【2021年、感動した舞台・配信5選】長引くコロナ禍においてバレエがくれたもの

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世界バレエフェスティバル

 

コロナとの付き合いも今年で2年目となりました。

 

世界的にバレエのWeb配信が広がった昨年は、好きなバレエ団でも、見たことがないようなバレエ団でも、文字通り昼夜問わず、精力的に鑑賞するようにしておりましたが、2年目に入ると、配信もやや食傷気味。5月頃になると、鬱積した毎日を送るようになっていました。

 

そうした中、前代未聞の生活を強いられた昨年以上に私を救ってくれたのは、芸術作品が発する愛と優しさのメッセージでした。

 

勅使川原三郎やモーリス・ベジャールがくれた優しさ、暖かさ、愛

「そして、今後は二度と公演の中止を自らはしないと肝に命じました」という宣言の下、KARAS APPARATUSにて5月に上演された勅使川原三郎『息』は、コロナ禍以降、邪険な扱いをされてきた「息」に目を向けた作品でした。

 

私たちは盛大な産声を上げたその瞬間から「息」とともに生きているわけで、楽しいときも、辛いときも、悲しい時も、「息」はずっと私たちに寄り添い、優しく見守ってくれていました。

 

それにもかかわらず、「息」は突然ウィルスのために嫌な目を向けられてしまったわけです。その不憫さや健気さ、優しさや暖かさに、勅使川原三郎はそっと光を当てたのでした。

 

もう一つ、私を救ってくれたのが、モーリス・ベジャールです。

 

今年の半ば、東京バレエ団がベジャール作品を中心に精力的に公演を行っていましたが、これも、東京バレエ団が考え抜いて発信した、社会への強いメッセージだったに違いありません。

 

『HOPE JAPAN 2021』と題し、ベジャール作品(しかも長らく上演していなかった作品群を!)を携えて全国ツアーを行った公演はその一つです。

 

私は上野水香が『ボレロ』のメロディを演じた日に見に行きましたが、上野水香自身が「ものすごく深い悲しみを感じる」と述べていた通り、虚を見つめる彼女の目には、痛ましいほどの犠牲的な献身がありました。

 

共同体というものが、誰かの犠牲的な献身ゆえに初めて成立するのだというベジャールの厳しい認識と、その認識を抱きつつも、この世界に必ず存在するはずだという人間愛への確信。

 

東京バレエ団のほか、コロナ禍以降、海外カンパニーとして初めて来日を果たしたのはベジャール・バレエ・ローザンヌ(バレエ・フォー・ライフブレルとバルバラ他)でしたし、Dance Dance Dance at Yokohama(舞踊の情熱Noism×小林十市)で上演されたバレエ作品の一角を占めていたのも、ベジャール作品でした。

 

もちろん、それはNBSとBBLとのつながりや、DDDの監督が小林十市だったという事情が大いに関係しているでしょう。

 

しかし、愛が、優しさが、世界のすべての生ける存在が共存していくうえで、決して欠かすわけにはいかないものなのだというメッセージを、コロナ2年目の刺々しい世相に与えた力は、少なくとも私に与えてくれた力は本当に大きかったと思います。

 

コロナと政治に翻弄された年

それにしても、今年もコロナと政治に翻弄された年でした。

 

東京バレエ団『HOPE JAPAN 2021』の数か月前、忘れもしない4月25日、緊急事態宣言発令によりほとんどの劇場が閉鎖。

 

この数年で最も楽しみにしていたといって過言ではない『桜姫東文章』上の巻の公演を、ちょうど4月25日のチケットで見に行く予定だった私は、涙が出てきそうになるほどのショックを受けました。

 

感染状況によって劇場閉鎖になるのは致し方ないとはいえ、この4月の劇場閉鎖はあまりに根拠のない場当たり的なものだったように思います。

 

その後、7月以降は4月の感染状況以上に悪化しましたが、オリンピックのためか、一切、公演は中止になりませんでしたし・・・。そのような政治の駆け引きを見込んでか、世界バレエ・フェスティバル(AプロBプロ)や『バレエのミューズ』(AプロBプロ)など、海外ダンサーを集めた大規模公演が行われたのもこの頃でした。

 

4月以降の劇場閉鎖の中、注目を集めたのが、新国立劇場バレエ団のローラン・プティ『コッペリア』の全キャスト無料配信です。5月2日(米沢唯&井澤駿)で最大3万3000人、4日(木村優里&福岡雄大)が4万1000人、5日(池田理沙子&奥村康祐)は4万9000人と、新国立劇場オペラパレスのキャパシティ以上のユーザーが閲覧しました。

※8日公演(小野絢子&渡邊峻郁)

 

やっぱりパリ・オペラ座バレエ団が好き!

それから個人的な感慨でいうと、今年は来日公演の減少に伴い、パリ・オペラ座ロスといいますか、「それでもやっぱりパリ・オペラ座バレエ団が私は好きなんだなあ」と思う瞬間が増えました。

 

映画館で上演した『ドン・キホーテ』におけるパリ・オペラ座ならではのエスプリ、世界バレエ・フェスティバル(AプロBプロ)で見せてくれた「フランスバレエとは何たるか」「ヌレエフ作品のテクニックとは何たるか」という踊り、振付自体への文句はあれど、ピエール・ラコット振付『赤と黒』において放っていたミリアム・ウルド=ブラームやヴァランティーヌ・コラサントの個性と芸術性・・・・・・。

 

Web配信でパリ・オペラ座バレエ団以外のルドルフ・ヌレエフ古典作品を見る機会が増えましたが、やはりヌレエフ古典作品を見るならば、パリ・オペラ座バレエ団で見たいと思ったこともたびたびでした。

 

とはいえ、ヌレエフ世代が各国のバレエ団の芸術監督を務める今、彼らこそが世界でヌレエフ作品を踊ることのできるダンサーを育てていっているのも事実です。

 

ウィーン国立バレエ団のヌレエフ版『ライモンダ』で見せてくれたオリガ・エシナとヤコブ・フェイフェルリックによる夢の場面のパ・ド・ドゥの美しさといったら、それは極上だったし、ヌレエフ作品ではないものの、マニュエル・ルグリ&カルラ・フラッチという最強すぎる指導陣によるミラノ・スカラ座バレエ団『ジゼル』の完成度も非常に高かった。

 

カルラ・フラッチはこの指導の後、まもなく亡くなりました。フラッチのほか、パトリック・デュポンも永眠し、世界バレエ・フェスティバルでは彼らの功績を称える映像が流されました。

 

また、ロイヤル・バレエ学校生徒への不適切な行為でロイヤル・バレエ団の常任振付家の地位から降りていたリアム・スカーレットも自死によって亡くなっています。裁判前からのキャンセル・カルチャーが彼に打撃を与えていたともいわれました。

 

日本では牧阿佐美、松山樹子の訃報がニュースとなりました。

 

今年印象に残った舞台・配信5選

運命を味方につけた自由意志 東京バレエ団『スプリング・アンド・フォール/カルメン』(ノイマイヤー/アロンソ)

上野水香のタイトルロールが素晴らしい。カルメンならではの大人の色香に加え、したたかに生きる女性の賢さと強さを併せ持った性格表現に、上野水香が培った芸術性のすべてが反映されていた。またホセの心弱さ、センシティブな感性を繊細に描いた柄本弾も一際印象に残った。

 

「毒食はば」―桜姫の叫び 『桜姫東文章』下の巻(坂東玉三郎・片岡仁左衛門)

見逃した上の巻の後に上演された下の巻を鑑賞。花道へと駆けていく桜姫=坂東玉三郎による「毒食はば」というセリフでは、キッと佇まいを直す姿に、桜姫を世間知らずで破天荒なだけの姫君だと思い込んでいた観客は驚かされる。玉三郎、仁左衛門ともに、人物の性格を深く抉っていくような演技に感服。

 

【必見】クリスタル・パイトとパリ・オペラ座バレエ団が生んだとんでもない傑作 『Soirée Thierrée / Shechter / Pérez / Pite』

数年遅れてクリスタル・パイト振付『Seasons’ Canon』を鑑賞。革新的な群舞表現が圧倒的で、言葉や写真ではとてもではないけれども伝わらない。間違いなく21世紀の傑作であることを確信した。

 

コロナ禍における第16回世界バレエフェスティバル Aプロ 揃わなかった寂しさ、予想を裏切る嬉しさ、主催者の尽力

マチアス・エイマンの『ゼンツァーノの花祭り』で見せてくれた鮮やかな足さばきは、一生涯、忘れることはないだろう。ブルノンヴィル作品を通して「フランスの伝統とは、フランスバレエとは何たるか」を見事に示してくれた。

 

コロナ禍における第16回世界バレエフェスティバル Bプロ ベテランダンサーたちの挑戦

ドロテ・ジルベールとユーゴ・マルシャンのルドルフ・ヌレエフ版『ロミオとジュリエット』寝室のパ・ド・ドゥも抜かすわけにはいかない。最近見かけた多くのダンサーたちの場合、音一つ一つにテクニックをはめ込んだようなヌレエフテクニックが災いして、非常にせかせかした印象を与えるが、ジルベールとマルシャンのパ・ド・ドゥは、ヌレエフの振付がダンサーの身体にしみこみ、極めて自然に滑らかに動きが流れたとき、そこに若きカップルのほとばしる感情が生まれることを示してくれた。

 

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ダンテが辿り着いた見神の領域 ロイヤル・バレエ団×ウェイン・マクレガー『ダンテ・プロジェクト』

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エドワード・ワトソン ダンテ・プロジェクト ウェイン・マクレガー
埋め込み元:ガーディアン

ロイヤル・バレエ団の『ダンテ・プロジェクト』は、振付をウェイン・マクレガー、音楽をトーマス・アデス、美術をタシタ・ディーンというドリームチームで制作され、ダンテを演じたエドワード・ワトソンの引退公演としても話題となりました。

 

ダンテ・アリギエーリの『神曲』にインスパイアされた作品でありながら、アブストラクトな面も強い作風となっています。

 

私はダンテの『神曲』を読んだことがないので、どうこう感想を述べるのは気恥ずかしいのですが、まずはWikipediaから学んだあらすじを載せておきます。

(この「Wikipedia」という、「あらすじ」という安っぽさよ・・・)

 

暗い森の中に迷い込んだダンテは、そこで古代ローマの詩人ウェルギリウスと出会い、彼に導かれて地獄、煉獄、天国と遍歴する。ダンテは、煉獄山を登るにつれて罪が清められていき、煉獄の山頂でウェルギリウスと別れることになる。そして、ダンテは、そこで再会した永遠の淑女ベアトリーチェの導きで天界へと昇天し、各遊星の天を巡って至高天(エンピレオ)へと昇りつめ、見神の域に達する。

 

マクレガーから繰り出される多様な人々を形容する表現

原作を読んでいない私にとって、マクレガーがどのように『神曲』を解釈しているのかというところは分かりませんでしたが、それでもマクレガーという一人の振付家から、『神曲』に描かれる多様な人々のために生み出された、さまざまな表現には驚きを隠せません。

 

例えば、フランチェスカ・ヘイワードとマシューボールに当てられた「フランチェスカとパオロ」。容姿の劣る兄と結婚させるべく、偽って見合わせられ、恋に落ちた美男の弟、パオロと結婚相手のフランチェスカが、『神曲』において荒れ狂う暴風に吹きさらされるというエピソードに得たもののようです。

 

それを知ったうえでこのパ・ド・ドゥを見てみると、確かに愛し合う二人が慰め合う余裕もなく責め苦に遭うさまが伝わってきます。特にヘイワードの、後悔とも、心から愛してしまった人間の諦めともつかない感情表現には胸に沁み入るものがあります。

 

フランチェスカを踊ったヘイワードは、2幕において若き日のベアトリーチェ役も演じています。道ならぬとはいえ、真実の愛を貫いたために責め苦に遭うフランチェスカを見たダンテが、苦しみかねて倒れてしまうという演出と併せて、マクレガーはフランチェスカとパオロのカップルに、ベアトリーチェとダンテを重ね合わせているようにも思えます。

 

アナ・ローズ・オサリバンとルカ・アクリに振り付けられた「自殺者の森」の場面では、異物を切り離そうとするかのごとく、片手で片手を払う動きが取り入れられ、また首を反対向きにねじ曲げられる罰を与えられる「魔術師」の男性たちのパ・ド・ドゥでは、兄弟のように表裏に動く、その杓子定規な動きの組み合わせが絶妙。

 

ネットで検索しただけの私では『神曲』のどの場面に当たるのかは分からなかったのですが、「十字架の道行き」という、複数のペアによるパ・ド・ドゥの場面も用意されています。床に座ったままという難易度の高い男性のサポートが、かえってサポートされる女性の物質的な重さ、ひいては背負わされた十字架や罪の重さを私たちに想起させる振付です。

 

中でも特筆すべきが、「ユリシーズ」。

 

木馬の奇計でトロイア戦争を勝利に導いたユリシーズですが、『神曲』ではその策謀ゆえに火焔に苦しめられています。マクレガーはその姿を、床を巧みに使った移動と、軟骨動物のようにぐにゃりとした動きによって表現しました。

 

ざっとガーディアン誌の2記事(その1その2)を読んでみたところ、どちらもこの場面を褒めていました。誰が見ても目が釘付けになる、極めて独特な表現といっても過言ではないでしょう。

 

ロイヤル・バレエ団の素晴らしきダンサーたち

マクレガーが繰り出す多様な表現に加え、この配信のもう一つの見どころがロイヤル・バレエ団のダンサーたちです。ほぼ全てのプリンシパルが惜しげもなく投入されており、またバレエ団の階級に囚われない起用もされているので、ダンサーたちの踊りを存分に堪能できます。

 

先ほど挙げた「ユリシーズ」は振付自体の独特な魅力もさることながら、このソロを踊ったカルヴィン・リチャードソンの身体能力も素晴らしい。骨を抜いたような動きを良く消化しています。

 

「魔術師」のジョゼフ・シセンズは、ロイヤル・バレエ団におけるマクレガーの申し子ですね。バレエ特有の関節の有機的なつながりをあえて外したようなマクレガーの動きをしなやかに踊りこなしています。

 

またメリッサ・ハミルトンもこうしたコンテンポラリー作品がよく似合います。「憤怒者」の場面に相応しい気の強さを鮮烈に見せてくれました。

 

そして私の好みにぴったりのダンサーだと注目してしまったのが、ウィリアム・ブレイスウェル。

 

2幕でほとんどコール・ド・バレエに近い形で出演しているのですが(コール・ド・バレエといっても、平野亮一やマシュー・ボールほか、プリンシパルとソリストのみで構成されているのである・・・!)、ベアトリーチェとダンテの出会いを描いた場面に起用されたのも頷ける、ナイーブで繊細な踊りを見せてくれています。

 

ブレイスウェルらの踊りに続いて、舞台後ろから現れるベアトリーチェ役のサラ・ラムの神々しさといったら・・・!

 

ダンテの背中から彼の顔を覗くようにしてアラベスクするマクレガーの振付は本当に胸を打つのですが、それもラムの清らかで美しく、それでいて相手を包み込むような優しさがあるからです。

 

この公演を以て引退するワトソンは、一詩人の苦悩から、地獄の惨状を目の当たりにした声にならない驚き、愛の回想において噛み締める幸せ、見神に到達しようとするときの歓喜と、地獄から煉獄を通って天国に至るダンテの変貌を極めてナチュラルに演じ切りました。

 

第3幕の宇宙的な空間

天国を描いた第3幕では、舞台後ろに超新星爆発かブラックホールのようなものがプロジェクトマッピングで映し出され、宇宙的な空間が創出されています。

 

これまたWikipedia知識で恐縮ですが、『神曲』の天国篇は「地獄の大淵と煉獄山の存在する地球を中心として、同心円状に各遊星が取り巻くプトレマイオスの天動説宇宙観に基づき、ダンテは、天国界の十天を構想した」らしい。

 

この美術はプトレマイオスの天動説宇宙観に則ったものなのでしょうけれども、一方で極めてマクレガーらしいテクノロジックなイメージも創り出しています。

 

こうした宇宙的な空間を提示することで、『ダンテ・プロジェクト』は天国に生死の根源を託しているようにも見えます。

 

天国に辿り着いたダンテが見たものは一体何だったのだろうか。それは観客には分かりません。

 

舞台背後から放出された強烈な光により、ダンテであるワトソンの姿すらも眩しく見えなくなるラストの演出は、今いる場が我々には到底辿り着けない領域であることを示すとともに、ダンテが得た歓喜と恍惚の余韻を残すものとなっています。

 

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人形劇と一人芝居でシェイクスピア劇を表現 平常×宮田大『Hamet ハムレット』

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12月18日、平常×宮田大『Hamet ハムレット』を東京文化会館にて鑑賞しました。実はこれまで私は平常も宮田大も存じ上げておりませんでした。この公演に足を運んだのは、公演チラシに写っていた人形の魅力にただただ引き寄せられてしまったからです。

 

この公演はシェイクスピアの作品を人形劇に翻案したもの。ひとり芝居と人形劇を融合させた独自の表現方法を確立し、「人形劇の常識と概念を覆す鬼才」として注目を集める平常が脚本・演出・美術を手掛け、日本を代表するチェリスト、宮田大が音楽を担当しました。

(この辺り、まるで通のように語っておりますが、公式サイトから文言を取ってきました。。。)

 

何度も再演されている公演でもあるようですし、東京文化会館のMusic Program Tokyoやシアター・デビュー・プログラムにカウントされているものでもありますから、高く評価されていることには間違いありません。

 

ですので、私の鑑賞眼の問題かもしれませんが、個人的にはさほど面白い公演だとは思いませんでした。

 

『ハムレット』に対する私のイメージは、多分にローレンス・オリヴィエか何かの印象を受けすぎているきらいはありますが、この作品には、生き方を模索する人間の精神の深淵が覗いているという点は、ほとんどの読者に共通する読みなのではないでしょうか。

 

しかるに、平常のハムレットは、人間存在について思案するにはあまりに楽観的な、普通の若者になっています。

 

平常にとっての『ハムレット』とはそういう解釈なのだろうと、頭では理解しようとは思うのですが、それにしてもラストの決闘前に「明日はレアティーズと試合だあ!久しぶりに腕を鳴らせるなんて楽しみ!」と、ウキウキと素振りをすることなど、あのハムレットにあり得るのだろうか。

 

ハムレットやオフィーリアなど人物造形が私の解釈からは受け入れられないものでありながら、そのくせ、作品全体としてはただ単に粗筋をなぞっているだけに見えてしまったような気がします。

 

加えて、この公演では台本を新たに翻訳し直しているとのことですが、翻訳が気に入らないのか、平常の台詞の言い方が馴染めなかったのか、シェイクスピア作品にもかかわらず、台詞に詩を感じられなかったのも、私にとって不満要素の一つでした。

 

しかし人形劇としての魅力は大いに味わえました。ハムレットは夢見る青年、あるいは極上に優雅な王子といったところで、腕や頭部から首筋のラインにとても人形とは思えない麗しさがあります。

 

オフィーリアの人形は、ハムレットとは異なり、腕や首筋に自由の利かない作りとなっていて、それゆえに彼女のお転婆な性格が伝わってきます。

 

それから何といっても、レアティーズやクローディアスなどの死の表現方法は秀逸です。

 

この人形劇において、人形で表現される登場人物は実はハムレットとオフィーリアだけ。レアティーズ、クローディアス、ガートルード、ローゼンクランツ、ギルデンスターンは、後ろから照明を当てられたステンドグラスで表現されているのです。

(なお、ホレイシオは平常自身が演じている)

 

剣の試合で軒並み登場人物が死んでいく場面を、平常はステンドグラスを1枚1枚外していくことで表現しました。命のかすかな灯火は、あとどれだけステンドグラスが残っているかで分かるわけです。

 

緊迫したラストの演出としてこれほどまでに適切なものはなかったと思います。

 

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境界―彼岸と此岸のあわい Noism×山田うん×金森穣『境界』

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Noism 山田うん
埋め込み元:バレエチャンネル

この公演は、「境界」をテーマに山田うんと金森穣が作品を振り付け、前者をNoism1が、後者をNoims0が踊ったダブル・ビルです。

 

「境界」というテーマは、山田うんの方から提出してきたらしい。私はまだ『オバケッタ』と『みぎわ』しか山田うん作品を見ていないものの、どちらも「境界」を題材としたものでしたから、テーマ選定の経緯を聞いて納得しました。

 

この公演には山田うんが今、考えたいものが詰め込まれているのでしょう。

 

繁栄と死の境界を縫っていく時の流れ

山田うん振付『Endless Opening』は、柔らかな色彩の衣装や肩に付けられたひらひらとした布が印象的で、彼岸へと通じる儚さを思わせます。

 

四楽章構成となっており、爽やかでピュアな第一楽章から、寂しさや侘しさを感じさせる第二、三楽章を通って、ささやかな歓喜漲る第四楽章で締めくくられます。

 

「締めくくる」という言葉はこの作品には似合わないかもしれません。第四楽章の音楽が終わってからも、ダンサーたちは踊り続け、タイトルの通りエンドレスに新しい何かが始まっていくことが示されているからです。

 

その意味でこの構成には四季の巡りに近いものを私は感じます。夏、秋、冬、春―繁栄から死へ、死から繁栄と向かう四季とは、繁栄と死の境界を縫っていく時の流れであるわけですから。

 

ダンサーたちがゆらゆらと身体を揺らす第二楽章では、存在の確かさを限りなく消し去り、たゆたう空間と一体化したようなダンサーたちの質感表現が秀逸。

 

ストレッチャーに似たベッドが小道具として一人ひとりのダンサーたちに1台ずつ与えられる第三楽章は、作品ノートに「この大海原に誕生の祝福」とあるため、山田うんの目論見とは異なる解釈かもしれませんが、すうっと消えていくような死を私は感じました

 

此岸と彼岸のあわいを表現した作品です。

 

「境界」のイメージを積み重ねた『Near Far Here』

金森穣振付『Near Far Here』は、能衣装のような白の羽織や映像、鏡あるいは扉を想起させる枠、アクリル板などをさまざまな小道具・大道具を用いて「境界」のイメージを積み重ねた作品で、井関佐和子、金森穣、山田勇気が踊りました。

 

大きなスクリーンに別撮りした3人の映像を影抜きにして映し出し、その手前で3人が踊るとき、まるで実在する3人の影がスクリーンに映されているような錯視に陥ります。

 

その後、別撮りの映像にさらに実在の影が重ねて映し出されたり、ダンサーたちがスクリーンの裏に回ることで、別撮り映像と実在のダンサーが、観客の認識の上で統合されたりします。

 

また、舞台上から大きな枠が下りてきたかと思うと、ジョン・クランコの『オネーギン』の鏡のパ・ド・ドゥのごとく、金森穣と山田勇気が鏡合わせで踊り始めます。初め、枠によって遮られていた二人のダンサーは次第に鏡合わせから逸脱し、腕を絡ませていきます。

 

こうしたイメージの堆積から生まれるのは、此岸と彼岸から構成される多層的な世界であり、この二つの岸の交渉です。

 

能衣装を着用した井関佐和子はさながら此岸と彼岸をつなぐ使者というところでしょう。

 

同じ「境界」がテーマでありながら、山田うんと金森穣では全くの正反対の作品になりました。

 

ストレッチャーの他は道具らしい道具を舞台上に存在させないシンプルな舞台作りだった山田うんに対し、金森穣は身体と同等、あるいはそれ以上の存在感を大道具に持たせた舞台作り。

 

境界など何も見えない舞台上に、まるで水彩画のように存在と非存在のあわいをぼんやりと現出させる山田うんに対し、金森穣は初めに厳しい境界線を置いた上で、その境界の錯視的な揺らぎを示していきます。

 

金森穣の『Near Far Here』はラストの暗転で、舞台上に花びらが埋め尽くされ、さらに落ち残った花びらとでもいうように、天井から花びらがひらひらと落ちる中で、作品を終えます。

 

生と死の境界の象徴として落ち行く花びらが採用されたのだと思うのですが、成長し、花開き、舞い落ち、腐食していくという時間的なモチーフが「境界」を印象づけるものとして用いられているのは、とても面白いことだと思います。

 

というのも、私は山田うんの作品にも、四季の巡りに似た、繁栄と死の連続がグラデーションとして存在する時間的なありようを感じたからであり、全く正反対の二人の振付家がそこでつながっているように思えたからです。

 

そしてダンスというものも、決して時間から切り離すことのできない芸術であり、その意味で極めて「境界」的なものだったということを今さらながら思い出したのでした。12月25日鑑賞。

 

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