったからです。そして、パパイオアヌーが用意した水を撒き散らすホースは赤であり、生命の源としての血管をイメージさせるものとなっています。まるで身体の器官に入り込んだような舞台装置になっているのです。

 

同時にこうした舞台の閉鎖性は一つの閉ざされた惑星のようでもあります。閉鎖的な空間に入れられた二つの生命は、一人が捕まえてきた魚を分け合って食べていたかと思えば、共食いをし始め、カニバリズムの様相を呈します。

 

人間とは、未知に際して、いち早く自分の理解できる領域に未知のものを引きずり下ろそうと、暴力的に手なずけようとする生き物なのかもしれません。

 

裸体の男を鞭打っていた男は最後の一振りで、尻をついて倒れ込んでしまいます。それは裸の男が着衣の男を圧倒し、凄まじい音を鳴らしながら足裏を床に叩きつけ始めたからです。

 

裸の男が暗闇に消えると、着衣の男が何事もなかったように蛸を床に叩きつけて、この作品は終わります。

 

作品のタイトルは『INK』です。蛸は未知のものに対して墨(INK)を吹きかけ、逃げていきます。いくら表向き、人間が蛸を床に叩きつけていようとも、決して手なずけることなどできないのです。人間の暴力的な支配欲と、その下でうごめく未知の不気味さが、パパイオアヌー一流の詩的世界観をもって描かれた作品です。

 

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秘密結社が秘密でなくなるとき全ての人間が神となる 笠井叡『魔笛』

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笠井叡 魔笛
埋め込み元:ステージナタリー

原始性を失わないながらも、それを独特に洗練された美学へと昇華した舞台には心底魅せられてしまいました。

 

赤い和傘に下駄、黒のスーツという出で立ちで、客席後ろから登場する5人のダンサーたちはどきついほどの格好良さ。ザラストロの笠井叡は首元と袖が金色に光る黒のマントを被り、威厳よりも可愛らしさが強調されています。そしてプロビデンスの目や神殿の柱をイメージとして取り込んだ映像はちょっとした毒々しさを醸し出す。笠井叡の美学には作品の頭からお尻まで目を離さずにはいられませんでした。

 

・・・なのですが、我が貧弱なる頭脳では笠井叡の思想と哲学を理解することあたわず。舞踏を見る目がなさすぎて、ダンスの動きの意図も全く読み取れなかったです。「パ、パ、パ」という出だしが有名な「あんたはおいらの者!」でパパゲーノとパパゲーナが手を打ち合わせながら踊っていたところや、「おいらは鳥刺し男」で鳥かごを背負ったパパゲーノがふわりふわりとシソンヌ風の動きをするところが可愛いかったなあ、なんていう体たらく。

 

たとえ全く意味が分からなくても、こうやって人を惹きつけて止まないのは、ひとえに笠井叡の振付と演出、ダンサーたちのパワーゆえでしょうね。

 

こういうときには台詞が読み解きのヒントになるのですが、持病の耳管開放症のせいで3割くらいしか聞き取れずで、「なぜこのタイミングで耳が詰まるんだ」と涙がちょちょ切れました。どうもKAATは音の響き方が私の耳の負担になるらしく、この公演に限らず、鼓膜が破れそうな思いをすることが多いのですよね。今回も耳が痛いなと思っていたら、大きな音が響いた瞬間に耳が詰まってしまいました。

 

聞き取れたところだけ覚え書きしておくと、「フリーメイソンは4つの教理を秘密にした。一つに『人は鉱物だ』。二つ目に『人は植物だ』。三つ目に『動物は神だ』。動物が神なのは、動物は無垢だからだ」。四つ目は聞き取れませんでした。「要はフリーメイソンの教理とは『人は神になる』ということである。フリーメイソンが秘密結社だったのは、人が神になるということは当時、許されなかったからだ。しかし時代は変わった。今は全ての人間が神になるのである」。

 

人が鉱物だというのは恐らく錬金術的なイメージがあるからで、鉛が金になるように、人の身体が神へと変わることを意味しているのだと思われます。植物も同様のイメージで、台詞の中には「この未来、人間は生殖によって子孫を残していくのではなく、背骨を挿し木することで増殖していく」というようなものもありました。自然の摂理を超えて神の領域へと身体が変容していくことが示唆されています。

 

この作品において重要なのはフリーメイソンの教理がもはや秘儀ではなく、公開秘儀とでもいうべきものになっているということです。

 

四つの教理というものも白昼堂々とザラストロによって語られます。そして何やら儀式めいたものも観客の目の前で行われます。まず、5人のダンサーたちが褌一丁になる。そして横並びになって観客にお尻を向けて立ち、「お手を拝借」というかけ声がかけられます。手を打ち鳴らすかと思いきや、両手で叩いたのは彼ら自身のお尻。聖俗入り交じる儀式に「何じゃ、何じゃ」という感じで笑ってしまいました。

 

『魔笛』におけるアダムとイブ、すなわちタミーノとパミーナのみならず、パパゲーノもパパゲーナも、それからオペラでは地獄に落ちる夜の女王―この舞台ではカインに比されている―も、皆、この公開秘儀を経て、神の領域へと身体を変容させていく。きらきらと光る紙吹雪の中、それぞれに可愛らしい衣装を着けて踊る祝祭的なラストを以て、この作品は終わります。

 

■キャスト

タミーノ 森山未來

パミーナ 大植真太郎

パパゲーノ 島地保武

パパゲーナ 菅原小春

夜の女王 辻本知彦

 

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