2022.05.22 Sunday
エウリディーチェを取り戻して失ったもの 勅使川原三郎演出・鈴木優人指揮『オルフェオとエウリディーチェ』
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『オルフェオとエウリディーチェ』という神話と勅使川原三郎の美意識との邂逅が生み出したのは、透き通るように美しく静かな天上の世界でした。
抽象性が解釈を増幅させる
全幕通して舞台は抽象性を帯びています。勅使川原が用意した大きな舞台装置は百合と円盤くらいなもので、色彩も片手で数えられるほどに絞られています。だからこそ解釈は鑑賞者個々人の中で無限に増幅されます。
例えば、一幕エウリディーチェを失ったことを嘆くオルフェオの足元には、小さな青い花畑がぽつりと形作られています。
それはエウリディーチェの亡骸として解釈もできるだろうし、オルフェウスの悲しみが献花の色を青に変えてしまったようにも受け取れます。
実際、二幕で現れるエウリディーチェは同じ青のドレスで、スカートに花があしらわれたものを着ており、また嘆くオルフェオの前に青い衣装で踊るアレクサンドル・リアブコはあたかもオルフェオの嘆息が現れ出たかのようです。
ダンス部分も同様で、純粋に音楽を視覚化した趣を持っています。無理にダンサーたちに、オルフェオやエウリディーチェといった役を紐付ける必要はないと思います。
白の繊細な衣装を着た佐東利穂子は少女のように清浄で無垢であり、天上の美しさを放つこのオペラに欠かせない役割を担っています。
ハンブルク・バレエ団から客演しているアレクサンドル・リアブコは、『羅生門』に続いて二回目の勅使川原作品への出演で、前回以上に勅使川原メソッドが身体に馴染んでいたのではないでしょうか。
中でも「復讐の女神たちのエール」でリアブコに与えられたソロは、リアブコならではの魅力を放っています。
この場面における、自己との対話が最高潮に達したときのエネルギーそのままにスピーディにステップを踏ませたような振付は、勅使川原の他の作品でも見られるものです。しかしリアブコが踊ると、佐東のしなやかさや勅使川原の神経質な質感とは異なる切れ味がありました。
神への奉仕ではなく、真の愛に祝福を与えたオペラ
勅使川原は物語の進行自体に大きな再解釈を加えてはいません。冥界に下ったオルフェオは帰途でエウリディーチェを見てしまい、エウリディーチェを再度失いかけたものの、アムールの計らいでエウリディーチェは息を吹き返します。
羊飼いたちが祝福し、清らかで美しい喜びに満ちた最後、照明が落ちる中、オルフェオだけがスポットで照らされます。
歓喜に満たされた観客は、私も含め、早くも拍手を始めていましたから、このオルフェオへの照明が意表を突いていて、幸福一辺倒では終われない胸騒ぎを生み出しています。
エウリディーチェが生き返り、羊飼いたちが祝福するオペラの最後、舞台後ろには大きな百合が清らかに輝いていますが、恐らく勅使川原はそうは単純に受け取っていないでしょう。
曰く、「白百合は、純粋性を象徴すると言います。そこにこそ、人間への皮肉が煌めく」。
オルフェオとエウリディーチェの背後にある百合は清らかだけれども、現実の地上の世界は純潔とは程遠く、苦悩に満ちています。
オルフェオがエウリディーチェを失った苦しみは、しかも一度ではなく二度も失った苦しみは、まさに地上に生きる存在だったからです。
愛した以上、その存在を失う苦しみは必然的に伴うというのが地上の掟です。エウリディーチェを地上に連れて帰ったからには、オルフェオはいつかは必ず三度目の苦しみを味わうことになるでしょう。
思えば、三幕、つれないオルフェオに対して嘆くエウリディーチェのアリアでは「黄泉の世界で全てを忘れ安らかにいた私には、このような仕打ちは耐えられない」と歌われていました。
またそれに先立つ二幕の終わりの天国の場面では、無垢な佐東利穂子が息絶えるように横たわるところで、幕が閉じています。真に清らかな存在は天国の世界にしか生きることができず、地上ではしおれてしまうということなのかもしれません。
冥界の世界ではなく、地上世界のみに配置された白の大きな円盤に、この世における終わりのない苦しみの時間を見るのは、深読みに過ぎるでしょうか。
しかし、勅使川原が用意した意表を突くラストに、私は残酷な現実だけを見ることはできないと思っています。
このオペラにおいて、アムールが神への奉仕ではなく、真の愛を見せたオルフェオにエウリディーチェを返したことは紛れもない事実だからです。
このオペラは、人間の血の通わない「純潔」よりも、苦しみを伴う「愛」にこそ祝福を与えているのです。
「悪魔的力の前では人間はあまりに無邪気」といいながら、勅使川原はこの愛の尊厳に対する無邪気な信仰もまた祝福されるべきものと理解していたはずです。そうでなければ、これほどに美しい世界は作れないと思いますから。