エウリディーチェを取り戻して失ったもの 勅使川原三郎演出・鈴木優人指揮『オルフェオとエウリディーチェ』

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『オルフェオとエウリディーチェ』という神話と勅使川原三郎の美意識との邂逅が生み出したのは、透き通るように美しく静かな天上の世界でした。

 

抽象性が解釈を増幅させる

全幕通して舞台は抽象性を帯びています。勅使川原が用意した大きな舞台装置は百合と円盤くらいなもので、色彩も片手で数えられるほどに絞られています。だからこそ解釈は鑑賞者個々人の中で無限に増幅されます。

 

例えば、一幕エウリディーチェを失ったことを嘆くオルフェオの足元には、小さな青い花畑がぽつりと形作られています。

 

それはエウリディーチェの亡骸として解釈もできるだろうし、オルフェウスの悲しみが献花の色を青に変えてしまったようにも受け取れます。

 

実際、二幕で現れるエウリディーチェは同じ青のドレスで、スカートに花があしらわれたものを着ており、また嘆くオルフェオの前に青い衣装で踊るアレクサンドル・リアブコはあたかもオルフェオの嘆息が現れ出たかのようです。

 

ダンス部分も同様で、純粋に音楽を視覚化した趣を持っています。無理にダンサーたちに、オルフェオやエウリディーチェといった役を紐付ける必要はないと思います。

 

白の繊細な衣装を着た佐東利穂子は少女のように清浄で無垢であり、天上の美しさを放つこのオペラに欠かせない役割を担っています。

 

ハンブルク・バレエ団から客演しているアレクサンドル・リアブコは、『羅生門』に続いて二回目の勅使川原作品への出演で、前回以上に勅使川原メソッドが身体に馴染んでいたのではないでしょうか。

 

中でも「復讐の女神たちのエール」でリアブコに与えられたソロは、リアブコならではの魅力を放っています。

 

この場面における、自己との対話が最高潮に達したときのエネルギーそのままにスピーディにステップを踏ませたような振付は、勅使川原の他の作品でも見られるものです。しかしリアブコが踊ると、佐東のしなやかさや勅使川原の神経質な質感とは異なる切れ味がありました。

 

神への奉仕ではなく、真の愛に祝福を与えたオペラ

勅使川原は物語の進行自体に大きな再解釈を加えてはいません。冥界に下ったオルフェオは帰途でエウリディーチェを見てしまい、エウリディーチェを再度失いかけたものの、アムールの計らいでエウリディーチェは息を吹き返します。

 

羊飼いたちが祝福し、清らかで美しい喜びに満ちた最後、照明が落ちる中、オルフェオだけがスポットで照らされます。

 

歓喜に満たされた観客は、私も含め、早くも拍手を始めていましたから、このオルフェオへの照明が意表を突いていて、幸福一辺倒では終われない胸騒ぎを生み出しています。

 

エウリディーチェが生き返り、羊飼いたちが祝福するオペラの最後、舞台後ろには大きな百合が清らかに輝いていますが、恐らく勅使川原はそうは単純に受け取っていないでしょう。

 

曰く、「白百合は、純粋性を象徴すると言います。そこにこそ、人間への皮肉が煌めく」。

 

オルフェオとエウリディーチェの背後にある百合は清らかだけれども、現実の地上の世界は純潔とは程遠く、苦悩に満ちています。

 

オルフェオがエウリディーチェを失った苦しみは、しかも一度ではなく二度も失った苦しみは、まさに地上に生きる存在だったからです。

 

愛した以上、その存在を失う苦しみは必然的に伴うというのが地上の掟です。エウリディーチェを地上に連れて帰ったからには、オルフェオはいつかは必ず三度目の苦しみを味わうことになるでしょう。

 

思えば、三幕、つれないオルフェオに対して嘆くエウリディーチェのアリアでは「黄泉の世界で全てを忘れ安らかにいた私には、このような仕打ちは耐えられない」と歌われていました。

 

またそれに先立つ二幕の終わりの天国の場面では、無垢な佐東利穂子が息絶えるように横たわるところで、幕が閉じています。真に清らかな存在は天国の世界にしか生きることができず、地上ではしおれてしまうということなのかもしれません。

 

冥界の世界ではなく、地上世界のみに配置された白の大きな円盤に、この世における終わりのない苦しみの時間を見るのは、深読みに過ぎるでしょうか。

 

しかし、勅使川原が用意した意表を突くラストに、私は残酷な現実だけを見ることはできないと思っています。

 

このオペラにおいて、アムールが神への奉仕ではなく、真の愛を見せたオルフェオにエウリディーチェを返したことは紛れもない事実だからです。

 

このオペラは、人間の血の通わない「純潔」よりも、苦しみを伴う「愛」にこそ祝福を与えているのです。

 

「悪魔的力の前では人間はあまりに無邪気」といいながら、勅使川原はこの愛の尊厳に対する無邪気な信仰もまた祝福されるべきものと理解していたはずです。そうでなければ、これほどに美しい世界は作れないと思いますから。

 

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主体的に選択する女性を描く版 オランダ国立バレエ団『ライモンダ』

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ライモンダ オランダ国立バレエ団 マイア・マッカテリ
埋め込み元:オランダ国立バレエ団

オランダ国立バレエ団によるレイチェル・ボージーン振付『ライモンダ』が5月8日まで有料配信されています。この『ライモンダ』は衝撃のラストが用意されているということで話題となっていました。

 

ラストを知っていても楽しめると思うので、先に言ってしまうと、このバージョンではなんと、ライモンダはジャン・ド・ブリエンヌではなく、アブデラーマンと結婚してしてしまうのです・・・!

 

アブデラーマンとライモンダの運命の出会い

ライモンダはアブデラーマンが登場したときから、相当に心惹かれてしまいます。

 

ボージーン版は、ジャンの十字軍出征まで時間があり、作品冒頭ではジャンの踊りにかなり場面を割いています(まあ、そうしないと、3幕でジャンは消え去ってしまうから、踊る場面がなくなってしまう)。そしてアブデラーマンに出会う前のライモンダは、ジャンを恋人として親しく接している様子。

 

通常の版では逆にジャンはさっさと十字軍に出征してしまい、さして冒頭で印象に残る行動を取っているわけではありませんから、ボージーン版でこれだけ仲よさげにジャンとライモンダが踊っていたら、かえってジャンがあまりに可哀想だななどと、初めは思ったものでした。

 

ですが、この結末が存外受け入れられてしまうのは、ライモンダとアブデラーマンとの出会いが、まるで「運命」のようだからです。

 

言ってみれば、『ロミオとジュリエット』におけるロミオの立ち回りがアブデラーマンで、パリスの立ち回りがジャンなわけです。

 

アブデラーマンが登場し、ライモンダの恋のときめきと不安が入り交じった表情を見た観客は、思わず「出会ってしまった」としか言いようのない気持ちになってしまいます。

 

大輪の華やかさを持ったマイア・マッカテリ

もちろん、大いにダンサーたちの演技の技量がこの辺りの整合性を下支えしているといえるでしょう。

 

最後は衝撃のラストに変更しているものの、踊りや場面の構成はオーソドックスな版から大きく変更していることはありません。

 

通常の版と同様、2幕のアブデラーマンは財力にものを言わせて、家来や踊り子たちを一斉に引き連れてきますから、意地悪な見方をすれば「なんだい?ライモンダは金に目が眩んだのかい?」と思っても仕方ありません。

 

ですがチェ・ヨンギュ(Young Gyu Choi)は、アブデラーマンを、そのような財力抜きに、自分という人間に自信を持った人物として描いています。

 

自分の魅力だけではライモンダの気を惹けないと思うから財力をちらつかせているのだと思わせる卑屈さは全くありません。勇壮なジャンプが印象的で、誠実な情熱の吐露を見せます。

 

対するジャンを演じたSemyon Velichkoは整った四肢の持ち主で、端正な踊りをするダンサーです。アブデラーマンとジャン、対照的なダンサーを当てたといえるでしょう。

 

そしてライモンダのマイア・マッカテリ(Maia Makhateli)が絶品。華やかな気品が何とも魅力的なダンサーです。裕福な叔母の家で育った女性ならではの、幸せに満ちた踊りを展開します。

 

それからマッカテリの脚の美しいことよ。ライモンダという役柄には身体のコントロールが求められるバリエーションが多く含まれていますが、マッカテリは強靱な脚と確固たる身体コントロール力で、全く危なげがありません。

 

女性の主体性を描いた興味深いバージョン

さて、皆が気になるジャンとアブデラーマンの決闘シーン。いやもう、手に汗を握りましたよ笑

 

完全ネタバレ、というか、もはや私の妄想ですが、踊りを見ながら私の耳に聞こえてきた彼らの台詞をこちらに転記いたします。

 

2幕。愛を深めつつ踊るアブデラーマンとライモンダの元に(通常の版では、ここはアブデラーマンの強引な愛の告白に、嫌がるライモンダが描かれるところ)、ジャンが帰還します。

 

ジャンの姿を見たライモンダ「ああ」

ジャン「どういうことだ!?ライモンダよ」

シヴィリ・デ・ドリス伯爵夫人「(ジャンに向かって)まあまあ」

事情を察したジャン「(アブデラーマンに向かって剣を抜き)決闘だ!」

アブデラーマン「やめろ(手で剣先を避ける)」

アブデラーマン、切りつけられる。

アブデラーマン「よし、家来ども、剣を寄越せ」

どんぱち戦う

ライモンダ「やめなさい!(間に割って入る)」

ライモンダの意を汲んでジャンに握手を求めるアブデラーマン。

ジャンは拒絶し[この辺り『ロミオとジュリエット』のロミオとティボルト(パリスではないが)のようである]、怒りに任せてアブデラーマンを切りつけようとする。

ジャンを押しとどめたライモンダ「私はあの人が好きなのです」[衝撃の告白が来たあああ]

ライモンダの肩を抱きながらアブデラーマン「ふっ(そうだよな、彼女の心は俺にあるんだよ)」[確実に「ふっ」っていう表情したぞ!この男]

周りに押さえつけられたジャン「ふざけんな(周囲の押さえつけを振りほどく)」

[ジャン、アブデラーマンの顔を殴ったああ!アブデラーマンが倒れた!横たわった!動かなくなった!こりゃ、死んでしまうのか!?]

ジャン「(ライモンダに向かって)ふっ、どうだ?!」

ライモンダ、ショックを受けながらも、アブデラーマンに駆け寄って抱き起こす。[息を吹き返したぞ?さすがにここで死んでしまったら話が続かんからな、、]

ライモンダ「どういうことなの?(ジャンに詰め寄る)[マッカテリに優雅な魅力があって、あまりキツい感じには見えないのが幸いである]」

ジャン「(ライモンダに気圧された後)ご随意に」[「勝手にしろよ」くらいの決め台詞が私には聞こえた](ジャン、去る)

 

大体、イメージつきましたかね?笑

 

ちょっと茶化して書いてしまいましたが、この版には『ライモンダ』という作品の潜在可能性のようなものを見た気がしました。

 

つまり『ライモンダ』は古典バレエの中で、夢に見られる女性ではなく、夢を見る女性が登場する数少ない作品なのです。

 

通常の版ではラストは決闘で結婚相手が決まってしまうという側面があるものの、1幕の終わりのバレエ・ブランは、男性の妄想世界として存在するのではなく、ライモンダが主体的にどちらの男性を選ぶべきかを考える場面として存在しています。

 

ボージーン版『ライモンダ』は主体的に選択する女性としてライモンダを描いている点で、非常に興味深いものだと思います。

 

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東京バレエ団と東京シティ・バレエ団の若手振付家による小公演 上野の森バレエホリデイ「ダンス&クリエーション2022」

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5月1日、「ダンス&クリエーション2022」を鑑賞しました。これは東京バレエ団と東京シティ・バレエ団のダンサーたちによる振付作品を、同じく両バレエ団のダンサーたちが踊るというもの。舞台は東京文化会館の小ホールでした。

 

1作品目は、東京シティ・バレエ団の草間華奈が振り付けた『蓮華―renge―』。ウヴェ・ショルツを彷彿とさせるプロットレスバレエです。

 

ただ、ダンサーの人数だったり、ダンサーの配置の仕方だったりが、小劇場という小さな舞台サイズとミスマッチだった点は否めなかったのではないでしょうか。

 

ユニゾンで動いていたダンサーたちから数人だけ分離させ、別の動きをさせるといった振付は、そこそこの大きさの舞台であれば、舞台に陰影がついて面白くなったのだと思うのですが、文化会館の小劇場のような猫の額では乱雑に見えてしまうように感じました。

 

それに加えて、作品中に数回出てくる『パ・ド・カトル』風の、ダンサーたちを中心に集めて作られたポーズは、モダンな風貌を持つこの作品にはいささか野暮ったい。

 

しかし音楽を捉えた動きが随所に差し込まれており、劇場を変えて見直してみたいと思う作品でもありました。

 

ブラウリオ・アルバレスの『Farolito』は、恋の喜びを表現した、何とも可愛らしく素敵な作品。恋の充足感で心身を満たした少女が、喜びを噛み締めるように腕で自分の体を抱きしめ、体を揺らすところから作品が始まります。そして、その揺れに共鳴するかのごとく、恋人の男性が現れ、彼女の背後から一緒に体を揺らします。

 

ダンサーたちがこの作品におけるコンテンポラリーな動きにほんの少し慣れていないのが気になりはしましたが、見ている観客も幸福感に包まれる佳作だったと思います。

 

木村和夫がメンデルスゾーンに振り付けた『Humming Bird』は・・・・・・何というか・・・・・・私の好みもあるのかもしれないですけれども、バレエ教室の発表会でも見ているような感じがするんですが・・・・・・

 

クラスレッスンのアンシェヌマンをそのまま舞台上に出しているに近い、何の変哲もない振付というと言い過ぎでしょうか・・・・・・

 

金子仁美の『Daydream』はなかなか面白い作品でした。三体のお洒落ガールのマネキンが、誰もいない夜に動き出した様子を描いています。

 

モーツァルトのトルコ行進曲という選曲も作品に相応しく、マネキンのちょこまかした動きや剽軽で愛らしい仕草を魅力的に見せるものとなっています。

 

昼間は人間たちに笑顔一辺倒で奉仕しているマネキンたちの、その表情の下にふつふつと抱えている外界へのロマンティックな憧れを垣間見るような気分になります。

 

岡崎隼也振付『somewhere but not here.』は映像を用いた作品。舞台上で二人の女性ダンサーが踊っているのと同じ動きを、舞台背後に映された映像の中で男女合わせて4人のダンサーたちが踊ります。

 

舞台上の女性ダンサーたちはシンメトリーに踊っており、通常であればその二人に何らかの交感があるはずなのですが、彼らは互いに相手のことを認識しているのかも不明です。まるで彼らは映像の向こうのパートナーと踊っているようなのです。

 

寂寞とした白の衣装が醸し出す雰囲気も相まって、彼岸との交流を感じる作品となっています。

 

アルバレスと岡崎は今回、2作品ずつ上演しました。アルバレス二作品目は『風薫る』。

 

こちらはクラシック・バレエのテクニックを用いた作品となっていますが、『Farolito』と比べてどちらが気に入ったかといえば、『Farolito』の方でしょうね。

 

そもそも衣装が気に入らない。この公演に大きな予算が下りているとは思えないので、致し方ないとは分かりつつ、巻スカート&白レオタードに葉っぱをプリントしただけに見える衣装なのでねえ・・・。

 

会場で配られたペラ一枚を見るに、三人のダンサーたちにひまわり、ツバキ、ブーゲンビリアを当てているようなのですが、こうやって振付家自身の解題を読んだとて、「ああ!確かにあれはひまわりだった!」と納得できるイメージ喚起力が作品にあった気はしませんでした。

 

岡崎二作品目は『connect』。これも正直、どこがコネクトなのかは分からなかったのですが、身体の動力の使い方がこなれていますね。ダンサーたちにはもっと大胆に身体を使って欲しかったところですが、この作品の動きの面白さは十分に感じ取れました。

 

バンドグループ、H ZETTRIOの音楽に似つかわしいシャープなエネルギーを持った作品でした。

 

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東京バレエ団による躍動感溢れる舞台 ジョン・クランコ版『ロミオとジュリエット』

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ジョン・クランコ ロミオとジュリエット
埋め込み元:東京バレエ団

これほどまでにジョン・クランコはヴェローナの街と若者たちを生き生きと描いていたとは・・・!

 

初演とは思えない出来を見せてくれた東京バレエ団のダンサーたちにより、クランコの振付がいかに躍動感に溢れているかを改めて認識させられる舞台でした。

 

幼稚さと諍い

最近の東京バレエ団ではドラマティック・バレエをほとんど上演していなかったですし、日本のバレエ団はお芝居が苦手というイメージがありましたが、東京バレエ団のコール・ド・バレエは一人ひとりが役柄を生きているため、ヴェローナの街の日常と活気が舞台上に鮮やかに出現しています。

 

そして冒頭、ロミオ、マキューシオ、ベンヴォーリオにクランコが振り付けた踊りは素晴らしいですね。

 

片足跳びをしながら、友人同士が近づいていき、ジャンプで腰をぶつけ合うというのは、微笑ましいほどにたわいがない。少年と呼ばれる年齢の男の子ならではの、友人に対する愛情表現として、これほど相応しいものはありません。

 

このクランコの振付の魅力も、秋元康臣、宮川新大、玉川貴博というダンサーたちが、嬉々としてじゃれ合う等身大の少年たちそのものだったからこそ気づいた点でした。

 

そしてクランコ版は、こうした一種の子供じみた行為が凄惨な結果を導くことを示したバージョンです。

 

例えば1幕の諍いは、男の子たちによる戯れの延長で、キャピュレット家の一人の男性をからかうところに端を発しています。

 

ロミオが主人公である以上、観客は幾分ロミオたちが悪いことをしても許してしまえる気分になるものですが、ここでロミオたちがキャピュレット家の男性をからかうのは、多勢に無勢の苛めにしか見えません。

 

元々はくだらない行為だったところに、両家の家長ともいう人たちが本気になって家宝の剣を振りかざしているのですから、呆れるより他はありません。

 

『ロミオとジュリエット』という作品で主人公の「幼さ」を描くとき、それがどのように作用するのか―一気に人生を駆け抜ける若い男女のエネルギーとして作用するのか、大人たちの犠牲となる子どもたちの脆さとして作用するのか、あるいは他の作用を及ぼすのか―というのは、各バージョンによって異なるところだと思います。

 

ですが、クランコ版においては、「幼さ」というものが、「幼稚さ」というものが、「分別の欠如」というものが、単に若きカップルの美しさを象るだけでなく、この無意味な諍いの根底にあるのではないかということを示してくれているように感じるのは、私だけでしょうか。

 

ロマンティックな仕草が詰め込まれたパ・ド・ドゥ

もう一点、久しぶりにクランコ版を舞台で見て感じたのは、なんてロマンティックな仕草がふんだんに盛り込まれているのだろうということ。さすがは『オネーギン』の鏡のパ・ド・ドゥを振り付けた人ですね。乙女心をよく分かっていらっしゃる笑

 

バルコニーのパ・ド・ドゥがその最たるもので、抱っこしてバルコニーの段差から下ろしてあげるとか(ここでどうして身長サイズの階段しかないんだという問いを発するのは無粋である)、懸垂でジュリエットにキスしてあげるとか、何かもう、人生で一度されてみたかったやつじゃないですか!!!

 

こうしたロマンティックな仕草は単に乙女心をくすぐるだけでなく、ロミオの優しい性格をも象るものとなっています。

 

ジュリエットから何度も手の甲に口づけすることを拒まれるパリスですが、実はロミオもボールルームのパ・ド・ドゥで最初は手にキスをすることを拒否されているのですよね。

 

パリスは幾分むっとした様子でジュリエットの両親に抗議の目を投げかけますが、ロミオは再度優しく手を出し直すのです。

 

恋愛というものは、互いにどのように思っているのかを確かめ合うところから始まるわけで、(婚約者という立場にあるとはいえ)パリスのように初めから受け入れてもらえると思う方がおかしい。

 

ボールルームのパ・ド・ドゥの最初において、ロミオとジュリエットが次第に中央に近づいていく振付は、彼らが互いの心の距離をそっと推し量ろうとする姿として、本当に優れたものだと思います。

 

役柄を生きたダンサーたち

さて、冒頭に述べたとおり、東京バレエ団のダンサーたちは脇役の演技もしっかりしています。

 

大公の和田康佑は、若者の血が無意味に流される現状に対する怒りと悲しみを、横に振り払う手によって十二分に表現し、冒頭30秒程度しか出演場面のない役柄にもかかわらず、印象に残る存在感がありました。

 

ローレンスのブラウリオ・アルバレスは若きカップルに対する包容力と暖かさがあります。ジュリエットに仮死の薬を渡すシーンでは、走り寄ってくるジュリエットに向けて、この上なく暖かな腕を広げます。心細いジュリエットにとってどれだけ彼の存在が頼りになったことだろうか・・・。

 

奈良春夏のキャピュレット夫人は、格式ある家柄の母親ならではの冷たさとよそよそしさが光り、キャピュレット公の木村和夫も、愛情や動揺すらも滅多に表に出さない厳格な様子を見せてくれました。

 

秋元康臣のロミオは、多少のおふざけも許してしまいたくなるような爽やかな格好良さのある少年です。乳母から手紙をもらって秘密の結婚式を挙げる場面以降は、情熱を帯びた演技となっていました。

 

足立真里亜のジュリエットは華奢で愛らしい。また彼女はクランコのパ・ド・ドゥの随所に現れるアラベスクが輝くように美しく、少女の溢れる恋心が現れ出ていました。

 

幼さ、若さということが、他のバージョン以上に意味を持ちうるクランコ版に相応しい主役の二人だったと思います。

 

■キャスト

振付:ジョン・クランコ

音楽:セルゲイ・プロコフィエフ

装置・衣裳:ユルゲン・ローゼ

 

キャピュレット家

キャピュレット公:木村和夫

キャピュレット夫人:奈良春夏

ジュリエット:足立真里亜

ティボルト:安村圭太

パリス:大塚卓

乳母:坂井直子

 

モンタギュー家

モンタギュー公:中嶋智哉

モンタギュー夫人:菊池彩美

ロミオ:秋元康臣

マキューシオ:宮川新大

ベンヴォーリオ:玉川貴博

 

ヴェローナの大公: 和田康佑

僧ローレンス:ブラウリオ・アルバレス

ロザリンド:三雲友里加

ジプシー:二瓶加奈子、政本絵美、平木菜子

カーニバルのダンサー:岡司、涌田美紀、安西くるみ、岡崎隼也、井福俊太郎

 

指揮:ベンジャミン・ポープ

演奏:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

 

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